※そして、キングヘイローさんが新たな伝説を創るようです。
「がはあっ、はあっ……っぐ……っ!!」
――辛い。
辛すぎる。いつもなら最後まで残し続けていた脚をもう使い切って、そこからあと2000m近く走り続けなければいけないなんて。
息が乱れて、整わない。足先が上手く、ターフを踏み込めない。集中線のように狭まった視界が、少し前のコース以外を映してくれない。
(ダービーの時も……こんなになって、走ってた……?)
芝2400m、東京レース場。
あの時と条件は殆ど同じ。今日の方が悪天候、芝状態は前と比べて良好らしいけど、それでも当時の感覚を思い出せないのはきっと、私自身が我を失っていたのと、出走しているウマ娘達のレベルが違いすぎるから。
日本ダービーは規模と品格はあっても走る選手はみんなクラシック級。対して今日のジャパンカップは全員がシニア級以上、それに半分以上が世界から招待されたベテランだ。だからレース進行はダービーと比べて高度でハイペースであって当たり前で。
それはつまり、私がこのレースで……あのダービーの時よりもさらに無茶な賭けに乗り出してしまったことを意味している。
(後ろは? どこまで詰められてる? 最後まで走り切るスタミナは、残ってる?)
毎分毎秒、頭の中を何度も何度もそういう類の思考がよぎっていく。そして私はそれらに全て、やむなくバツ印を付けざるを得ない。
その度に、胸の中がどんどん重くなっていく。スカイさんがまさに言っていた通り、勝てないイメージがどんどん具体的になってきて、身体が凍り付くように動かなくなっていく。
そんなささくれ立った心が、二十万人の観客の私に対する失望と軽蔑を感じ取ってしまう。
(……いえ、違うわね。私が考えるべきは……そこじゃない)
――だから、考えない。
そうよね、トレーナー。これは考えるのをやめるための作戦。そんなことを考えない為に初めから全力疾走して、スぺさん達を突き放して、余計な要因を全て排除した。
……それなら、今私がやるべきことは一つ。ただひたすらに、全霊に走るだけ。
「ぎっ……あ、あああっ……!!」
全身が軋んで音を上げる。どこか筋肉が切れてしまったのか、痺れるような感覚が脳まで這い上がってくる。
とっくの昔に、スカイさんが手取り足取りレクチャーしてくれた逃げの走法は崩れてしまった。今の私は技術も何もない、ただのでたらめな走りしかできない。
それでも、止めたらダメ。そう言い聞かせて、上半身を投げ出すように前に傾けて脚を強制的に前へ運ぶ。さっきからそんな条件反射すら鈍くなり始めていて、歯を口の中の肉ごと食いしばってなんとか意識を保って絞り出す。
……首だけは決して下げず、霞む前を見据える。
(どうやって……ここからどうやって突破したっていうの……ウララさん)
『う……ららああああああっっっっ!!!』
あの時のウララさんの咆哮が忘れられない。まるで全てを捨て去ったような、これからの可能性を全て前借りしたかのような、あの超然とした走りが。
――トレーナーは、あれだけはするなと言った。これまでを懸けるだけで、これからは決して賭けようとはするなと。ウララさんはそれを何も知らずに、ただひたすらにオペラオーさんや走る誰もを救いたいと純粋に願ってしまっただけで、その危うさを知った以上、君にそれをさせるわけにはいかない、と。
(だけど、出来ないのよ……! これだけ、走ってるのに……っっ!!)
これまでを、懸ける。
……懸けられるだけのものが、私にはある? 一流としてのプライド? 敗北からのし上がった不屈の精神?
でも、他のみんなだって、私のそれに匹敵するものを持っているでしょう? それぞれのどうしても譲れない、勝たなければならない理由を。
そうでなければ、この舞台には立てない。重賞で戦い続ける事なんてとてもできない。
(ずっと……捧げてきたじゃないっ……! 一流になりたいっていう、私の信念を……!!)
なのに。スぺさんも、スカイさんも、グラスさんも、エルさんも。
ウララさんも、ライアンさんも、クリーク先輩も。
みんな、そこに辿り着いたというのに。
(なのに……なのに、どうしてよっ……!!)
ああ。またね。
どうして私だけ、並べないの?
「…………つらい」
辛い。どうしようもないほどに、辛い。
身体が痛い。息が苦しい。今すぐに走るのをやめて、その場で眠り込んでしまいたい。
ダメよ、
そうじゃないと…………私は。
「……ッな」
私は――間に合わなかった。
「うわぁああぁっ……っっ!!」
天変地異が起きたかのような、異質すぎる空気の変化。
続いて耳を劈いた、スぺさんの悲鳴。
(じ……時間切れ――!?)
確認するまでもない。むしろその余裕はない。
「踊る勇者」が、ついに始動したのだ。私が限界の先を、超える前に。
『こ……ここでついに、「踊る勇者」が動いたぁぁーーっっ!!
なんてことだ、世界から集まった優駿、スターウマ娘達が、まるで赤子の手をひねるように潰されていく!!
その轟気だけで、他の選手達の走りを半壊させた――!!』
なにかが、くる。
絶命を連想させるような、終末的な虫の知らせ。それが背後から次々に上がる、選手達の悲鳴でどんどん胸の中で増幅する。
「き……キングちゃぁぁぁん!!」
――逃げて……キングちゃん…………!!
そんな意志が、私を呼ぶスぺさんの声に乗って伝わってくる。
あの子に、そんなことを言わせるなんて。もう勝負にならないような、誰かに望みを託すような、そんな。
(動いてよ……動きなさいよっ!!
私には! 才能が、あるんでしょう……!?)
ずっと、そう信じてきた。
クラシックの苦難を越えて、生まれ持った才能という翼が、私にはあるって……ずっと信じてきたのに。
でも脚はもはや、うんともすんとも言うことを聞いてくれない。今の速度を保つのに精一杯で、これ以上の粘りは出来そうにない。
「く……ぅううぅぅっっ!!」
それでも、諦めたくなくて。
ここで諦めてしまったら、もう自分を信じられなくなってしまいそうで。
そうして、腕を無理矢理振って、脚を踏み込もうとして。
「愚かな」
――耳元で囁かれる、敗北の宣告。
「弱い。弱すぎる」
息が、止まった。
完全に硬直した身体の中、目だけで声の主を辿れば……私を内から抜くように並ぶ、異形の影。
「脆く、醜く、足りなすぎる。君に『一流』は……相応しくない」
――心を鷲掴みにされ、握り潰され、踏みつぶされるような、そんな響き。
反駁するにも、緊張と疲労で口から声が、出ない。
「……別れも告げるまい、裸の王様よ。せめて慎ましく、眠れ」
ぐしゃり。
「――――――」
蹴り飛ばされた泥が、私の頬を穿った。
鉛の様なその衝撃が、頭部を反響し、脳を揺らし、細動させる。
『つ……ついに「踊る勇者」、先頭を捉えた!! さらに速度を上げて、これはもう独壇場か!?
――そしてなんと、キングヘイローどうした!! 大外まで弾き飛ばされて一気に失速、どんどん他の選手にも追い越されていく!! 状態が心配です、大丈夫でしょうか!?』
そして。
私の意識が、飛んだ。
※※※
「はっ、はっ、はあっ……」
私はまだ、あのメジロの療養所にいた。
――なによ、今のは全部……夢だったのかしら。
「ほら、キング! コーナーではちゃんと内に沿って走らなきゃ! そうじゃないと余計に体力使っちゃうよ!」
私はまだ、走っていた。見ればスカイさんがそう、遠くから指示を飛ばしてくれている。
――走っているのに、夢?
「ほらほら、キングちゃん! あと少しよ、がんばルンバ~!!」
もう少しでゴールの筈だった。そこでマルゼンスキー先輩が檄を飛ばしてくれていた。
……なのに私の身体は、どんどん速度を失っていく。
(あれだけ走ったのに、負けた)
気が付けば、コースのど真ん中で立ち尽くしてしまっていた。スカイさんが私の名前を呼んで、その不自由な脚でこちらに向かおうとしているのが見える。
「あらら~? どうしちゃったの、キングちゃん?」
声を掛けてくれたのは、近くにいたマルゼンスキー先輩だ。慌てて私はそれに返答する。
「え、ええと、失礼しました、まだ逃げに慣れていなくて、スタミナが足りないせいです。もっと、もっと走り込んで必ず克服しますから……」
(やっぱり才能なんて、なかったのよ)
「……ねぇ、キングちゃん」
――気が付けば、スカイさんの声が聞こえなくなっていた。
「キングちゃんは、どうして走っているの?」
(辛くてたまらないの。もう、苦しみたくない)
……どうして?
そんなの、決まっています。以前の私は、お母様の娘としてではなく、キングヘイローとして世間に認めさせたくて。
でもそれをやめて、今の私は……私が走りたいレースで走ることで、それを証明しようって思うようになって。
「……ええ。それはとっても素敵なことね。
でもあたしが聞いているのは、そういうことじゃないの」
……え?
私は、自分が走る理由を話したつもりです。このトゥインクル・シリーズの中で、どう走るかを。
(……もう、疲れたわ)
――あら?
どうして、脚が……前に、一歩も踏み出せないのかしら?
「そう。それは、あなたがどういう道を歩みたいかっていう話でしょ?
あたしが言いたいのは、もっとかんたんで、シンプルなことよ。
あなたは、どうして走りたいって思ったの?」
私は、勝手知ったるベッドの上に横たわっていた。
立ち上がろうとすると、足の先が地面にとどかない。
「……おみず」
寝ぼけた頭でそう呟きながら床に飛び降りて、部屋のドアを開けた。その隣で前日に一人で飾り付けた、クリスマスツリーが夜風でゆらゆら揺れている。
……そこで気が付いた。リビングがぼんやりと明るい。変に思って、私はこっそりと覗いてみた。
「……おかあさま?」
――ハッと、お母様が食卓から立ち上がる。その後ろにあるのは……さっき私が食べた店売りのクリスマスケーキとは違う、不格好な形のケーキ。
「あー、だめよ、へっぽこおかあさま。よるにつまみぐいしたら、わるいこだってサンタさんがおこっちゃうわよ?」
ちょっと、得意だった。
お母様はいつだってテキパキしていて、隙なんて一切作らなかった。……いや、本当は隙だらけなことを知っていたけど、それを娘の私には決して見せまいとしていたから、偶然お母様のそんな一面が見られたことがすごく新鮮で。
……それと同時に、料理の苦手なお母様が、私の為にケーキを作ってくれていたことが、すごく嬉しかった。
「……いっしょにたべましょう? ふたりでごめんなさいってあやまれば、サンタさんもゆるしてくれるわ」
だから、私も隣に座って、おすそ分けしてもらおうと思った。
それがどんなに美味しくないものだったとしても、食べてあげようと思った。
「……キング」
だけど。
お母様はなぜか自分の肩を抱いて震えると、今度は私を思い切り引き寄せて。
「……おかあさま?」
「ごめんね、ごめんなさい、キング……ずっと、ずっとひとりにして」
とても静かだった。
お母様のすすり泣きだけが響いていた。
「それでも……それでも私は、捨てられないの……!
バカな親を呪って頂戴。あなたがこんなにいじらしいのに……走るのを、捨てられないのよ……!!」
――お母様が、霧散していく。
リビングに残ったのはおぼろげな光と、私だけ。
「……なによ」
あの日。お母様はクリスマス当日だけ帰ってきて、次の日起きたらもう家を出てしまっていた。
それから一人でクリスマスツリーとリースを片付けて、年を越して。お母様は今夜のレースに出走するせいで、ずっと帰ってこない。
「……なによっ……!」
涙が滲むのを、ふるふる頭を振って堪える。その時、今まで淡く光っていた光がちらついて。
『さあ、始まりました! 新年早々のアメリカG1、五人とも綺麗なスタートを決めております!!』
テレビが、付いていた。無意識に私はその前に座る。
――そこに映っていたのは、お母様の走る姿。集団の中で落ち着いて機会を伺う、他の四人の暗い髪とは違う明るい鹿毛のウマ娘。
『さあ、向正面に入りました! 先頭二人、後方に二人! その間に、我らがウマ娘が挟まる形となっております!!』
他の選手は、みんなお母様より明らかに年下だった。
当然よね、あの年齢になってまだターフを踏む人なんて、めったにいるものですか。普通なら誰もがどこかで自分の潮時を悟って、これ以上負け越さないうちにって引退する道を選ぶのだから。
『ここで仕掛けましたっ!! 第三コーナーに入る直前、後方二人がスパートを掛けきる前の絶好のタイミングで進出を始めた――っ!!』
――でもお母様は、首を下げなかった。
自分だけ老いた身体で、ダートの砂を被るだけ被って、それでも……優雅さのかけらもない執念の表情で、まずは一人追い抜かしていく。
『最終コーナー、先頭にプレッシャーをかける! まだ出ないか、外からまくってあがって……おおっ、ついに……ついに先頭に立った!!』
――私は、知らなかった。
あとでトレーナーから聞いた。この時お母様は、身体の衰えと同期の凄まじい戦績に挟まれて、勝ちきれず上手くいかない日々を送っていたのだという。
だけど、それを知らなかったのに……私はその走りに、なにか突き動かされるようなものを感じて。
「……いけ」
気が付けば、拳を振り上げていた。
「いけっ……がんばれ、おかあさまっ……!!」
――ずっと、悔しかった。
どうしてお母様が、走りを捨てられないのか。どうして私じゃなくて、そっちを選んでしまったのか。どうして私の事を一番に、見てくれないのか。
だけどあの、必死ながら、心を燃やして、決して妥協しないで走る姿を見た時……それがどうしてか、なんとなく私にはわかってしまった。
心のどこかで……お母様を、赦せてしまった。
「――はしりたいよ」
私も。
あなたのように、走って、頑張って、諦めないで、その姿で私みたいな孤独な人に、希望を与えたい。
そうしていつか、あなたと――並んで、走ってみたい。あなたに私に構う暇がないというなら。
……私が、あなたのもとに。
「それが……私の、さいしょのきもち」
そう。
あの頃から、あの夜から、私の道は決まっていた。それがお母様その人に反対されたり、自分を見てもらいたくて悪戦苦闘したり、それから自分で決めた道を行こうって決めたり、いろいろあって……もうそこまで単純なものじゃなくなっているけれど。
『ゴールっ!! 一着です!! その走りは、栄光すら置き去りにした――――!!』
……でも、それをいつも支えていたのは。
「私にとって走ることは、それ自体が――
「うん……バッチグーよ♪」
――視界が、開ける。
「それが聞きたかったわ。ちゃんとあるじゃない。あなたの……走ることが、好きな理由が」
……マルゼンスキー先輩。
もしかして、先輩がこの特訓に参加した理由って。
「キングヘイロー、臆することはない。
ただ逆境を耐え抜くだけじゃない、本当の心に気が付いた今の君なら、きっと勝てる」
オグリキャップ先輩。私と正反対の境遇なのに、少し親近感があって。
今ならわかる。地方、葦毛の逆境を乗り越えて、伝説になった先輩は……お母様に、ちょっと似ている。憧れて、いつか並びたいって素直に思える、そんな。
「こんなところで潰えるようでは困るよ、共に『王』の名を冠する者よ!
ボクはまだ、君とウララ君への正式なリベンジマッチを行っていない!!」
オペラオーさん。どんなにつらくても、特訓がしんどくても、あなたは絶対に笑うことを止めなかったわね。
よく分かるわ、私だって同じ……王様はいつだって、どんと構えているものなのだから。
「ライアンに不屈を教えた貴方のことですわ。我が道を歩み、多くの人々の期待に応える……そんなキングさんの姿勢は私にとっても、今後の指標なんですのよ」
マックイーンさん。私だってあなたの、あの凛とした姿には目が眩む思いだったわ。
でも、そんなマックイーンさんの目標の一つになれるのなら……私も今まで走ってきた甲斐があったというもの。あの夜のお母様の走る姿に、少しでも近づけた証なのね。
「……でも」
――もう、隠せない。
裸の王様、言い得て妙じゃない。必死に張り続けてきた虚勢は、あの泥を受けて無残に崩れ去っていて。
「……でも、怖いのよ……!
これだけやって、これだけ迷惑かけて……負けるのが嫌なの……!」
才能がないと、思い知るのも。
負け続けて、なのに首を下げず堂々としているのも。
そうして「一流」を名乗る裏で、陰口をたたかれるのも。
ずっと、怖くて、寂しくて、しんどくて苦しかった。全てを投げ出して、逃げてしまいたかった。
……もう、隠せない。
「……ずっと、ずーっと、走るのが、辛くてたまらなかったのよぉ……!!」
「泣かないで、キングちゃん」
――ぼろぼろと零れる涙の奥に、みんながいた。
「それでも、思い出したんですよね?
キングちゃんの、最初の気持ち」
クリーク先輩が、困ったように私の頭を撫でる。
「大丈夫ですよ。それを忘れなければ……キングちゃんはいつだって、一からやり直せるんです」
レースは、私の「一流」を証明する手段。
……その前にあるべきだった、本当の走る理由を思い出した。
「自分を信じてみようよ、キング。あたしはそれを君から教わったんだ」
ライアンさんは力瘤をつくって、こちらに向かってウインクをする。
「あたしは信じてるよ。君なら、みんなを笑顔にするようなすごい伝説を創ることができるって!」
自分の証明のためだけの苦しい走りは、このひと月の特訓と今日のこれまでのコースで全て出し切ってしまった。
きっとここが最後の選択だ。ついにスタミナも根性も底をついて、ズタズタに心を引き裂かれて、それでも私は、走るのか。
……走るに値する、想いがあるか。
「キングちゃん!」
振り返ってすぐに、ウララさんは私に飛びついてきた。
「わたしは、キングちゃんも、キングちゃんが走ってるところも、キングちゃんの頑張るところも、ぜんぶ大好き!
きっと、みんなもわかってくれるとおもうな! キングちゃんがまたがんばるぞーって、がんばれば!」
またがんばるぞーって、がんばる。それは、どうしようもなく重たい。
いつまで続くかもわからない。あと何度負けることになるのかも、どれだけバカにされて、笑われるのかも。生涯現役を貫くなら、それは今までとは比較にならないはずよね。
「なぁ。君の名前は、なんだ?」
――笑みが、零れていた。
だって全部、揃っているじゃない。想いも、プライドも、支えも。
私はもう、才能を疑わない。負けを恐れない。どんなに邪険に扱われても、屈したりはしない。
だけどそれ以上に……もう、「私」を失わない。
「……知りたい?」
差し伸べられた手を取って、トレーナーの隣に立つ。
目の前に、光が見える。まるで私を待っているかのような、四つの光。
……その黄金を前にして、私自身も、一際眩しい光を放っていることに気が付く。
「さあ、行ってこい。
そして、教えてくれよ。君の名前を、その脚で」
……これは全て、夢。
私の心の中の幻想に過ぎない。
でも私は知っている。その全てが、本当にみんなが想ってくれている事だってことを。
「「キングーっ!! 頑張れーーっ!!」」
「キングさん、キングさーーーーんっ!!
やっておしまい、ですわ〜〜っ!!」
――みんなが、私の名前を聞きたがっていることを。
「じゃあ、行ってくるわね」
何もかもが、溶けて混ざる。
その中で、五つの光が一つになって。
……ありがとう、私の大切な――――。
その瞬間。
どこまでも続く雲の切れ目から、一条の光が差した。
「……キング……?」
偶然か、必然か。
その神秘的な景色の中で光が照らし出したのは、今まさに俺と救護班が助けに向かおうとしていた……最終直線前の最大外をふらつきながら走る、危ういキングの姿だった。
「キングちゃん……?」
「キング……!?」
「キング君……!」
「キングヘイロー……!!」
偶然か、必然か。
ルドルフが、マルゼンが、オグリが、マックイーンが、オペラオーが、クリークが、ライアンが、ウララが、グラスが、エルが、スカイが。
それだけではない。それをみた観客が口々に、その名前を呼んだのだ。
――んもう、そんなに呼ばなくたって……ちゃんと聞こえてるわよ。
気が付けば。
キングのふらつきが、いつの間にか止まっていた。
――さて……みんな、待たせたわね。
その時、俺は見た。
眩しいほどの光を浴びて、黄金に光輝くキングの瞳に、魂が戻ったのを。
「――っ」
……そして。
ほんの一瞬、キングはこちらを見たのだ。まるでようやく、用意が整ったとでも言うように。
――トレーナー? 準備は、いいかしら?
……頷くと、キングは満足そうに口元を緩め、腰を低く落とした。
その様子に、二十万人の観客が、何かを予感して息を潜めている。
(……でも、聞こえるよな?)
そう。言わずとも、誰もが思っていた。
――征け。
――征け!
――征けっ!!
――征けぇっ!!!
「征けぇぇっっ!!
キングヘイロー――っ!!!」
「はあああぁぁぁーーーーっっっ!!!!」
――神々しい。
そんな表現しか似合わない走りを、俺は他に知らない。
『な……なんと!!
キングヘイローだ!! 黄金世代の王!! やはりキングヘイローが、最大外から飛んできたぁぁぁっっ!!』
――それは誰よりも、真なる王者の走りだった。
その脚は大地を震わせ、芝を割り、跳ね上がった泥が陽に照らされて、辺りを輝きに満たしていた。
「キングちゃん、キングちゃん、踏ん張って、不退転の覚悟で……っ!!」
――右肩に、不死鳥の翅を。
「ファイトーッ!! キングちゃーーんっ!!
アナタは誰よりも……高く飛べる――!!」
――左肩に、コンドルの翼を翻して。
「いっ……けぇぇぇぇぇ!! キングちゃぁぁん!!」
――叫ぶスペの真横を、流れ星のように駆け抜けて。
「キング……頑張れ……頑張れぇぇぇっ!!」
――青雲を駆ける、稲妻のように突き進む。
「……面白い……!!」
『さぁ、我らがキングヘイロー、ついに二着にまで躍り出たっ!!
残り300メートル、差は五バ身ほど!! 三着と大差をつけた勝負、「踊る勇者」が栄光に別れを告げるのか、それとも世代のキングが撫で切るのか――!?』
――「踊る勇者」は更に、速度を上げる。
途端にこの観客席にまで舞い踊るような、凄まじい豪風が立って、巻き上がった芝が嵐のように吹き荒れる。
……明らかにウマ娘という種族が可能な走りを超えている。百獣にも勝る獰猛さと禍々しさの溢れる、まさに誰も追い縋ることの叶わない史上最強の走り。
「だ……ああああああああっっ!!」
「……な、何……っ!?」
初めて、その異形の表情に、焦りが見えた。
当然だ。そんな瘴気とも言える豪圧の中にキングは突っ込んで、貫いて、打ち払っているのだから。
それはまさに、彼女の中に眠る伝説の血脈が、その潜在能力が遺憾なく解放された……まるで別次元の、金剛の走り。
「なぁ、ルドルフ」
「……ああ」
その一言で、俺は全てを悟った。
疑いようがない。あれがキングの「領域」。限界の先を超えた、彼女の本当の絶脚。
――それが今、史上最強の豪脚を……差し切ろうとしている。
「な……舐めるなぁぁっっ――!!」
更に、「踊る勇者」の走りが凄みを増す。ここまでに彼女は一体何段のスパートを掛けたんだ、どんなウマ娘だって、そんな敵を前にしては戦意を失って当然だ。
「まだ……まだまだぁぁぁっっっ!!」
――だけど、今回だけは、相手が悪かったな。
だって相手は、あのキングだぜ。誰よりも、他のどんな誰よりも、絶対に、決して最後まで諦めない、あのキングなんだ。
「グッ……グアァァァァッッ!!!」
離せない。それどころか、着実に追い詰められている。
そして、遂に隣に並んだ、その日光を受けて光煌めく黄金の王者の姿を、「踊る勇者」は凝視して。
「――っな……!?」
……驚きのあまり、目を剥いた。
キングは笑みを浮かべていたのだ。いつもはスパートの苦しさに怒涛と苦悶の表情を浮かべるキングが、この瞬間は泥と芝に塗れながらも……不敵に、笑っている。
「負けられない、なんて、もう言わない。
――勝ちたい。あなたっていう絶望に打ち勝って……その名誉の、さらに先を駆けたい」
――自分を証明するだけに、留まらない。
今までのキングの在り方を更に飛び越えた……彼女の新しい可能性の、誕生の瞬間だった。
「困難を越えて、ただ先に行きたい。そんな姿に誰もが夢を見るような、
やっと見つけたの。それが私の――私だけの、『一流』だから」
――だから、ありがとう。お母様。
あなたがいたから、私はここまで走れたの。どうしようもなくなって、最後の最後に私を救ったのは……自分の走りと私との間でずっと傷ついて、悩んで、苦しみ続けてくれた、あなたの不器用で、不完全で、不恰好な、私への深い愛情だった。
「……キング」
――ええ。聞こえてるわ。
有馬記念の時も、聞こえてた。……本当は、ずっと見守ってくれている、そんな気がしてた。
でも。もう、私は大丈夫よ。
「キング……あなたって娘は……っ」
だから。お母様。
――
ここからは、真なるキングヘイローの物語。あなたから完全に巣立ったひとりのウマ娘の、新たな伝説の始まり。
「……それが、君の選択なのか」
……「踊る勇者」の声は、どこか穏やかだった。
「茨の道だぞ。無限とも言える挫折を味わうかもしれない。レースによって……不治の苦難に冒されることも、ないとは言えない」
……それはまるで、子を案じて、やんわりと諭そうとする父親のような声で。
「それでも……君は、走り続けるのだな」
ゴールまで、あと10mもない位置。その一瞬が、永遠のように感じる。
極限まで鎬を削り切った者同士の、魂の交信だった。あるいは、長い闘いの末に巡り合った、家族の邂逅のような。
「……やっぱり、ばかな子ね」
「ああ。……誰に似たんだかな」
……私には、何の話をしているのかは分からなかった。
でもそれはとても、とても暖かくて。
「私、やっぱり……走って、良かった」
――思わず出たその言葉を、最後に。
ゴールラインを走り抜ける。
血戦を戦い抜いた両雄が、そのままホームストレッチの端までかけていき、それぞれコーナーを少し曲がったところで……ドサリと倒れ込んで。
……静寂。
「キング」
――むくり。
まるで俺の呟きに反応したかのように、キングは起き上がる。
圧倒の沈黙に包まれている中で、膝を付けども起き上がれないブロワイエを背に、キングは震える脚を踏み締める。
『……ぁ、い、今、ゴールイン! じゅ、順位は……!!』
実況すら雰囲気に呑まれる中で、ラチに寄りかかりもせず、遂に自分の力で立ち上がる。そしてゆっくりと、悠然と観客席に向き直ると。
……その左手を口元で、ぴんと翳して。
「――おーっほっほっほ!!
さすがキング、でしょ?」
『き、キングヘイローが撫で切ったーーっ!!
やはり恐ろしかった!! 史上最強と呼ばれた「踊る勇者」の空前の末脚に、キングヘイローが届きました――!!』
――空はいつの間にか、晴れ渡っていた。
※※※
「……
差し出した私の手を、ブロワイエさんはそっと掴んで、身体を起こした。その口元には、柔らかな微笑みが浮かんでいる。
――「踊る勇者」は、どこかに去ってしまっていた。
「……
首を振って、気にしていない意を伝える。
ブロワイエさんだってメインターゲットが私だった以上、私を打倒するためのトレーニングを積んできたんでしょうから、多少は仕方がないというものよね。
「……構わないなら、この場を借りて君を祝福したい。
おめでとう、キングヘイロー。君は今……世界の頂点に立った」
――改めて握手を交わした途端に、歓声がどっと湧き上がる。
振り返ってみれば、特訓に付き合ってくれた皆さんが、最前列まで押し寄せて手を振ってくれていた。
……もう、何でそんなに泣いているのよ。
「キングーーっ!!」
なっ、え、トレーナー!?
柵を乗り越えてこっちまで駆け寄ってくるなんて、一体どういうつもりよ!
「おまっ、この野郎、無理すんなって、あれだけ言っただろ!!」
「ちょっ、ちょっと! いきなり怒鳴らない……で……」
……言葉は、最後まで続かなかった。
事もあろうに、トレーナーは私をその場で抱き締めて、そのまま泣き出してしまったのだから。
「バカ野郎……最高だったけど……もう二度と、使わせてたまるかよ、あんなの……!」
「……あなたこそおばかね、自分で送り出しておいて。
でも……ありがとう。私とここまで、来てくれて」
トレーナーは、震えていた。大の大人が、人目も憚らずに大粒の涙を零していた。
嬉しいような、恥ずかしいような、複雑な気持ちだったけれど……でもどこか、すごく心地がいい。
「……オグリ先輩、マックイーンさん、オペラオーさん。
本当にありがとうございました。あなた達がいなければ、私は今日勝つことができなかった」
チームポラリスに立ちはだかった、強敵たち。そんな三人も今は、ただひたすらに私のことで歓喜してくれていた。
「……マルゼンスキー先輩。
私に、走る楽しさを思い出させてくれて、ありがとうございました。あなたがいたから……私はまた、立ち上がれました」
目元をハンカチで抑えるマルゼンスキー先輩は、それでも笑顔で頷いてくれた。
「……クリーク先輩。ライアンさん、そして……ウララさん。
カワカミさんも、二人も。このチームが大好きよ。みんなのことも、ずっと……心から、大好き」
拳を振り上げて喜ぶライアンさんの横で、ウララさんとカワカミさんが手を取り合ってはしゃいでいる。そしてボロボロと泣きじゃくっている後輩二人の肩をそっと引き寄せながら、クリーク先輩が微笑んでくれた。
……あの時の高松宮記念を、思い出すわね。
「グラスさん、エルさん、……スカイさん。それと、スペさん?」
トレーナーをそっと押し留めて振り返ると、スペさんは少し疲れた様子で歩み寄ってくれた。一瞬だけブロワイエさんを見てびくっとしていたけれど……でもすぐに表情を改めて、握手をする。
……改めて流石ね。どこまでも真っ直ぐなんだから。
「みんな……私の友達で、ライバルでいてくれて……本当にありがとう。
何度でも言うわ……私、この世代で、良かった……!!」
意外にも、一番ぼろぼろと泣いていたのはスカイさんで。
相変わらずスペさんとエルさんは大泣きしてて、グラスさんはそれを嗜めながらも、目を赤くしていて。
「……好かれているんだな。キングヘイロー」
――それらを見守っていたブロワイエさんが、そう私に話しかけた。
「ええ。だって私こそ……一流ウマ娘だもの」
だから、そう言い切ってみせる。
すると彼女は一瞬だけ面食らったような表情を見せた。
「……なるほど。
あの人が言っていた通りの娘だな、君は」
そう。
忘れていたわけじゃない。ブロワイエさんとの戦いは、世界を相手にしたことだけを意味していた訳ではない。
――これは、私とお母様の戦いでもあったのだから。
「君は、あの人がなぜこの勝負を仕掛けたのか、その本心を知らないだろう」
「……本心……?」
そういえば。
初めはお母様の気持ちが分からなくて困惑していたのに、私ったら特訓の中でいつの間にか忘れてたわ。
「そう、本心だ。なぜ今になって、あの人が私を君に差し向けたか。
そして……なぜ、私に専用の勝負服を提供したのか」
……何かが、翻った。
ブロワイエさんが、包むように私の背中に手を回して、そして……私の勝負服の、オフショルダーの部分と重ねるようにして、
「……この勝負服は、あの人の作品ではないそうだね。
それでも、今となっては君の宝物だろうと考えて、一から作り直すことなくそのデザイナーの元まで出向いて……これを付ける許可を頂いたそうだ」
そして。ブロワイエさんは、驚きに固まる私の元を、離れた。
……その肩には、先程まで羽織っていたそれは、もうない。
「君は、『王』なのだろう?
ならば、勝利の栄冠と
――それは、よく見れば私の耳カバーと同じ色の……紺青色のマントだった。
悔しい程に私の勝負服とマッチした、ブロワイエさんが「踊る勇者」として纏っていたそれが、オフショルダーの下から膝上までを包むように取り付けられている。
「……まさか、これを私に渡すために、こんな……?」
――店売りのを私に食べさせて、失敗した自作のケーキを一人で食べる、不器用なお母様。
あれから色々あって、取り返しのつかないほどに確執が深まって。レースに出ると聞かなかった私に、絶対に勝負服を作ってくれなかった。
……だから、もし改めて私の為に勝負服を作りたいと思い直してくれたとしても、今更そのまま手渡す訳にもいかなくて。
「いや……不器用すぎるだろ……娘にプレゼント一つ渡すのに、こんな命懸けの勝負まで用意して……」
呆れ果てたトレーナーの声が耳に痛い。
でもそれは、まさにお母様らしい……世界を股にかける、あの人ならではの。
「あっ……キングちゃん!?」
どこに、そんな力があったのか。
スぺさんの声にも応じずに、私は駆けだしていた。ターフの外に出て、記者の方々をかき分けて、レース前にトレーナーと立つことを約束した、ウィナーズ・サークルのマイクを掴んで。
「――っお母様ぁっ!!」
逃げようとしたって、無駄よ。たとえ今、私を無視してどこかへ去ったとしても。
……二十万人もの観客が、これから私の宣言を目撃するのだから。
「『踊る勇者』は倒したわ。次は……あなたの番よ!
勝って、勝って、勝ちまくって、負けまくって! その先で、最期のレースで……私と一緒に、対等に走る権利をあげるんだから!!」
……それがいつになるかは、私にも分からない。
私が走って、走って、あの人はデザイナーとして活躍して。そうして……いつか、二人ともしわくちゃになって。
その時に、血を吐いてでも走りましょう。それが、お母様と私の、最初で最後のレース。
「――勝負よ、お母様!!
私は諦めないわ!! あなたからもらった、この命の限り!!」
――どこかで笑みの零れる、音がした。
・「KING of Halo」(☆3キングヘイロー「エース・オブ・ポラリス」)
「絶不調」かつレース終盤前まで先頭をキープしつつ力が尽きかけると、最終直線で立ち回りが上手くなり、限界を超えてすごく力強く踏み込んでいく
※「力が尽きかける」……持久力10%以下
※「限界を超えて」……持久力補正が消える