「もう、無理デース……」
エルコンドルパサーが崩れ落ちる。
その前では、グラスワンダーが何とか立ち上がろうとターフのラチに手を掛けていた。
「……少々、身体は重いですが……大丈夫、いけますから……っ!」
「グラスちゃん、ダメだよ! 一旦休まないと……!」
……そう、彼女を諭すスペシャルウィークも、既に肩で息をついて座り込んでいる。
ここは人里離れた山奥の療養所。「世間から、そしてトレセン学園からも干渉されない練習場所が欲しい」という俺の要望を、ライアンが実家のメジロ家に掛け合って提供してくれたのだ。
あの雨の日の後、生徒会の都合で遅れて合流するというマルゼンを除いて……スペ達を入れたチームポラリスがここを訪れてから今日でちょうど三週間が経過して、もう十月の末に差し掛かろうとしていた。
「……二人で、エルとグラスを休憩室まで連れて行ってくれるか。後はクリークがケアしてくれるから」
「は……はいっ!」
「分かりました! エルさん、グラスさ〜ん……!」
取り巻きーズが駆け出していき、既に体力が限界を迎えていた二人を支えながらグラウンドの外へと歩み去っていく。
それを見送った後に……スペは振り返って、エルとグラスがいた場所の、その先にいる戦友を呆然と見つめていた。
「……キングちゃん……」
それは最早、疲労困憊というレベルを完全に超えていた。
着ている勝負服はほぼ土色に染まり、その四肢は酷使の余り細かく震えてしまっている。朝には完璧にセットされていた筈の優雅な髪型は最早見る影もなく、右耳のカバーもターフのどこかで剥がれ落ちてしまった様だった。
――当然の結果だ。交代でレース相手として立つスペ達を全て引き受けて、朝からぶっ続けで全力勝負をし続けているのだから。
それを、今日まで三週間もの間、ずっと。
「キングちゃんの『限界の先』が、こんなに……こんなに、長いなんて」
それを目の当たりにしていたスペは、うわごとの様に呟く。
当然、張り合う相手が居なければ意味はないので、スペ達はクリークや取り巻きーズ達に念入りにサポートさせて、万全の状態をキープしてもらっている。
だが、キングには敢えてコンディション調整を行なっていなかった。最低限の身体管理をフィットネスに詳しいライアンにやってもらってはいるが、毎日のあまりの負荷に過労は日を重ねるごとに蓄積している筈であり、今の彼女が体調を崩さないのは彼女自身のウララを凌ぐ頑強さと、俺の半ば賭け同然の切り上げのタイミングが幸い間違えていないことに依るものでしかない。
全てはキングを「限界の先の先」まで追い込む為の、学園内で行えば確実に虐待とされ糾弾されてしまうような……ルドルフよろしく地獄の特訓の一貫だった。
「…………ふ、ふふ……っ」
――しかし。キングの不屈の根性は、俺達全員の想定を遥かに上回っていたのだ。
朝から晩まで、スプリントからマラソンまで距離を問わず、ほぼ休憩なしの全力疾走、それを三週間。勝率自体は相変わらずで十回に一度僅差で三人の誰かに勝つ程度だが……その代わりにキングは一度も、首を下げていない。
既に対戦相手であるスペも、グラスも、エルも、うちのチームメンバーによる手厚いフォローを受けてなお、限界が近いというのに。
「…………さあ、もう一本……ッ!!」
キングヘイローは、まだ大地を踏み締めている。
死屍累々の黄金世代を前に、ただの一度も膝を付かずに更なるレースを求めている。
だが、ここに来てついに……彼女と万全に走ることの出来る相手が、居なくなってしまった。
「なんてことっ……こうなったらわたくしが、ぶち上げてまいりますわっ!!」
「やめろカワカミ、君にはそれより大事な役目があるだろ!」
――万が一キングが耐えきれずに斃れた時、その自慢のパワーで誰より速く彼女を救助するっていう、極めて大事な役割が。
横を見ればライアンが、飛び跳ねて身体を動かし始めている。確かに現時点で一番適任なのは彼女だ、スペ達が復帰するまで何とか持ち堪えてくれると良いが……果たして。
「……いいよ、キング。わたしが走る」
全く予想だにしない方角から、その声は聞こえてきて。
そして……それを聞いたキングの目が、大きく見開かれた。
「スカイ、さん」
――座り込むスペを背に、乱れたキングを前にターフに立ったのは……同期の中で唯一キングと今まで走っていなかった、セイウンスカイだった。
「……待てスカイ、君の脚はまだ」
「へーきへーき、大丈夫ですよ。長距離は無理でも、短めの中距離くらいなら何とかなります」
……バカな。
君らしくないぞ、スカイ。屈腱症はそんなに軽い病気じゃない事は、君が一番知っている筈だろ。ようやく持ち直してきたとは言っても、これまでもずっとリハビリに苦しんできたじゃないか。
「駄目だ、そんなの許すわけにはいかない。いいから一旦コースの外に……」
「――わたしに、走らせろ!!」
聞いたこともないスカイの怒号が、辺り一帯に木霊する。
「一度でいいんだ、一度でいいから――キング」
――キングは、眉を寄せて彼女を見つめていた。まるでその真意を、下手に言葉にせずに探しているかのようで。
「いいわ。受けて立とうじゃない」
その返答を境に、二人は合図もなく並び、構える。
その時。今まで背中側にいて伺えなかったスカイの表情が、スタンディングスタートの姿勢を取る横顔として覗いて。
「スカイ、君は――――」
その感情の色を、俺は一度だけ見たことがある。
忘れもしない、あの因縁の日。キングの絶望が極まって、彼女が壊れる寸前までいった、あの日のことを。
……あの、「菊花賞」の日のことを。
※※※
――あの伝説のウマ娘の、ご令嬢。
それまでのキングの行動原理はまさに、これを覆して世間にただの「キングヘイロー」として認めさせる事にあった。
その為に彼女はジュニア級からおおよそ並みのウマ娘がこなせない様なメニューをこなして、かの「三強」を除けば比類のない絶対的な力を手に入れるに至っていたのだ。
『今はトレーニングは後回し! まずはキングの存在をアピールするのよ!
ここには観光客がいっぱいだもの。少しでも多くの方に名前を覚えていただくわ!』
だから、これもきっといつもの彼女の、かねてよりの願いによるものだろうと、初めはそう思っていた。
だが、しかし。その後、彼女を「金持ちはやりたい放題」だとか、「親の七光り」だとか評する観光客を見て……キングはぼそりと零したのだ。
『……いいのよ、今はこれで。
だって、私はまだ――――』
――この時点で、つまりクラシック級、大敗したダービーの後の夏合宿の辺りから……やはりキングヘイローは穏やかに壊れ始めていたのだと、俺は思ってやまない。
だってそうだろ。自分を認めさせる為なら独断で学園の中に記者を呼び込んでトレーニングを見せようとするほどに、彼女は「キングヘイロー」である事に拘っていた。その為にならどんな鍛錬も厭わず、その代わりに自分が名前で呼ばれないことがどうあっても我慢ならないという凄まじい執着と覚悟を持っていた筈なのだ。
「はあ……はあっ……トレーナー、どうだった? 今日の走りは……!」
……それがあれから、角が取れ始めた。
人々の評価を甘んじて受けた上で、柔軟にひっくり返そうとシフトし始めていた。それは側からみれば一皮剥けた良い兆しだと見て取るだろうけど。
――とんでもない。この時点で、彼女はもう自分の本筋を見失っていたのだ。結果が振るわないという現実が何を意味するかをよく理解していた彼女は、「あの伝説のウマ娘のご令嬢」と呼ばれても良いから、それでも自分を覚えていて欲しいと……人々に忘れ去られてしまう可能性を考えて、怖くなってしまった。
自分が「キングヘイロー」でいる事を、無自覚のうちに諦めてしまっていたのだ。
「あのさ、キング」
だけど、それは今だからこそ、冷静に分析できる事で。
表面上はいつもの様子を変えず、トレーニングをする時はやはり誰よりもひたむきだった彼女の、そのほんの僅かな変化にやっと気が付いた時には……既に「菊花賞」本番の十日ほど前になってしまっていたのである。
「……本当に『菊花賞』で良いのか?」
尻尾に感情を出さなかった辺り、流石だった。
しかしその反動で身体はがくりと硬直して、直前まで浮かべていた笑みの表情は、走り慣れた練習用のターフを舞う風に吹かれて飛んで行ってしまったかの様に蒼白になっていた。
「……どういう、意味かしら」
「すこし、様子がおかしくないか。今の状態でレースに出て……」
――そこまで言っておいて、言葉を失ってしまった。
初めてだったのだ。キングの瞳に、明確に怯えが現れたのが。
「……いいのよ。だって三冠路線こそ王道なんだから」
言っている事とその素振りが示す反応が、真逆だ。王道を堂々と突き詰めようとする姿勢と、そこでスペ達と戦う事に対する、躊躇いがかち合っている。
「私には、クラシックで活躍できる才能があって、当然なの。
中距離でも、長距離でも何でも走れる……三冠路線で最も輝けるウマ娘でなきゃ、ダメなの!」
自分を認めさせるには、菊花賞に出て一着を勝ち取らないといけない。
だけど、そこでもし負けてしまい、クラシック三冠を一度も勝てずに終わったら……その時こそいよいよ、自分は見込みのないウマ娘だと切り捨てられてしまうかもしれない。
怖いけど、そう言ってはいられない。だけど、怖い。そんな負のスパイラルが着実に、キングの心を蝕んでいたのだ。
「……もしかしてさ、キング」
俺の反応一つ一つに、キングの耳がびくついている。
いつの間に、俺達はこんな関係になっちまったんだ。二人で一流を目指そうって決めたあの頃は、たかが俺なんかの言葉に君はびびる事すらなかったじゃないか。
「君の脚は……スプリント向きの、脚なんじゃないか?」
今の今まで、気が付かなかった訳じゃない。
彼女の一番の武器は爆発させることの出来る末脚だ。持続性や安定性はスペに劣るが、瞬間的な速度はキングの方に分がある。
だけどそれは、単純に短距離やマイルの方が本領を発揮できるという意味でしかなく、皐月賞の時の様に中距離でも十分に先頭争いに加われるだけの実力は持っていると、俺はそう考えていた。
だけど、もしかすると……その事をキングは自分でとっくに気が付いていて、俺とは違う考えを持っていたのか?
「君はもしかして、自分の脚に限界を感じてて、だけどそれを言い出せなくて……ずっと隠していたんじゃないか?」
――大きく目を瞬かせた彼女を見て、俺は確信してしまった。
いつからだ? 合宿前か? ダービーで大負けしたからか? だけどあれはレース以前の問題で負けたのであって。
「――や、違うの、そんな、隠してたわけじゃ」
……もしかして、ダービーの時点で既に抱え込んでいたのか。
「まさか……ダービーは、それで」
「……っ」
なんて、ことだ。
まるで何にも気付いていなかったのだ。俺は彼女のトレーナーとしてできるだけのサポートと、揺るがない彼女への信頼を捧げてきたつもりだった。
……それは一方的な押し付けだったのだ。お転婆のように見えて実は他人の感情の変化に敏感なキングにとって、
「ごめん、キング……そんな、つもりじゃ」
何て言えばいいのか、分からなかった。何を言ったとしても、それが彼女の負担になってしまいそうだった。
「俺は君の味方でいたい。母親を見返したいっていう、君の気持ちを応援してあげたい。
だけど……今の君の事、見てらんなくてさ」
……とことん地雷を踏みぬきまくっていることに、のちの俺は気付いて鬱々としたものだ。
なんで見てられないか、そんなの決まってる。今のキングの姿が、親父を超えることを諦めてしまった時の俺自身と重なってしまうからだ。
キングなら、その壁を越えられるかもしれない。そんな夢を彼女に見て……この期に及んで俺は、彼女に重荷を投げつけていた。本当の意味で同じ道を歩もうとしていなかったのは、俺の方だったのだ。
――俺は、キングのトレーナーになり切れていなかった。彼女の事を誰よりも知る、一人目のファンにしかなれていなかったのだ。
「……最低だ、俺……くそっ……」
優しすぎる。優しいから、そんな俺の内心を受け容れて、プレッシャーと共に俺の夢をずっと背負ってしまった。だからこそ、キングが最後に頼るべきだった俺の言葉でさえも、今は世間の心ない声と同化してしまっている。
だけど一つだけ、不幸中の幸いがあったとしたら……それは、レース本番の前にそのことに気が付けたということだ。既に遅すぎるけらいがあるのは事実だが、それでも最悪の事態は避けられるかもしれない。
――即ち、ダービーの様な暴走、そしてそれによって起こり得る、致命的な事故の回避を。
「……キング。一旦、休まないか。
一度も君を、勝てる見込みのないレースに出した事はなかった。いつだって君に勝ち筋があると思ってたから、自信を持って送り出してきた。
でも……それが、俺が駄目なせいで君がたった一人で踏ん張ってた結果に過ぎないんだったら、それは十分な見込みとは言えない。
今の君がスぺやスカイに勝てるって……もう、断言できないんだ」
――トレーナーとして、担当ウマ娘の出走と勝利を願う事も出来ない。かと言って、何かあった時にお前は何の責任も負わない。被害が及ぶことがあっても、矢面に立つのはいつでも彼女達の方だ。
親父の言葉が、呪詛のように頭に鳴り響く。その言葉一つ一つが、俺が招く失敗を的確に貫いている。
だとしても。だとしても……今俺がやるべきことは、キングの幸せを考える事。それこそキングがこれ以上沈んでしまわないように、俺が守ってやること。
「だから、さ。
もう一回、ちゃんと考えてみないか。『菊花賞』に出るかどうか――――」
風が、止まった。
いや、そう感じただけだ。
なぜなら、俺がそれを言い終わる前に……キングは、俺の上着の胸の辺りをひしと掴んでいたから。
「……お願いよ、トレーナー」
……そんな声を、俺は聞いたことがなかった。
哀願だった。あのキングが、プライドも体裁も投げ捨てて、今までトレーナーでいる権利をあげていた筈の俺に……乞い願っていた。
「キング」
「お願い、どうか、どうか私を『菊花賞』で走らせて」
間近で見下ろしたキングの瞳は、涙を一杯に溜めて震えていた。
――それはもう……一流ウマ娘の顔では、なくなっていた。今のキングはただの、凍える少女だった。
「お願い……私を……見捨てないで……っ」
――最低なのは私のほうよ、トレーナー。皐月賞で負けて、ダービーでは作戦を無視して、信頼を失って当然のことをしたのに……また私は、あなたの温情に付け入ったんだから。
『さあ、レースはやや縦長の展開となっております!
セイウンスカイ、リードを広げる! キングヘイローが五番手で先行しております、スペシャルウィークは後方で控えている!』
とうとう、出走してしまった。
レース場について、控室からゲートまで……自分がどうしていたのか、殆ど記憶がなかった。きっとトレーナーはあれで暖かい人だから、ずっと私の事を心配してくれていたのだろうけど……それももう、一言も覚えていない。
だって、これは完全に私のわがままだから。3000mの長距離走、今まで以上に厳しいレースになることは目に見えていた。トレーナーもそれに気が付いて、一緒にどうすべきかを考えようと言ってくれたのに……私はそれを拒んで、訳も分からないままに走り込んで今日を迎えてしまった。
――もう、負けられない。誰も頼れない、少しの気の緩みも許されない。最初から最後まで、完璧な走りを見せつけないといけない。
(ラスト一冠。何が何でも、取らなくちゃいけないんだから……っ!)
……もう、お母様なんて、とても届かない。
レースを見に来た観客にすら実力を認めさせられないような敗北者が、世界で戦ったお母様を見返す事なんて、とても出来るわけがない。既にこれまで負けすぎていて、この菊の冠を取ったところで……きっとあの人は、納得しない。
これを取らないと、私は土俵にも立てない。ここで結果を出さないと……きっともう、私はまともに走ることも出来なくなる。
『絶対スペシャルウィークだって! あの子が勝つに決まってる!』
『え~? そうかな~? あたしはセイウンスカイにこそ期待だな~』
『あ~……でもどっちが勝つんだろ! うぅ~ん、距離的には……』
スカイさんは皐月賞。スペシャルウィークさんは日本ダービー。
負けるとは、こういうこと。レースに勝てるからこそ次が期待されるのであって……一度も勝てていない私に、夢を乗せる人はいない。
――トレーナーだけが、無条件に私に夢を抱いてくれた。実はあのクリーク先輩やマルゼンスキーさんを輩出した天才の息子だったトレーナーだけが、偉大な親を超えようとする私の背中をいつでも押してくれた。
だから、私は勝ちたかった。お母様を納得させて、人々を納得させて、そうしていつか、私を支え続けてくれたトレーナーに、胸を張って言いたかった……あなたのおかげだって。
『はぁ~あ。モブAには過ぎた舞台なのかもしれません。くすん』
……なのに。
『私、このレース絶対に負けません! みんなの応援を力にして走ります!
このダービーに勝って、私は……日本一のウマ娘になりたいですっ!』
……なのに。
どうして、邪魔をするの。
『一番人気スペシャルウィーク、ダービーは二着から五バ身差での快勝でした! その自慢の末脚で二つ目の冠を手にすることが出来るか!?』
――スペシャルウィークさん。
どうして、そんなに楽しそうに走るの。これだけの観客の前で、あれだけの重圧を背負って……どうして、そんなに自然と輝いていられるの。
『しかし二番人気セイウンスカイ、早くも現在八バ身差のリードです!! 菊花賞での逃げ切り勝ちは実に三十九年前にまで遡ります!! もし一着ならこれは大変な記録を残しますよ!!』
――スカイさん。
なんで、あなたはそんなに、上手く走れるの。自分で才能も血統もないって言いながら、どうしてそれだけ強く、堂々と走れるの。
『……そして一バ身差でキングヘイロー、その内からは……』
……どうして。
どうして私だけ、あなた達に勝てないの……?
『第四コーナーカーブ、スペシャルウィークが詰めてきました……!』
――レースはもう、最終局面。
目の前を他の選手達に覆われて、先頭がどうなっているのかが分からない。こうなったら最後のスパートに入る前に、なんとか強引にでも内から抜け出すしかない。
「――ぜえっ……はあ……ひゅっ……!!」
脚が、殆ど残っていない。
それでも、やるしかない。バ群もインコースも得意じゃないけれど、今は、今だけは、何とか乗り越えないといけない。
コースの端が一気に開ける。京都レース場は最終コーナーから最終直線にかけてラチがない……ここにしか、もう勝機はない。
(ダメ……ここで脚を止めては、ダメ……ッ!!)
一度も勝てなかった。
お母様に張り合うだけの人気を、失ってしまった。
トレーナーの信頼を、裏切ってしまった。
それでも。いつか、遠い未来に、「一流」に手が届くことを信じて。
……奇跡的に、息も絶え絶えにバ群を内から抜き去って、そこで私が見た光景は。
「だって私は……一流の――――!!」
まっさおなおそらが、まっくらになって。
ずっとはしってて、つかれたから、ひとりでおふろをわかして、はいって。
れいぞうこの、つくりおきのごはんを、ひとりでたべて。
かいがいにいるおかあさまのれーすを、てれびでおうえんして。
……あかりをけして、まっくろなおへやのなかで。
ベッドのおふとんのなかで、めをぎゅってとじて。
「……やだよぉ……」
――ひとりでずっと、ないていた。
「……ひとりぼっちは、やだよぉ……!」
『セイウンスカイ独走だ!! なんとあれだけの大逃げの中で、まだ脚を残していた!!
まだリードが四バ身から五バ身ある、スペシャルウィークも突っ込んでくるが、これは間に合わないか――!!』
「……いや」
もう、いやなのに。
誰もいない、ひとりぼっちは、もう。
「……いやよ」
もう、ダメなのに。
ここで負けたら、私は、もう。
「……取っちゃ、いやよ」
もう、これ以上、私から。
(私から
『セイウンスカイが逃げ切った! まさに今日の京都レース場の上空とおんなじ! 京都レース場の今日は青空だ……っ!!』
「ああ……ダメでした……」
隣のクリークが、悲しそうに呟き、それに他のみんなも残念そうに反応する。
圧倒的だった、もはや事故だったと言っても良い。それほどに今回のセイウンスカイは期待以上の、策と実力を合わせた芸術的な逃亡劇を見せていた。
……もはやキングの距離適性が、問題でないのではと思ってしまうほどに。
「キングちゃん、すごく辛そうでした……。帰ったらいーっぱい、ご飯を食べさせてあげましょうね……?」
辛そうであり、しかし皮肉なことに……今日のキングは、今までのレースで一番安定していたのだ。
――決して良い意味ではない。普段の彼女の、冴えたコース選びと怒涛の末脚が炸裂しない、まさにがんじがらめで武器を失った……そんな走りだった。
「ああ……もちろん。今日は体重制限も関係なし、たらふく食べようか。キングもそれで少しは……」
その時。
俺は、その声を聞いたのだ。
「ぅ……うふひひ、ひぁっ、は」
――無意識に持ち上げたのだろう左手は、顔まで届いておらず首の辺りで萎えてしまっている。
「は、はへっ、へほ……ほふ、あはっ」
――引き攣った唇の端が、歯で噛みちぎられて血を流している。
それが顎から首にかけての泥と混じり合って、ターフにぼとぼとと垂れている。
「お、ほぁ、あは……はっ、ふ」
――そして。
瞳孔も、目尻も裂けるほどに見開かれた瞳からは、もはや涙すら枯れ果てていて。
明らかに、普通ではなかった。いつも通りの高笑いをしようとして、それも出来ないほどに異常を来しているキングを……
「……なんでだ」
思わず、俺は口走っていた。
慌てて止めようとするクリークやライアン達を振り切って、俺は目の前の二人の観客の肩を掴み寄せていた。
「なんで、キングを見てくれないんだ……あんなに、あんなになるまで、頑張ってるのに」
「はぁ? キング……って、何のこと?」
「ああ、あのお嬢様だろ? キングって……変な呼び方すんなよ、分かりにくいだろ」
――気が付くと俺は後ろに引き寄せられて、ものすごい勢いで席に叩きつけられていた。
我に帰って見上げると、そこにはクリークがいた。彼女が俺の服の袖を持って、初めて見る様な険しい目つきでこちらを覗いていた。
そして、前を見ると……そこにいた多くの人々が、面食らった様にこちらを見つめていた。
「クリーク、俺……今、何を」
「行きましょう。ここにいちゃ、ダメです」
そのまま、彼女に腕を引かれて、俺はその場を後にする。チームメンバーも戸惑いながら後に着いてきてくれた。だけど俺達を見る人達の中に、フラッシュを焚く連中がいるのが、見えて。
「今はキングちゃんのことが最優先です。ですよね、トレーナーさん?」
……振り返るもキングは、もうその場を去ってしまっていた。
地下バ道に出た辺りで、俺は取り憑かれたかの様に全力で駆け出していた。
後ろからライアンやウララの呼ぶ声がしても、今は一切気にならない。
(キング……今、いくから)
今までの彼女が、フラッシュバックする。
自信満々に自己紹介をするキング。取り巻きーズを従えて、「メディア用あいさつ」を何度も練習するキング。いつも気高く高飛車のようで、ウララやカワカミに対しては母親のように粘り強くものを教えようと唸るキング。
そして……スペやスカイの背中を追いかけながら、厳しくも凛々しい表情で最後まで駆け抜ける、一流のウマ娘。
(君をここで終わらせたくない、君は、俺にとって、たった一人の……!)
――やがて見えてきたシルエットに鼓動が早くなるのを感じたけれど……近づくにつれて、それが彼女の焦げ茶色の髪の毛ではなく、空色の芦毛であるのが見てとれて。
「……ああ、トレーナーさん」
「スカイ、か」
にへら、と笑ったスカイの目は、しかし笑っていなかった。
「……参ったよ。大した大逃げだった。コースレコードまで出して」
「いえいえ〜。ちょっと調子が良かった、それだけですよ」
……声音も、抑揚がなかった。
「……スカイ?」
トコトコと歩く彼女の横顔は、何か言い知れない感情を灯していた。
そして、俺の横を通り過ぎて、少ししたところで……立ち止まって。
「……キングも喜んでくれたよ。
おめでとう、完全に私の負けだわ、すごいのねって」
――息が、詰まった。
そんなことを、普段のキングなら絶対に言わない。……いや、彼女は結果に対しては真摯だから言うかもしれないけど、それでも最後は必ず「次は必ずこのキングが」と続くはずなのだ。
「……キングを戻してよ、トレーナーさん。
わたしは、キングをあんな風にするために走って、勝ったんじゃない……!」
スカイは、そのまま去っていってしまう。彼女なりに冷静に話していたのが伝わるけど……それでも、その語尾は震えてしまっていた。
ずきりと心が痛む。彼女にとっては、今日は一着を掴み取った栄光の日でなければならないのに。
「ごめん……スカイ」
だが、今はやるべき事がある。俺はスカイに構わずに、そのまま駆けて、曲がり角から奥を覗いた。
「……キング……」
――出口からの光を浴びたまま、立ち尽くす後ろ姿があった。
その勝負服には不得手なバ群での悪戦苦闘によってついた泥があちこちにこびり付いていて、それが服を伝って両手と脚に垂れ下がっている。だけどそれにまるで意も介せずに、微動だにせずただターフを見つめる彼女のその有様は、さながら中身の失われた抜け殻のようで。
「走ることが、好きだったの」
掠れた声で、キングは零す。
「子どもの頃、お母様のレースを応援するのが、すごく楽しかった……いつも家には誰もいなかったけど、その時だけは私も一緒になって、走っているみたいだった」
初めて聞いた話だった。
それは恐らく、キングの走りの原点。
「だから、覚悟を決めて、来たの。
私は、一流のウマ娘になるって。私も……お母様のような、みんなを惹きつけるウマ娘になるって」
そこにあったのは、母親への確執ではない。
憧れ、そして尊敬。どんなに寂しくても無条件に親を求めてしまう、幼い子供の無垢な想い。
「――全部、無駄だったのね」
……それは今、全てどす黒く塗り潰されていた。
「挑戦なんて――しなければ良かった」
彼女のクラシック級は、無冠に終わった。
「レースになんて、出なければよかった」
デビュー時にそれなりに集めた筈の注目は、今や見る影もない。
「……お母様の娘になんて、生まれなければ良かった」
母親の背はもう、見えない程に遠い。
結果とは、そういうものだ。度重なる挫折の履歴は、最終的には自分の存在価値をも薄めてしまう。
……でも、本当はそんな、大袈裟な話じゃない。
「頑張ったんだな、キング……」
――ただ、愛して欲しかっただけだ。
自分が愛する人に、自分のことを愛してると、ただ一言言って欲しかっただけなんだ。
それは母親であり、同期であり、チームメイトであり、観客であり……そして、俺のことだ。
その全てから、キングは見捨てられてしまった。少なくとも彼女自身はそう思っている。
「……ふ、ふふふふ、無様ね。
もう、誰も……見てないじゃない……」
その肩を抱き締めてあげたり、彼女の為に泣いてやったりするのは容易い事だ。
だけど、それでは彼女はもう二度と立ち上がれない。一度敗北の味を受け入れてしまえば、項垂れかけている首は二度と上がることはないだろう。
俺が、俺だからこそ、言えることがある。これまでの、ただ彼女を応援するファンでしかなかったバカ野郎としてではなく。
……それを超えた、彼女の本当のトレーナーとして。そして彼女と同じように希望を諦めかけてしまった人間として、言えることがあるとしたら、それはきっと。
――俺は意を決して、大きく息を吸うと。
「――君の名前は!」
ぴくりと、尻尾が動く。
「……知らないとは言わせない。君が、君自身が何よりも他人に言わせたかった名前じゃないか」
彼女は、無言のままだ。
いいさ、そっちがだんまりなら、俺はとことん付き合ってやる。
「何度でも聞くぞ……君の、名前は!!」
「……もう、いいわよ、そんなの……」
「やめない! 君が言うまでは、絶対にやめてやるか!!」
「やめてよッ!! 言うだけ……惨めじゃない……!!」
「惨めなんかじゃ……断じてない!!」
お互いの怒号が、ぐわんぐわんと地下バ道に木霊する。
「君が、君の名前を呼ばなくてどうするんだよ!!
いいか、確かに今の君はどん底だ。俺は君のことを分かってやれてなくて、君は結果的にレースを勝ちきれなくて! それで、今俺達は二人してここにいる!!
……でもな、キング!!
どんな人にだって、君が誰かにあげなくたって、自分のことを自分で認めて、肯定する権利があるんだ!! どんなに周りからバカにされて、上から認められなくたって、だからって、俺達は俺たち自身のことを嫌いにならなくて良いんだよ!!
その権利は……君自身にだってあるんだぞ!!」
俺は今、チームポラリスのトレーナーだ。
元々このチームは親父から受け継いだものだ。そして世間で俺は、父親ほどの才能はない、期待外れのトレーナーとしてしか認識されていない筈だ。
――そんな俺のことを、君は一流のトレーナーだって、無条件に認めてくれたじゃないか。そうして全幅の信頼を寄せてくれるから、俺はそれに応えたくて……これでも本気で「一流」を目指そうと思ってたんだ。結果は情けないくらいに散々だったけどさ。
「……だから俺は自分がどんなにどうしようもなくたって、そんな俺自身を否定しない!! その権利を君がくれたんじゃないか、君が信じてくれた俺のことを、絶対に捨ててなんてやるもんか!!
――君はそうじゃないのか!? 俺が『一流』だって信じてた君の名前を……君はもう忘れちまったのかよ!!」
「わ……忘れてなんて」
……声が、震えている。
よし、良い傾向だ。感情が心に戻りつつある。
「だったら、言ってみろよ!!
ずっと呼ばれたかったんだろ!! 観客にも、君のお母さんにも、その名を呼んで、応援して欲しかったんだろ!!
君が!! 君自身を忘れてないなら!! 絶対に忘れない筈だ!!」
……鼻を啜る音が聞こえる。
そうだ、戻ってこい。手遅れになる前に、もう一度やり直すんだ。
「君だけの
――君の名前は、なんだ!!」
「キングヘイロー……っ!!」
……やっと、振り向いてくれた。
途端に込み上げてくる感情を飲み込んで、さらにまくし立てる。
「――誰よりも強い!?」
「勝者だよ〜っ!!」
横から、声がした。
思わず見てみれば、そこにいたのは……ようやく俺に追いついてきた、ウララだった。
「その、未来は!?」
合わせて、反対側でライアンが合いの手を入れてくれて。
「輝かしく、誰もが憧れる、ウマ娘〜……ですよね?」
そして最後に、クリークが微笑みながら答えてくれる。
取り巻きーズとカワカミも、その後ろまでついて来てくれていた。
「……あ」
「一緒にやり直そうよ、キング。俺も一から、始めてみるから。
君が好きな君の、君だけの道を行くんだ。そうすればきっと……君を認めない人ばかりじゃない」
これは、決して絶望の物語なんかでなければ、逆襲の物語でもない。
ここから、始まるんだ。偉大な母親もこれまでの挫折も全て越えた先の、君だけの物語が。
「だって、一流のウマ娘といえば――君しかいない!」
……これは、その
その結び文句を、クリーク達と合わせて……俺は彼女に贈ったのだった。
「「「「そのウマ娘の名は……キングヘイロー!!」」」」
――おばか。
――本当にあなたってへっぽこだわ。
こんな時になって、いきなりらしくないこと言って。
――そのくせに頑固でしつこくて、融通も利かないで、不器用で……。
諦めが悪すぎる、私のトレーナーだわ……っ。
「本当に……全然……。かっこつかないんだから……っ。
……なんで、こんなにへっぽこなのかしら……っ! 私たちはぁ……っ!」
※※※
「……つまんない、なぁ」
スカイが、キングの腕の中でぼそりと呟いた。
決着は、ほんの一瞬だった。二人がスタートして十秒も経たないうちに、スカイはもう体勢を崩してしまい……それを見越していたキングが抱き止めたのだった。
「……どういうこと?」
「だって……キングがそんなになってるのに。
――わたしが」
スカイは、キングの胸に顔を埋めていた。
……声がうわずっていて、何で顔を上げないかは明白だった。
「わたしが、勝っちゃったから……わたしが、キングの夢を奪ったんだ」
――やっぱり、そういうことだったか。
それはほんの少しだけの心の棘だったのだろう。勝負の世界においては避けて通れないものごとで、グラスに匹敵する勝負師であるスカイ自身もそのことは理解していた筈だ。
……でもきっと、あの菊花賞でのキングを見てしまったせいで……あれから四年経ってもその傷跡が消えなかったのか。
「ずっと……ずっと、何かを返したかったのに、わたしは、怪我しちゃって、まともに走れなくなって」
「……スカイさん」
「高松宮記念で応援して一つ、二度目のダービーで二つ。
……最後に一つ、返したかったんだ。『菊花賞』の分」
――キングのデビュー前から知り合って、それ以降も頻繁にチーム部屋に遊びにきては、キングの様子を探っていたスカイ。
クラシック三冠が終わってからの彼女は、まさに……キングを救う為に、うちに顔を出していたのだろうか。今回も初めから、怪我をも構わずに走ってキングの助けになる為に。
「スペちゃんも、エルもグラスちゃんも、みんなギリギリまで頑張ってる。
……わたしだけ、キングから一番奪ったわたしだけが、何も出来ていないなんて、そんなの、虫が良すぎるじゃん」
そう、この娘たちは、勝負者である以前に、年頃の少女なのだ。
普通なら怖気付いて、逃げ出して、頭を抱え込んでしまうような、そんな恐怖や苦難を必死に押し殺して、歴代のウマ娘達はレース場でその脚を使って物語を紡いできた。
だけど、その中身が傷つき、傷つけたことに敏感で、それを引き摺り続けるような脆さを持ったものだとしても……誰が彼女達を責めることが出来るだろう。
「ふーん……。
スカイさんって、思った以上におばかだったのね」
それでも責めることができるとしたら、それは当人の間でだけ。
キングはそう言いながらも、自分の元に倒れ込むスカイの頭にそっと、手を当てて撫でさすっていた。
「なら、スカイさん。私から、あなたに欲しいものをあらかじめ言っておくわ。
――ちゃんと怪我を治して、また私と一緒にターフに立って。それでちゃんと私ともう一度、勝負してちょうだい。それでまた私が負けたら、もう一回。さらに負けたら、さらにもう一度……何度だって、このキングと勝負しなさい。
だって……あなたは、言ってくれたじゃない」
――わたしたちはさ、同期なんだよ?
これで終わるわけないじゃん。次も勝負しようよ。
「一緒にやり直しましょう、スカイさん。
私の大好きなあなたの、あなただけの道を行けばいいの。それが、きっと……私たちの夢に、繋がっている筈なんだから」
見上げれば、澱んだ曇空。見下ろせば、ぬかるんだ泥。
だけど、キングは信じている。いつかその悪天候が終わって……またあの京都レース場で見たような、青空が覗くことを。
「菊花賞、一着おめでとう、スカイさん。
――でも次こそは、トップを譲らないんだから」
それを、今度こそ……心から祝福できることを。