4限の終わりを示す鐘が鳴った。それを聞いて社会科の教師は「あれ、おかしいな。もう終わりか」などと寝ぼけたことをほざくと、頭を掻きながら教室から出ていった。右肩上がりの文字たちが寂しく黒板に取り残されている。実に縁起がいい。それはもう、消すのがもったいないほどに。
「名無しさん」
あの黒板の字は誰が消すのだろうと考えているところに、自らのあだ名を呼ぶ声がかかり、ナマエワマダナイはそちらを向いた。スペシャルウィークが席を立って彼を見下ろしている。何か言いたいことがあるようだ。
「どうかした?」
「あの、白黒の牛がいますよね」
唐突な話題だった。
「ホルスタインってやつ?」
「そう、それです。あの子たちって、白地に黒い模様があるように見えますけど、実は、黒地に白斑が入ってるんですよ」
「へえ……」
知らなかった。知らなかったが、全く有益な情報ではない。別に昼休みを挟んで生物のテストがある訳でもないし、あったとしてもそんな問題は出ない。
では何故彼女が急にそんな話をしだしたかと言えば、それは先日ナマエワマダナイとスペシャルウィークの間にあったやり取りに起因する。
授業と授業の間の休み時間のことだ。入学当初は凄まじかった騒ぎも鳴りを潜め、教室は日常を取り戻している。たまに近くの席の生徒が声をかけてくる程度で、ナマエワマダナイはのんびりと休み時間を過ごすことができるようになっていた。
次の授業の科目は何だったか、まだ完全には覚えられていない時間割表をなんとか思い出そうとナマエワマダナイが苦心しているところに、スペシャルウィークが声をかけた。
「あの、名無しさん」
「ん? 何か用?」
ナマエワマダナイが特に何も考えずに発したその言葉。それこそがスペシャルウィークにとっては衝撃的であった。
どうやら都会では、用が無くては話しかけてはいけないらしい!
もちろん、彼にそんな意図はない。しかしそれは田舎から出てきて以来、あまり人と会話をしたことが無いスペシャルウィークには伝わらなかったのである。
「え……用は、特にありません、けど……」
途端に歯切れを悪くして口ごもるスペシャルウィークであったが、それをほとんど気にせずナマエワマダナイは訊いた。
「ああ、そうだ。次の教科って何だったかな?」
「次は英語だったと思いますけど……」
「ああ、英語か……火曜の3限は英語……うん、ありがとう。助かった」
「いえ、お気になさらず……」
気落ちした様子のスペシャルウィークに気が付かず、ナマエワマダナイはそこで会話を打ち切った。
それから1時間弱が経って、英語の授業が終わった。そして、余りにも授業が退屈でナマエワマダナイがうとうととしているところに、スペシャルウィークはこう声をかけたのである。
「あの、牛って3時間くらいしか眠らないって、知ってますか」
「……いや、初めて知ったけど」
「牛って見たらいつも寝転んでるんですけど、実はあんまり寝てないんですよね……。ところで、名無しさんは今日あんまり眠れてないんですか?」
「ああ、ベッドのマットレスが固くてさ――」
用が無ければ用を作ればいい、と彼女は考えたらしい。そして彼女が思いついたのは、トリビアを披露して会話の呼び水にするということだった。
それ以来、スペシャルウィークはナマエワマダナイに話しかける度にこうした雑学を教えてくれる。よくもまあネタが尽きないものだ、と感心しつつ、ナマエワマダナイはこの雑学を少し楽しみにしていたりする。ゆえに、もう暫くは彼女の勘違いを正すつもりはない。決して、授業の終わり際に、何とかしてトリビアを絞り出そうとしているスペシャルウィークの姿が面白いからではない。
断じて、ない。
時は戻って(進んで?)、ホルスタインの模様である。ナマエワマダナイは牛の模様を思い浮かべてみた。イメージとしては白い地に黒いインクをポタポタと垂らしたような模様のように見える。それが実は逆であるとなれば、それは確かに意外だ。考えていてふと湧いた疑問を口に出してみる。
「パンダはどうなんだろう。あれも白黒だけど……」
「確かパンダって生まれた時は毛が生えてなくてピンク色ですよね。乳牛は赤ん坊の時から白黒ですよ。地肌がその模様なんです」
「へえ、そうなのか」
なんと、一度に2つものトリビアを聞いてしまった。なんだかお得な気分である。ナマエワマダナイが満足げに頷いていると、スペシャルウィークが話を展開、と言うよりも、転換した。
「それでですね、名無しさんは今日お昼の予定ってありますか?」
唐突にも程があるが、必然的に彼女との会話の本題は多くの場合こういう始まり方になる。ともかく、質問に答えようとナマエワマダナイは今日のスケジュールを思い出す。
「予定と言うほどの予定は無いかな」
「何かあるんですか?」
「ご飯を食べる予定はあるけど」
「あ、そうですか……」
少し残念そうな顔をするスペシャルウィークに、ナマエワマダナイはなおも続けた。
「その後に、歯を磨く予定もある」
「……はい?」
「それが終わったらトイレに行って――」
「――つまり、予定は無いってことですね?」
「最初にそう言ったじゃないか」
そう言って笑うと、スペシャルウィークは少し不貞腐れたような顔をした。からかわれたのが面白くなかったらしい。こちらとしてはその反応が面白いのだが、この辺りにしておいた方がいいだろう。
「それで、お昼の誘い?」
ナマエワマダナイが訊くと、スペシャルウィークは渋々といった様子で頷いた。
「ええ、そうです。みんなで一緒に食べませんかって」
「みんな?」
「ええ、みんなです」
スペシャルウィークはそう言って笑うとナマエワマダナイの手を取って、歩き出した。以前にもこんなことがあったなあ。そんなことを考えながら、ナマエワマダナイは連れられて歩いていった。
◆
「改めて見ると、本当に冴えない顔ね」
初っ端否定から入られた。自覚はあっても、人から言われるとそこそこ傷つくものである。
「ちょっとキングちゃん、失礼ですよ」
「そうデスよ! 私はハンサムだと思うデース!」
「うんうん、私もそう思うよ。気にしちゃダメだよ、名無しくん。キングはちょいと面食いなんだ」
食堂で待ち構えていたのは見覚えのある顔ぶれだった。教室の前で自己紹介をした後、スペシャルウィークの周りに集まっていた生徒たちだ。
「私の名はエルコンドルパサー! これからよろしくお願いしまーす!」
先陣を切って立ち上がり、握手を求めるように手を差し出して来たのは、黒みがかった茶髪のウマ娘だった。まず人目を引くのが長くて綺麗な髪だが、何より彼女の外見で特徴的なのは――
「えーと、そのマスクは何? 着けてる方が残酷になれるとか?」
「ノー! 私が目指すのは世界最高のエンターテイナー! なので普段からマスクを被っているんデース!」
よく分からない理屈だが、本人なりの論理があるのだろう、と納得しその手を取る。瞬間、握った手に力が加えられた。骨が軋むほどの握力。どうやらそういう趣向らしい。それに応じてナマエワマダナイも手に力を込める。エルコンドルパサーの顔が不敵に歪んだ。
「へえ、あなた、中々やりますね?」
「男の子なんでね」
「なるほど! いい答えデース!」
そう言ったエルコンドルパサーは手を離すと、両腕を広げて掴みかかるように構えた。
「さあ、手四つに組むデース! 力比べはこれから――」
「――エル?」
横から現れた栗毛の少女が、エルコンドルパサーの手首を取った。エルコンドルパサーの顔色が、サッと青くなる。
「グ、グラス? これはちょっとした余興でエェェェ!?」
グラスと呼ばれた少女はエルコンドルパサーの腕を絡めとり、背後に回すように捻った。テコの原理でエルコンドルパサーの肩関節が痛めつけられている。お手本のようなキムラロックだ。
「迷惑でしょう? こんな所で暴れたら……」
「いだだだだだだだだっ! き、極まって、極まってますって!」
「すみません、騒がしくて。私はグラスワンダーと申します。よろしくお願いしますね」
騒がしくさせてるのはあんたじゃないのか。内心思いつつ口には出さず、
「あ、うん、よろしく……あの、めっちゃタップしてるけど」
「いいんです。
「こ、これ以上いけなアァァァ!? あだだだだだだだだ!」
簡潔な自己紹介だったが、彼女が危険ということはよく分かった。
エルコンドルパサーが本気で痛がっているように見えるので止めるべきかどうか迷っていると、青みがかった芦毛のウマ娘が声を掛けてきた。
「あのふたりなら、いつもああだから心配はいらないよ。エルもグラスちゃんも、その辺りはちゃんと分かってるからさ」
もう少しで肩関節が外れそうに見えるのだが、それも含めて「いつも」なのだろうか。まあ、そう言うのならそうなのだろう、そう考えて声をかけてきた相手に向き直った。
「それならいいけど……君は?」
「私はセイウンスカイ。セイちゃんでもスカイちゃんでも、好きに呼んでくれたらいいよー」
セイウンスカイと名乗るウマ娘は気楽そうな口調でそう言った。その名の通り、掴みどころが無さそうな雰囲気だ。
さあ、これで自己紹介も残すは一人となったわけだが。
「さて、これで一区切りついたし飯注文してこようかな。何がおすすめ?」
「うーん、私のおすすめは唐揚げ定食かなあ……」
「ちょっと! この私を忘れているんじゃなくって!?」
そう声を荒らげて立ち上がったのは、初っ端ナマエワマダナイを冴えないと称した鹿毛のウマ娘だ。
「あ、居たのか。ごめんな。俺、冴えてないから分からなかったよ」
「そ、相当根に持ってるわね……」
「別に根になんか持ってない。ただ一生引きずるだけだよ」
「それを根に持ってるって言うの!」
この打てば響くようなツッコミ。彼女には「素質」がある。ナマエワマダナイは思った。
「やるねえ、名無しくん。この中でオチ担当が誰であるかを早々に見切るなんて」
「オチ担当!? いつの間にそんな不名誉な肩書きが!?」
「いや、もうそういうのいいから。で、お前の名前は?」
「もういいってどういう事よ……まあいいわ。私の名はキングヘイロー、一流のウマ娘よ」
「キングヘイロー……と」
「ど、どうして私の名前だけ手帳に書き記すの?」
「後で冴えないって言われたこと日記に書こうと思って……」
「めちゃくちゃ根に持ってる!?」
「これで全員名前聞いたし、注文してくるよ」
「ちょっ、待ちなさい! 私のおすすめはカレーよ! 金曜日はなんとトッピングを一つ無料で付けて貰えるのよ!」
叫ぶキングヘイローの声を背後に聞きながら、ナマエワマダナイは思った。
こいつら、揃いも揃ってキャラが濃すぎる。
こんな連中の中でキャラを立てていかなくてはならないとは、スペシャルウィークも随分と苦労している。
そんなことを考えていると、向かいからやってくるスペシャルウィークの盆の上に、山のように盛られたご飯が見えた。
(……俺も語尾に何か付けるとかやらないとダメかな)
自分の最大の個性を、その時ナマエワマダナイは忘れていた。
◆
「なあ、スペシャルウィーク?」
「はい、なんですか?」
「一人称が『吾輩』の男ってどう思う?」
「はい?」