『キングヘイロー、果敢にハナを切っている、切ってしまった!
ダービーの大敗が蘇ってしまうのか、掛かり気味に先頭を爆走しています!!』
――ターフの上を、私の娘が走っている。
そんな彼女を見た観客たちのどよめきが、このVIPルームを僅かに揺るがしている。
「ばかね、あの子」
そっと、そんな一言が口から洩れた。
母親として、軌跡を見守ってきた。私の影と強力なライバルに苦しみ、次第に心が軋んでいくあの子のことが見ていられなくて、幾度となくターフに立つのをやめるよう言いつけた。
……あの「菊花賞」でのあなたの狂笑を、私がどんな気持ちで見つめたことか。
(それが、まさか有馬記念まで勝つなんて)
年間G1四勝。
目覚ましい成果だわ。あの年のスペシャルウィークさんは年間G1三勝。重賞を一度制するだけでも大変なことだというのに、あの子は最後の最後になって、あれだけ立ちはだかっていた同期全員の一番上まで這い上がったのだから。
その後は再び成績不振に落ち込んで、あれから一度もG1を獲れなくなってしまったけど……それでもあの子はきっと、決して調子を崩している訳でも、レースに対する情熱を失った訳でもない。
(走りが、そう語っているわ。私が一番よく知っている、その脚が)
――キングヘイローは、この大舞台で序盤から仕掛けている。
誰もがそれをお嬢様のご乱心と捉えるだろうけど、私には分かる。ダービーの頃とは違うあの子に限って、そんな勝負を投げるような真似をするはずがない。
「……あなたも
そう。あなたならそうするに違いないと、信じていたのよ。
こんな絶望的な戦いでも決して勝利を諦めない、一流のウマ娘なら、絶対に。
「私達に本気で逆らうなんて、本当に……本当にばかな子。
――そう来なくっちゃ、面白くはないわ」
※※※
「……始まったな」
ざわつきの絶えない観客席の中で、しかし俺たち全員は揃って、静かに状況を見守っていた。
「スペちゃんはいつも通り、後ろに控えていますね。そしてブロワイエさんは……」
グラスが囁くように分析しながら、その最後で言葉をつぐんでしまう。
理由は明白だった。スペのいる後方集団の、さらにその後ろ……いわばぽつんと一人な最後方を、「踊る勇者」は泰然と走っているのだから。
「……あんなの、ブロワイエの走りじゃありません」
そう呟くのは、本当は誰よりも彼女とのリベンジマッチに臨みたかったエルだ。実は今回キング以上にブロワイエとの再戦を望まれていた彼女だったのだが、その一報が来てからほぼ即決で出走回避を表明していたりする。
曰く、決着はここじゃなくて、凱旋門賞で付けたいのデース! とのことだ。
「アタシには分かります。ブロワイエは余裕はありましたけど……あんな風に、のんきに構えるようなスタイルじゃなかった」
普段の話し方も控えめに、エルは食い入るようにその異形の姿を睨んでいた。
以前のブロワイエは後方待機からの追い上げを得手としながらも、決してレースの流れからその身を離すようなことはなかった。あくまで堅実に展開を読み、エルやスぺの様な有力な標的を確実に差しにいく隙のない走りを得意としていた筈だ。
……余裕はありつつも、今のようにあれだけ位置を下げるほどだった訳じゃない。それでもレースに勝つつもりなのだとすれば、意味するものは一つだ。
「でも、事実だ」
――じっとレース展開を見つめていたスカイが、おもむろに呟いた。
「射程圏内なんだ。今のブロワイエには、あの距離でも全員差し切って勝つだけの脚があるよ」
一斉に、視線がスカイに集まっていく。
グラスもエルも、現時点で展開されている状況を読んだだけだ。だがスカイだけは違う、まだレースが始まったばかりだというのに……既に「踊る勇者」の持つ底力を把握しているかのような口ぶりだった。
「スカイ……? どうして、そんなこと……」
「すごーい! セイちゃん、そんなことまでわかるの!?」
ライアンとウララが驚きの声を上げる。クリークは何も言わないが少し不思議そうだ、隣に並ぶオペラオー達もまた然り。
「……私も興味があるな。是非とも聞かせてもらおうか」
振り返る。
観客が驚きと共に道を開ける。その真ん中を堂々と歩むのはトレセン学園を統べる者にして、あの雷雨の日に俺が「領域」のありかを探すために対峙した、皇帝と呼ばれるウマ娘だ。
その表情は、抑えきれない沸々とした憤怒が漏れ出していた。
「ルドルフ、どうしてここに」
「知れたことだ、あの有様を見ては……その真意を問いたださずにはいられまい。
あれは暴走か、それとも君の入れ知恵か。キングヘイローはどうして……逃げを打っている」
――敢えて今まで話題にしていなかったが、このレースを観戦する者なら誰でも真っ先にそう思ったことだろう。
キングは逃げている。スタートの時点から持ち味の末脚を全力で解放して、今も二位の選手と十バ身近く離れる程のリードを奪っている。
「納得のいく理由はあるのだろうな。もしないのであれば……私は君を少々、買い被り過ぎていたと思わざるを得ないぞ」
……皇帝様にしては、らしくなく感情的だ。普段の彼女ならこうして、人目を引く場所で俺の責任能力を追求するような無配慮なことはしない。
だけど、そうもなるよな。もしあれがキングの過失であるならば俺のメンタルケア不足、そして故意であったならば……それはあのダービーと同じ轍を踏んだ、トレーナー失格レベルの下策を俺が彼女に吹き込んだという事を意味するのだ。
それを生徒会長として誰よりも生徒達を大切に想う君が、看過できるはずがない。
「……トレーナーさん」
スカイがこちらを見つめてきた。
もういいんじゃないですか。キングはもう走ってるし、隠す必要はないでしょ。そう、彼女の藍色の瞳が問いかけている。
まあ、それはそうだ。今の今まで黙ってたのは、スペも出走する手前、万が一にでも
しかし、俺がそう思ったその時……彼女の背後に見覚えのある影が。
「あ、こんなところに! んもう、ルドルフったら、いきなり駆けだしたと思ったら~……。
って、あら? サブ君じゃない!」
――良いところに来てくれたな。
そう、これはマルゼンと、スカイと、キングと、そして俺だけが把握していた、常識外れな秘策なのだ。どうせマルゼンが生徒会からの差し金だったのだろうことは察しがついてはいたが、彼女はあれでしっかり口が堅い、どうやらルドルフには何も伝えていなかったようだ。
そういうわけで、俺はマルゼンとスカイに目で合図を送って、コホンと咳ばらいをすると。
「……とりあえず落ち着こうぜ、ルドルフ。
俺達は決して、安易なミスを犯したわけじゃない。それどころか……キングは自分の意志で、あの大博打に乗り出したんだ」
「よし。集まったな」
マルゼン達が応援にやってきてくれた、次の日の夕方の事。
練習が終わり、おのおのがお風呂や夕食を済ませて部屋に戻り身体を休ませる一方で、俺達はナイター環境のターフの上で、四人で集まっていた。
「君たちをここに呼んだ理由は、そろそろ考え始めないといけないからだ。
……『踊る勇者』に勝つための、レース本番での作戦を」
三者三様の反応だ。マルゼンはふーん、と愉しげに応じて、スカイは珍しく神妙に頷いている。
その一方で、しかしキングは面食らったかのように目をぱちくりさせていた。
「作戦……普段通りには走らないってこと?」
「冷静に聞いて欲しいんだけどさ、キング」
対処したのはスカイだ。そして彼女がいつになく真剣な表情である理由は、そこにあった。
「残念だけどさ、今のままじゃどう頑張っても勝てないんだ。
今のブロワイエはほんと強いよ。キングだけじゃなくて、わたしも、エルもグラスちゃんも……多分、全く歯が立たないと思う」
……わたしだけ、キングから一番奪ったわたしだけが、何も出来ていないなんて、そんなの、虫が良すぎるじゃん。
そう思い詰めていたスカイに、俺はあれから一つの役目を与えていた。つまり、走れなくとも冴え渡るその観察眼を利用して、連日「踊る勇者」のデータを一緒に分析してもらっていたのだ。
そして、二人揃って出した結論がそれだ。「踊る勇者」があまりに強すぎて、そもそも国内外問わずまともに勝負できるウマ娘はいない、という。
「……そう。分かったわ。それで?
そこまで言うなら、ちゃんと一流のプランを考えているんでしょうね?」
そこで腐らずにすんなりと受け止められるのはいつもながら流石というか。
まだ目に光を失っていないキングに、スカイは頷いて続けた。
「キングはさ、よく気性難だとか、プライドがって言われるけど……本当はそうじゃないよね。
それどころか、誰よりも考えて走ってる。考えてる分……
――セイウンスカイ。君は一体、どこまで見抜いてるんだ。
キングヘイローはバ群が苦手だ。加えて明らかな不利な状況になってしまうと武器の末脚の出ない、言わば「やる気のない走り」を見せてしまうことがある。
だがそれは断じて怠慢ではない。スカイのいう通り、短距離から長距離まであらゆる距離に適応するだけのペース配分、そしてその中で自分がどうすればベストを尽くせるかのシミュレーションまで、彼女はその聡明な頭で考え抜いているのだ。
「考え抜いて、レースをよく分かってる分、いざ本番で不利になると……他の娘以上に、勝てないっていう予感が頭に思い浮かんじゃうんだ。
分かるよ、わたしだって同じだから。『まあいいや』とか、『今はだめでもなんとかなるでしょ』とか、そうやって楽観的に構えられるタイプじゃないよね。だから、どんどん悪いイメージが心に蓄積して、身体が重くなってまともに走れなくなってきちゃうんだよね」
「……そこまで気付かれてるなんてね」
ここで抜け出せなきゃ勝てない。このまま内に入れてたら負けてしまう。
なまじ頭がキレる分、そういう不安を人一倍抱え込んでしまう。それはスぺやエルの様な天性の嗅覚か、あるいはグラスみたく強靭な精神力でしか完全に払拭することは難しいが、残念ながらキングは俺達トレーナーと同じで、理詰めで物事を考えるタチだ。
「……さっきも言ったように、普通に走ってるだけじゃ『踊る勇者』には勝てない。それはキング、君の末脚を全力で解放できたとしてもって話なんだ。
なのに、位置取りとか垂れてきた他の選手とか、そんなことに一々気を取られてたら全く話にならない。あくまで実力を出し切ることを前提で、そこから更に限界を超えて……それでやっと勝負になるかもってところなんだ」
スカイと交代して、俺の発言だ。
だからこそ、常にコース取りの懸念が付きまとう差し戦法は、今回は使うべきではない。キングはクラシック三冠の頃は先行策も多用していたが、これももっての他だ。抜け出すだけのスパートでは、たとえ好位置であったとしても本来のキングの末脚とは比較にすらならない。
「え……じゃあ、どうするのよ。
差しが駄目なら追い込みだってダメじゃない、他にどんな……方法……が」
……察しの良い君の事だから、もう気が付いただろう。
なんで俺が、スカイと、マルゼンを呼んだのか。
「キング」
キングは大きく息を呑む。次に彼女を襲うだろう感情がどんなものか、よく知っている。
だからこそ。俺はまっすぐ向かい合って、目を逸らすことなく、ゆっくりと……それを提案した。
「辛いと思うけど、今こそダービーを乗り越えてみないか。
――逃げるんだ。初めから全力で飛ばして、ブロワイエも、スぺも他の選手も、誰も干渉できないところまでリードを広げるんだ。
そうすれば駆け引きも位置取りも関係ない、あとは……君が最後までに『領域』に至れるか、それだけの話になる」
「それが、君達の作戦なのか」
瞑目していたルドルフは、そう口にしつつ瞼を上げてこちらを見やった。そこにはもう、先程までの理不尽な采配に対する怒りはない。
「……よく、頷いてくれたと思うよ。あいつにとって、一番のトラウマだっただろうにさ」
クラシック三冠で彼女の心がガタガタになった一番のきっかけこそが、あのダービーでの暴走だった。そこから崩れに崩れた菊花賞は、あまり言いたくはないがフェブラリーSと合わせて負けるべくして負けたレースだったのだろう。
スカイが前に二度目のダービーを開いてくれて、それで多少心持ちは軽くなったようだったが……いざこんな一大舞台で再び逃げるなんて考えたら、脚が竦んで動けなくなってもおかしくはないというのに。
「とはいえ、こんな短期間じゃ出来る事はたかが知れてる。だから本来最終直線で出す末脚を、スタートの直後にぶっ放そうって事になった」
熟練の逃げウマ娘になると、ゲートが開くコンマ数秒の差を詰めた凄まじい集中力によるスタートダッシュが可能だとの事だが、幾ら何でもそれは付け焼き刃のキングには無理だ。なので、ゲートが開いた直後に言わばラストスパートを掛けることでそれを疑似的に再現する。
スカイの様な坂やレース全体の流れを利用した策を講じるのも無謀なので、これが今のキングに出来る限りなはずだ。
「だが、これからどうする。そもそも芝2500mを逃げ切れるほどの技術とスタミナは、キングヘイローにはないだろう。
このままでは、彼女は……大敗するぞ」
「分かってるんだろ、ルドルフ」
――そういう覚悟は、もうとっくに出来てるんだよ。
その通り、今のままじゃキングはボロ負けする。ダービーと同じ過ちを犯す形で、終いには走る誰もに追い抜かれて最悪の負け方をする可能性はかなり高い。
……だからこそ、超えるんじゃないか。限界の、その先を。
「レースを走り切るって意味では、逃げだろうが先行だろうが差しだろうが追い込みだろうが、同じ距離を走るんだから辛さはそこまで変わらないかもしれない。
……でも最終直線前までならどうだ? 最後にスパートを使いたい差しや追い込みはまだ脚を溜める段階だ。先行は体力は使うけど、レース進行によってスタミナを温存することも出来る」
「しかし逃げ策だけは、そもそもレース全体のペースメーカーとして必ず膨大なスタミナが要求される。周りに合わせて適度にスピードを落とす事も、あるいは体力を温存する事も許されない。
……彼女は」
それこそ「菊花賞」でのスカイみたいな、特大リードから息を入れるやり方もあるだろうけど、キングには到底不可能な芸当だ。
とにかく、レースの終盤、最後の底力を出す直前までにおいては……一番体力を消耗するのはほぼ確実に逃げウマ娘であると言っていい。そのことをルドルフもよく分かっていたようだ。
「……彼女はまだ、諦めていないというのか。
このレースにおいて、自らが『領域』に至ることを。そのために、ギリギリまで自分を追い詰めるために、敢えて逃げたのか」
普段は最後に使う末脚をはじめに使い、その後はマルゼンとスカイに習った逃げの走法でかっ飛ばしまくる。さらにこの世界水準の至高のレースで二十万人の観客の視線を浴びることで、精神的にも肉体的にも重圧をかける。
そうして最終直線前までにキングのスタミナを完全に枯渇させるのだ。
こんなに負荷の掛かる状況は、もう二度とあり得ない。キングを限界の先の先に押し込む為の最大限の環境は、今をなくして二度と整わない。
「――棄灰之刑。君は本気で彼女を勝たせる為に……鬼になったというのか」
……結局最後の最後で、俺はそうなりきれなかったんだけどさ。
だけどだからといって、「いざとなったら諦めてくれ」といったところで、キングは決して無意識にも手を抜くような事はしないはずだ。俺が無事に帰ってきて欲しい思うのと同じくらいに……勝って欲しいと願っていることを、あいつは知っている。
「……君達も、キングヘイローの作戦について、聞き及んでいたのか?」
かぶりを振ったルドルフの視線の先にいるのは、グラスとエルだ。スカイは事前から知っていたからともかく、それ以外のこの場にいるみんなは突然のキングの暴走に驚いて然るべきだろう。
「……キングちゃんを、信じてますから。
諦めないあの姿勢にずっと惹きつけられてきた私達が、あの程度のことで動じたりするものですか」
「最初はアタシもびっくりしたんデスよ!
でも……陽は落ちれどもまた昇る! それを教えてくれたのは、キングちゃんですから!」
グラスもエルも、言い切っている。まるで迷いはない様子だ。
でも当然といえば当然か。二人ともこの一か月、キングの執念をいやというほど味わったはずだ。そしてそれは、二人以外のみんなも同じこと。
「ルドルフ」
そこで彼女に話しかけてきたのは……マルゼンと共に特訓の後半から合流した、オグリキャップだ。
「……今の私にはわかる。
かつて君が、私に抱いていたもの……それと同じものを、私は彼女に感じるんだ」
――中央を無礼るなよ。
――ならば実力で覆す。常識もルールも、この脚で。
未だに語り継がれる、ルドルフとオグリの伝説的な問答だ。この後にオグリキャップは怒涛の重賞三連勝を飾り、それをもってシンボリルドルフはURAの中央諮問委員会に彼女のダービー出走を掛け合った。
ウマ娘の筆頭として永らく追い求めていた、ウマ娘の枠を超えた不世出の大スター。それをルドルフがオグリに見出した瞬間だった。
「あの有馬記念の日。私はそれをメジロライアンに感じた。
そして今日この日、そこに一番近いウマ娘がいるとしたら。
それはきっと……彼女じゃないだろうか」
ドリームトロフィーリーグに移籍した魔王、そしてオグリ自身も認めた時代を創るメジロの双塔、そして世紀末覇王とその王座に最も近づいた、春の刺客。
その面々が異論を唱えずに同意する。現時点では、少なくともこのレースでは……キングが最も頂点に、到達しうる可能性が高いと。
「ねぇ、ルドルフ。あなたのキングちゃんの事を心配する気持ちは、分かるわ。
でも……信じてみてもいいんじゃない?」
「…………ふむ」
マルゼンの言葉に、皇帝はそう一言だけ零して、暫く押し黙ってしまう。
――だがそれは決して、失意によるものではなく。
「……それならば、最後まで見届けようではないか。
まさに一世一代。彼女が自らの意志で始めた、新たな伝説を……!」
※※※
『さあ、やや縦長の展開で坂を上っていきます、1200mを今切りました!』
――まだだ。
目の前を覆う他のみなさんの背中の後ろで、私は抜け出す機会を伺っていた。
(まだ待たなきゃ。もう少しして、みんながスパートを掛ける直前が勝負だ!)
キングちゃんはスタートと同時にバーッて走っていっちゃって、今も私達の前を必死に走ってる。
ブロワイエさんは前みたいにプレッシャーをかけたりもしないで、なんだかのんびりと一番後ろに控えてる。
……こんな怖いレース、走ったことがない。まるで何が起こるかもわからない、不気味な感じ。
(でもね、キングちゃん)
言ったよね。私はただ全力で、勝ちに行くって。
『おーっほっほっほ! 今日の真打、キングヘイローの登場よ!』
……ねえ、キングちゃん。覚えてる?
シニア級のあのファン感謝祭で、パン食い競争で一緒のグループになったよね。
『キィイイイイーーッ! 情けはいらないわ! こんなパンくらいすぐに取ってみせるわよ!』
あの時、一番最初に飛び出したキングちゃんがパンを取れない中で、グラスちゃんとエルちゃん、あと私がどんどん追い抜かしちゃって、最後に取り残されちゃったよね。
『みんな、見てなさいっ! これがキングの圧倒的飛翔力なんだからーっっ!!』
菊花賞のあと、セイちゃんと一緒にずっと心配してたのに……キングちゃんったら、変わらずいつも通りだった。
泥んこになりながら何度も何度も飛んで、パンを取ろうとして、絶対あきらめなくて。それで、気が付いたら私達のこと以上に、みんながキングちゃんを応援してて。
(ずっと、すごいって思ってた。でもそれをダービーで勝っちゃった私が言っちゃって本当にいいのか、分からなくて)
――私に勝ちを譲ってくれても、いいじゃない……!
あの時、あの子に言われて。キングちゃんももしかしたら、本当はそう思ってるんじゃないかって。怖くなった。
その後キングちゃんは短距離路線に切り替えちゃったから、もうレースでも一緒に走れなくなって……私達、もうライバルでも、友達でもなくなっちゃったのかなって、すごく寂しかった。
(……でも。キングちゃんは、言ってくれた)
『私、この世代でよかった。
あなたたちがいたから、負けたくないって思えた。その度、悔しくて堪らなかったけど』
あの時から、私達は本当の友達になれた。
あれがあったから、私達は今日までずっと一緒に走り続けてこられた。
『あなたたちがいたから……っ、私は、私だけの道を歩んでて……!
だから、私と競ってくれて、私のライバルでいてくれて……ありがとう……!』
それが私達、「黄金世代」なんだ。
だから、私達は……一流のライバルで、いられるんだ。
(だから、勝たなきゃ……っっ!!)
『さあ、もうすぐ先頭のキングヘイローは第三コーナーに差し掛かる! 大ケヤキを過ぎて、ここから勝負どころです! 誰が仕掛けてくるか!?』
――ここだ。
脚を踏み込む。ターフが衝撃を跳ね返して、辺りにドカンって大きな音を立てる。
信じてる。キングちゃんは絶対に、ここから何か仕掛けてくる。先頭にいるのも、何か作戦があっての事に決まってる。
だから、心配はしないよ。私は私の全力を、キングちゃんに見せてあげる――!!
「は……ああああああっっっ!!」
『おっと、ここでスペシャルウィークだ!! バ群の一瞬の隙を突いて、後方から大きく前へ飛び出したーっ!!』
いつも通り。まっすぐ。
それが私の全身全霊なんだ。それが日本ダービーでも、天皇賞でも、ジャパンカップでも何も変わらない。
――お母ちゃんと一緒にいたころは、ターフがまるで夢の舞台だった。それがどんなレースでも、夜に星を見上げるみたいに綺麗で、素敵な光景だった。
ターフっていう夜空を駆ける、たくさんのウマ娘達はまるで。
(まるで……
「あれ……っ」
火照った身体が、一瞬で冷めた。
全力で走った先に見えた流星の煌めきが、蜘蛛の子を散らすようになくなっていく。
「な……なに、これ」
――驚く暇もなかった。
歓声が、聞こえなくなった。気が付けば周りが暗くなって、空気が海の中みたいに重い。
『これは、これはどうしたことでしょう! スペシャルウィークの末脚が続かない!!
いや、彼女だけではない!! ターフを走る全員が、どこか落ち着かない様子だ……!?』
……なんで?
経験したことのない事態に、頭が混乱する。脚は前に進んでる? 今全体の、どの位置にいる?
一瞬の中で、とにかく前を向かなきゃって、思わず……思わず先頭のキングちゃんを見ようとして。
「が」
――弾かれた。
まるで自分よりも大きな板で、横から叩かれたみたいに、凄まじい衝撃が身体を襲った。
「うわぁああぁっ……っっ!!」
走ることも、ままならない。
右肩ががくりと下がって、上半身のフォームが横転して前に倒れ込みそうになったのを、なんとか踏ん張って持ちこたえる。
スパートを掛けるどころじゃない。無理をしたら、そのまま転倒して大事故を起こしちゃう。
「な……何、いまの……わあっ!?」
直後に、ものすごい風圧がコースの外側から掛かって、耳がぴーんって鳴って何も聞こえなくなる。思わず顔を背けて、後ろを振り返る。
――みんな、崩れていた。態勢を大きく崩して、バ群の中でお互いに衝突しないように必死に位置をキープするのに精一杯で、もうレースの駆け引きをする余裕なんてなくなっている。
(なにが……何が、起きたら、こんな……っ!?)
その時。
隣に気配を感じて、背けていた顔を直して、右を向いて。
「……
「――――ッッ!!」
――怖くて……怖くて。
圧倒的だった。巨人みたいな威圧感で、ブロワイエさんが私の横を駆ける瞬間だった。
差し殺す。まるでそう言っているかのような、獲物を仕留める冷酷さと、いわゆる「雑魚」を相手にする退屈さが混じったような、そんな青い目の奥に光る、血のように紅い眼光。
『こ……ここでついに、「踊る勇者」が動いたぁぁーーっっ!!
なんてことだ、世界から集まった優駿、スターウマ娘達が、まるで赤子の手をひねるように潰されていく!!
その轟気だけで、他の選手達の走りを半壊させた――!!』
ブロワイエさんはさらに加速する。まるで本当の、流れ星のような速さでターフを駆け、私を差し切っていく。
――そして、また爆発的な威圧と風圧が、とどめを刺すように私達を切り刻んでいく。
「き……キングちゃぁぁぁん!!」
無茶苦茶にぶれて、霞んで、ぐらつく視界の中で、私はその名前を呼んだ。
先頭を何とかキープし続けているキングちゃんはまだ、あのブロワイエさんの走りに噛み付かれていない。でももしキングちゃんになんの計画もなくて、ただ思い付きで逃げているだけだとしたら……もうかなりペースも落ちてるのに、最後まで逃げ切れるわけがない。
「……それでも、それでもっ……!!」
それでも、キングちゃんなんだ。
私が、私達が、いつも憧れてきた、黄金世代の王様。
「日本総大将」なんて呼ばれてる私を従える、「世代のキング」。
(逃げて……キングちゃん…………!!)
――私は、ただ祈っていた。