「入部テスト?」
スペシャルウィークが箸を止める。それは彼女にとって天変地異にも匹敵する、非常に重大な出来事が発生したことを意味する。今回の場合、それはグラスワンダーの言葉だった。
「ええ、私が所属しているチームが部員を募集しているんです」
チームと言うのは同じトレーナーから指導を受けるウマ娘をひとまとめにしたもので、この学園では部活のような扱いを受けている集団だ。基本的にウマ娘たちはこの集団単位で練習し、指導を受けることになるので、順風満帆たるウマ娘生活にはチーム選びが非常に重要である、らしい。
「へえ。グラスちゃんって、スズカさんと同じチームだよね」
「私も受けようと思ってるんデース! チームリギルは学園内最強チームだから!」
「私も受けるわ! 一流に相応しいチームだもの!」
「スズカさんと同じ……」
スペシャルウィークがぽつりと呟いた。
スズカ、とは誰だろう。ナマエワマダナイは一人考えていた。クラスメイトにはそんな名前は無かったが、みんな当然のごとく知っているものとして話している。自分も既に知っている人物なのだろうか。ここ数日の記憶を振り返っていると、暫くして東京レース場で見たレースの出場者の名前を思い出した。
サイレンススズカ。彼女のレースは圧巻だった。出鼻から先頭に立ってレースを引っ張り、後ろとの差は縮まないどころか伸びていくばかり。最後の直線では爆発的なスパートを掛け、後続に影も踏ませぬ勝利。あの東京第11レースは彼女の独擅場だったと言ってもいい。
あれほどのウマ娘が所属しているとなると、かなりレベルが高いチームなのだろう。それならばグラスワンダーから漂う、どこか強そうな雰囲気にも納得がいくというものだ。
「入部テストって、何をやるの? 面接?」
ナマエワマダナイが訊くと、グラスワンダーは笑ってそれを否定した。
「いえ、確か今回は実技のみだったはずです」
「実技と言うと……」
「レースデース!」
「芝2400mですね」
ナマエワマダナイはグラウンドにあったコースを思い浮かべた。あのコースは東京レース場の大きさとほとんど同じくらいに作られているらしいが、あれを一周とちょっとくらいの距離だろうか。
「……長くない?」
率直な感想だった。
2000mや3000mは人間の中学生にとっては持久走の距離であるが、ウマ娘にとっては決して長い距離ではない。しかし長い距離ではないということが、楽な距離であるということを意味するわけではない。控えめに言っても過酷な距離だ。
グラスワンダーもその意見には同意だったようで、
「ええ、確かにデビュー前のウマ娘にとっては少し長い距離ですね。どうやらトレーナーは中距離以上の素質を持つウマ娘を求めているようです」
「クラシック三冠路線を行くなら2000m以上の適性は必須だからなー。そこを見極めようとしてるのかもね」
クラシック三冠とは、皐月賞・東京優駿(日本ダービー)・菊花賞のことだ。それぞれが最上級の格を持つレースであり、多くのウマ娘はこれらのレースへの出走、そして勝利を目指して日々練習に励むことになる。これらのレースはそれぞれ2000m、2400m、3000mで争われるので、その試金石として2400mでテストをするということだろう。
まあ、自分にはあまり関係の無い話だ。それよりも、とナマエワマダナイは目の前のカレーに目を落とした。ご飯は白くつやつやと玉のように輝いており、そこにかけられたルーはあまりとろみが無く、ご飯とよく絡んでいるように見えた。にんじんやじゃがいもがこれでもかと言わんばかりにごろごろと入っていて、食べごたえがありそうである。
米とルーを一緒に掬い口に運ぶと、程よい辛味と香りが口の中に拡がった。米は粘りが少なく一粒一粒が立っており、ルーと上手く調和している。
トッピングの半熟の目玉焼きを崩すと、どろりと黄身が溢れ出た。それを白身とルーに絡め、米と一緒に食す。
最強だった。無敵だった。
カレーはどう作っても美味いものだが、このカレーは格別に美味い。どんなに褒めても褒め切れないような気さえする。言語表現の限界というものを感じた。
その味を表す適切な言葉を探すべく、ナマエワマダナイがもう一口を口に運ぼうとしたその時、
「名無しさん!」
スペシャルウィークが箸を置いて、こちらに向き直っていた。彼女が食事中に箸を置く。その意味は、考えるまでもなかった。
「私たちも受けましょう、そのテスト!」
◆
放課後。ナマエワマダナイはグラウンドにいた。周りでは多くのウマ娘たちが思い思いにウォームアップをしている。若干のアウェー感を覚えつつ、それに交じってナマエワマダナイも軽く身体を動かしていた。
実の所、ナマエワマダナイは高揚していた。この世に生まれ落ちてから、身体を動かすこと、特に走るのは嫌いではない。自分の走りにはそこそこ自信があったし、同世代の最高峰レベルの生徒たちの走りがどれほどのものなのかは気になるところであった。
断じて、目の前で繰り広げられる女子の肢体の躍動に興奮したわけではない。
断じて、ない。
それにしても、改めてその場に立つとこのグラウンドの広大さがよく分かる。一周2000mのコースを見てまず思うのは、長い、というよりも、広いということだ。こんなものが学校の中にあるとは、はっきり言って尋常ではない。トレセン学園の凄まじい財力が窺い知れる。運営資金はどこから出ているのだろう。馬券か?
そんなことを考えていると、横で準備運動をしていたスペシャルウィークに声を掛けられた。
「調子はどうですか?」
「かなりいいと思うよ」
「それはよかったです! 私、ずっと名無しさんがどんな風に走るのか楽しみだったんです」
「実は、足を交互に前に出して走るんだよ」
「観客席にいっぱい人も集まってますし、みんな名無しさんの走りを見に来たんだと思いますよ」
んなアホな、とは一蹴できなかった。ナマエワマダナイは間違いなく注目株だ。まだ一度も表で走ったことがないにも関わらず、である。注目されているのは悪い気はしないが、その注目がただの物珍しさからだとすると、少し不快ではある。
照れくささのような、居心地の悪さのような、そんな気持ちを拭うべくナマエワマダナイは話題を転換した。
「まだ始まるまで時間あるよな?」
「あと10分はあると思いますけど」
肩を伸ばしながらスペシャルウィークは答えた。
「じゃあ、ちょっとジョギングがてらコースを見てくるよ」
ナマエワマダナイはそう言って軽く走り出した。
「あ、ちょっと待ってください! 私も行きます!」
その背中を追ってスペシャルウィークも芝を駆けた。
コースを走り出してすぐに分かるのは、非常に直線が長いことだ。まずスタート地点から最初のコーナーまでが長い。そしてコーナーを回り、向こう側の直線をフルに走り、そして最後の直線でもコースの直線部分のほとんどを走ることになる。
「……大体350mってとこか?」
「何がですか?」
「スタートからそこのコーナーまで」
ナマエワマダナイが言うと、スペシャルウィークは驚いた様子で、
「走っただけで距離がわかるんですか?」
「歩数を数えるんだよ。自分の歩幅を把握していれば距離が分かるだろ?」
「なるほど……」
感心した様子でスペシャルウィークが唸ったところで、最初のコーナーに差し掛かった。カーブはゆったりとしていて、曲がるのにさして苦労はしなさそうだ。
そのままコーナーを抜けて、ゴールと反対の直線、バックストレッチを走る。これがまた長い。そして直線を走り抜けると、3つ目のコーナー手前に緩い上り坂がある。競馬のコースって坂があるのか、とナマエワマダナイは人知れず驚いていた。
登った坂を下りつつカーブを曲がり、最後の直線に入る。そしてその途中に待ち構えているのが――
「また坂か……」
今になって思えば、スタート地点からすでに上り坂だった。その坂をもう一度一周してきた後に登らなくてはならないということだ。2000m近くを走ってこの坂は、かなりキツい。
コースの検分を終え、スタート地点の方へと歩きつつ、スペシャルウィークと感想を述べ合う。
「……キツくない?」
「……キツいですね」
やたらと長い直線。計3つの坂。そして、単純に距離が長い。楽に走らせる気が一切無い、悪意さえ感じるコースだ。
ここは、地獄だ。
「これから点呼を行う! チームリギルの入部テストに参加するものは、速やかにスタート地点まで集まるように!」
遠くから聞こえたその声は、地獄からの呼び声にも聞こえた。
◆
入部志望者の集まりの前に立っているのは、チームリギルのトレーナーらしかった。グレーのスーツをしっかり着込んだ女だ。眼鏡の奥からこちらを見据える目からは理知的で厳格な印象を受ける。
「ではこれより点呼を行う。順番に自分の名前と目標を述べなさい」
点呼には軽い面接の意味もあったらしい。志望者にはそれぞれの目標が問われた。
「オープン戦で勝ちたいです」
「チームリギルで活躍したいです」
前の参加者たちは、そんな風な目標を述べていった。その流れを見て、ナマエワマダナイは焦っていた。目標など生まれてこの方考えたことが無い。
「次」
沈黙。まさか自分の番か、とナマエワマダナイが周りを見渡すと、
「次、スペシャルウィーク」
「は、はい!」
スペシャルウィークは慌てた様子で返事をした。自分の順番も分からないほどに緊張しているらしい。
「えーと……」
「何か目標はあるか?」
そう問われたスペシャルウィークは、先程までの緊張した様子とは打って変わって、堂々とそれに答えた。
「私、日本一のウマ娘になりたいです!」
用意していた答え、と言うよりも、昔から本当にそう思っていたのだ。そう思わせるような、純粋な言葉だった。
「私、お母ちゃんから日本一のウマ娘を目指しなさいって言われて、この学校に通うことを決めたんです」
目標と言うよりは、夢。雲を掴むような、余りにも壮大で、漠然としていて。だがそれは、彼女の純真な気持ちそのものだった。
「次」
スペシャルウィークの次は、自分だった。
「私は……」
スペシャルウィークに連れられて来ただけです、とはとても言えなかった。周りのウマ娘たちの純粋な願いを聞いたあとでそんなことを言うことは、彼女たちに対する侮辱であるようにも思えた。だから、彼は考えなくてはいけなかった。
自分は、何をしたいのか。
すぐには答えは出そうになかった。
口ごもるナマエワマダナイに見かねて、トレーナーは言った。
「チームに入ってからの目標でなくてもいい。君は、何のためにここ、トレセン学園に入ったんだ?」
何のために、ここに?
外に出たかったからだ。
ここから出たい。閉じた世界から、逃れたい。ひとり、研究施設の中でそう思ったのだ。故に自分は今、ここにいる。
なぜ、出たいと思ったのだろう。
その時、不意にナマエワマダナイの心中に去来したのは、今までの人生の回想だった。
初めて吸った空気の冷たさ。母親の腕の暖かさ。呼び掛ける父親の声色。こちらに伸ばしてきた指を掴んでやったときの笑顔。そういう思い出が、ふと頭の中に浮かんだ。
その後ひとりになったあとも、擦り切れても擦り減っても、何度も思い出して、何時も頼りにしていた思い出だった。あの時、確かに自分には家族がいたのだ。そんなことを考えて、自分を慰めていた。
それは、彼がいつの間にか抑圧していた記憶だった。そして、答えはそこにこそあった。
ひとり、彼がずっと考えていたこと。宝石のように輝く、彼の真髄。それを彼は素朴に、思いついたままに、口に出した。
「種ウマになりたくて」
文句の付けようもなく、純粋な言葉だった。