※ハルウララさんがエルムステークスに挑むそうです。
「あらあら、トレーナーさん。こんな夜遅くまでお疲れ様です〜」
「……ん、ああ、クリーク。そっちこそ、もう寮の門限近いだろ?
後は俺がやっておくから、もう切り上げよっか」
「そんな訳にはいきません。寮長のフジキセキさんには遅くなりますって、伝えてありますから〜」
既に時刻は、午後八時半を回っている。
だというのに、今俺の目の前にいるウマ娘ことスーパークリークはここ数日の間、門限ギリギリまで俺の手伝いをしてくれていた。
しかも今日はまだ居残るつもりらしい。チーム内では最年長ながら、彼女はまだトゥインクル・シリーズに残っており、自分のトレーニングもあると言うのに……俺が親父の後を継いでからは実質的なサブトレーナーとしての仕事を引き受けてくれているのだ。
昔から彼女には、全く頭が上がらないというか。
「そんな事、全然気にしなくて良いんですよ。トレーナーさんは、私に一杯甘えてくれれば良いんです♫」
「そうは言ってもなぁ、苦労かけてごめんな。
最近ちょっと根詰めてるし、明日はオフにしよっか。ウララとライアンは俺が纏めて面倒見るからさ」
「……そうですね。それなら、お言葉に甘えさせていただきます〜」
俺が初めて全面的に担当したウマ娘がキングヘイローなら、俺が初めてトレーナーとして関わりを持ったウマ娘がスーパークリークだ。彼女は無意識に多くを抱え込み過ぎてしまう性分の持ち主なので、こっち側でしっかりとガス抜きをしてあげる必要がある事を、俺は彼女のクラシック時代に学んでいた。
なので、俺は自分のノートパソコンを閉じて席を立つと、今居るトレーナー室の端にある休憩所の椅子にどっかりと座り込んだ。
こうすれば、ひとまずは彼女も俺と話をする為に仕事を止めてくれる筈……。
「はい、冷たい飲み物を飲んで、リラックスしてくださいね♫」
……余計な気を遣わせてしまった。俺もまだまだらしい。
「私がしてあげたいと思っているだけなので、気にしなくて良いんですよ〜。
――もうすぐでしょう? ウララちゃんのレース」
さて。
そろそろ本題に入るとしよう。
「……ああ」
今年の初めに見事、ウララは未勝利戦を突破した。
そうなると、一応の最終目標である有馬記念に出走する為に、俺達は今後のレーススケジュールを練り直す必要があった。
「出走レースを重賞クラスにのみ最大限絞って、ウララを勝たせる」。俺はあの時理事長やたづなさんにそう啖呵を切ったのだが、やはり年内で実績を出すとなると道は依然として厳しさを極めていた。
「フェブラリーS、マーチS、プロキオンSと来て、次はエルムS……デビューしたばっかりなのに、半年で四つも出走させるなんてな」
そして、残念ながら、今のところどれ一つとして勝利を収めてはいなかった。
フェブラリーは八着で惨敗、マーチは五着でギリギリ入着したが、プロキオンでは再び六着に逆戻り。まあ、フェブラリーはG1なので初っ端からどうしようもなかったとは思うのだが。
だが、マーチもプロキオンもG3だ。例のURAの提示したスケジュール表にも名前が載っていたこの二つのレースにおいて今一つ結果が出ず、且つ成績が下がっているとなると……次の順位次第ではやはり実力不足と見なされて、出走レースを増やす流れをこれ以上止められなくなるかもしれない。
「だから、次こそ取らないとダメだ。……もう少しこれからのスケジュールを練るべきだよな、クリークはやっぱりもう帰って」
「めっ!」
次第に焦りが止まらなくなってしまう。クリークの為と思ってデスクを離れたが、やはり呑気にくつろいでいる暇はない、ウララのこれからが掛かっているのだと立ち上がったところに……その実質サブトレーナーが膨れっ面を寄せてきた。
「慌てる気持ちは分かりますけど、ウララちゃんの事を心配しているのはトレーナーさんだけじゃないんですよ?
キングちゃんも、スペちゃん達も、みんなで一生懸命考えてきたじゃないですか。トレーナーさんだけ頑張っても、足並みが揃わなくなってしまいますよ?」
ぐうの音も出ない。俺はすごすごと座り直す。
あの未勝利戦の後、ウララの方針を正式に理事長に所信表明をした時。それから暫くの間は抗議の電話が彼女に殺到していたらしく、フェブラリーでの大敗もあり流石に無理があるかと頭を抱えていた俺達を救ったのは何と……あのキングだったのだ。
『ウララさんを有名にしたいのなら、そんな見境のないスケジュールなんて捨ててしまいなさい!
そんなものより、もっと価値のある一年をあげるわ! この一流の私と、一流の私の同期の皆さんが……ウララさんを有馬に連れて行くんだから!』
――「最強」の黄金世代が、「最弱」のハルウララを有馬記念へ出走させる。
ウララの選手生命の問題だけでなく、話題性も十分な大看板を彼女が引っ提げてきた事で、この押し問答は漸くひとまずの落ち着きを見せたのだった。
そしてその宣言は決してブラフではなかった。あれだけダートを嫌っていた筈のキングは毎日ウララさんとダートコースを併走し、また彼女が連れてきた「黄金世代」……それもスカイを始めスぺやグラス、エルまで全員でいずれかの練習で必ず合流しては、走るコツやアドバイスをウララに教えてくれているのだ。
……俺一人であたふたしても、どうにかなる問題ではない、か。
「大丈夫です。ウララちゃんはこの半年……いいえ、この二年半の間、ずっと頑張ってきました。
実力は十分にある筈です。あとは、ウララちゃん自身の……」
クリークはそこまで言って、目を細めた。
彼女の言うとおり去年の時点でウララは、実は未勝利ウマ娘としてはあり得ない程の能力を手に入れていた。恐らくそれを知っているのはサポートしていたクリークと俺、そして親友であり、前述のようにURA関係者と互角に渡り合うほどの聡明さを持つキングくらいだろうけど。
けれど、仮に裂脚症を度外視したとして、それでもウララには勝てない決定的な理由がひとつ……存在していたのだ。
「クリークはさ」
それは彼女の最も秀でた長所でありながら、致命的な短所でもあることだ。
有馬を目指すのなら障害となり得るものでありながら、されど心のどこかで……いつまでもあいつには持っていて欲しいと思ってしまうもの。
「ウララに、全てを話すべきだと思う?」
全てを話す。
つまり、自分は客寄せパンダの様に扱われかけていて、それを止めるためにチームが必死に動いていたのだと、ウララに悟らせる。
――何も知らずに、ただレースを楽しんでいただけの自分のために。
「……あの菊花賞のこと、覚えていますか?
私が調子を崩してしまって、最後のクラシック三冠前になって漸く元気になって……それで挑んだ、あの」
忘れたことはない。
クラシック級になってすぐの頃に突然体調を悪化させたクリークに、俺は血眼になってその原因を探そうと悪戦苦闘した。ある日、見てしまったのだ。俺の為に「三つ絶対あげる」……つまり三冠をとる筈だったのにと、夜の学園の中庭でひとり泣きじゃくっていた彼女を。
そんな時を乗り越えて、何とか持ち直したクリークが挑んだ最後のクラシック三冠。それが彼女の菊花賞だ。
「あの時私が考えていたのは、ゴールラインを一着で切るための作戦ではありませんでした。
私のために復帰メニューを考えてくれた先代のトレーナーさんに……ずっと私に付き添ってくれたトレーナーさん、あなたに、何をお返ししてあげられるか。それだけでした」
そして彼女は、二番手と圧倒的な大差をつけて、堂々の一着に輝いた。
「誰よりも速く走って、絶対に一着を奪い取る。
……そう思うことだけが、速くなるための秘訣なのでしょうか」
……今、ウララに全てを伝えてしまったら、あいつはレースを楽しむのをやめるだろう。誰かを犠牲にしてまで自分のスタイルを貫くには、あいつは優しすぎる。
それは一見近道ではある。一着への憧れを無理やり執着に変えて、他の誰を押し退けてでも前に出る貪欲さを身に着ければ、ウララのポテンシャルなら今以上の成績を出せる筈だ。
それは、本当に彼女にとって正しいことか。そうした時、俺はあの無謀なスケジュール表を突き付けてきた人間たちと、何も変わらなくなってしまうのではないか。
「……俺も、今日は帰ろうかな。クリークも戻ろう」
――クリークが入れてくれた飲み物に浮かぶ氷は、いつの間にか溶けてしまっていた。
「わぁいっ、レースだ! 今日もいっしょうけんめい走るぞー!」
一ヶ月ぶりのレースだった!
なんだか落ち着かないな。パドックに行くための道を歩いてるだけなんだけど、なんだかいつもよりもワクワクしちゃって、今すぐにレースがはじまらないかなって思っちゃう。
「んぅ~~! ウズウズする~! 早く走りたいなぁ!」
だって今日は、すっごい結果出せそうなの!
朝ごはん、にんじんごはんだったし! 夢でにんじん姫も『勝てる』って言ってたし!
それに――。
「みんなに負けないくらい、トレーナーとチームのみんなと……あと、キングちゃんとがんばってきたもんっ!」
最近、練習にキングちゃんがよく付き合ってくれるようになったんだ!
キングちゃんだけじゃないよ? スぺちゃんにグラスちゃん達もみーんな、わたしといっしょに走ってくれるようになったの!
やっぱりみんなでがんばるのって楽しいな。みんなで一着をめざすのってすごくワクワクすることなんだって、わたし気付いちゃったんだ!
だから、今日も!
(みんな、いっしょにがんばろうね!)
今日のレースにでるみんなで、いっしょに一着を目指せたらいいな!
そう思ってパドックに出て、おもいっきり着ていたジャージをばーって脱ぎ捨てたわたしが、みたのは――。
「……あれ?」
ウララーって呼んでくれる、みんなの声がきこえた。
いつもと、何もかわらないはずなのに……なんで?
(……ふいんきが、なんかへん?)
まるで、みんなの声のどこかに、ぽっかりとあなが開いちゃったみたいな。ちょっとだけ、きこえなくなった?
それだけじゃないみたい。なんとなく、先にゲートの前にきていたみんなが……なんだろ、びりびりってかんじでわたしをみてる?
「あれ? みんな、どうしたの? なにかあったの?」
なんだかへんな気持ちになって、わたしはパドックを降りて、そんなみんなのところに行ってみたんだ。
だけど、すぐにみんな、わたしから目をそらしちゃって、ばらばらに歩いていっちゃって。
「……ウララちゃん」
――だけど、たったひとりだけ。いかないで、わたしに近づいてくれて。
それで、それでね?
「何であんたが、ここにいるのよ」
どういうこと?
よく、わからなかったんだ。わたしがここにいるのは、今日レースで走るからで、だけどここにいちゃダメなの?
……そうやって、うんうんうなってるわたしをじろってみて、すぐに行っちゃって。だから、なんでわたしにそんなこと言ったのか、やっぱりよくわからなくて。
でもやっぱりゲートにはいって、レースがはじまるっておもうとワクワクして。
(……あとでトレーナーに、きいてみよっと!)
そう決めたら、あんまり気にならなくなって。
――すぐにゲートがひらいて、もうぜんぶすっかりわすれちゃった。
『さあ、一斉にスタートです!
快晴のもと砂塵の舞うここ札幌レース場にて、エルムステークスの火ぶたが切って落とされました!』
わぁい、はじまった!
……って、いつもだったらなにもかんがえないで走っちゃうんだけど、今日のウララはちがうんだよ!
『ウララちゃん、そんながむしゃらに飛び出しちゃダメです。
レースが始まったら、すぐに周りの皆さんの様子を伺うんです。そうして、常に自分が全体のどの位置にいるかを把握するんですよ?』
――だって、グラスちゃんがそう言ってたんだもん!
だから、わたしは全力で走らないで、ちょっとだけ力を抜いて、しばらく走ったんだ。
知ってた? 前のレースでも気がついたんだけどね、いちばん前と、そのちょっと後ろと、さらにその後ろに……まとまりみたいなものがあるんだよ。わたしはその、いちばんうしろのまとまりのちょっと前で走ってるんだけど、この間セイちゃんにきいてみたら、バグン? っていうんだって。
『バ群は怖いぞー。ウララみたいな可愛い女の子がうかつに入ったら、ぎゃおーって食べられちゃうんだぞー?
……だから、食べられないようにルートを考えて走るといいよー。ま、逃げるわたしには関係ない事だけどねー』
よく見るとね、走るみんなの間が、ぽっかり空くときがあるんだ。セイちゃんの言ってたルートって、このことなのかな?
……だったら、チャンスだよね!
『レースの後半になったら、どのタイミングで抜け出すかがとっても大事デス!
ボーっとしていると、勝利へのグローリーロードは閉ざされてしまいマース!』
――エルちゃんも、そう言ってたもんね!
「よーし! ウララ、ゴー!」
後ろのバグンからちょっとだけとびだして、三つ目のまがり道でギューンってはしる!
たったひとりで走るのはとくいなんだよ、いつもそうやって走ってたんだもん! だけどね、今は……わたし、いちばん後ろじゃないんだ!
「いっくよー!」
そこからさらに、さいごのまがりみち!
ここからが本番なんだよ! いっしょうけんめいワクワクをがまんして走ってたけど、ここからはぜんりょくで走るべし!
『ウララちゃん、スパートを掛けるときはムキになっちゃダメだよ!
ちゃんと正しいフォームで、正しいペース配分で冷静に速度を上げるといいよ! こうやって……』
スぺちゃんが教えてくれた、スパートのやり方! ウララはもうかんぺきにおぼえちゃったもんね!
りょうてはまっすぐ、うでをカクカクってまげて、それで、あしをじめんに……!
「あんたなんか」
――そのときね、とつぜん。
「あんたなんか、引っ込んでなよ」
とつぜん、前を走ってた、バグンのいちばんうしろのこが、すごく小さなこえで、言ったんだ。
「――あんたなんかに一着が、取れてたまるか!」
……それでね、わたしのかおに向かって、すなをバーッてけとばしてきたの。
めにすなが入っちゃって、びっくりして。目をあけられなくて、うまく走れなくなって。
(……なんで?)
思いだしたんだ。レースがはじまるまえに、みんながちょっとびりびりしてたこと。
みんな、わたしにそう思ってたってことなのかな。
(……なんで?)
わたしは、みんなと一着をめざしてがんばろうって、思ってただけなんだよ?
みんなでたのしく、いっしょにワクワクできたらいいなって、そう思ってたんだよ?
(……わからないよ)
わたしね、ずーっと負けちゃってたんだよ?
でね、ことしになって、やっと一回だけ勝てたんだよ?
だから、一着をとるってすごくむずかしいって、ウララも分かってるんだよ?
ずっと、ずーっと、次は負けないぞーって、思ってたんだよ?
『少し離れて五番が走る、後方二番手で八番が様子を窺っている。
――最後方、ぽつんとひとり、ハルウララ……どうしたのでしょう、突然順位を下げてしまいました!』
……だけどね。
(わたし、一着をとっちゃ、ダメなの?)
一番をめざしちゃ、ダメなのかな?
みんなでがんばっちゃ、ダメなのかな?
みんなでワクワクしちゃ、ダメなのかな?
そうおもったら、なんだろ。なんだか、ざわっとして、じーんってかんじでなにかがぐぐーってなって。
とにかく、レースがんばらないとって、めをあけようとして、いたくて、そしたらわたし……泣いちゃってた。
でも泣いちゃったからかな、すなが流れてくれたみたいで、ちょっとだけ前がみえたんだ。
――なんでだろう。わたし、いっつもこうやって、ひとりでいちばん後ろを走ってたはずなのに。
「……あれ?」
楽しくない。ぜんぜん、ワクワクしない。
なんで? どうして? うぅ〜……ウララにはわかんないよ。
きょうのレースは、わかんないことばっかり。なんでウララは一着をめざしちゃいけないの? なんでみんな、あんなにびりびりしてるの? なんで、レースなのに、楽しくないの?
……だけどね、思い出したんだ。
『天才が相手だろうが、伝説が相手だろうが関係ないの。
あなたはあなたらしく、あなたの道を走り続けなさい、ウララさん!』
(キングちゃん……っ!!)
ちょっと見にくいけど、でも前がみえないわけじゃないもん!
なんにもわかんないけど、それでも一着、取りたいんだもん!!
「う……らら~~~っ!!」
いっしょうけんめい走った。めいいっぱい、あしを動かしたよ。
……でも。
『ここでハルウララ、ゴールイン! 終盤の失速が響きました、追い上げも空しく十三着!』
――また、負けちゃった。
十四人中、十三着。
かなり厳しい結果だ。レース後半で、ウララに何かしらのトラブルが発生して失速したのが原因だろうことは明らかで、観客や例の一派にこの順位が実力だと認識されるかは分からないが。
……それ以前にウララの様子が気が気でない。俺達はレースが終わるや否や、控室までの地下連絡路に彼女と合流するために急いでいた。
「……ん……?」
広々としたトンネルの中で、出走したウマ娘たちとすれ違っていく。レースで入着した選手たちはそれなりに晴れやかな表情を浮かべ、それ以下だった少女たちは肩を落として歩いていく。
……だが、俺は少しだけ感じ取っていた。そんな彼女達の一部が、こちらを疎まし気に見つめている事を。
(妬み、か)
キングの宣言以来、ウララがスぺ達の力を借りてトレーニングに励んでいることは周知の事実となっている。
ウマ娘とは本来、自分自身とトレーナーとで二人三脚で実力をつけていくものだ。仲間の助けがあってはならないということはないが、誰かが誰かにあたかも専属であるかのように肩入れをしてしまえば、それは羨望や嫉妬の対象となりかねない。
――それがキングやスぺ達のような「黄金世代」なら、ひとしおだろう。
(……まさか、ウララ)
あいつが被った、何かしらのトラブル。俺はそれを、ダートコースでの砂塵の巻き起こりによって起きた視界狭窄だろうと踏んでいる。
それがわざと為されていたのだとしたら、全くもって許し難い行為なのだが……だが、ダートコースにおいてそういうアクシデントは、故意によるもので無くても起き得るのだ。
ウララはダートを主戦場としている以上、今回のような事は今後もないとは言えない。次はきっちりと対処するだけの技術と、根性を備える必要があるのだろう。
いずれにしても、今はウララのケアが必要だ。まああいつの事だから、あまり気にしていないのかもしれないが……。
「あら、まだそんなところにいたのね。ほら、早くこっちにいらっしゃい……って、ウララさん!?」
――なんて、心のどこかで少しでも思った数秒前の自分を、俺は本気で張り倒してやりたくなった。
「ちょっとウララさん、大丈夫かしら!?」
ウララの姿が見えると、人間である俺より足の速いキングやスペ達が彼女に駆け寄っていく。
……そして、彼女がほろり、ほろりと涙を溢していることに、気が付いたのだ。
「ウララちゃん!? 何があったの!?」
「まさか、どこかケガをしたんデスか!? 目が真っ赤デスよ!?」
「トレーナーさん、とにかくウララちゃんに目薬を!」
スペ、エル、そしてグラスの声が飛び交う中、俺も血の気が引く思いでウララのそばまでやってくると、彼女の顎を上に向かせて、目薬を打ってやった。ダート選手は砂が舞う中で走る都合上、こうして目のケアや身体の洗浄等はレース後には欠かせないのだが……それにしても、今日の彼女は全身砂だらけだ。
……やはり身体に何か異変が起きた訳ではないようだ。後で軽く検査を受けさせるつもりだが、それでも見たところ外傷もなく、どこかを庇うような立ち方もしていない。
「あのね、トレーナー?」
すると。
俺の垂らした目薬に、しばらく目をしょぼしょぼさせていたウララが突然、キング達の手を振り切り俺の前まで詰め寄って、じーっとこちらを見つめてきた。
……何か、嫌な予感がした。
「レース、お疲れ様。今日は残念だったけど、また次……」
「なんかね」
涙の跡がついたその表情は、思ったより悲しげではなかった。
というより、困惑しているような。起きた出来事に、どう反応して良いのか、自分でも分からないというような。
「今日のレースね、楽しくなかったんだ」
――誰かの、息を呑む音がした。
「ウララは、一着を取っちゃいけないの?」
「……何言ってるんだ、そんな」
「ウララはね、今日がんばって一着になろうとしたんだ。でも、そしたらみんな、びりびりってわたしを見るんだよ?」
――それは。
言うまでもないだろう、それは闘争心だ。ウララを押し退けて、自らが一着を取ろうとする執念の現れだ。
……でもそれは、ウララにはまだ。
「ねぇ、トレーナー? ウララが一着をめざすと、みんなびりびりしちゃうの? ウララががんばったから、みんないやな気持ちになっちゃったの?」
「……ウララ」
いつか、こんな日が来る事は分かっていたじゃないか。
一着とは、それ以外の多くの犠牲の上に成り立つもの。競走とはそういうものだ。
だけど、ウララの本質はレースを楽しむこと。そして、そんな自分を見る人々をワクワクさせること。
……そこには、絶望的なほどに矛盾があった。
「わかんない、ウララわかんないよ! トレーナー、なんで今日はワクワクしなかったんだろ?
ねぇ、キングちゃん? スペちゃんにセイちゃん? エルちゃんもグラスちゃんも、ウララにおしえてよ?」
――誰よりも速く走って、絶対に一着を奪い取る。そう思うことだけが、速くなるための秘訣なのでしょうか。
あの日、クリークの言葉に答えを見出せていたならば……俺はこの時、ウララに納得のいく答えを返してやれたんだろうか。
「あれ? みんな、どうしたの? ……もしかして、みんなもがっかりしちゃったの?」
……そんなどん底のような沈黙は、やがてウイニングライブの準備を催促するスタッフがそこに現れるまで続いていた。
※※※
「……もう、限界じゃないかな」
――ウララさんがウイニングライブの準備に向かって、すぐの事。
そう口にしたのは、今まで一言も話さずに、何かを考え込むような表情をしていたスカイさんだった。
「……スカイ」
「ウララをPR目的で無茶苦茶に走らせようとする人がいるって、この際本当のこと言ったほうがいいと思うなー。このままじゃほんとに取り返しがつかなくなっちゃうよ?」
トレーナーは思わず目を伏せてしまう。
ウララさんにあの事を黙っていようと、皆さんに提案したのは私だった。ある程度の結果を出せるようになってからならともかく、初めから後がないことを聞かされてしまったら、ウララさんは突然の事態に混乱してしまうだろうし、何よりも私達が干渉する事を重圧に感じてしまうと思ったから。
「……ウララさんは私達と違って、見る人誰もが応援したくなるような、そんな走り方が出来る数少ないウマ娘だわ。なのに、彼女から楽しさを奪ってしまったら」
「ウララに最近アンチがつき始めてること、キングは知ってる?」
思わず目を見開いてしまう。
普段の穏やかな口調のまま、されど少しだけ険しい顔で、スカイさんは自身の端末の画面をこちらに見せてくる。
……ネットの掲示板だ。そこには確かに、ウララさんを非難する文章が少なからず書き込まれていた。
「『実力がないのに話題だけ巻き起こす』、『走りに真剣さが感じられない』。……ウララにそんな力があるって言うのは、今までだけの話だと思うけどな。
それに、今日分かったでしょ。ウララ自身がレースを楽しめなくなってきてる。そんな状態で、周りをだなんて」
……普段は温厚、実は策士と呼ばれるだけのことはある。スカイさんのその指摘は、一つとして違わず正論だった。
ウララさんが今まで走ってきたレースは、所詮は未勝利戦や学園内の模擬レースがほとんどだ。そう言った小規模な舞台において、彼女の魅力は十分発揮されるだろうけど……重賞レースはそもそも規模が違い過ぎるのだ。
「……確かに私も、誰しもが一度は経験する事だと思います。
レースはただ楽しいだけのものではありません。時には不退転の覚悟が求められる事もあります。
そうしなければ……真剣にレースに打ち込んでいる他の選手に、失礼ですから」
グラスさんもそれに加わった。
彼女らしい考え方だわ。淑やかで優しそうに見えて、実は誰よりも勝利への執着が強い彼女らしい。
そして、我が身を振り返れば、やはり彼女の言う通り……私にもそういった時期はあったように思う。お母様の走る姿を見て、自分もと楽しく走ってみた子供の頃……それが、いつの間にか結果を出すためのレースとなった、そんな時期が。
「キングちゃん。ここは勇気を出して、ウララちゃんに言ってみない?
私達、絶対そばに居るから。絶対ウララちゃんのこと、見捨てたりしないから! ね、みんな!」
そして、スペシャルウィークさんの言葉に、皆さんが一斉に頷く。
「任せてくだサーイ! ここからが踏ん張りどころデース!
最強無敵のエルが、実は人に教えるのも上手ってところを見せてあげマース!」
エルコンドルパサーさんまで。
ウララさんにバッシングが向かっているとなると、その彼女を実質的にサポートしている彼女達にも何かしらの非難が既に寄せられているかもしれない。
その可能性がある、という事はあの日――私が皆さんに頭を下げたあの日に既に伝えておいたけれど、その上でこんなに眩しい笑顔を向けてくれるのなら……あなた達は本当にお人好しさんなのね。
でも。
「ごめんなさい。少しだけ、時間を頂戴」
「……キング、君は」
だとしても、もう少しじっくりと考えたい。ここで洗いざらい話してしまう事が、本当にウララさんに取って良い事なのかを。あの娘の尊厳を、壊してしまわないかどうかを。
――こう考えてしまっている時点で、私はあの娘の友達失格なのでしょうね。
(……ごめんなさい)
だけど。この時。
この時、私達のいる地下通路の曲がり角からはみ出ていた、桜色の尻尾に気が付いていれば、もう少し――上手く全てを彼女に伝えられたのかもしれなかった……。
あら、もう有馬記念まで終わっているじゃない。続くかは分からないけれど、今後どうすればいいか、考える権利をあげるわ!
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過去編(クラシック級とか)
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ウララ編(翌年の有馬でオペラオーと激突)
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チーム全体編(スピカやシリウスみたいに)
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日常編(うーららー)