「すみませ〜ん、隣に住んでる女子大生ですけど〜肉じゃが作りすぎちゃって〜減らすの手伝ってもらえませんか〜?」
さて、扉をドンドンと叩く音とともに聞こえてくる以上の言葉から、まず初めに考えるべきことがある。それは、果たして肉じゃがを作りすぎるということがそうあるだろうか、ということだ。これは、そもそも自宅の隣に女子大生が住んでいたかどうか、などという些末なことよりも優先すべきテーマである。
肉じゃがというのはカレーを筆頭としてコロッケ、グラタンなど、リメイクするレシピには困らない料理だ。冷蔵保存すれば夏場でなければ3日はもつし、そうそう消費に困ることはないはずである。それこそ、隣人に食べてもらわなければならないほどに作りすぎるなど、業務用の大鍋で作るくらいでなければ有り得ない。もしかすると、うちの隣には肉じゃが業者の事務所が入っているのかもしれない。
さて、次に考えるべきはこの扉を開けるべきかどうかである。もちろん扉を開けず居留守をするという選択もありうる。援軍のない籠城に見込みはないと言われるが、それは攻める側にタイムリミットがない場合の話で、玄関先での攻防では籠城は一般に広く採用される戦略である。
しかし、それは相手が顔見知りでなく、更に相手はこちらがそこにいるかどうかを知らない、という場合に限る。今回の場合、どちらも当てはまりそうにない。実のところ扉を開ける前から、向こうにいるのが女子大生でも肉じゃが業者でもなく、見知った人物であることにナマエワマダナイは気付いていた。そしてその人物が自分をつけてきたことにも。
結局ナマエワマダナイは勢いを増すノックの音に耐えかねて、考えを打ち切って扉を開けた。案の定、そこには肉じゃがの入った鍋でなく、将棋の盤を携えたゴールドシップがいた。
「よう、さっきぶり」
真顔でゴールドシップが言う。
「……何の用?」
ナマエワマダナイも努めて真顔できいた。
「新聞売りに来たようにでも見えるか?」
「肉じゃが売りに来たんじゃないの?」
「これが肉じゃがに見えるか?」
ゴールドシップはずいと手に持ったものを見せつける。
「じゃあ、将棋盤を押し売りに来たようにしか見えないけど」
「まあそんなとこだ。邪魔するぜ」
ゴールドシップはどんと将棋盤をこちらに押し付けると、止める間もなく部屋の中へと押し入った。他人の家に押し入るのがトレセン学園では流行っているのだろうか。嫌な流行である。ずんずんと歩みを進めるゴールドシップの背中を追いながら、ナマエワマダナイはため息を漏らした。
「何もねえな」
部屋を見渡してゴールドシップが言った。この部屋を見た人間はみな空気のみならず床と壁と天井、ベッドや照明器具の存在を無視する。
「つい最近越してきたばかりだから」
将棋盤を床に下ろしてナマエワマダナイ。ゴールドシップがどかりとベッドに腰を下ろす。どうしてうちに来るやつはみんなベッドに座るのだろうかと彼は思ったが、実際に座る場所を探す立場になれば簡単だ。他に座るべきところがないのだ。フローリングの床に座ると尻が冷たくて仕方ない。椅子なんて上等なものは無いし、座布団やクッションの類さえ無い。結果的に選択肢がベッドしか残らない。その選択肢さえ無い以上、ナマエワマダナイは尻が冷えるのに甘んじて床に座った。
「この家は客に茶のひとつも出さねえのか?」
やけに様になっている横柄な態度でゴールドシップは言う。
「将棋盤売りに来たんなら、俺の方が客なんじゃないの?」
「それもそうだ」
そう言うとゴールドシップは素直にベッドから立ち上がり、のそのそと冷蔵庫の方へと向かった。冷蔵庫の扉を開け麦茶を取り出したあと、しばらくの間周囲をきょろきょろと見渡して、
「コップは?」
「流し台にひとつ。もう一個その辺の棚にあるよ。ついこの間何個か買ったんだ」
しばらくガサゴソと棚を探る音が聞こえて、続いて水でコップを洗う音と、コップに液体を注ぐ音がした。そして、液体を飲み下す音と、冷蔵庫を閉める音。帰ってきたゴールドシップは手ぶらだった。
「……茶は?」
「もう飲んだよ」
ゴールドシップは将棋盤を挟んでナマエワマダナイの前の床に座った。そして懐から駒箱を取り出し、中の駒をじゃらじゃらと盤面にぶちまけた。そのまま初期配置の形へと駒を並べ始める。
「将棋打ちに来たのか?」
言われる前に自分も並べながらナマエワマダナイは言った。
「感想戦」
「カンソウセン?」
聞き馴染みのない言葉にナマエワマダナイはそれをただ繰り返した。
「反省会だよ。ここが良かったとか悪かったとか、そういうのだ」
ばらまかれた駒の中からナマエワマダナイがようやくひとつ目の金将を見つけ出したとき、彼の携帯がデフォルトの着信音を鳴らし始めた。液晶にはスペシャルウィークという字が浮かんでいる。
「出ても?」
「お構いなく」
ゴールドシップの言葉に甘えて、ナマエワマダナイは電話に応答した。思わず電話をかつて耳のあった位置に当てそうになるが、途中で気が付いてスピーカーモードに切り替えた。どうやら、ウマ娘として生まれると電話で内緒話が出来なくなるらしい。
「もしもし」
『もしもし、名無しさんのお宅ですか?』
「そら俺の携帯に掛けてるんだから、出るのは俺だろう」
『あ、確かにそうですね……今名無しさんはお家ですか?』
「うん」
『あの、そちらにゴールドシップさんがお邪魔していませんか?』
まるで自分の子が迷惑をかけていないか心配する親みたいな言い草だ。ちらりとゴールドシップに目をやると彼女は自分の分の駒を並べ終えてしまって、ナマエワマダナイの分に取り掛かっているところだった。
「来てる来てる。どうやら肉じゃがを作りすぎたらしいよ」
『え?』
「今は歩兵を並べているところ」
「あの、どういう冗談ですか? よく意味がわからないんですけど」
こっちのセリフである。
「まあそこはどうでもよくて……ゴールドシップならそこにいるから代わるよ」
そう言ってナマエワマダナイは携帯をゴールドシップの方に放り投げた。彼女はそれを上手く片手で受け取って、
「もしもし?」
『ゴールドシップさんですか?』
「いいえ、私はゴールドシップの双子の妹、シルバーチャリオッツですわ」
『え、妹さんですか!? 初めまして、私はお姉さんと同じチームに所属しているスペシャルウィークという者で……』
「下らない冗談に引っかかってんじゃない」
思わず駒を並べながら口を挟む。
『あ、冗談なんですか』
「やれやれ、俺はゴールドシップの姉、スタープラチナ……」
『えーと、ゴールドシップさん、門限はちゃんと把握していますか? まだ余裕はありますけど、ちゃんと帰ってきてくださいね』
ゴールドシップはぴくりと眉を動かすと言った。
「門限? そんな物に縛られるこのゴルシ様じゃねえ! おいスペ! 今からお前もこっちに来い!」
こいつはなにを勝手に言ってるんだ。思ったが、口は挟まないでおいた。
『え、名無しさんのお家にですか?』
「こんな何も無くて辛気くせえ所に二人きりでいたら、アタシ……妊娠しちゃう!」
『に、にんし……』
「自分から押し入っておいてすごい言い草だ……」
というか生々しすぎて、洒落にならない。
「スペシャルウィーク、こいつの言うことを真に受けないでくれよ。妊娠するようなことを俺がするわけないだろう」
『ひ、ヒニンするってことですか?』
「……それ、どういう意味で言ってる?」
「いいからスペ、他の連中も連れてこっちに来な。場所は、校門を出て右に行くと弁当屋があるだろ? そこを左に曲がって真っ直ぐ行くと、右手に薄汚いマンションがある。とても人が住んでいるとは思えなくて、もし住んでいるとしたらそいつの人格を疑うようなやつだ」
「そこに住んでる人間を前にして、その形容は本当に必要だったか?」
「そこの2階に上がってすぐ左の部屋だ。頼むぜ、アタシの貞操はお前たちにかかっている」
『あ、ちょっと……!』
スペシャルウィークの言葉を待たずにゴールドシップはそこで電話を切り、ナマエワマダナイに返した。
「……最近よく強姦魔に仕立てあげられる気がする」
「日頃の行いが悪いんじゃないか?」
素知らぬ顔でそう言ってゴールドシップは手で盤を指し示した。
「ほら、打ちな」
反省会と言っていたから、さっきの将棋と同じ手順を指せばいいのだろう。ナマエワマダナイは飛車先の歩を進めた。終わった将棋を思い出すのはかなり難しいことだろうと思われたが、やってみると意外に自分なりに考えて打った手順というのは覚えているものだ。ぱちり、ぱちりと、盤を叩く鋭い音が交換される。
「……なんでだ?」
ナマエワマダナイが口を開く。
「うん?」
「どうしてここに来た?」
「なんでって……」
ゴールドシップはにやりと唇を歪ませて言った。
「あんなに何度も何度も名残惜しそうに振り返ってたら、寂しいから構ってくれって言ってるようなもんだぜ」
「いや、あれはお前が……」
何かを言おうとして、ナマエワマダナイはそこで言い留まった。こちらを見るゴールドシップの目が、いつの間にか若干の真剣さを帯びていたからだ。
「……まあ、そうかも。ひとりでいるのには慣れてたつもりだったけど、一度騒がしいのを知ってしまうとダメだな」
変に取り繕ってものを言うことの方が、小っ恥ずかしいことを言うことよりもよほど恥ずかしい。そんな考えで内心を吐露したナマエワマダナイであったが、やはり気恥ずかしくて顔を上げられず、盤面に視線を落とし続ける。
「俺はここじゃ異物だからね。寂しいと思う時もある……けど」
「けど?」
「お前ら俺のこと受け入れすぎじゃない? って思う時もある」
学校にひとりだけ男がいるというのは明らかに異常な事態である。ある種族にひとりだけ男がいるというのは、なお一層異常である。にも関わらず学友のウマ娘たちは自分の存在を受け入れて分け隔てなく接してくれる。それがまた、なぜか酷く寂しいのだ。
「なら答えは出てるじゃねえか」
ゴールドシップは言った。
「お前は、自分みたいな存在は受け入れられなくて当たり前だと思ってるんだろ」
「……そうかも」
「ならお前を異物だと思ってるのは、お前自身に他ならないってことだ。壁を作ってるのはお前なんだよ」
その言葉は真理だった。
「ここ」
ゴールドシップは盤面を指でこつこつとやった。
「この、お前が角の通り道を歩で遮ったとこ。これが悪手だった」
「なんで?」
「意味が無いからだよ。こうやって入り込めば、関係無い」
そう言ってゴールドシップはその歩を無視して、ナマエワマダナイの陣に攻め入る手順を示した。確かに今こうして牙城に攻め込められているあたり、その壁に意味はなかったかもしれない。
どんどんと扉を叩く音。
「ゴルシさーん、無事ですかー!? まだ操を立てられてますかー!?」
援軍無き籠城に見込みはない。しかし訪れた相手が敵であるか援軍であるか、決めるのはナマエワマダナイ自身に他ならなかった。
「鍵開いてるよ!」
玄関先に向かって叫んだのは、降伏宣言であり、歓迎の言葉でもあった。
もしかするとこの小説は主人公がウマ娘たちに攻略される話になるのかもしれないと書いてて思いました。