食堂に案内してもらって、そこで昼食をとることになった。
トレセン学園の学食は評判がいいらしい。それも頷けるところで、選べるメニューは多岐にわたり、学生の財布に優しい値段だ。そして何より、味もいい。トウカイテイオーのオススメだと言うハンバーグを味わいつつナマエワマダナイはそう思った。
量の相場を確かめるために、普通で、と注文したが、それで出てきたものを見ると、一般的な飲食店のランチと比べるとかなり多いように思えた。万全のコンディションの成人男性がお腹いっぱいになるくらいだろうか。というか、何でハンバーグににんじんが突き刺さっているのだろう。付け合せにしては主張が激し過ぎる。
一方スペシャルウィークの目の前はと言うと、そこには目を疑うような量の食事が用意されていた。一際目を引くのは皿にどんと鎮座するハンバーグで、重量的には「普通」の二倍弱はあるように見える。これは、何と頼んだら出てきたのだろうか。異常で、とかか。
「スペちゃん、よく食べるねえ」
トウカイテイオーが感心した様子で言った。彼女の目の前にあるのは凡そ「普通」のサイズの食事だ。スペちゃんとは、スペシャルウィークのあだ名らしい。なんだか怪我が多そうなあだ名だ。ともかく、ウマ娘の中でもスペシャルウィークは特に食べる方のようだ。
「そうですか? これで腹八分目と言ったところですが」
スペシャルウィークはハンバーグをあらかた片付けてしまって言った。本当に気持ちのいい食べっぷりだ。というか、見ているだけでお腹がいっぱいになる。
「まあ、食べて体を作れるってのも才能だよ。マックイーンも見習いなよー?」
「テイオーさん……」
「ああ、ハンバーグ美味しいなあ! あれ? マックイーンはそれだけでいいのぉ?」
「あなたという人は……!」
トウカイテイオーはメジロマックイーンの方を見て不敵に笑う。メジロマックイーンは何かを言おうとしたが、言い返すのを諦めた様子で食事に戻った。彼女の前にある食事が少なく見えるのは、決してスペシャルウィークとの対比だけによるものではないだろう。減量中だろうか。アスリートとしては必要なことだろうが、かなり辛そうである。
ほとんど泣きそうになりながら食事をとるメジロマックイーンをしみじみと眺めていると、トウカイテイオーの標的はこちらに移ったらしい。トウカイテイオーはナマエワマダナイを見据えて言った。
「名無しちゃんは、男の子にしてはちょっと少ないんじゃない?」
「むしろ、少し多いくらいだよ」
ご飯の大盛りを一杯平らげてなお、まだハンバーグは半分その形を残している。先は長そうだ、とナマエワマダナイがハンバーグを箸で切り分けていると、
「多いのなら、ボクがちょっと手伝ってあげようか?」
「いいのか?」
「いいよー!」
願ってもない提案だった。体を動かしていないのもあって、あまり腹は空いていなかった。ナマエワマダナイが皿を少しトウカイテイオーの方に寄らせると、彼女はにやりと笑って箸を突き出した。
「じゃあ、いただきまーす!」
彼女は脇に置いてあったにんじんに狙いをつけたようで、それを丸々1本箸で掴み取った。どちらかと言うとハンバーグを減らして欲しかったのだが、まあいいか、とそれを見送ると、その様子を見ていたメジロマックイーンが、何故か悲鳴のような声をあげた。
「テイオーさん!」
少し怒気が籠っているようにも聞こえたその声に、トウカイテイオーは箸を止める。
「へへ、冗談だよ」
そう言ってにんじんを皿に戻そうとするので、
「別に構わないけど?」
と言うと、3人の視線がナマエワマダナイの元へと集中した。まるで狂人を見るかのような目だ。俺、また何かやっちゃいました?
「え、いいの?」
トウカイテイオーが箸で掴んだにんじんを中空に留めながら言う。ナマエワマダナイが頷くとスペシャルウィークが心配そうに、
「お腹痛いんですか?」
「……至って快調だけど」
「テイオーさんのご機嫌取りなら、そんな事しなくてもいいんですのよ?」
「いやそういう訳じゃなくて……別に大好物ってわけでもないからさ」
「でも、好きは好きなんでしょ?」
「うーん……どちらかと言うと、苦手?」
「えー!?」
3人揃って声をあげる。ほとんど絶叫だった。そんなにも意外だろうか。にんじんが好きじゃないという人は世にそこそこいるだろう。予想外のリアクションにナマエワマダナイが呆気に取られていると、恐る恐るといった様子でメジロマックイーンが口を開いた。
「に、にんじんは、甘くて美味しいんですのよ……?」
「その甘いのがあんまり好きじゃないんだ」
別に甘いものが苦手という訳では無いが、甘いものはデザートであって、副菜ではないというのがナマエワマダナイの哲学だった。
「ほ、本当にいいの?」
にんじんを保持する箸をぶるぶると震わせながら、トウカイテイオーが確認する。
「いいけど……」
ナマエワマダナイはふと考えた。確かこのメニューは「にんじんハンバーグ定食」という名称だったはずだ。そう、決して「ハンバーグ定食〜ニンジンを添えて」ではないのだ。もしかすると、このにんじんこそがこのメニューのメインだったのではないか。つまり、今自分がしようとしている事は、カツ丼を頼んで、カツを全部人に譲るようなものなのかもしれない。そうだとすれば、腹の調子どころか頭の働きを疑われても仕方ない。
トウカイテイオーはにんじんを自らの皿に移すと、まるで宝物か何かを扱うように慎重な手つきでそれを箸で切り分けた。よく煮られているようで、にんじんはほろりと繊維が解けるように崩れる。そしてその一欠片を自らの口に含んだ。その一部始終を何故かスペシャルウィークとメジロマックイーンは羨望の色を持った眼差しで見守っていた。
「……名無しちゃん」
ぼそりと呟くようにトウカイテイオーは言った。
「何?」
「これから毎日ボクとご飯食べない?」
ナマエワマダナイは思った。「異性の心を掴むには、まず胃袋を掴め」。誰の言葉か知らないが、昔の人もいい事を言うものだ。
だがこの場合、もので釣っているだけだった。
◆
その日の授業は全て終わり、放課後になった。グラウンドに設けられたコースでは、ウマ娘たちが勉強で溜まったフラストレーションを晴らすように走り回っている。ナマエワマダナイもひとっ走りしたい気分ではあったが、今日のところは一度家に帰らなければならない。
「じゃあ、俺帰るわ」
スペシャルウィークに声をかけると、彼女は意外そうな顔をする。
「練習、見にいかないんですか?」
スペシャルウィークはいくつかチームを見学して回る予定だったらしい。魅力的な提案ではあったが、しかし今日は都合が悪い。
「ちょっと引越しでバタバタしててさ……」
「引越し? ……そう言えば名無しさんって今どこに住んでるんですか?」
トレセン学園は基本的には全寮制をとっている。しかし例外的に、自宅が学校の近くにあり通学が可能であるのであれば、いくつかの条件付きで入寮を免除することができる。ナマエワマダナイはその例外の枠にあった。
「近くのマンションに住むことになったんだけど……昨日風呂に入ろうとしたらさ、沸いてなかったんだよね」
「え、故障ですか?」
「どうもガスの開栓手続きが済んでなかったみたいで。お陰でサウナも無いのに水風呂に入る羽目になった」
銭湯に行くという選択肢もあったのだが、ナマエワマダナイには選べなかった。人前で裸を晒すことにひどく抵抗がある。しっぽの生えている男は、あまりにも目立つからだ。だからと言って風呂に入らない訳にもいかない。そうした苦渋の決断の結果、水風呂に浸かることになったのである。
「うわあ……それは……大変ですね」
暑いわけでもないのに水風呂に入る自分を想像したのか、スペシャルウィークはぶるりと身を震わせる。
「そういう訳で、今日ガス会社の人に来てもらうことになってるんだよ。だから帰らないと」
「そういうことなら、今日は私ひとりで行きますね。また明日にでも一緒に行きましょう」
「うん、そうしよう。じゃあ、また明日」
「また明日、です」
スペシャルウィークと別れ、トレセン学園を後にする。授業が終わってすぐに帰る生徒はやはり少ないのか、通りは静まり返っていた。ただ遠くで芝を蹴る音だけが響いていた。
ナマエワマダナイの住まいは、トレセン学園から徒歩5分もかからない場所にある。滅多なことがない限り遅刻することはないだろう。特に急ぐことも無く周りの景色を見物しながらのんびり歩いていると、やがて目的の建物がナマエワマダナイの眼前に現れた。
まずぱっと目に入ってくるのは湿気たクッキーみたいにひび割れた外壁だ。その表面はまるで一昼夜に渡って爆撃でも食らったかのように黒くくすんでいて、元の色さえ判然としない。脇を通る雨樋は赤褐色に錆び果てていて、軽く蹴るだけで簡単に歪んでしまいそうだ。というか、既に歪んでいた。そしてエントランスへと繋がる扉はすりガラスでもないのにまだらに曇っていて、持ち手にはガムテープで補修した跡が痛々しく残っていた。
肩を押し付けるようにして妙に重い扉を開けると、飾り気のないエントランスが出迎えてくれる。床は長年に渡って踏み固められた土のような汚れに塗れていて、そこにひしゃげて無惨な姿を晒すタバコの吸殻がアクセントを添える。一角では郵便受けが大量の新聞だとかチラシだとかを咥えていて、レターボックスと言うよりもゴミ箱のような有様だ。オートロックなんて言った洒落たものはない。それどころか、各部屋にインターホンさえ無いと言うのだから驚きだ。
もはやケチをつける気も起きないコンクリートの階段を上って、すぐ左にナマエワマダナイの部屋はある。扉は最近新調されたようで、黒く煤けた壁から浮いて見える。鍵を開けノブを捻ると、抵抗なく扉は開いた。こんな些細なことで喜んでしまえるのが、少し情けない。
間取りはいわゆるワンルームで、玄関から部屋に至るまでの細い通り道に申し訳程度のキッチンが肩身狭そうに備え付けられている。元々自炊をする気など無かったのでこれには特に不満はない。脇に置いてある小さな冷蔵庫に入っているのは、昨日仕入れてきた麦茶と、ドライアイ用の目薬くらいだった。
使う予定の無いキッチンを踏破し、まだ住み慣れていない居住空間をぐるりと見渡す。日当たりは比較的よく、窓からは西日が差し込む。夏場になると少し暑そうではあるが、カーテンを掛ければまあ乗り切れるだろう。初めから掛けられていたカーテンは趣味ではなかったが、わざわざ買い換える気は起きない。
部屋にある家具はシングルのベッドくらいで、他には何も無い。学生の身としては机くらいは用意するべきだろうか。このままじゃ綾波レイの部屋みたいだ。ふとそんなことを考える。まあ必要になったら色々買おう。そう結論付け、カバンをその辺に放ってベッドに身体を投げ出した。身体に馴染んでいないマットレスが少し固く感じた。
施設からこのマンションの一室に移るにあたって、ナマエワマダナイはほとんど物を持ち込んでいない。そもそも、持ち物、と言えるものがナマエワマダナイにはほとんど無い。精々そこに飾ってある家族の写真と、随分前に妹が描いてくれた自身の似顔絵くらいだ。着ている服も、携帯電話も、ベッドも、そしてこの部屋も、施設が用意したものである。
この部屋、家賃はいくらなのだろう。平均以上だったら、詐欺だ。天井の染みを眺めながらそんなことを考えていると、扉を叩くノックの音が聞こえた。それに「ごめんください」という若い女性の声が続く。
「はーい、今行きまーす」
咄嗟に返事をする。ガス会社の作業員が来たのだろうか。にしては時間よりも早いし、若い女性というのは珍しい気もする。そんなことを考えながら、深く考えずナマエワマダナイは玄関へと向かい扉を開ける。
瞬間、扉の開いた隙間に足がねじ込まれた。これは、あまりいい兆候ではないな。のんきにそんなことを考えていると、扉が向こう側から凄まじい力で無理やり開かれる。
扉の向こうにいたのはトレセン学園の制服を着た女だった。その顔に見覚えは無い。こうして襲撃を受ける謂れにも当然心当たりは無い。
ドアノブを握っていた右手の手首の辺りを掴まれる。このまま腕を取られれば、ウマ娘相手に抵抗する手段は存在しない。
咄嗟に掴まれた腕を抱きしめるように身体に引き寄せる。そのまま肘を相手の肘にぶつけるようにすればロックは外れる。しかし女はナマエワマダナイの動きに合わせるように一歩踏み込み、逆の手で襟を掴みに来た。
その手を即座に払う。しかしそれは女の想定内の行動だったようで、女の手はすぐに狙いを変えズボンのベルトへ向かう。これには反応出来ず、簡単に回しを取られた形になった。
女は掴んだベルトを持ち上げる。片手であるとは思えない力で、ナマエワマダナイの左半身が浮いた。その隙を見逃さず、女は彼の脇をくぐるように組み付きに来る。
こんなところですっ転んだら洒落にならない。ナマエワマダナイは上から押しつぶすように女のタックルを受け流そうとする。だが女は彼の身体を掻い潜り後ろに回った。
まずい。そう思った瞬間には、すでに背後から足に抱きつかれていた。その体勢はもはや倒されたも同然だった。
ゆえの、必要に駆られての判断だった。
ずるり。
ナマエワマダナイは女の拘束から逃れた。女は床に座り込み、呆気に取られたような表情をしている。その手には男物のズボンがあった。
大きめのサイズのものを着ていたのが功を奏した。相撲なら不浄負けだったが、ここには行司もレフェリーもいない。
それに、まだトランクスが残っている。
パンツだけど、恥ずかしくないもん。
ナマエワマダナイは振り返り女の方を見た。女は立ち上がろうと片膝を付いている。いつの間にズボンから取り外したのか、ベルトをその手に持っていた。
「何の用だ?」
ナマエワマダナイは対話を試みた。女は笑った。
「用が無ければ襲ってはいけないのかい?」
普通、用が無ければ襲わないと思う。
そう返事をしようとしたところに女はズボンを投げつけ、それと同時に獣じみた瞬発力で飛びかかってきた。金具の付いたベルトを振り回してきたのなら脅威だったが、そうではなく右手に握りしめたまま突っ込んでくる。通路が狭く振り回すのが困難と判断したのか、それともこちらを傷つける意図が無いからか。
どちらにせよ大人しくやられるわけにもいかない。ナマエワマダナイはベルトを握った女の右手を止め、肩から体ごと女にぶつかっていった。
恐らくナマエワマダナイと女の腕力には、大きな差はなかった。しかしナマエワマダナイと女の間には明らかな体格差があり、それはつまりウエイトが違うということだ。質量の差は運動エネルギーの差となる。その当然の帰結として、女は吹き飛び、壁に叩きつけられた。
相手が体勢を崩したところを組み付きにかかる。馬乗りになるのが理想だったが、女は上手く足をナマエワマダナイと自らの体の間に入れ、彼の胴体を足で挟み込んだ。クローズドガードの形だ。上半身をコントロールされ、上手く攻め入ることができない。
状況はそこで拮抗した。ここから一応ナマエワマダナイが女の上に覆い被さるような形を取ることはできる。だがそれは文字通り自分の首を差し出すようなもので、絞め技に移行される可能性が高い。締められて落ちる前に上から殴りつけて失神させてしまえばいいのかもしれないが、腕を取られる可能性があるし、そして何より、彼は女に対してそんなことをするつもりは無かった。
奇妙な時間が流れていた。沈黙したまま2人は見つめ合う。その時になってようやくナマエワマダナイは女の姿をゆっくり検分することが出来た。
肩にかかるくらいの栗毛が、奥から差し込む夕陽に照らされてきらきらと光った。その奥の白い肌は淡く紅潮し、うっすらと汗が浮き出ている。若干扇情的とも言える光景ではあったが、ナマエワマダナイは背筋が凍るような心地だった。彼女がこちらを観察する目が、不気味な光をもって爛々と輝いているように見えたからだ。
「……もう一度聞くが、何の用――」
ドンドン。
ナマエワマダナイが問いただそうとした時、ノックの音が通路へと転がった。彼と女は一緒に扉の方を見た。
「東京ガスです。開栓作業に参りました。えーと……ナマエワマダナイさん、いらっしゃいますか?」
いつの間にか約束の時間になっていたらしい。ともかく、これで助かった。ナマエワマダナイがドアの外へと助けを求めようとしたその時、女がぼそりと言った。
「ところで、今私が叫んだら、一体どうなるだろうね?」
言われて始めて、ナマエワマダナイは今の状況を客観視した。
着衣の乱れた女と、ズボンを脱いだ男。そして男の方は今にも女に覆い被さろうとしているように見える。
そして男の体を挟む女の足。
もはやそれはクローズドガードではない。
だいしゅきホールドだった。
本当にだいしゅきだったら合意なわけだが、実際にはそれはナマエワマダナイを逃がさないための檻だ。
この体勢はまずい。非常にまずい。更にまずいことに、今扉に鍵はかかっていない。女が叫べばたちどころにドアの前の人物は扉を開けるだろう。
「転入早々、強姦魔の汚名を着せられたくはないだろう? ここは穏便に済ませようじゃないか」
ナマエワマダナイが呆けている内に立ち上がった女は、落ちていたズボンをナマエワマダナイに放り投げた。そしてドアに向かって、
「今から着替えるからちょっと待ってくれ」
「分かりました」
ドアの向こうから返事がある。それを聞いてこちらに振り返った女は笑顔を浮かべ、背中を擦りながら言った。
「女子を傷物にした責任は取ってくれたまえよ、名無しの権兵衛くん?」