黒板の前に立つというのも、随分久しぶりだった。身を包んでいる学ランは成長を見越してやや大きめで、少し身体に合っていなくて着心地が悪い。そして、自分の他には女生徒しかいないこの教室にもまた、若干の居心地の悪さを感じていた。
教室にある幾対もの目が、好奇の色を持ってナマエワマダナイの元へと殺到している。それは決して、同日に、同じクラスに、2人もの転入生が来た、という出来事の特異性だけによるものではないであろうことは明らかだった。
「えー、今日からこのクラスに2人、新たな仲間が加わることになる。スペシャルウィークと、な……ナマエワマダナイだ」
教師が名前を言い淀んだのを責めることはできない。我ながら馬鹿げた名前である。ちらりと申し訳なさげにこちらを見た教師にナマエワマダナイがにこりと笑いかけると、彼女はひとつ咳払いをして、
「こほん……えー、以後仲良くするように」
途端、教室のどこかから「先生照れてるー!」と野次が飛んだ。教師は声の飛んできた方面をひと睨みすると後ろに引っ込んで「では自己紹介を」とだけ言った。
ナマエワマダナイは横のスペシャルウィークと目配せを交わした。レディーファーストの精神で、先にやるか、と彼は顎をしゃくったが、彼女はやや緊張した面持ちで首を小さく振る。まあ、先陣を切るのも男子の役目ではある。ナマエワマダナイは一歩前に出て、口を開いた。
「ご紹介にあずかりました、このクラスに転入してきたナマエワマダナイです。ナマエワマダナイという名前です。言い難いので名無しとか権兵衛とかとでも呼んでください」
そこまでを一息に言い切って息を入れると、教室が少しざわめいたのが分かった。それはナマエワマダナイという名前の馬鹿らしさゆえか、それとも。彼はざわめきが収まるのを待たずに続けた。
「このクラスで、というか、この学校で唯一の男子生徒となりますがーー」
そこまで言ったところで、クラス中から「ええええええええええええ!?」と声が上がった。思わず椅子から立ち上がった者までいる。ナマエワマダナイが苦笑しつつ横を見ると、スペシャルウィークも困ったように笑っていた。こんな自己紹介の後に自分の番をしないといけないとなると、ハードルも上がるというものだ。だから先に行けって言ったのに。
教室の中はもはや騒めきどころか完全に騒ぎになりつつある。ナマエワマダナイはその喧騒に負けないよう、やや声を張って自己紹介を締めた。
「……唯一の男子生徒となりますが! ……皆さんと切磋琢磨し共に高め合っていきたいと思います。彼女は募集中です。よろしくお願いします」
◆
ウマ娘のみに入学資格があるトレセン学園は、事実上の女子校である。そんな所に年頃の男を放り込むなんて、羊の群れに狼を放つようなものだ、と以前彼は考えたことがある。
しかし現実は彼を裏切った。
「本当に男なの? 胸触っていい?」
「足速い?」
「うわ、カチカチだ!」
「どこに住んでるの? 寮?」
「結局名前はあるの? 無いの?」
「てかLINEやってる?」
ホームルームが終わると、多くの女生徒がナマエワマダナイの席に殺到した。騒ぎを聞き付けた生徒がほかのクラスからもやってくる始末だ。どうやら自分は狼の群れに取り残された羊だったらしい。工学部に入った女子大生の気持ちが少し分かった気がした。とはいえ異性にちやほやされるというのはそれほど悪い気分でもなく、彼はもみくちゃにされながらも少し上機嫌で応対を行っていた。
ふとスペシャルウィークはどうしているかと隣の席に目をやると、どうやらそちらにも何人かの生徒が集まって交流を深めているようだった。その光景に少し安堵する。
そうして降り注ぐように問い掛けられる質問に逐一答えていると、その内に気になるものがあった。
「チームはもう決めてるの?」
「チーム?」
競馬は個人(?)競技なんじゃないのか、と疑問に思っていると親切な生徒が解説をしてくれる。
「同じトレーナーから指導を受けてるウマ娘を一纏めにしてチームって言うんだよ」
「トレーナーによって指導方法とかに独自性があるから、誰に指導してもらうかって結構重要だよ」
「コースの使用権を取るのとかもチーム単位になるから、同じチームのウマ娘は基本的に一緒に練習することになるしね」
要は大学のゼミみたいなものらしい。実績があったりして人気のトレーナーのチームともなれば面接や実技試験で選抜を行い、その倍率は凄まじいことになるという。
「今のところ決めてはないけど……それって絶対にどこかに所属しないといけないの?」
ナマエワマダナイが訊くと、周囲の顔が意外そうな表情に変わる。おかしなことを訊いただろうか、と思っているとやはり解説をしてくれた。
「チーム無所属のウマ娘もいるけど、でもそれだとレースに出れないよ?」
「あ、そうなの?」
「正確には、レースの手続きとかをするトレーナーがいないとってことなんだけど、同じことだよね」
「へえ……」
それからそれぞれが所属するチームのプレゼン大会が熱を帯び始めたとき、1限目の始まりを示すチャイムが鳴った。それとほとんど同時に教室の前の扉が開かれ、教師が姿を見せる。
「ほら授業を始めるぞー、お前らさっさと席に着けー」
「はーい……」
渋々と自分の席へと戻っていくウマ娘たちの背を見て、ナマエワマダナイはやっと人心地つくことができた。思わずため息をひとつ。その様子を見て、スペシャルウィークがくすくすと笑うのが見えた。
(後で覚えとけよ……)
小さく呟いただけだったが、それだけで耳の良い彼女には十分だったようで、慌てて自分の口を抑えていた。その様が少し愉快で、ナマエワマダナイは溜飲を下げた。
◆
それから休み時間の度にナマエワマダナイは野次馬の対応に追われたが、昼休みの頃にはそれも落ち着いて、大騒ぎになるようなことは無くなっていた。安堵ともに若干の寂しさをしみじみと感じていると、教室の扉が開き、ひとりのウマ娘が現れた。
「スペシャルウィーク、ナマエワマダナイはいるか?」
どうやら呼び出しらしい。席を立ち、スペシャルウィークと共にそのウマ娘の元へと向かう。
ミディアムくらいに切り揃えられた髪をかき上げながら、そのウマ娘はじろりとこちらを観察するような目線を向けた。彼女の目つきは鋭く、目元の赤い化粧の迫力も相まってか睨まれているようにさえ感じる。
「自分がナマエワマダナイですが」
「ス、スペシャルウィークです」
「休み時間中すまないが、生徒会長がお呼びだ。生徒会室まで来て貰えるか」
「生徒会長?」
そんな人物に呼び出されるような覚えはない。スペシャルウィークに目をやったが、彼女も勢いよくかぶりを振った。
「あの……何の呼び出しなんでしょうか。特段何か呼び出されるようなことをした覚えはないんですが」
「呼び出されるようなことをしていたのなら、『来て貰えるか』なんて言い方はしない」
そりゃそうだ。確かに、と頷くナマエワマダナイを見て、生徒会長の使いは呆れたように息をついた。
「まあ、挨拶みたいなものだ。そう緊張する必要は無い」
生徒会長が挨拶のためにわざわざ生徒を呼び出すなんてことが普通あるだろうか? だがまあ、この学校は普通とは到底言えないから、そういう事もあるのかもしれない、と納得しておく。
「あの、あなたは……」
恐る恐るといった様子でスペシャルウィークが言うと、そのウマ娘は口を開いた。
「ああ……名乗りが遅れたな。私は生徒会副会長のエアグルーヴだ」
こちらも名乗り返した方がいいのだろうか、と逡巡する間もなく、エアグルーヴは背中を向けて「こっちだ」とすたすたと歩き出した。それに2人は慌ててついて行く。
生徒会室は教室と同じ棟のそう離れていないところにあった。エアグルーヴは扉の前で立ち止まり、ノックをする。
「エアグルーヴです。スペシャルウィーク、ナマエワマダナイの両名をお連れしました」
「入ってくれ」
扉の向こうから女性の声で返事があった。エアグルーヴはこちらに気持ちの準備などをさせる気も無いようで、返事を聞いてすぐに扉を開け、ふたりに入室を促した。
促されるままに踏み込んだ生徒会室の中の様子は、ナマエワマダナイの予想とは大きく異なっていた。部屋の真ん中に応接用であろうソファが1対向かい合って設置されている。部屋の奥の大きな窓には値が張りそうな真っ赤なカーテンが、その手前には立派な執務机が凄まじい存在感をもって鎮座していた。明らかに普通の生徒会室の様相とは一線を画している。アニメや漫画に出てくる、やたら強い権力を持っているタイプの生徒会の巣窟を想像したら、まさにそれ、という感じだ。
「昼休み中にすまないな。生徒会長のシンボリルドルフだ」
そう言って椅子から立ち上がったそのウマ娘こそが生徒会長であるらしい。よく手入れがなされているのであろう長い髪が、彼女が立ち上がると流れるように揺れた。その前髪の白いひと房が窓から差し込む日光に照らされて、三日月のようにきらきらと輝いて見えた。その奥からこちらを見据える目は気力に溢れ、ある種の迫力を持っていたが、それと同時にどこか涼しげな印象を受ける。ナマエワマダナイはその姿に見覚えがあった。
「ご無沙汰しています、シンボリルドルフさん」
ナマエワマダナイが言うと、シンボリルドルフは少し表情を緩ませた。
「ああ、久しいな。2年ぶりか?」
「それくらいだと思います。あの時はお世話になりました」
「そうか、2年か……」
隣のスペシャルウィークは目を白黒させていた。何を隠そうこのシンボリルドルフというウマ娘は、三冠ウマ娘という偉業を達成したことでその名を轟かせる有名人だ。そんな人物が目の前にいるという状況はもちろん、ナマエワマダナイがそんな人物と知り合いであるということが彼女を狼狽させているのが、前と横とを行き来する彼女の目線から伺い知れた。
「以前、俺の暮らしていた施設に来てくれたんだよ」
ナマエワマダナイが笑って事情を説明すると、
「いいのか?」
シンボリルドルフは言った。それはつまり「施設暮らしだったということを話してもいいのか?」という意味だ。ナマエワマダナイはそれに頷いた。
「友人ですから。ここに来て初めてできた友人です」
「そうか……それはよかった」
そう聞いてシンボリルドルフは柔らかな笑みを浮かべると、「とりあえずふたりともそこに掛けてくれ」とソファを勧めた。大人しくスペシャルウィークと並んで腰掛けると、その向かい側にシンボリルドルフは座った。立ち姿だけでなく、ソファに座る姿も様になっている。ガチガチに緊張して、膝の上で手を握りしめているスペシャルウィークとはえらい違いだ、と内心ナマエワマダナイは考えた。
「さて……まずは、2人とも入学おめでとう。本校は全国のウマ娘トレーニング施設の中でも最大規模だ。ゆえにその入学、転入試験は狭き門となっている。君たちの努力を多とする。改めて、入学おめでとう」
ありがとうございます、と小さく会釈する。ちらりと横目に、応接机ギリギリまで頭を下げるスペシャルウィークの姿が見えた。それを見てシンボリルドルフは微笑む。
「そう固くならなくともいい。今日はただ挨拶をしようと思って呼んだだけだ……そうだ」
シンボリルドルフはいかにもわざとらしく、今思いついた、という様子で続けた。
「時に、スペシャルウィーク。君は北海道出身だったな?」
「は、はい……」
「北海道は、広いな」
「はい、そうですね……」
「北海道は、でっかいどう」
みしり。突如部屋を支配した沈黙の中、床か柱かがきしんで鳴ったその音が、空気が結氷する音の様に辺りに響いた。
横を見ればスペシャルウィークが、口をぽかんと開けたまま固まっている。シンボリルドルフの横に立っていたエアグルーヴは頭が痛むかのように、目の辺りを手で覆っている。その中で、シンボリルドルフたひとりが満足気な表情を浮かべていた。
「どうかな? 北海道出身だと知ってから、ずっと温めていたんだが」
「温めていた割には、随分寒い……」
つい思ったことが口をついて出てしまった。シンボリルドルフの気分を損ねるかと思ったが、彼女は上機嫌そうに言った。
「北海道だけに?」
どうやら意図せずやってしまったらしい。エアグルーヴが表情筋を引き攣らせながら「余計なことをするな」とでも言いたげにこちらを睨んでいるのが見えた。
「さて、小粋なジョークで場も温まってきたところで、本題に入ろうか」
冷え冷えだよ。思ったが、口には出さなかった。