種ウマになりたくて   作:ウボ山

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 鏡を見ていた。

 

 蛇口から水が流れる音が洗面所を満たしている。20Wの電球は、洗面所全体を明るく照らすには少し心もとない。しかし鏡が像を結ぶには十分の光量だった。

 

 鏡の前に立ち、その向こうに立ち尽くす青年を見る。青年はぼおっとした顔でこちらを見つめ返していた。間違い探しに挑むかのように、青年は鏡の向こうの顔をじっと観察した。

 

 青年の目鼻立ちはよく整っていた。華やかな顔ではないが、地味と言うには整い過ぎている。しかしそう言う顔の宿命として、目を引く特徴というものが無い。目を閉じればもうこの顔を思い浮かべることはできないだろう。冴えない顔、と言われても仕方ない。少なくとも、冴え渡った顔ではないだろう、と自己評価をする。

 

 白い顔をしている。健康的ではないが、具合が悪そうというわけではない。ただ、生きているというような感じはしなかった。内臓や血管、あるいは流れる血液、そういった生々しいものを皮膚の奥底に押し込んで出てこないようにしたような、そんな印象を受けた。

 

 誰だ、と問うことはしない。そういう段階はとうに過ぎた。問うべきは「調子はどうだ?」とか、そういったものだ。逆に言えば、まだその程度にしか進んでいない。

 

 目の前の青年について、知っていることを列挙してみる。

 

 名前はナマエワマダナイ。

 

 年齢は15。

 

 所属はトレセン学園。

 

 身長は人間の男性の同年代の平均よりも少し高い。

 

 体重は平均よりも重い。

 

 体積は、分からない。だがそこの風呂に沈めてみれば分かるだろう。

 

 自らのことを語るのに、そこから主観を取り除いたら、後に残るのはただのプロフィールだ。そしてそのプロフィールくらいしか、自分は自分のことを把握できていない。

 

 そういう意味で、先の会話は有意義だった。自分が第三者からはどのように見えるのかとは、中々得がたい知見だ。青年は、ナマエワマダナイはアグネスタキオンとの会話を振り返っていた。

 

 

「君の生い立ちは調べさせてもらったよ。随分抑圧された幼年時代を送ってきたらしい。そんな生活を、君は受け入れられたんだろうか」

 

 医者、と言うよりはドラマの探偵のような語り口でアグネスタキオンは言った。

 

「君は耐えられなかった。家族は周りにいない。君を世話する職員は君をモルモットとしてしか見ていない。気の許せる相手は誰もいない。孤独だ」

 

「そんな中幾度となく繰り返される検査、データ収集、実験。幼い君は、確実に消耗していった」

 

 アグネスタキオンの言葉は、ますます勢いを増す。

 

「だから作り出したんだ。他人を必要とせず、何にも頓着しない。どこか達観していて、何にも動じない。そして、感受性に乏しく、愚鈍な自分を」

 

「その意味で、君は確かに生まれ変わった」

 

「恐らく君が生まれたのは幼い頃だろう。君の言う生まれ変わりやウマ娘の不在という非科学的要素からは幼い子供の空想の気が感じられる」

 

 怒涛のようにアグネスタキオンの口から言葉が紡がれる。そして言い終わってなお、アグネスタキオンは息を切らすことも無く、ナマエワマダナイから目を離さなかった。

 

 マンションの一室、窓から差し込む夕日、そして見つめ合う男女。シチュエーションだけなら満貫だ。部屋に充満する沈黙の中でそんなことを考えて、やがてナマエワマダナイは口を開いた。

 

「……前言を撤回するよ。お前に向いているのは教師よりも、推理作家だ」

 

 言ってから、これは犯人のセリフみたいだと気付いた。アグネスタキオンはふっと笑って、

 

「医者はどうだい?」

 

「臨床医はやめとけ。向いてない」

 

「そうかい。じゃあお医者さんごっこはこれで廃業にしておこう」

 

 アグネスタキオンは立ち上がり、再びベッドに腰かけた。同時に首にかかっていた手の冷たさも離れていく。それに若干の名残惜しさを感じつつ、ナマエワマダナイは口を開いた。

 

「お前の診断は面白いけれど、おかしいところがある」

 

「へえ、聞かせてもらおうか」

 

 アグネスタキオンは気乗りしない様子でベッドの上で足を組みなおした。それにしても、すっかり我が物顔だ。自分のベッドだと言うのに、寝盗られた気分になる。

 

「まず、俺が施設に入ったのは生まれて間もない頃だ。俺にとって管理された生活は当たり前だったんだ。だからストレスなんて感じてはいなかった」

 

「それは君の主観だ」

 

 一刀両断。

 

「……いや、まあそうだけど、そもそもストレスというのが主観的なものだろう」

 

「そうだね。その人がどれだけストレスを感じているのかはその人にしか評価できないし、同じ状況でも、それをストレスと感じるかどうかは人によるものだ。でも、後からあの時はストレスを感じていたとかいないとか語ることに意味は無い。よく言うだろう、『今となってはいい思い出』って。人間の記憶は簡単に変容してしまうんだよ」

 

 正論だ。正論だからこそ、反論することができない。

 

「……俺には前世の記憶がある。だから勉強で困ることは一切無かった。5歳になるまでに高校までの内容の学習は終えていた」

 

「それは前世の記憶とやらが無くても有り得る範囲だよ。それに、知っていたから勉強が出来たんじゃない。学習して知ったことを、前から知っていたことと取り違えたんだ」

 

 暴論だ。暴論だが、反論することができない。

 

「……それは決めつけだ。お前の主観だ」

 

「そうだ。私の主観で、私の所見だ。他人の主観によってでしか、自分を客観的に見ることは出来ないだろう」

 

 無論だった。反論する気も起きなかった。

 

 ナマエワマダナイの主張は、全て彼の主観を根拠とするものだ。すなわち、彼が嘘をついておらず、かつ正気であるということが前提になっている。彼にはその自信がもう無かった。

 

 これが推理小説だったなら、地の文を信じればいい。地の文は常に客観的に、真実だけを伝える。だがナマエワマダナイにはもはや信じられるものは無かった。自分自身でさえ、信頼できない語り手に成り下がった。

 

「ああ、本当に……」

 

 もはや、自分が狂っているのか、世界が狂っているのか、判断はつかなかった。

 

「……お前に相談してよかった。ありがとう」

 

 皮肉では無かった。

 

 感謝の言葉が発されるのを予測していなかったのか、アグネスタキオンはそれを聞いて少しの間面食らったような表情を浮かべたが、すぐにニュートラルな表情に戻る。

 

「なんで感謝するんだい?」

 

「自分でも不思議なんだがな、俺はどうやら『お前はおかしい』と誰かに言ってもらいたかったらしい」

 

 ナマエワマダナイは転生などというファンタジーを信じていない。しかし、自分は生まれ変わったという記憶を持っている。その矛盾は、長い間ナマエワマダナイの心を蝕んでいた。

 

 おかしいのは、自分か、世界か。ナマエワマダナイにとっては、自分を否定する方が必要なエネルギーは小さかった。

 

「……俺は、どこかおかしいんだな?」

 

 ナマエワマダナイが訊くと、アグネスタキオンは珍しく言い淀んだ。

 

「……おかしい、とは言い切れない」

 

「なんだ、歯切れが悪いな。俺の事を気遣う必要ならないぞ」

 

「気遣うつもりなどないよ。ただ、君のような感覚を訴えるウマ娘は、少なくない数存在する。いや、全てのウマ娘がその感覚を体験する、と言うべきか」

 

「え?」

 

「名前だよ。ウマ娘は、付けられてもいない名前を自ら名乗る」

 

 ウマ娘は別世界から名前を受け継いで生まれてくる。その言葉を思い出す。

 

「顕著な例として、特定のもの、特定のウマ娘だったり、特定のレースだったりに異様な執着を見せるウマ娘、というのもまれに存在する。それらは前世の記憶を受け継いでいるから、とも解釈できなくはない」

 

「俺の生まれ変わりも、その延長線上にある可能性がある、ということか?」

 

「可能性は、ある。だが私が挙げたような例の多くはほとんど自覚がない。君のように確信をもっているケースは例がない。その意味では、君はおかしい。だが君の体験自体は、おかしいとは言い切れない。むしろ、有り触れているとも言える」

 

 ナマエワマダナイは、全身から力が抜けるような気がした。結局、何も分からないのと同じだ。お前はおかしい、という通告が来るのを身構えていた分、拍子抜けな気分だった。

 

「……やはり君は興味深い。まあ君もそろそろ限界だろう。今日はこの辺りにしておこうかな」

 

 そう言ってベッドから立ち上がると、アグネスタキオンはビーカーをまとめて鞄の中に放り込んだ。がちゃがちゃと音を立てる鞄を気にする様子もなく、それを持って歩き出す。それを追いかけて、ナマエワマダナイも立ち上がった。

 

 そのまま玄関へと向かうかと思われたが、彼女はキッチンの前で立ち止まると、小さな冷蔵庫に手をかけた。

 

「ところで、冷蔵庫の中が冷える原理を知っているかい?」

 

「……冷媒を循環させて冷やしてるんだろ?」

 

「その理解で問題は無い。でも、別の解釈もできる」

 

 アグネスタキオンは冷蔵庫の天板を軽くノックをするように叩いた。

 

「この中には妖精さんが入っていて、魔法で中を冷やしている」

 

 唐突なメルヘンに戸惑うナマエワマダナイを他所に、彼女は続けた。

 

「この仮説を否定するのは簡単だ。冷蔵庫を分解して、中に妖精さんなどいないことを確認すればいい」

 

 アグネスタキオンは冷蔵庫の扉を開け、その中を覗き込むような仕草をした。中には目薬しか入っていないのだが。

 

「でも、開けても分からない時もある。妖精さんは姿を消せるものだと相場は決まっているからね。だから、そもそも開ける意味が無いとも言える。だけど、私はこういう『箱』を開けるのが趣味なんだ。生きがいと言ってもいい」

 

「いい趣味だ」

 

 ナマエワマダナイの嫌味を聞き流してアグネスタキオンは冷蔵庫を閉めると、今度こそ玄関へと向かい、揃えて置かれたローファーに足を差し入れた。履いた靴のつま先で玄関の床を叩きながら、彼女はきいた。

 

「パンドラの箱に最後に何が残ったか知ってるかい?」

 

「希望だろ?」

 

「何が残ったか分からない。それが希望になる時もあるということだよ」

 

 そう言って扉を開けると、アグネスタキオンは部屋の外へと躍り出た。そしてこちらを振り返って、

 

「次来た時には、紅茶を用意しておいてくれ。サバラガムワかキーマンでいい」

 

 バタン。

 

 扉が閉まり、唐突に静寂が空間を支配した。

 

 嵐のような時間だった。随分と揺さぶられて、酔っ払ったみたいな気分だ。方向感覚は失われ、どこに進むべきかも分からなくなった。

 

 ただ、とりあえず確かだったのは、机より先に、ティーセットを買ってこなければならないことだけだった。

 

「あ、そうだ、最後にひとつ」

 

 唐突に扉が開き、アグネスタキオンが再び顔を出した。突然のことに面食らうナマエワマダナイを放って、彼女は言った。

 

「将来的に酒を飲む予定があるのなら、ほどほどに控えておいた方がいい。君は意識レベルが下がると、何でも喋ってしまう性質らしい」

 

「……ん?」

 

「じゃあ、おやすみ」

 

 バタン。

 

 ……よく分からないが、ひどく疲れた。ナマエワマダナイは亡者のようにふらふらとベッドに向かう。

 

 それから、枕に頭をつけたかどうかも覚えていない。

 

 ただ意識を手放す瞬間、どこからか甘い香りが匂った気がした。多分それは、アグネスタキオンの匂いだった。

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