「それにしても随分お久しぶりね、サブ君♪」
「……いい加減その呼び方はちょっと」
「めんごめんご〜♪ でもお姉さんにとっては、キミはいつまでもポラリスのお坊っちゃんなのよ〜?」
――キングのスプリンターズステークスから、三日後の午後。
俺達は、窓から雨模様の暗い空を眺めながら、とうとうと言葉を交わしていた。
「全くさぁ……ホントに変わらないよな、マルゼン」
マルゼンスキー。
無論俺ではなく、親父の担当だったウマ娘だ。当時のチームポラリスの最盛期を支えた功労者の一人であり、サブトレーナーとして俺が途中加入した頃には既にトゥインクル・シリーズから移籍済み、言わばOG的な立場としてクリークの様に後輩を見守っていたのだ。今はチームを勇退してトレセン学園の生徒会に所属しており、学園の運営やURAとの連携に尽力しているとか。
……そのナウなヤングにバカウケな言動は、年配者の多い上役との会話で地味に好評とか、そうでないとか。
「モチのロンよ! あたしとしてはサブ君のほうがチョベリグになっちゃって、おったまげ~って感じ?」
何て返すのが正解なんだそれ。
しかしそんな彼女はこれでもトレセン学園歴代最強の呼び声高い、「スーパーカー」の異名を持つウマ娘である。その戦績はまさかの無敗、キャリアにおいて二着になったウマ娘との合計着差は空前絶後の六十一バ身という天文学的な実力を持ち、そうしたあまりの強さに彼女の出るレースでの出走を回避するウマ娘が後を絶たなかったという。
「……あたしはただ、風を思いっきり浴びて、気持ちよく走りたいだけだったんだけどな」
こんな娘もいるのか、と思ったのをよく覚えている。
天才という言葉だけでは表現できないような、超常的な才能を持っているにも関わらず……マルゼンスキーは、勝利への執着が極めて薄いウマ娘だったのだ。
かといって、自分の限界を突き詰めたいような求道者でもない。純粋にハナを進むのが気持ちよくて、レースを楽しみたいという、本当にそれだけの心の持ち主だった。
「でも、見つけたんだよな。大舞台で走る、君だけの理由」
その楽しさを、他のウマ娘達にも分け与えたい。
その後ろ姿で、レースの楽しさを多くの人に教えてあげたい。
そんな願いが、彼女をただ速いだけのウマ娘から、一人前のスターウマ娘へと変えたのだった。今でも彼女はふらりと学園のグラウンドに姿を現したかと思えば、後輩ウマ娘達と共に走ってその憧れの背中を見せつけている様だ。
「ええ。……だけど、あの子はあたしとは、真逆よね?」
マルゼンスキーは現役時代に楽しそうな走りによって、人々に夢を与えて。
――そしてキングヘイローは苦しくとも挫けない走りで、人々に驚きを与える。
「あの子――走ることを、ちゃんと楽しめてるかしら?」
それは、なかなか難しい問題だ。
断言できることとしては、彼女はクラシック級で一度走る楽しさを捨てかけたということ。レースを周囲を見返す手段としか考えられなくなり、プレッシャーや焦り、そしてやり場のない怒りのままにターフを走っていた時期があったということ。
それから状況は大分改善して、今では調子そのものが大きく乱高下することはなくなった。ただ、だからといって全てを気にせずに自由に走っているかは別問題だ。
……なぜなら。
「……あいつにとって、走ることはライフワークなんだよ。
走ることで、あいつは『一流』を証明したいんだ。才能も、品格も、個性も、あいつは走ることで自分を表現する。
天性の才能とか探求心とか、そういうんじゃなくて……肚を括ったんだよな。このレースの世界で、最後まで生き抜いてやるって」
――キングが最後に引退という言葉を口にしたのは、あの有馬記念の時。
別の道を一から歩み直す選択をせずに、顕彰ウマ娘を目指して生涯走り続ける決意をしたあの時から、キングにとってはレースが全てとなったのだ。そこに楽しさがあれど苦しさがあれど、全部受け入れて自分の道を突き進むと、そう決めたのである。
「あらら~……すごい覚悟なのね」
驚いた声を上げるマルゼンスキーだったが、すぐにふーん……と意味ありげに呟くと、再び目線を曇り空に向けて。
「――キミは、そんなあの子の助手席に……ずっと乗っていられる?」
俺達の前の扉……生徒会室の扉が開いたのは、その直後だった。
※※※
「まあ、座ってくれ。……訪ねてくるかもしれないとは思っていたよ」
マルゼンと別れて、俺は出迎えてくれた一人のウマ娘と共に足を踏み入れる。
扉の重々しく閉じる音と窓からの光の昏さが、数百年もの歴史を誇る学園の中枢こと、生徒会室の厳かさを讃えているようだ。
「コーヒーか紅茶、どちらが好み……いや、君は確かコーヒーが好きだったな」
「覚えてくれていて、どうも」
歴代四人目のクラシック三冠ウマ娘。
二千人ものトレセン学園生徒の頂点に立つ、史上初の七冠ウマ娘。
――皇帝、シンボリルドルフ。その生徒会長の差し出したブラックコーヒーを受け取りながら、俺は改めて彼女と相対していた。
「……こうして悠々閑々と話すのは何時ぶりかな。あれから副会長にエアグルーヴとナリタブライアンが入ってくれて、共に多事多端な日々を楽しませてもらっているよ」
俺がサブトレーナーになった直後は、生徒会はほぼ実権が彼女一人に集中したワンマン体制であり、そんなルドルフを補佐していた数少ないメンバーがマルゼンスキーだったのだ。
なので頻繁という訳ではなかったが……マルゼンと親父を介して何度か俺もルドルフと会話を重ねたことがあった。今回はそのつてを辿ってここにやってきたという訳だ。
「悪かったな、ここ数年はチームの方が忙しくてさ」
「君のところの活躍は聞いているよ。今となっては立派なトゥインクル・シリーズを牽引する上位チームの一つだ、さぞかし焦心苦慮したことだろうと推察するよ。
……しかし」
ルドルフが向かいのソファーに腰かけたまま、瞳を僅かに細めながら続ける。
「……しかし、まさかこのような事態になるとは、君もまさに青天霹靂だったのではないかな?」
『ブロワイエ選手、あなたは既に一度ジャパンカップに出走し、「日本総大将」ことスペシャルウィーク選手と白熱のレースを繰り広げています。
その上での再出走となると、彼女へのリベンジマッチを望んでいる、という認識で宜しいでしょうか?』
――あの日、バスの中で隣のキングと見た生放送インタビューの中で、「踊る勇者」ブロワイエが宣言した事実はまさに……俺達の歩んできた六年間の中でも最大規模の、とてつもない衝撃をもたらしたのだった。
『……いいえ。それは違う。
この新たな勝負服を着用し、レースに臨むにあたり、私はその作り主と一つの盟約を結んだのだ』
『……作り主といいますと、勝負服のデザイナーの方、ということでしょうか?』
『その通りだ。その女性が、今後の私の第一トレーナーを担当することになるだろう。
――そして、その盟約とは。
日本のG1レースを走る、一流を名乗るウマ娘……キングヘイローを、完膚無きまでに叩きのめすというものだ』
「……まったく、あの方は。
近年は主に海外で活動をされていたと聞き及んではいたが……まさかあのブロワイエと親交を深めていたとは」
ルドルフがため息をついて、自身の紅茶を啜る。
あの方、が誰かは言うまでも無い。ブロワイエ程のウマ娘を勝負服と引き換えにけしかけて、わざわざキング単体に差し向けるワールドクラスの傑人なんて、彼女しか有り得ない。
――あの有馬記念にてキングの「一流」の道を祝福した筈の、彼女の母親である。
「世界最強のウマ娘と、世界が認める一流デザイナーのタッグ。
まさに誰もが待ち望んだ、僅有絶無の組み合わせという訳だ。そのドリームコンビが今……君の担当ウマ娘を標的としている」
しかもデザイナーとしての立場に留まらずにトレーナーとして就任すると言うのだから、本当にとんでもない人だ。
ただ、出任せあるいは所詮は付け焼き刃だと高を括るのは余りに危険だ。何故なら彼女はキングを産んだ後もなお現役選手として君臨し続けた程には、競走ウマ娘としての膨大な経験値を持っているのだから。
実際にそのインタビューの続きでは、ブロワイエがここ数年は彼女の助言を受けてレースを走っていた事が明かされている。
「しかし、だからといって君も引き下がるつもりではあるまい。
嘔心瀝血して取り組む覚悟を持つことだ。そうでもしなければ、今のブロワイエに対して勝算など――」
「――ないんだ」
「……は?」
「ないんだよ。一切の勝算が……キングには、ない」
――三日三晩、眠らずにデータを洗いざらい調べて、考え抜いた。
「踊る勇者」として変貌したブロワイエのレース、キングの今までのレース、それぞれの特徴、脚質、タイム。
……全てを考慮して、確信を持って言えてしまうのだ。キングが勝てる確率は……確実に、ゼロであると。
「……聞こうじゃないか」
「何より、
ブロワイエとしてフランスの、「踊る勇者」としてイギリスのG1を一網打尽にしている化物を相手にしては、純粋な格の違いがある……それは承知の上だ、それで諦めるようなことは決してない。
しかし――それで諦めない、活路を今まで見いだせていたのは、キングだけの絶対的なラストスパートがあったからだ。あのウララが二着になった有馬記念で、ウララが命を賭して走り、オペラオーがそれから全力で逃げて、一方でキングはウララを助けるために仕掛けを遅らせたというのに……実は上がり、つまりゴール前三ハロンのタイムはキングが最速なのである。その数字は、三十六秒ジャスト。
「……だけど、あの凱旋門賞での『踊る勇者』の上がりタイムは……三十一秒台だ」
最終兵器であるはずの末脚で、約五秒差の絶望。
しかも日本の芝とは比べ物にならない、重く速度の出にくいヨーロッパのターフで、である。
「末脚を封じられたキングはかなり苦しい。
距離適性としてスプリンターかマイラー向きなけらいもあって、スタミナ勝負は向いてない。その上集団に紛れるのは苦手だから、積極的な駆け引きも難しい。
元々あいつは自分の能力を最大限出せるかどうかってレースをするウマ娘なんだ。それが
――少なくとも、今のままならだ」
……今のまま、では。
その言葉に、七冠の栄光を恣にしたルドルフの目が光る。
「それを超えるために、今日俺はここに来た。
知りたいんだ、君やマルゼンを始めとした……歴代の最強ウマ娘が見出した、境地のこと。
――『領域』とは、何なのかを」
「……ほう」
ウマ娘の身体学には、まだ未知の分野がある。
かつてクリークが体調を崩した際も、具体的に彼女の身体の中で何が起きていたかは遂に分からなかった。結局はトレーナー側が背負うべき覚悟すら抱えてしまっていた彼女のメンタルを軽減してあげたことで回復はしたが、その間クリークの肉体に何の負荷がかかり、そして何が変質したことで調子が戻ったのかは未だに謎なのである。
……そして、G1の様な、才能と努力がコンマ数程度の度合いでぶつかり合うレースにおいては、そのウマ娘の知られざる力のせめぎあいによって勝敗が決まることがある。
「俺がその存在を始めて知ったのは、秋天でのタマの走りを見た時だ。
調べてみればマルゼンは府中ウマ娘ステークス、そして……君はダービー辺りから、明らかに走り方に劇的な進化があった」
彼女達に限った話ではない。かく言うクリークも、あの秋天で「魔王」として目醒めた時から、さらにライアンも宝塚記念から有馬にかけて、自分の走りが一段上へと上がった感触があったのだという。
――もしやと思い聞いてみれば、黄金世代それぞれを担当するトレーナーは口を揃えて言及したのだ。彼女達の正念場となるレース……そこで、全員がある種のブレイクスルーを迎えた瞬間を経験しているのだと。
曰く、スぺは流れ星の輝き。
グラスは不死鳥の、刹那の精神一到。
エルは、空高く翔ぶコンドルが持つ、勝者の矜持。
そしてスカイは……本人の弁で釣りにも通じる、乾坤一擲の閃き。
「トレーナーってのは基本的に理詰めで物事を考える。
だけど、これだけのウマ娘がそんな、非理論的なイメージや成長を体験しているとなると……それはもう、体系化されていなくても一つの現象として捉えるしかない。
――そして、ロジックじゃ勝ち目のないキングが、あの『踊る勇者』と渡り合う突破口があるとしたら……それはもう、ここしか考えられないんだ」
当然、あのオグリキャップやイナリワン、メジロマックイーンにテイエムオペラオーなんかもその「領域」に至っていると、実際の彼女等のレース動画を振り返って、俺は確信していた。
そして、相手のブロワイエもそれ然り……というより今回の異形の変質は正に、それによるところが大きいと仮説立てるのが妥当ではないか。
「ふむ。……しかし、君のその口ぶりでは、まるで。
まるで――キングヘイローは未だ、その域に至っていないとでも言う様ではないかな?」
「……その通りなんだよ」
――キングヘイローは、「領域」に至っていない。本人に尋ねてみてもその自覚がないようだから、間違いはない。
いや、正確には一度だけ、その片鱗を感じたことがある。しかしそれはあの十度の敗北の後の高松宮記念でもなければ、母親の魂の叫びに後押されて黄金世代を破ったあの有馬記念でもなく……キングと俺が出会った原点、あの入団テストでの、ぞわりと変わった彼女のオーラに、それが覗いたように思うのだ。
それ以降のキングは基本的に、限界を超えた走りを見せたことはあっても、それまでとは一線を画すような異次元のレベルに達するなんてことはなかったのである。
「だけど、こうも考えられるだろ。
キングは今まで『領域』なしで、『領域』を持ったウマ娘達と互角にやり合ってたんだ。実際の勝ちレース数は、スペ達には劣るけどさ。
――知ってるか? あいつ……短距離から長距離まで、全距離のG1レースで入着してるんだぜ?」
意外と知られていないが、これはかなり珍しい成績だ。しかも中距離を除けばそれぞれG1で勝ちレースを持っているのである。但し芝に限ってであり、ダートは苦手も苦手なのでどうしようもなかったのだが。
とにかく、俺は胸を張って言える。キングは、あの母親の血を継ぐだけあって、潜在能力で言えばまさに唯一無二の存在なのだ。問題はそれが……未だに、全て出し尽くされていないこと。
それを全て総動員してようやく、「踊る勇者」と勝負になるかならないかなのだ。
「だから、ルドルフ。教えて欲しいんだ。
『領域』へ辿り着く方法を。キングはどうして……未だにそこに至っていないのかを」
「――笑止千万」
暖かさが、死んだ。
代わりに俺に突き付けられるのは、数え切れないほどの無念の屍の上に立ち続けた、生粋の強者のみが宿す威厳だ。
「『領域』とは、それ即ち限界の先
そこを自然発生的にではなく、意図的に目指すということが、何を意味するか……本当に理解出来ていると?」
――「異次元の逃亡者」、サイレンススズカ。
キング達の一つ上の世代に当たり、スペが兼ねてより憧れていた彼女は、ある時期を起点に「逃げて差す」と呼ばれる脅威の大逃げを会得し、毎日王冠ではグラスとエルを完封する凄まじい実力を世間に知らしめた。
そんな当人はひたすらにトレーニングに打ち込むストイックさを持つ探求者であり、レースにおいて先頭の景色を見続けるために必要な疾さを……スピードの向こう側をどこまでも追求し続けていたのだという。
「――そうして後先を考えずに突き詰められた限界の先の先に、何が待っているか」
その果てに、サイレンススズカの左足首は秋天にて、砕けた。
今ではその後の治療の末に奇跡の復活を遂げ、次のステージとしてアメリカに遠征しているが……彼女が全盛期の頃の走りを取り戻せているかと聞かれれば、俺は安易に頷くことは出来ない。
「知らないとは言わせないぞ。君は既に……経験しているだろう」
――何故なら、俺はもう一つ似た事例を知っているからだ。
どうしても叶えたい願いのために命そのものを投げ打ち、能力の前借りを行なって実力以上の追い上げを見せて、その代償として大怪我を負い全てを一からやり直せざるを得なくなった、一人のウマ娘のことを。
……ウララがあの有馬で繰り広げた顛末はまさに、強引に「領域」をこじ開けた末路を物語っているのだ。
「『領域』とは、即ち目指すべきでない禁断の閾値。
競走ウマ娘の健康と実績の両立をコーチングする役目を持つトレーナーが、事もあろうにそれを担当に強いると……?
――ウマ娘を無礼るなよ」
稲光が、走る。
それはまさに、皇帝の神威が呼び寄せた裁きの雷鳴だった。
「……君がすべき事はそのような軽慮浅謀な空論ではなく、地に足ついた理論的な作戦を更に練り上げることにあるのではないかな?」
ルドルフは、再び紅茶を手にする。それを境に、再び穏やかな静寂が生徒会室に広がった。
俺も、倣ってコーヒーを口にする。普段の愛用品と種類は違うが、その特有の苦さが硬くなった脳に刺激を与え、解していく。
……一息付けた。これで、覚悟が決まった。
「――それは、どうかな」
大きく目を見開くルドルフに、俺は駆け引きなしに言葉をぶつける。
「それは、サイレンススズカにしても、ハルウララであっても、その時点で『領域』を制御出来なかった結果に過ぎないだろ」
……こう見えて、ルドルフも俺もお互いをある程度分かっている。
それぞれが、それぞれに最低限の倫理を持ち合わせている。それを前提とした上で、俺は敢えてあまりに傲慢な台詞を紡いでいた。
「……もし、キングヘイローが、『領域』すら自ら切り拓く事ができるだけの器だとしたら?」
「バカな」
認める筈が、ないよな。
だってそれはつまり、ダービーで無我のうちに発現させた君では辿り着けなかった、「代償のない自発的な『領域』への覚醒」という可能性をキングが持っていると言うようなものであり。
……キングが、君やマルゼン、その他歴代数百年を生きたウマ娘全てを超えた存在だと宣っているようなものなのだから。
「……神にでもなったつもりか。今の君は傲岸不遜、少し目に余るぞ。
悪く言うつもりはないが、クラシック三冠を無冠に終わり、その後にG1を四度勝っただけのキングヘイローにその域の力があるとは、客観的に見積もっても到底考えられないな」
「……それでも、俺はあいつのトレーナーなんだ」
確かに彼女は才能はあれど、決して天才肌じゃない。今回のレースで負けたとしても、あいつはきっと立ち上がってくれるだろう。
だが、それで良いのか。負けても立ち上がる――それだけでは、レースに出る意味とは何なのか。それがライフワークだからといって、勝つことを諦めて良い理由にはならないし、何より彼女にそのつもりはない筈だ。
だから、何もかもが足りなくとも、俺はキングと勝つ為にレースに臨む。負ける美学なんてのは結果論であり、日々の鍛錬の先に目指すのはいつだって、一着による一流の証明でなくてはならない。
「――トレーナーとは、常に担当の勝利の為にあるべき存在だ。
そして、例え無謀な賭けだったとしても、本人の希望があるならば、その全ての責任を一生負うことになったとしても強行しなければならない時がある」
稲光が、走る。
これはウマ娘とトレーナーの、究極の命題だ。持ちつ持たれつで過ごしてきた二つの存在が、絶妙な均衡のもとに保ってきた境界。
「――君に、その覚悟があるというのか。
全てを目先の為に賭ける覚悟が。『領域』に自ら踏み込めば……もう、戻れなくなるぞ。使おうが、使うまいが、失敗すれば彼女は絶望に囚われ、君は生涯の後悔に溺れることになる」
……やはり、そこまでのものなのか。
その代償をこのルドルフを始め時代を牽引したウマ娘達が被らなかったのは、競走の中で極めて自然にその壁を飛び越えたからであり、かつてウララが行ったような強引な発現は、まさに絶対禁忌。
そして、いずれにしてもその存在をトレーナーである俺が明確に知ってしまうことが、恐らく俺の今後のウマ娘に対する価値観を大きく変えてしまうのだろう。
「……繰り返すぞ。
俺は、キングの、トレーナーだ」
――「顕彰ウマ娘」を目指して、生涯現役を決め込むキングヘイローの、一生のトレーナーだ。
それを決めた時から、有馬で優勝したあの日から、キングの夢は俺の夢になった。
チームポラリスの不動のエースの座は、永久にキングだけのものとなったのだ。
「キングの勝利の為なら、俺は人生全てだって賭けてやる。
その危うさを知る、君の助けが必要なんだ――皇帝、シンボリルドルフ」
「……脚下照顧。
ナメていたのは、私の方だったな。あの青二才が、そこまで言うとは」
気の遠くなるような静寂の後。
シンボリルドルフは、立ち上がった。
「夢亡き者に理想なし。……しかし今の君からは、強い夢を感じる」
※※※
『……久しぶりね』
誰もいない教室。
その中で雨音に重なって響き渡るのは、私が人生で誰のものよりも聞いた、母親の声。
『あら、一年振りの会話だというのに、随分と酷い顔なのね』
「前置きは結構よ」
――相変わらずの、素っ気なさ。
あの頃から、何も変わっていない。私がレースに出るのを頭ごなしに反対し続けていた、あの頃のお母様と。
あれからも定期的に連絡を取り続けて、だけどお母様は昔ほど私のレースに文句を言わないようになって。
「……なんでよ! どうして今更、私にこんな……っ!」
私には作ってくれなかった勝負服を、ブロワイエさんには提供して。
その「踊る勇者」を従えて、お母様は私を潰そうとしている。
「そこまでして、私にターフから去ってほしいって言うの!? それだけの準備をして、これだけの人々の注目を集めて、その上で私を負かしたいって言うの!?」
『……あなたがそう捉えるのなら、別にそれで構わないわ』
ぎり、と無意識に食いしばった歯が、口の中を切って血を流す。
お母様の言葉は、いつだって冷たい。それがもしかすると持ち前の不器用さのせいなのかしらと、この数年の間に会話を交わして、ようやく少しずつ分かってきたと思ったのに。
なのに、今のお母様の言葉は、とても……冷たくて鋭い、ナイフのよう。
『もしかして、弱音を吐く為にこのビデオ通話を掛けてきたの?
なら、もう良いかしら――こっちも忙しいのよ』
「……なん、ですって?」
一人では、あまりに広すぎる部屋。
真っ暗な夜も、雷雨の日だって、いつも隣には誰も居なかった。
いつだって、誰も……私の名前を呼ばない、そんな毎日だった。
「お母様に、私の気持ちを知る権利なんてない……!
信じてたのに……いつも寂しくても、あなたはちゃんと私の母親だって、信じていたのに!!」
『いつまで昔の話を引きずるのよ。もう沢山だわ。
それとも何? あなたは今回のカードに不服があるようだけど……もう既に、ブロワイエと私に負けるつもりなの?』
ぐちゃぐちゃになった頭に、一筋の冷や水が伝う。
こんな風になりたくなかった。ちゃんと話をして、ちゃんと分かり合いたかったけど、それをするには私達には溝が深過ぎて。
だけど確かに相手がお母様だからって心が折れるようでは、一流を語るウマ娘としては失格なのかもしれない。勝負はあくまでターフの上でのこと、そこを妥協するのは……キングの流儀ではない。
「……本気なんだったら、私は容赦はしない。
例え相手がお母様でも、全力で一着を目指すわ。世界最強も、お母様の栄光も超えた走りを見せてあげる」
すると、そこに来て初めて、お母様は私を正面から見据えた。
珍しい、未だかつて無いと言っても良いかもしれない。今まであれだけつれなかったお母様が、今はしっかりと私と向き合っていて。
『――出来るかしら、あなたに?』
――感じたことのない、悪寒。
お母様からは一度だって感じたことのない、凄まじい脅威が、端末の画面越しの筈なのに私の身体を捉えて、締め上げる。
『G1四勝……? それが何だっていうの?
あなたまさか、その程度で一流を自負するに値すると思っていないわよね?』
「……な」
気にするのを、辞めた現実。
今の私は、お母様には敵わない。その成績を比較してしまえば、私はお母様の足元にも、及ばない。
『おまけに、最近の体たらくはなんなの? あれ以来、たかが日本のG1で一度も勝利を掴めないなんて。
長いこと強者の心構えを忘れているあなたに、「一流」を名乗り、私達と戦うだけの気概が……あるのかしら?』
重賞で一勝するだけでも決死の思いなのに、あまりに傍若無人だわ。
でも、それ以上に、このオーラは恐らく……お母様の、かつての競走ウマ娘として持ち得ていた風格で。
――本当に、本気なのね。お母様ほどの実力者が、本気で、全力で、私を粉砕しようとしている。
それは遂に私達がもはや家族ではなく、本当の敵同士になってしまったかのようで。
『もう一度、尋ねるわよ。
あなたは自分が私達を超えるだけの実力を持っていると……本気で思っているの?』
何よ。私はそんな事で気圧されたりは、しない。
だって、私こそがキングヘイローだから。誰もがその姿に憧れる、一流のウマ娘だから。
「……っ」
――なのに、どうして。
どうして、足が竦んじゃっているのよっ……!!
『……そう。やっぱり、あなたはその程度の器だったようね。
一流の名が、聞いて呆れるわ』
「ま、待っ……!!」
心底失望したような声音で、お母様はそのまま電話を切ろうとする。
ダメよ、そんなのずるいわ。これじゃ、あの頃と何も変わらないじゃない。
何か、何か言わないと。お母様の言葉に張り合えるだけの、そんな……。
(そんなもの……私に、あるの?)
「わたし、知ってるよ!!」
――その時。
突然教室の後ろから、ガタッと大きな音がして。
「キングちゃんは、ずっとわたしを守ってくれたの!
わたしがからだをこわさないようにって、いつも一緒に走ってくれて、だからわたし、本気でがんばろうって思えたんだ!」
「え、ウララ……さん?」
どうだ〜! なんて言って自慢げに話しているのは、今年の三月末には一緒に高知レース場で復帰レースを走った、ウララさんだった。
……待って、いつから聞いていたの?
「ちょ、ちょっとウララちゃん、まだ出てきちゃ……ええい、こうなったらあたしも!
――キングは、あたしを信じてくれてたんです! ずっとマックイーンにもオグリ先輩にも敵わないって、ずっと挫けてたのに……キングだけは、あたしが本当はスターになりたいんだって信じてくれてた!!」
――ガラガラガラッと、まるでドミノ倒しの様に後ろの扉から人影が飛び込んでくる。
ライアンさんに、クリーク先輩。それに、今となっては一人一人が伝説級のスターウマ娘になった……黄金世代の同期の皆さん。
「ちょ、……なっ? ちょっと、何これ、どういう」
「キングちゃんはそんな、その程度なんて言われちゃうウマ娘じゃないんです!
私も、セイちゃんも、グラスちゃんも、エルちゃんだって! ……みんな、キングちゃんに憧れてた!!」
「……えっ……?」
……何を言っているの、スペシャルウィークさん。そんな訳はないわ、だって、私は一人だけ、あなた達に見合わないほどに勝ちきれていないのに。
「キングは自分を過小評価し過ぎデース!
誰よりも自分の弱い部分と苦しい現実に立ち向かっていたアナタは、アタシ達にとっての、何よりの心の支えでした!」
「忘れたとは言わせません、あなたは私達全員を、有馬記念で追い越しているんですよ?
あれから、私達はずっと……あなたの背中を追い続けているんです」
グッとプロレスの様な構えを取るエルさんと、一周回って私をそうだと決めて聞かないような、グラスさんの圧。
「……ほんと、自己評価が高いんだか低いんだか。しょーがないよね、キングは」
――そして、スカイさんが。頭に両手を組みながら、未だサポーターの取れない左脚をぶらつかせながら。
「言ったでしょ。キングも、黄金世代だって。
――言ってやりなよ。何があったとしても……私は、一流だって」
「お母様」
私は、ただ自分の証明の為に、そして私を一流と認めてくれる人の為に走ってきただけだった。
……それが、いつの間にか、こんなにも。
「――私は、絶対に負けない。
ここにいる誰よりも一流の私が断言してあげる。それでもう、充分な筈よ」
実績も、実力差も、関係ない。
私は、私の道を行く。それを私は、命ある限り。
『……その言葉を、待っていたわ』
「……それでか」
雨が止み、すっかり静まった夜に。
チーム部屋の中で、キングと俺はそれぞれの用事を済ませて合流していた。
「……それで、こんな大所帯なのかー……」
――キングの背後には、チームメンバー全員とスペ達四人が勢揃いしていた。
てっきり二人で秘密の作戦会議かと思ったらこれである。しかもよく見ればマルゼンまでちゃっかりついてくる始末で。
「ほんっと、人気者は大変だわ。このキングを心配して、こんなにも沢山の……っ」
……流石に色々とバレバレだぞ。予めティッシュを用意しておいて正解だった。
それにしても、実際にキングを案ずる友達がこれだけいるという事実は、間違いなく彼女にとって財産であり、大きな力だ。これまでだって、彼女がただの高飛車な扱いにくいウマ娘でなくなった大きな要因として、そういう仲間の存在が欠かさず響いていた。
「トレーナーさん、私達もキングちゃんの為に出来ること、ありませんか〜?
きっとこれは、キングちゃんにとってすごく大切な、大事なレースになると思うんです」
クリークの言うそれは、キング個人にとっても、あるいはウマ娘の歴史としても意味を持っている。
キングにとってそれが、彼女の母親との決着に繋がることは間違いない。真意は今一つよく分からないが、今回のブロワイエ参戦は間違いなくあの人が数年規模で拵えた、最初で最後の親子の直接対決になるだろうからだ。
そして、日本の競走ウマ娘の歴史的にも一つの転換点を成している。かつてスペが「日本総大将」としてブロワイエを破った時に引けを取らない、シニア級を超えたベテランウマ娘同士による世界を相手取った戦いなのだ。当然世間の注目は数ある重賞の中でも今年一番のものとなるだろうし、その勝敗は今後長きに渡って語り継がれるものとなる。
「……絶対に、勝つわよ」
皆への感謝や、不安を乗り越えた決意。それらを一つに凝縮して、キングが宣言する。
そうだろうな。君はどんな苦難に直面しても、必ず乗り越えようとする。……これだけの仲間に恵まれ、その期待を背負うなら、尚更だ。
「トレーナー、これからのスケジュールを発表する権利をあげるわ!
キングの為だけの、最高の時間をプロデュースなさい……!」
「……ちょっと、トレーナー? 聞いてるの?」
――俺は、頷けない。
「キング。落ち着いて、よく聞いて欲しい」
何故なら、今から俺が話すことは、君を間違いなく大きく変えてしまう。
……それも、確実に悪い方向に。
「君の同意がないなら、俺はこれからのトレーニングをする事が出来ない。
する訳には、いかない……本来は、あってはならないんだ」
『……キングヘイローが「領域」に達しない理由。まずはそこから説明しよう』
数時間前。
立ち上がったルドルフは、厳かな様子で……しかし僅かにその表情に愛しさを宿しながら、切り出した。
『今回の件を受けて、私も彼女の走りを確認した。
結論から言えば……彼女は、
先程ルドルフは、「領域」とは限界の先の、さらに先だと言った。
キングヘイローはその不屈の心で、どんなレースでだって全力で「限界の先」の走りを見せつけてきた。そういう意味では、誰よりもステータス以上の実力を引き出し続けたウマ娘であると言える。
『……だが逆に言えば、なまじ有り余る根性がある分、彼女は本当の意味で心も身体も精魂尽き果てた事がないのではないかな。
――なるほど、確かにあれは大器だとも。あれだけのレースをこなして怪我の一つも負わない。入着率も高く距離適性に囚われない走りを持つ、国内最高峰のポテンシャルの持ち主の一人と言って良い。
しかし、だからこそ……「限界の先」には到達できても、そこから本当の限界までの持続性が高すぎて「その先」には届かないんだ』
今までG1で走り続けてきたにも関わらずそこに辿り着かないのだから、恐らく国内のレース水準では、どうあっても彼女は「領域」に至ることが出来ない。
……或いは、ガッツはあってもまだ心体共に未熟で脆かった、あのデビュー前の入団テストの時期なら。
『君には分かるかな。それが、何を意味するかを。
本来これはいかなる理由があろうと、絶対に実施してはならない禁則事項であり。
そして……ウマ娘らの幸福を追求するべき、生徒会長の私が言っては、ならない事だ』
――皇帝シンボリルドルフは今、恐らく長いキャリアの中で初めて、明確に禁忌を犯そうとしていた。
その揺れる瞳の中に、キングに対する慈愛と罪悪感をかわるがわる映しながら。
『……キングヘイローに「領域」を見せたいなら、彼女を限界の先の先へ連れて行くしかない。
疲弊させろ。ひたすらに走らせ、その身体を徹底的に壊せ。立つことはおろか、意識すら保てず、その命のひと欠片をも奪い取る程に痛めつけろ。
そんな、虐待にも近い地獄の先にしか――彼女の「領域」は、存在しないだろう』
――稲光が、走った。
※この作品においては、「Pride of KING」は領域ではなく、ド根性による純粋なスパートであるという認識のようです。