種ウマになりたくて   作:ウボ山

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 イギリスで最初のガス灯の火が点ったのは200年以上前のことだ。しかし日本にそれが渡ってくるまでは、鎖国の影響もありそれから80年を待たなければいけない。そして今、ナマエワマダナイが初めてこの部屋を訪れてから約24時間後、ようやくガスの火がコンロの上に点ったのだった。

 

「確認作業は以上です」

 

 作業員が言った。その表情からはひと仕事終えた達成感のようなものが窺える。横に立っている女に目をやる。興味深そうにガスコンロを眺めているが、何を考えているのかは分からない。この女が何を仕出かすか分からない以上、この作業員には可及的速やかに帰って頂きたかった。

 

「これで開栓手続きは終わりですが、最後になにか質問などございますか?」

 

「いえ、大丈――」

 

「これは都市ガスかい?」

 

 さっさとやり過ごそうとしたナマエワマダナイの言葉を遮って女は言った。質問があるとは思わなかったのか、作業員は少し驚いたような表情をしていたが、すぐに気を取り直した様子で職務を全うする。

 

「ええ、そうです。地下のガス管でここまで引き込まれています」

 

「大体そうじゃないんですか? 特に東京では」

 

 気が付けば口を挟んでいた。さっさと帰って欲しかったはずなのだが、知的好奇心の衝動というのは時に耐えがたいものがある。作業員の男は頷いた。

 

「まあ、大体そうだとは言えますが、物件によってはプロパンガスというところもありますよ。プロパンガスを利用すれば給湯器などの設備を支給してくれるというのもあって、プロパンガス会社と契約をする大家さんも少なくありません」

 

「へえ……でもまあ、使う側からしたらあんまり変わらないですよね」

 

「そんなことは無いだろう」

 

「そんなことはありません」

 

 女と作業員の声が重なった。仲良しかお前らは。ナマエワマダナイが心中で突っ込む中、作業員の男は言った。

 

「都市ガスの料金は公共料金であり、政府が認可・上限認可するものです。一方、プロパンガスの料金は自由料金です。ガソリンなどと同じように、販売業者が自由に料金を決めることができます。なので一般にプロパンガスの方が料金が高いです」

 

「へえ……」

 

 ナマエワマダナイの場合自分の財布から光熱費を払うわけでないからあまり関わりのないことであるが、確かに重要な情報である。ナマエワマダナイが感心していると、今度は女が口を開いた。

 

「それに、もしガスがこの部屋で漏れたらどうするんだい?」

 

「え、何か違いあんの?」

 

 ナマエワマダナイの無知に呆れたようにひとつため息をついて見せると、女は続けた。

 

「空気を構成しているのは主に窒素分子78パーセントと酸素分子21パーセントだ。モル質量はそれぞれ28gと32g。標準状態、つまり摂氏0度1気圧の1Lの空気を考えると、それらの分子は合計1.275g存在することになる。これが凡その空気の重さだと言えるだろう。それに対して――」

 

「結論だけ言ってくれ」

 

 数字はあまり得意じゃない。気持ちよく喋っていたところに水を差されたといった感じの女は、もうひとつため息をついた。

 

「……天然ガスは空気より軽いが、プロパンガスは重い。故に前者は天井付近へと上昇し、後者は床付近に滞留する」

 

「へえ……」

 

 まあ、重要と言えば重要な情報である。女の知識に作業員はいたく感心したようで、

 

「よく勉強なさっていますね」

 

 女も満更でもなさそうに、

 

「いや、君の料金体系についての話も中々に興味深かったよ」

 

「恐縮です」

 

 何の話だよこれ。

 

「今日はありがとうございました。また何かあったらよろしくお願いします」

 

 このまま放っておいたら永遠にガス談義が始まりそうだったので、ナマエワマダナイは礼を述べ男を玄関へと追いやった。男は玄関先で「ガス展」という何を見ればいいのか分からないイベントのチラシを業務的に渡すと、別れの挨拶もそこそこに帰って行った。

 

 長い息を吐く。どっと疲れた。もう今日は寝てしまいたくもある。しかし部屋には目下早急に対応しなければならない懸念事項が、ベッドに腰掛けて待っている。

 

 ナマエワマダナイが部屋に戻ってくると女は周囲を見渡して言った。

 

「何も無いね、この部屋は。文明というものが感じられない」

 

「ついさっき、やっと火がもたらされたからな」

 

「あの男がプロメテウスだったとしたら、君はパンドラってところかい?」

 

 女はひとりでくすくすと笑って続けた。。

 

「その火で何か飲み物でも入れてくれないかな。ああ、コーヒー以外で頼むよ。あれは泥水だからね」

 

「そこの冷蔵庫で冷やしてる麦茶しか無いぞ」

 

「お、それは『箱』のリファレンスだね?」

 

 女の言葉を無視して、冷蔵庫から最後の希望たる麦茶を取り出して、そこで気が付いた。

 

「あ、うちコップ無いわ」

 

 引越し仕立てで、生活必需品もまだ揃いきっていない状況だ。一応色々と自分で買い揃えはしたのだが、水分はペットボトルで飲めばいいと考えていたし、客が来た時にコップが必要だということには思い至らなかった。

 

「おいおい……仕方ないな、ちょっと待っていてくれ」

 

 女は呆れた様子でおもむろに立ち上がり、部屋の外へと出ていくと、すぐに鞄をぶら下げて帰ってきた。争いを見越して荷物は外に置いておいたということだろう。

 

 女は鞄の中を探り、透明なコップ……のようなものを取り出した。コップというには幅が広過ぎ、上部が外側に広がっていて、注ぎ口のようなものが設けられている。いわゆる、ビーカーだった。それを女は二つフローリングの床に並べる。歩く理科室かこいつは。鼻をかむ時はキムワイプを使うのかもしれない。

 

「これに注ぐといいよ」

 

「……なんでこんなもの持ち歩いてんの?」

 

「なんでって、便利だろう? 特にこうして液体を扱う時には。ああ、ちゃんと洗浄は行っているから安心してくれ」

 

 こうなると試験管を出してこなかったことに感謝するべきか。ナマエワマダナイは大人しくそこに麦茶を注ぐ。無意味に目盛りぴったりに注いでしまった。

 

 女はビーカーを手に取り躊躇なく呷ると、自分でペットボトルから二杯目を注ぎ始めた。何か馬鹿らしい気持ちになって、彼も麦茶に口をつける。緊張からか喉が乾いていたらしい。妙に麦茶が美味い。喉を潤して、ナマエワマダナイは口を開いた。

 

「……それで? お前は誰で、何をしに来たんだ? まさか麦茶を飲みに来たわけじゃないだろう」

 

「人に名前を聞く時は、まず自分から名乗るべきだろう?」

 

「人の家を訪ねる時も、まず名乗るべきだ」

 

 女はそれを聞いて「それもそうだ」と頷いた。

 

「私の名はアグネスタキオン。君と同じトレセン学園の生徒だよ」

 

「へえ」

 

「そう言う君は?」

 

「いきなり襲ってくるようなやつに名乗る名は無いよ」

 

「これは手厳しいね」

 

 そう言ってアグネスタキオンは肩を竦めて見せる。そもそも、玄関先で作業員がナマエワマダナイの名前を呼んでいたし、彼女は彼のことを名無しの権兵衛と呼んだ。彼の名前について既に把握しているのは間違いなかった。

 

「で、目的は?」

 

「ちょっと研究サンプルを貰おうとね」

 

「研究サンプル?」

 

 まあビーカーなんかを持ち歩いているところからしてそういう「キャラ」なのだとは思っていたが。そんなことを考えながら麦茶の二口目を口に含む。

 

「精液とかだね」

 

 ごぷ。

 

 うら若き乙女の口から出た余りに身も蓋もない言葉に、思わずむせた。その様子を見てアグネスタキオンは顔をしかめる。

 

「汚いなあ、やめてくれよ」

 

「……こっちのセリフだよ」

 

「研究対象として君は非常に興味深い。だからこうして、フィールドワークに来たというわけさ」

 

「へえ」

 

「反応が薄いね」

 

「まあ、精液に比べるとな」

 

「君のは濃いのかい?」

 

 今度は無事黙殺できた。アグネスタキオンはくすくすと笑う。本当に楽しそうだ。

 

「今のは君の返事が不味かったんだよ」

 

「……確かに」

 

「君は、何も考えずに話しているね」

 

 アグネスタキオンはぐさりと手痛い指摘を突きつけた。

 

「多くの人は、先に何を話すかを考えてから口を動かす。それは普通、口による出力より頭の回転の方が速いからだ。逐一考えたことを出力するよりも、一度どこかに保存しておいてまとまったところで出力した方が効率的だし、内容の精査もできるだろう。しかし君はそうしない。考えたことを垂れ流しにしている。それが何故か分かるかい?」

 

 それは以前スペシャルウィークにナマエワマダナイが言ったこととほとんど同じ内容だったが、まさか自分もそうだったとは彼は気付かなかった。自覚が無い以上、その原因など分かるよしもない。アグネスタキオンも特に彼の答えを求めているわけではなかったようで、答えを待たずに続けた。

 

「理由はいくつか考えられる。一つは、君の頭の回転速度が口で話すのと同じくらいしか出ないから。あるいは、考えたことを一度保存しておく領域が余りにも小さいから。どちらにせよ、私の言いたいことはね、つまり君は――」

 

「頭が悪い」

 

 言われる前に、先に言ってやった。アグネスタキオンは笑った。しかしそれは嘲笑ではない。問題に答えを出した生徒を褒めるような表情だった。

 

「よくできました」

 

 そう言ったアグネスタキオン以上に、ナマエワマダナイは内心彼女に感心していた。「お前は馬鹿だ」の一言で済む内容をここまで長ったらしく話すことが出来るというのはもはや才能だ。理系っぽいキャラクターだが、文系の方が向いているんじゃないか。

 

 アグネスタキオンはじろりとこちらを観察して言った。

 

「いきなり襲ってきた相手と平然と話す。自分について知ったような口を叩かれても何一つ感情を動かさない。多分、君が頭を使わずに話すのは、頭が悪いということもあるが、そもそも人と話すということにリソースを割くほどの価値を感じていないからだ。君は他人に対する興味が薄い。そして、それ以上に――」

 

「自分に興味が無い」

 

「研究職に向いているよ、君」

 

「お前は教師に向いていると思う」

 

「え、本当かい。実は小さい頃は教師になりたかったんだ。常々思っていたよ、私の方がよほど上手く教えられるのにって」

 

「その思い上がりこそが教育者に最も必要なものだよ」

 

 それに、人をよく観察している。アグネスタキオンは他人に興味があり過ぎるのだ。

 

「お前友達いるか?」

 

 ふと思いついて訊いてみた。

 

「要らないよ」

 

 意図した伝わり方ではなかったが、それに続いた言葉はナマエワマダナイが言いたかったのとほとんど同じ意味だった。

 

「特に君みたいなのはね」

 

 その返事を聞いて、ナマエワマダナイは言った。

 

「生まれ変わりを信じるか?」

 

 その質問に、アグネスタキオンはきょとんとした表情を浮かべていた。前の質問からの関連が分からないのだろう。ナマエワマダナイにも分からなかった。その話題の連結も、なぜそれを話そうと考えたのかも。

 

「どういう意味だい?」

 

「俺は前世からの記憶を引き継いで生まれた」

 

「へえ」

 

 ナマエワマダナイの言葉に、アグネスタキオンは平然と反応を返した。まるで「ゴミの日は明日だぞ」とでも聞いたような返事だった。

 

「名前、住所、電話番号、好きな食べ物、初恋の人の名前、そう言った前の人生の個人情報を、俺は全て覚えている」

 

「ふうん」

 

「前の人生の世界にはウマ娘はいなくて、代わりにウマという動物がいた」

 

「なるほど」

 

「信じるか?」

 

「信じない」

 

 アグネスタキオンは断言した。

 

「生まれ変わりなど有り得ない、という意味ではないよ。そう言う君の言葉を信じる根拠が無い。そう感じる君の感覚を信じる根拠が無い。そう思っている君の正気を信じる根拠が無い」

 

 そこまで言って、アグネスタキオンは一度麦茶で唇を湿らせると続けた。

 

「医者に腹が痛いと言えば、その医者は患者が腹を痛めているということを前提に診断を行うだろう。だが私は研究者を志すものだ。研究者は観測装置しか信用しない。時にはそれさえ信用しない。私は、自分の目で見たものしか信用しない」

 

 薄ら寒さと同時に異質な熱と光を帯びた目で、アグネスタキオンはナマエワマダナイを見据えた。

 

「……ま、たまの気まぐれだ。医者の真似事をしてあげるのもやぶさかではないよ」

 

 アグネスタキオンはそう言うと、ベッドから立ち上がりナマエワマダナイの目前に座った。そして彼の首に軽く手を掛ける。細く冷たい指が、脈拍を測るように首に押し当てられた。

 

 こちらを覗き込むアグネスタキオンの目に、誰かの顔が映り込んでいる。

 

 馴染みがあるはずなのに、誰の顔だったか思い出せない。

 

 風呂場で、アルバムで、便所で、新聞の記事で、どこかで、見たことがあるはずなのに。

 

 それほどの時間をかけずして、思い至った。

 

 自分の顔だ。

 

 これまで十数年間付き合ってきた、自分だった。

 

「君は過去に受けたストレスから、解離性障害を患った可能性がある」

 

 ……え、そうなの。

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