『幼いころから嘲笑や憐憫に晒されて生きてきた』と少女は言う。
『走るときだけは良かった。今まで馬鹿にしてきた奴らにほえ面かかせてやれるから』そう言いながら彼女は握ったこぶしを見つめて笑った。
ナリタタイシン――肩まで伸ばした栗色の髪と、青い目が特徴的なトレセン学園高等部に所属する小柄な少女。
私が彼女のトレーナーになってから2か月ほど経った。言葉にすればとても短い。だけれど、毎日が新鮮で、もっとずっと長く過ごしていたように感じる。
そして、あの時の彼女の言葉と表情はとても印象的で昨日のことのように鮮明に思い出せる。
――あれは、私がナリタタイシンのトレーナーになってから2週間ほどのことだった。
学園の敷地内にある運動場は、虫やカエルの声だけが響いていた。あたりはすっかり暗く、運動場の時計は20時を指している。
私は、運動場に忘れ物をしたことを思い出し、取りにいっていた。普段なら、明日でいいやと思う。しかし、今日はよりによって明日の午前中にまで提出しないといけない仕事を置きっぱなしにしていたのだ。
誰もいない運動場。外灯がついているとはいえ少し心細い。
荷物があるベンチに向かおうとすると、土をける音が聞こえた。
「誰だろう」
視界は暗く、はっきりとは視認できない。
しかし、その小さな影はひどく見覚えのある姿だった。
「ナリタ……タイシン?」
思わず、近くまで歩いていく。
ナリタタイシンは無心で走っていた。オーバーワークとも言えるその走りは鬼気迫るものであり、ひどく苦しそうにも見えた。
ひと段落ついたのか、彼女はこちらに気づくことなくクールダウンを行う。
しかし、2、3分ほど休むと、彼女はまた走りだそうとしていた。
「これ以上のトレーニングはケガの元だよ。今日は終わりにしよう」
まだ練習を続けようとする彼女に告げる。
「うるさいな。私のことは私が一番知ってる。このぐらいたいしたことない」
彼女は、こちらに気づき、少し驚いた様子を浮かべる。しかし、練習を辞める素振りは見せなかった。
そして、ぎろりという音が聞こえてきそうなほど鋭い目つきで私に彼女はそういった。
“あなたのことが心配なの”、“自分の体は大切にしないと”など様々な言葉が湧きでてきた。けれど、怒気を孕んだ彼女の言葉の気迫に圧倒されてしまい、結局何も言えないでいた。
彼女はふん、と鼻を鳴らし練習を続けようとする。
「ごほっ……ごほっっ……くっっ」
ナリタタイシンは苦しそうに胸を押さえながら地面にうずくまる。
「ナリタタイシン!!」
気づいた時には彼女の元に駆け寄っていた。
触らないで!と拒絶する彼女の声など気にも止めずに背をさする。
「今日はここで終わりにしよう」
「だから、そういうのがうざいって言ってんだよ!」
咳が止まらずに苦しいはずなのに彼女は激しい剣幕でそう言い放つ。
思わず、ひるんでしまいそうになる。しかし、私はそれ以上の怒りを抱いていた。
「つまらないプライドでせっかくの才能を殺してしまうのを黙ってみてるほど私は優しくないの」
「えっ」
予想外の言葉を聞いたようで啞然としている彼女に気にせず言葉を重ねた。
「今のあなたのトレーニングは自分を鍛えてるんじゃなくて、ただのストレス発散か、八つ当たりのようにしか見えない。そんなことでケガでもしたらトゥインクル・シリーズなんて夢のまた夢。あなたを優勝させるっていう私の夢をあなたのエゴでふいにしないで」
喉の奥に引っかかっていたものが堰が切れたようにどんどんとあふれだす。気持ちを吐き出した後、我に返った。
「ご、ごめんなさい。私、自分勝手なことばかり言って……ナリタタイシンの努力を否定してるわけじゃないの」
私は、勢いに任せた自分の言動に後悔しながら彼女に謝罪する。
「あんたもそういう表情するんだ」
「え、なんて?」
ぽつり彼女がつぶやいた言葉が聞き取れず、おもわず聞き返してしまう。なんでもない、と言いながら彼女は立ち上がった。
「なんか、気分じゃなくなったし今日は練習ここまでにするよ」
彼女から怒気が消える。そして、ぶっきらぼうに私に告げた。
私は彼女なりの努力を、ストレスの発散だと非難したのだ。トレーナーとしてあるまじき発言なのに、彼女の表情はどこか憑き物が落ちたようにも見えた。
じゃあここで解散ね、と寮に帰ろうとする彼女の腕をつかみ制止する。
「もう少しお互いに話し合おう?」
彼女のトレーナーになってからまだ2週間ほどしか経っていない。私たちに足りないのは相互理解だと考え多少強引ではあるが彼女に提案した。
「手短にね」
首に手を当てながら彼女はそっけなく答えた。
正直、断られるとばかり思っていたため彼女の返事に内心嬉しくなってしまう。
「どこでしようか! ここでもいいけどもうじき暗くなるし、教室使う?あ、でももう教室も空いてないだろうからお互いの部屋かな。私の方は今から掃除すr」
「あー、もううるさい!!……やっぱ気分じゃないから止めにする」
「ご、ごめんなさい」
彼女は、早口でまくしたてられるのが嫌いだということを学んだ。
さっきまで比較的穏やかだった表情だったが、すぐに素っ気ないものに変わった。つい嬉しくなり舞い上がってしまったことを自省する。
せっかくの相互理解のチャンス。それをふいにしてしまったことに落ち込みながら、寮に帰っていく彼女の背中を見つめる。
しかし、彼女は少しして立ち止まる。首に手を当てながらこちらをむことなく私に言った。
「……明日の練習メニューは軽くして、ミーティングの割合を増やせばいいんじゃない?今日はオーバーワーク気味だったし……」
「そ、それって」
「じゃあ、私は帰るから」
私の言葉をさえぎるようにして彼女は駆け足で寮に帰っていった。
口元が緩むのが抑えられない。あの、冷たい彼女が歩み寄ってくれたことが、何によりも嬉しくて大きな声を出しそうになるのを必死に堪える。明日は何を話そうと今から話題を考えるのが止まらない。
今日は大きな進展があったと自分の中で、とても満足しながら私は帰路に着いた。
――次の日の放課後
「で、興奮しすぎて眠れずに、この時間まで寝坊したと」
「返す言葉もございません」
「あんた、バカでしょ」
ナリタタイシンの呆れた表情が私に痛く突き刺さる。結局書類は遅れて、たづなさんには笑顔のままこっぴどく叱られた。自業自得とはいえほんとにふんだり蹴ったりだ。
さめざめと自分の不幸を嘆いていると、彼女が耳をなでながら話題を振ってくる。
「で、昨日言ってたあれ。何が聞きたいの?」