じめっとした空気と窓にうちつける雨粒の音の中、窓を眺めて欠伸を噛み殺しながらおとこはいた。
少し前から深呼吸を無くしたようで少し元気がない。
生きる上で最も大事なものは深呼吸だ。なぜなら深呼吸は心を落ち着かせ、癒す。とても大事なものである。
なのにも関わらずおとこは欠伸と交換した。
交換したはいいものの少し経ってから返して欲しいなぁなんて思っていたのだからしょうがない程のアホなのだろう。
おとこは何が得意かも決められぬ程の普通の人だった。
普通さで言うと昨日の晩御飯を思い出せないくらい普通の人だった。
周りの人はそれくらいは出来るなどと言っていたがあれは嘘だろう。
そんな普遍的なおとこは疑問が多い。朝9時半に起きることとか何故か周りの評価が高いように感じることとか。(それは気のせいなのかもしれないが何故かお前ならできるだとか、あとはあたまが良いだとか言われたりするのが謎なのだ)他にも疑問は尽きないがおとこには1番の疑問があった。
それは何故生きているのか。
なぜ生きている?なぜ産まれてくる?なぜ死んでしまう?なぜ傷つく?どうしてなのかさっぱりだ。周りの人は自分の専門分野だという顔をしながらそれは目的があるからさ!とか、誰かのために・・・だとか、身体が大人になった男性と女性がとか、最もらしい事を言うがどれもおとこにはそうではないように感じるのだ。
魂とは?死とは?生とは?なんだろう?
考えてもおとこのおろかな頭では途中で何を考えていたのか思い出せなくなるのだ。挙句今日のご飯はなんだったっけなんて間抜けなことを考え始める始末である。
さて、何故ここまで長々とおとこの間抜けさを語ったかと言うと、このおとこがいかにバカなものであるかを知って欲しかったからだ。
自分のこの小市民的な頭の中に湧いてでる様々なおとこの様子を皆に知っていて欲しかったからだ。
愚かなおとこの秘密を先生であっただけの私は抱えていたくないのだ。
おとこの産まれはおとこも知らないらしい。気づけば街の中で友と遊んでいたなんて笑っていっていた。友と言っているがこの時私はそこにはいなかったし、なんならおとこの存在も知らなかった。
おとこは小さい頃から勉強ができずバカにされてきた。それはおとこのちいさな脳ミソでも何となくだが気がつけたようだ。しかしそんなバカな脳ミソは見返してやろうだとかは思わなかったようで、ただバカにされるのが嫌で勉強というものをしなくなった。
逃げたのだ。
おとこの人生はこの時から始まったらしい。おとこが言うにはあの時勉強しておけば自分はT大学に入って高尚な研究でもしていただろうなんて言っていたが、あれは嘘だろう。
ここで大事なことはおとこが人生を知覚した時、逃げた事が真にに大事なことでおとこの根底に根付いてしまった命題だった。
いかに逃げるか、逃げ道を確保するか、目を背けるか、耳を塞ぐか、臭いものに蓋をするか。
人の罪は大きくわけて7つ有るなどと言うが私は他に逃避と欺瞞がなぜ入っていないのか今でも疑問に思う。過ぎればどんな事でも罪に繋がると言うが逃避と欺瞞は過ぎずとも愚かで救いのない罪だと私は思う。
なんて罪の話は長くなる。また今度にしよう。
しかして「逃げる」という命題を選択したおとこだが世界は上手く回っているようで、おとこは順調に成長していった。中学に入る頃には親から金をくすね、周りに迎合しようと必死になるなど、探せば「自分も同じことをして親父に殴られたよ」なんて言う人もいるだろうことをし始めた。
おとこは嘘つきだった。嘘つきなのにも関わらず、人は嘘なんてつかないと信じているなど、頭に詰まっているのはわたあめだろう甘い考えも持っていた。
中学ではたくさんのことが起きた。楽しかったことも、辛かったことも、感情というものから逃げようとしていたおとこでも多感ではあった。ただ男にとって誤算は小学校からの友を裏切ってしまったことだった。
なんてことは無い「部活の先生がウザイ。ボイコットしようぜ」なんて言葉を鵜呑みにして、一人ボイコットを実行し退部した、それから部の空気が悪くなり、大きな大会で負けた、ただそれだけだ。
他の人が聞けば鵜呑みにしたの!?とか、君は悪くない!なんて言うだろうが言わせてもらう。このおとこはバカなのだ、底抜けの。それも自己中心的なバカ。
しかし罪悪感、これはなんとも痛いものである。自分は悪くないなどと思えば傷は深くなり、自分が悪いなどと思えば腐り始める。逃げることのプロフェッショナルであるおとこでも逃げることの叶わない人生の中での強敵だった。
そんな強敵に生涯悩まされることになるとはと、おとこは恥ずかしそうに笑っていた。
それからだ、おとこは必死になって罪悪感から逃げようとした。
勉強ができないので高校も上手くいかず、親に泣かれ、夢があるなどと言って親孝行をしようとしたりもしたが、上手くいかなかった。そんな時だ私がこのおとこと知り合ったのは。
「こんにちは、いい天気ですね」
ひとつ大きな深呼吸をして犬歯をチラとみせながら片頬だけ引き攣らせた様なぎこちない顔で話しかけてきたのだ。
あからさまな人見知りの勇気に私は、最初はうんともすんとも言わず黙っていたのだが、毎日おとこが二言三言話しかけるものだからついには折れて「あぁ、そうだな」なんて話してしまったのが運の尽きだった。
それから次に名前は?だとか、好きなことは?だとかを聞かれ、適当な受け答えをしていたら先生などと不名誉なあだ名をつけられた。
先生などと言うが私は何を教えればいいのか、勝手に上下関係をつけるなとか言いたかったが、あまりに嬉しそうなので黙ることにした。
それから私とそのおとこのつきあいが始まった
。と言っても最初の頃は、ただそのおとこの言葉に欠伸をしながら「そうだね。」とか「それは大変だ。」とか気持ちの全く篭っていない返事をするだけでほとんどきいていなかったが。することもなく次第におとこの話に耳を傾けるようになった。
話を聞き始めて数年がたった頃、おとこは深刻そうな顔で話し始めた。上手くいかないだとか自分はダメだとか。一丁前に今までできる人間でしたと言うふうに。しかも決まって最後に
「辛気臭かったよなぁ、最近はなんだかマイナスな考えになるなぁ」
なんて笑って頭の後ろをかくのだ。マイナスなのは悪くない。自分の中で溜め込むのが最も愚かなのだよ。と私が言うと
「そうだよなぁ」
なんて言いながら笑うのだ。
それからだ、おとこが私に命ってなんだろう死の先はなにがあるのかなぁなどと言い始めたのは。くだらない問だ。
おとこは答えなんてひとつしかないことを知っているのに私に聞く
「なぁ先生、生きてるから命なのかな?でも、生きてないのに命とも言うよなぁ。俺はね先生、死の先を見てみたいんだ、何があるのかなぁ」
なんてとぼけた調子で言うのだ。そんなの「誰も知らない」が答えなのだが。
「人を一度叩くといい、命とはそれだ。そして死の先にはね素があるのだよ」
私がそう言うとおとこは決まって「先生はとんちが好きだなぁ」と笑うのだ。
おとこが命の問いをし始めてから一ヶ月位だったか、おとこが深呼吸をして
「先生、深呼吸って知ってるか?深呼吸はな、人間の機能の中で最も大事なもんなんだぜ。癒し効果がなぁ、すごいんだよ」
などと我が物顔で言うものだから
「君、知ってるかな欠伸は生物の中で最もつまらない時に起こるのだよ。退屈は人を殺すと言うだろう?」
と欠伸をしながら言って見ると、おとこは
「んじゃ、先生!深呼吸と欠伸とを交換しよう!先生が死んだら俺も死ぬからな!」
などとバカなことを言うのだから私は
「比喩だ本当じゃないよ。」
と言ったのに聞く耳も持たず。
「決定!!俺はお深呼吸をする代わりに欠伸をする。んで、先生は欠伸の代わりに深呼吸ね!」
そして、ふあぁ〜と欠伸をひとつしてからおとこは笑った。
わたしはそれに深呼吸してそれで
「先生、おれ実はさ、もう逃げるのも疲れちゃって」
「おれってなんなんだろ、なにしたいんだろ」
「なぁ、先生?きいてる?」
「先生・・・」
「ふあぁぁ・・・つかれたなぁ」
そしておとこは鏡に向かって欠伸をして、少し寂しげに笑った。