そのウマ娘の名は   作:ニモ船長

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栄光に別れを告げる者

 

 

 十一月末、東京レース場。

 彼女にとっては正しく運命の分かれ道となる一世一代の大舞台が、この日開かれようとしていた。

 

 

 

 「ねぇ、トレーナー」

 

 

 

 控室にいるのは、キングとトレーナーの俺だけ。

 ここから一歩踏み出れば、そこからはもう最終決戦の舞台へと続く地下バ道しかない。そんな、嵐の前の最後のひとときだった。

 

 

 

 「正直に答えてちょうだい。……今の私が、『踊る勇者』に勝つ確率は、どれくらいあると思う?」

 

 

 

 ……それを答えてしまっていいのか、俺は少しだけ迷う。

 だけどまあ、前も言ったけど今更オブラートに包み隠すような仲じゃあない。そもそも俺がキングを前にして隠し事を抱えていられたことなんて、ただの一度もなかったんだから、しょうがないよな。

 

 

 

 

 「――――ゼロだ」

 

 

 

 

 ――キングヘイローは遂に、「領域」へと覚醒するには至らなかった。

 あの後にオペラオーやオグリ、そしてマルゼンまで参戦して行われた熾烈なトレーニングを経ても、とうとうその知られざる力を手に入れることはなかったのだ。

 ……あの場にいる全てのウマ娘が力尽きるまで走り続け、その全てに喰らいついたというのに、である。

 

 

 

 「君の能力は、データ的にはあのスプリンターズステークスの頃からほとんど変わっていない。

 そして、仮に君が全盛期の頃……あのシニア級を四勝した頃のコンディションまで持って行けたとしても、多分勝ち目はなかった」

 

 

 

 だというのに、今のキングの状態は……先日の永遠にも思われた地獄の特訓のせいで、最悪と言っていいレベルに落ち込んでいるのだ。それであの、伝説の一流ウマ娘がサポートする世界最強のウマ娘を相手にまともに戦えると考える方がおかしいのである。

 ――普通に、考えればの話。

 

 

 

 「いいか、残された勝ち筋はひとつだ。

 ――このレースの中で、限界の先の先に到達する事。ぶっつけ本番でその走りを、別次元に引き上げること……それしかない」

 

 

 

 ……我ながらあり得ない位にふわふわとした指示で、情けなくなる。

 だけどこうとしか言いようがない。その「領域」に至ったキングがどんな走りを見せるのかも、どれ程の変化を引き起こすのかも見当もつかないのだ。他のウマ娘の映像を研究するところでは、飛躍的な豪脚が発揮されることに間違いはないと思うのだけど。

 

 

 

 「……ええ。そのつもりよ、トレーナー。

 私はこのレースで必ず殻を破って、勝利を勝ち取るの。あれだけ走ってきたんだもの、絶対に……ものにしてみせるわ」

 

 

 

 悪魔の宣告を受けたというのに、キングはしたたかだ。

 まったく意に介さないように力強く頷き、すっくと座っていた椅子から立ち上がった。

 

 

 

 「……待ってくれ、キング!」

 

 

 

 ――しかし。

 そうして、言葉はいらないとばかりにドアの元へ歩いて行こうとするキングを、俺は思わずその左腕を取って引き留めずにはいられなかったのだ。

 

 

 

 「な、なによいきなり。

 心配しなくても大丈夫よ、私の心は……もう決まってるんだから」

 

 「そうじゃない、そうじゃないんだ」

 

 

 

 あの夜に心を通わせてから、俺達は二度と立ち止まらないという覚悟で頑張ってきた。その間ずっと、キングが抱いた苦しみも、それを耐え抜く決意も俺の心には伝わってきていた。

 だから、それを今さら言うこともない。こういう時に何か上手いこと言うのは定番だが、私達にはそんなものすら要らないでしょう……と、そう思うのはもっともだった。

 それはそれとして。それを以てしてでも、俺には絶対に言わなきゃいけない事があるとしか思えなかったのだ。

 ――それは同時に、もしかすると絶対に言ってはならないことでもあったのだけど……それでも、俺はキングを真っ直ぐに見据えて。

 

 

 

 

 「――絶対に、無事に帰ってこい。もし、万が一、君が限界の先を超えられなかったとして……その時は絶対に無理をせずに、勝負を()()()()()

 俺は……君を、失いたくないんだ」

 

 

 

 

 「……へっぽこね」

 

 

 

 ――おもむろに、キングは俺の左頬を右手で包んでいた。

 

 

 「感情を抑えてでも、ウマ娘の勝利のために徹する……そんなお父様の教えを、あなたは今日までずっと守り続けてきたのに。

 最後の最後になって、耐えられないなんて」

 

 「茶化すなよ。親父のことなんて知ったことか。

 俺は今、トレーナーとしてじゃなくて……君の、ひとりの親友として話をしてるんだ」

 

 

 今までのキングは、俺や多くのウマ娘達が見ている中で「領域」に挑戦していた。

 だけど今日のキングは違う。誰も助けてくれない状況の中で、大勢の観客の感情をモロに受けながらその高すぎる壁に挑まなければならないのだ。

 それは成功する確率が低ければ、リスクもかなり大きい。常に全力以上を求められるレースではわずかな確率での成功か、殆どのケースで大失敗するかのどちらかしかあり得ないのだから。

 自然でない、意図的な「領域」へのアプローチの先には破滅しかない……それを象徴してしまったあの時のウララのようには、何があってもさせる訳にはいかないんだ。

 

 

 「分かってるよな。

 君は、君が名乗って、そうあろうとしているうちはいつだって『一流』なんだ。それは今日のレースの勝敗とか、その程度でブレるものじゃない」

 

 

 その上で俺達は、あの母親が率いる『踊る勇者』に勝つことでそれを証明したいと思ったからこそ……今日まで頑張ってきた。

 でもだからと言って、これで終わりじゃないんだ。今日が終わればまた次のレースに向けたトレーニングが始まって、そうやって君はこの先何十年とターフを踏む事になる。

 

 

 

 「君はもう、決してひとりぼっちなんかじゃない。だから目先の名誉よりも、自分の将来のことを一番大事にしてくれ」

 

 

 

 大きく目を開くキングのもう片方の腕を、遠慮がちに取ってみる。

 せめて、俺の言うことを少しでも、具体的に思ってくれるように。少しでも俺の持つ温度を、彼女に分け与えられるように。

 

 

 

 

 「――例え君がまたどん底に落ちて、さらにその奥にまで沈み込んだとしても。

 誰もが君を見放したとしても……俺はいつまでも、君のトレーナーで居続けるからさ」

 

 

 

 

 

 

 「……言ったわね」

 

 

 

 

 

 くしゃりと歪めた顔を隠すように、キングは俺の胸に額と耳を当てて。

 そして両腕を俺の腰に回して、ひしと抱き締めた。

 

 

 

 「それが何を背負うことになるか、分かってるわよね? 今まで私と一緒に、大口を叩いたおばかだって、後ろ指さされて、笑われて」

 

 

 

 ――キングの、生涯のトレーナーになる。

 今まで何度もそう見据えて、その度に思いを新たにして来てはいたが……実は彼女の前で面と向かって口に出したのは、これが初めてだった。

 

 

 

 「……でも、一度口にしたことは、もう取り消せないんだから」

 

 「……ん」

 

 「言ったんだから……取り消す権利はもう、あげられないんだから」

 

 「分かってる。とっくに覚悟してる」

 

 「分かってない。『生涯現役』……つまりあなたは、私が年老いて、本当に走れなくなるまでトレーナーでいるってことなのよ?」

 

 「だからこそ、死に急ぐなって言ったんじゃないか」

 

 

 

 ぶるぶるとキングは寒そうに肩を震わせる。それを見て思わず、俺はその頭と背中にそっと手を当てた。

 蛍光灯だけがちらつく中で、お互いの温もりの中で……しかし俺ははっきりと感じていた。

 ああ、これがトレーナーになるってことなのかな。彼女の人生に寄り添いながら、レースでも勝たせる。そんな、俺だけしか出来ないやり方。

 キングと俺にしか出来ない、ウマ娘とトレーナーの究極の在り方なんだ。

 

 

 

 「キング。これまでを、全てぶつけてこい。だけど、決して()()()()をぶつけようとはするな。

 大丈夫、確率がゼロだとしても……キングの辞書には」

 

 「諦めは、ない」

 

 

 

 ただでは勝てない。だから限界の先を、超える。

 ――今までを全てぶつければ、未来を犠牲にしなくても絶対に超えられる。それだけの苦難を、逆境を、俺達は乗り越えてきたんだ。

 それがキングと俺の、「一流」の根源であり、自負なんだから。

 

 

 「……あなたがそう言うなら、仕方ないわね」

 

 

 ……顔を上げたキングは、くしゃりと無邪気に笑っていた。

 この一瞬だけは、彼女はただの少女だった。「一流」の内側にいる、俺だけに見せる表情。

 その笑顔を守る為に、俺はここにいる。……これからもだ。

 

 

 

 「さてと。そろそろ時間だぞ。

 ……それじゃあ、相棒」

 

 

 

 抱擁を解いて、俺はドアに寄って手を掛ける。

 ……再び視線を交えた時、既にキングは戻っていた。これから世界最強と戦うに値する、世代最強の王者の顔に。

 

 

 

 「ええ。今度は――」

 

 

 

 その先の言葉はもう、言わずともわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 ――ウィナーズ・サークルで会いましょう。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「ねぇ、キングちゃん。ちょっと髪の毛が変だよ?」

 

 

 ――ドアを開ければ、そこには私の特訓に付き合ってくれた皆さんが駆けつけてくれていた。

 そんな一人一人の励ましの言葉を全て受け取って、トレーナーと一緒に今までのお礼を述べたのが少し前のこと。

 それから私達()()はコースに向けて、並んで歩いていた。

 

 

 「え、あら? ……ああ」

 

 

 手を翳してみれば、後頭部の髪が少しだけ跳ね返ってしまっている。……さっきトレーナーが抱き締めてくれた時に、乱れたものかしら。

 

 

 「……ふふっ。これはいいのよ、このままで」

 

 「あれっ、そうなんだ……珍しい、のかなぁ?」

 

 

 そんな私の返答に、隣で分かりやすく驚かれてしまう。

 ――「踊る勇者」になる前のブロワイエさんを一度破ったスペシャルウィークさんは、今回もリベンジマッチとしての期待を寄せられて、それに応える形で共に出走する事になった。

 「日本総大将」とそれを従える「世代のキング」。外国のウマ娘が数多く出走する中で黄金世代三強のうちの二人が迎え撃つと、日本中の人々が私達二人に大きな期待を寄せてくれていた……実際は、スペシャルウィークさんの方が有力視されているそうですけど。

 それにしても、私の特訓にあれだけ付き合ってくれたのに、一週間早く離脱しただけでこんなに調子を取り戻すなんて。

 

 

 「……ねぇ、キングちゃん?」

 

 

 そんな時。突然、隣の足音が止まって。

 見れば、スペシャルウィークさんは真剣な目つきで私を見つめていた。

 

 

 

 「転入したばかりの頃にね、クラスメイトに言われたことがあったんだ。何で一着を譲ってくれないの、友達なのにって。

 それからしばらく、走ってる間になんだか冷たい感じがするようになって……グラスちゃんとエルちゃんが励ましてくれるまで、勝つことが怖くなっちゃったことがあったの」

 

 

 

 ……ぶるっと、彼女は震える。

 まだその、冷たい感じは抜けきれていないのかしら。これだけのレースを、これだけの年月走ってきたというのに。

 

 

 「走ることがすっごく楽しくて。みんなと一緒に頑張ったりするの、初めてで。嬉しくてたまらなくって。……でも、レースで私が勝っちゃうことで、悲しんじゃう人がいるのかなって。

 ――だから、キングちゃんのこと、いつも憧れてた」

 

 

 知らなかった。

 あのスペシャルウィークさんが、そんなことを考えていたなんて。いつでも楽しそうに、輝くように走るこの娘が……そんな迷いを抱えていたなんて。

 

 

 「キングちゃんはいつでも堂々としてて、勝っても負けても、辛いところを誰にも見せずにおほほーって笑ってて。

 私が言うのはおかしいかもしれないけど、三冠の時もずっとすごいなって思ってたんだ。もし私がダービーで負けちゃったら……きっと我慢できなくて、その場で大泣きしちゃってたと思う」

 

 

 ごめんなさい、お母ちゃん……私、日本一になれなかった……っ。私、私……っ!!

 ――なんて涙する姿が目に浮かぶわね。あのダービーで私が全力を出せていて、スカイさんも合わせて三人でちゃんと勝負が出来ていたら……そんな未来もあったのかも知れない。

 

 

 「だからね? あれからキングちゃんとあまり話さなくなっちゃって、私……なんとかしたいってずっと思ってた。

 合宿の時も、何か言わないとって思って、でも何を言えばいいのか分からなくて……!」

 

 「……あなたまでスカイさんみたいなことを言うのね」

 

 

 ……まったく、もう。

 私は何をしていたのかしら。お母様のことだとか、期待を失ってしまったことだとか。そうやってくよくよしている横で、スカイさんも、スペシャルウィークさんも、私を想って悩んでくれていたのね。

 

 

 「――でもね、だからこそ……私、言っておきたいの」

 

 

 だけど。今の彼女の瞳には、全く躊躇いは感じられなくて。

 

 

 

 「キングちゃん。それでも私は今日、勝ちにいきます。

 だって、私達は友達で、ライバルだから。お互いに全力を出し合って、一緒に強くなっていける……私はそう、信じてるから!

 あの時、ずっと言えなかったから、いつか……それを、ちゃんと伝えたかったんだ」

 

 

 

 思えばあの有馬以降、短距離に主戦場を移した私はスペシャルウィークさんとは戦っていない。

 あれからひたすら、私を待っていてくれたというの。そんなに優しくて明るい言葉を、今まで忘れずに。

 

 

 

 「……ありがとう。()()()()

 

 「――っ!」

 

 

 

 憑き物が落ちたような、そんな感覚。

 あのクラシックの年は、私にとって苦難の思い出でしかなかった。全てが噛み合わずに、私に関わった全てを不幸にしてしまったかのような、そんなトラウマでしかなかった。

 ……それがこんなにも、暖かく感じられるなんて。

 

 

 

 「ねぇ、知ってる?

 ライバルが強いほど……私も強くなるのよ」

 

 

 

 ――スぺさんの表情が、花のように満開になっていく。

 そう、あなたはその表情が一番似合っているわ。走ることとライバルを持つことを、誰よりも素直に喜ぶことのできる、あなただけの笑顔。

 これで、後腐れは一切なくなったわよね?

 

 

 

 「――さあ、行きましょう! このキングの後に続きなさい!」

 

 「うん――行こう!」

 

 

 

 宿命のライバルにして、共に世界と戦う同志。

 そんなスぺさんと一緒に、地下バ道を抜けた先には――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「…… 来たか(Enfin.)

 

 

 

 

 

 

 

 

 轟いている。

 空は翳り、まるで日蝕のように雲の合間から昏い光が漏れるのみ。

 普段はわれんばかりの歓声が響くターフの上は、今は水を打ったように静かだった。

 

 

 

 「スペシャルウィーク。

 そして……キングヘイロー」

 

 

 

 ――なぜなら、二十万人の観客と走る私達、その誰一人として……身動きもままならないからだ。

 ターフの上に屹立するその異形の影の轟圧が、音を立てることすら許さないから。

 

 

 

 「ようこそ、我が舞台へ。この瞬間を永く、待ち侘びていた」

 

 

 

 そして、その「踊る勇者」は、こちらに歩み寄ってくる。

 その脚で地を踏む瞬間に、芝が粉を踏んだように巻き上がり、宙を舞い踊る。それが退けられて昇る風に煽られて、まるで翠の炎のようにその身体を燃やしている。

 いくら日本より重い芝を踏んできたからと言って、とてもああはならない。あまりに現実離れした、まさに唯一無二の絶対覇者。

 ――いや、そもそも。

 

 

 

 (あれが本当に、ウマ娘だというの……!?)

 

 

 

 そして、私達の前に聳え立つ。

 青緑を基調に、金色の修飾と桜色のラインが走る勝負服は、まさにその節々にあの人のデザインであることを示す特徴に溢れている。

 そしてその上から紺青色のマントを羽織り、靡かせながら……「踊る勇者」こと、ブロワイエさんは口を開いた。

 

 

 

 「今回は、上辺だけの挨拶は抜きでいこう。

 地を越え、海を越え、空まで超えた。今から君達が目の当たりにするのは、世界の壁などではない――終焉の壁だ」

 

 

 

 ……一流として外国語には堪能でなければと多少嗜みはしたけれど、今日ほどフランス語を覚えるべきではなかったと後悔した事はない。かつてのブロワイエさんよりも口数が増えて、本当に別人になってしまったみたい。

 終焉の壁。つまり私達という個体では決して辿り着けない、ただのウマ娘が辿り着ける最終的な境地の、その先。

 ――ならあなたは、何者なの。ひとりのウマ娘としての能力を飛び越えた、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()かのような、そんな人智を超えた存在だとでも言うの。

 

 

 

 

 「改めて、名乗りを挙げようではないか。

 私は打ち砕く人(ブロワイエ)。『踊る勇者』の名を受けた、過ぎ去りし()()()()()()()()()()だ」

 

 

 

 

 私は、その名を誰よりも知っている。

 それは私が在りし日に憧れ、そうなろうと恋焦がれた名前。

 一ヶ月前の暗がりの教室で私が思わず竦んだ、お母様の競走ウマ娘時代の風格が……余すことなく、目の前のブロワイエさんに受け継がれている。

 

 

 

 (……見てるのよね、私達を)

 

 

 

 それはつまり、彼女のトレーナーとしてあの人も、このレース場にやって来ているということ。

 あれから連絡も通じず、私もメジロの療養所に篭っていて音沙汰なかったお母様が、ブロワイエさんと私の対決を観に来ているということ。

 ……それならば、遅れを取るわけにはいかない。私は一流のウマ娘として、彼女を凌駕する存在でないと。

 

 

 「……ご機嫌いかがかしら? 私は(Comment allez-vous? je suis)――」

 

 

 

 「――あのっ!」

 

 

 

 ……その時。

 なんとか応えようと、重い口を上げて名乗り返そうとした私の前に、スペさんが躍り出て。

 

 

 

 

 

 「――調子に乗んな(La victoire est moi)……っ!!」

 

 

 

 

 

 ――スペさんは、フランス語を話せない。

 当然、聞き取ることも出来ないそうで、だから今までのブロワイエさんの言葉も理解できていない筈。

 

 

 『……ええ〜っ!? 「調子に乗んな」なんて、なんでそんな言葉教えたの、エルちゃ〜ん!!』

 

 『なーっはっはっは! その方が面白いじゃないデスか! アタシはブロワイエにお返しが、スペちゃんはアツい勝負が出来る! 一石二鳥、ウィンウィンってことデース!』

 

 

 でも、その言葉の意味だけは、もう知っている。

 この覇気と緊張の中で、スペさんは敢えてそれを、口にしたのだ。

 

 

 

 「……ほう」

 

 

 

 ――僅かに、ブロワイエさんの気配が揺らぐ。スペさんも冷や汗をかきながらも、真っ直ぐに彼女を見返していた。

 

 

 「スペさん」

 

 

 ……私、そういう姿勢は嫌いじゃないわ。

 才能に相応しい、真っ直ぐな根性の持ち主。そんなあなたの姿はライバルとして誇りよ、スペさん。

 なんだか、負けていられないじゃない。そっと彼女の肩に手を置いて、前を開けてもらって。

 

 

 

 「……その通りね。(C'est exact.)

  過去の栄光なんて、どうでもいいわ(La gloire du passé n'a pas d'importance)

 

 

 

 ――そう、私も、栄光に別れを告げる者。

 クラシック級からの十度の敗北も、シニア級のG1四勝も、私の糧ではあっても決して……もうそこに固執する事はない。

 知ってる? キングは過去を振り返らない主義なのよ?

 

 

 

 

 私は天才が相手だろうが、(Peu importe que vous)

 伝説が相手だろうが関係ないの。(soyez un génie ou une légende.」)

 ――一流の走りを、見せてあげる(Je vais vous montrer une course de première classe)

 

 

 

 

 ――「踊る勇者」は、嗤った。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「……とうとう達しなかったか。キングヘイロー」

 

 

 

 アナウンスだけが鳴り響く、異様な雰囲気の観客席の一角に立つのは、数週間前にかのトレーナーに禁忌を授けた、皇帝シンボリルドルフである。

 そしてその隣に、マルゼンスキーが並んでいた。

 

 

 「ご苦労だったな、マルゼン。内部スパイなんて……君も心中穏やかではなかっただろう」

 

 「いえいえ。別にサブ君のことを裏切ったわけでもないんだから、気にしなくて良いわ♪」

 

 

 ――マルゼンがあのメジロの療養所に途中合流した真の理由は、そこにあった。

 つまり、世間から隔絶された閉鎖空間内で行われていたその特訓が……双方の合意のない残虐なものでないかの、生徒会による調査のためだったのである。

 

 

 「……まあ、あの男に限ってそのようなことはないとは思っていたのだが、それでも熱が入りすぎてといった不注意はあり得るからな。

 結果、君の報告によれば、担当ウマ娘であるキングヘイローとの関係は極めて良好。しかし見込まれていた成果を得ることは出来ず……といったところだったか」

 

 

 ……残念だが妥当なところだろう、とルドルフは思っていた。

 そもそもトレーニングによって「領域」を取得したなどという事例自体、いくら記録を遡ったところで見つかった試しがない。その長い競走ウマ娘の歴史の中で数々の奇跡の逆転劇が産み出されながらも、その全てがレース中での爆発的なパフォーマンスの向上によって成り立っている。

 

 

 「うーん、残念ねぇ……キングちゃん、ものすごく頑張ってたんだけど」

 

 

 ――しかしそこはそこで、気になる点ではあった。

 荒唐無稽とは言ったが、通常のトレーニングの何十倍もの負荷をかけた時、単純な程度を考えるだけならばそれはレースで走る以上のものとなってもおかしくはないのだ。

 無論そのような簡単な話でないのは明らかだがその上で、もし仮にあのトレーナーが行っていることが実現可能だとして……それでもまだキングヘイローが覚醒しないというのは、そもそも彼女に時代を牽引するほどの素質がないということなのか。

 

 

 

 ――あるいはそれですらもこじ開けることが叶わない、現在のウマ娘の常識では測れないほどの……世界最高水準の潜在能力の持ち主なのか。

 

 

 

 

 『各ウマ娘、ゲートに入りました。

 世界の頂点を目指して、ジャパンカップ――いよいよスタートです』

 

 

 

 

 さあ、見せてもらおうじゃないか。

 頂点か、どん底か……君がどちらに転ぶのかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 五枠八番のゲートで息を潜めていたキングヘイローの瞳が、ぎらついて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『な……何ということでしょう……!?』

 

 

 

 

 ――ファンファーレによってようやく活気を取り戻した観客席が、再び凍り付く。

 

 

 

 

 『か、各ウマ娘、揃って綺麗なスタートを切りました――()()()()()()!!』

 

 

 

 

 ――駆ける脚の周りの芝が、電撃が煌めくように迸る。

 

 

 

 

 『さ……三番人気キングヘイロー、ひとり飛び出していく!!

 ぐんぐんと伸びてバ群を置き去りに……ラストスパート同然のスタートダッシュを行っている!!』

 

 

 

 

 「――――ち」

 

 

 

 

 あのダービーを彷彿とさせる、明らかに暴走したターフの上のキングヘイローを、見て。

 ――シンボリルドルフは、吼えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「血迷ったか、キングヘイロー――!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 
※栄光は英語でHalo、別れを告げることはGoodbyeと表記するようです。
※キングヘイローとスペシャルウィークは共に、キャリアの中で一度も故障を起こしていない事から、「無事之名ウマ娘」と称されているそうです。


 
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