夏は過ぎた。秋も中盤に差し掛かっていた。
トレセン学園内の食堂にて、ナリタタイシンはウイニングチケットとビワハヤヒデと共に、食事をとっていた。
「タイシーン、そんなに無理してご飯食べちゃダメだよ。体を壊しちゃうよ」
「そうだ、君の体からするといささか、過剰傾向にあるようだが。なにかあったら君のトレーナーが心配するんじゃないか」
タイシンは、2人の制止も聞かずに、普段以上の食事を取っていた。正直気分が悪いし、今にも吐きそうだ。スタミナを、体力をつけるなら、この量にならさなければいけない
「そのトレーナーが言ってるんだよ。食事の許容量を徐々に上げることで、スタミナ増強と筋力増強を少しでも図るって」
その言葉を聞いた2人は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる。
「でもでも、そんな苦しそうな表情で食べてるってことは食べる量を増やしすぎてるってことじゃないの?もう少し、減らした方が」
「そうだ。タイシン。いかに強靭な肉体をもつウマ娘といえど、数日やそこらで、食事の許容量や消化量が変わるなどあり得ん。増やすとしてももう少し、増加量を控えめにだな」
「うるっさい!」
大きな声に、他に利用しているウマ娘も驚きしんとしてしまう。
「ごめん……でも、アタシは勝たなきゃならないんだ。アイツのために、そしてアタシ自身のために」
そのためには、自分の走りを1番わかってるトレーナーが提案したメニューを全部こなす。それが1番だと信じているから。
「タイシン……」
友人の声にちくりと痛む。しかし、タイシンは気にしていられない。
けれど、どうしてだろうか。トレーナーと2人で話したあの時から、ひどく息がしづらい。
――トレーナーの職員室にて、私はナリタタイシンの今後について考えていた。
“タイムは伸びてる。けれど、伸びの幅が、だいぶ落ちてきてる”
以前は、毎日のようにベストを更新していたが、最近は1週間に一度更新すればいいほどになっていた。それも大幅な更新なども見られない。
そのタイムを伝える度に、タイシンはぐっと奥歯を嚙みしめていた。
何が足りないのだろうか。やはり、食事の内容を増量していることが関係しているかもしれないが、アレを引き下げることは難しい。
彼女には足りないものが多すぎる。しかし、URA、それの足掛かりとしてのG1レースを勝ち抜くために1番不足していて補強が必要なものはスタミナだ。ホープフルを越えたその先にある、クラシック3冠。それも長距離である菊花賞を考慮した体づくりをするなら今から初めておかないと大変厳しいものになるだろう。ここは、苦しい時期になるとは私も理解している。
しかし、彼女が安定してURAの出場権を獲得できるようにするなら今のうちからしかないのだ。今のうちに苦手を克服したうえで、長所を伸ばす。そんな練習方法をしないといけない。
「……さん、一ノ瀬さん!」
肩を叩かれながら何度も呼びかけられたことでその人の存在に気づく。
「あ、たづなさん。……どうかしましたか?」
「どうかしてるのは一ノ瀬さんの方です! 目の下のクマ。日に日に濃くなってますよ。睡眠はとれてるんですか」
「あはは、ごめんなさい。また私お化粧サボっちゃったみたいで」
「そうじゃなくて! トレーナーがそんな風じゃタイシンさんも不安になりますよ」
「大丈夫ですよ。タイシンもわかってくれてますから」
そういって、私は正面を向く。
まずいな。PCの電源をつけないまま、考え事をしちゃってたのか。そりゃ、たづなさんに怒られるわけだ。
濃くなっている目の下のクマ。一生懸命まっすぐ向いているはずなのに、どうしてか、画面の自分と視線がうまく合わない。
大丈夫。自分は大丈夫だ。だって、手は動く。頭は働く。倒れたりなんてしてないから。
だけれど、やっぱり、タイシンには申し訳ないな。自分で考えたものだが、やはり無理があったのかもしれない。でも彼女は何も言わずにメニューをこなしてくれている。
あれ?タイシンと2人で話したあの時から、彼女にトレーニング内容以外を伝える以外のやり取りをしたっけ?
「のせさん!……一ノ瀬さん!! ですから、もう少し積極的に休息を」
「はい、わかりました。頼まれていた書類はすぐに提出にするので」
「~~~っ!! 一ノ瀬さん」
おそらく、私の仕事が遅れていることをせかしに来たであろう、たづなさんにすぐに提出することを伝えて、PCの電源を付ける。のだが、横から手が伸びて、電源が再度落ちた。
「え?」
「早くいくぞ、ガキ」
「二村……さん?どういうことですか?」
「お前は、トレーナー失格だ。その事実を目に焼き付けろ」
何を言ってるんだ。この人は。そう思った瞬間には、体がふわりと揺れる。
「ごめんね。一ノ瀬ちゃん」
「サイレンス……スズカ?」
サイレンススズカ。二村さんの担当ウマ娘だ。彼女が私を抱きかかえたみたいだった。どうしてここに?
なぜ、この人たちの雰囲気はすごく重々しいんだ?
わからない。わからない。全部がわからないまま、私は2人にどこかへ連れられて行った。
「びょう……いん?」
やってきたのはトレセン学園の生徒がケガなどをした際に利用する病院だった。
だれか、ケガでもしたのかな?
2人は私になんの説明もなく病棟に上がっていく。
「ここだ」
一つの病室に着いた。名札が一つしかないし個室だろう。名前は。
「ナリタ……タイシン」
「入るぞ」
3回ノックした後に二村さんは病室に入る。
病室には見知ったウマ娘がいた。
点滴をしたまま、ベッドで横になっている。
「あ、トレーナー……ごめん。言われたメニューこなせなかった」
彼女は私の顔を見るや否や、謝罪を述べてくる。本当に申し訳なさそうだった。
ああ、そうか間違えてしまったのか。私は。
「大丈夫? タイシン……ねえ、聞かせて? どこで無理だって感じた? どこを直せばまた走れるようになれそうかな」
「そう……だね、やっぱり。食事はちょっときつかったかも。でも今度からは気を付けるから」
タイシンは、少し驚いた表情をしたあとに少し照れくさそうに返答をする。
そうか、やっぱり食事は減らさなきゃだめか。
私がそう考えていると、ぎりっと奥歯をかみしめる音が後ろから聞こえた。
「ちょっとこい」
「え」
グイと首根っこを掴まれる。そのまま室外へとひきずりだされた。
「おい、なんだ今のは」
「なんだって、タイシンの練習メニューを改善するためのヒアリングですよ」
「そうじゃねえだろが!!」
襟元を掴まれて、背が壁にぶつかる。
胸郭が狭まり少し息が苦しい。
「やめてくださいよ。苦しいです。パワハラですよ」
「そっくりそのままお前に返してやるよ。お前はさっき、ナリタタイシンの何を見た? どこを見た? 何を感じた?」
この人の目は猛り狂っている。おかしいな。自分のウマ娘でもないのに、どうしてこの人はここまで興奮してるんだ。
「彼女が点滴をしているとこを見ました。目立った外傷もなく彼女はまだ走れると安堵しました」
「ああ、立派だよお前は。機械に対する評価だったら満点だ。……けど、トレーナーとして、人間としてだったらクズの中のクズだよ。……お前のそれは、意思のある人間に対するリスペクトが欠片もねえ。ウマ娘をただの道具としてしか見てない思考だよ」
『次のレース楽しみにしてるよ。……自分の私利私欲のためにウマ娘を利用する立派なトレーナーさん』
白い影が頭の中で囁く。
「うるっさいなあ」
じゃあ、どうしろっていうんだよ。あの子の長所は素晴らしいけれど、短所が多すぎる。彼女の勝利は薄氷を踏むように繊細なんだ。……その不安要素を消すためなら、私たちは死ぬ気でやらなきゃいけない。
「お前……ナリタタイシンがどうしてここに運ばれたかわかるか?」
「わかりません。……たぶん私がオーバーワークをさせすぎたから」
「過呼吸だ……もっと言うなら心因性のな。食堂で倒れたらしい」
「心因性?」
「ああ、運ばれてからも医師のヒアリングしてる最中に食事と走ることを連想すると呼吸がうまくできなくなったらしい」
「それは……」
「そして、決まって言うんだ。自分が悪い。自分のせいだと……なあ、教えてくれよ。俺に引導を渡す予定のトレーナーさん。お前は自分のウマ娘がここまでなることも想定済みだったのか? こんな風になっても問題ないと思って割り切ってたのか?」
ああ、情報量が多すぎる。頭がぐちゃぐちゃする。もう何も考えたくない。
「そんなわけ……ないじゃないですか」
「じゃあ、なんでやったんだよ」
ジワリと目頭が熱くなる。わからない。なんで、この人は私と同じぐらい泣きそうな声なんだ。
「彼女をURAのチャンピオンにしたくて……それで……彼女には克服する場所が多くて……クラシック三冠を視野に入れるなら……多少無理しなくちゃまけちゃうと思って……」
わからない。わからない。どうしてだ、どうしてこんなに涙が止まらないんだ。喉が熱い。鼻の奥がツンとする。
どうして……どうして……どうして、負けちゃいけなかったんだ?
「クラシック三冠なんて取れる方が奇跡だろうが!……そんなのしなくても人気と実力は他のレースでだって補える。なんで負けないように調整する必要があったんだよ」
「それは……それは……」
その言葉で思い出すのは、まだ私がトレーナーの試験に向けての勉強をしていたころ。
シンボリルドルフが三冠を取った時の光景。嬉しさというより、責任とプライドで己を律していた皇帝の優雅さに惹かれたのが今も目に焼きついている。
「ルドルフが……三冠を取ったみたいに……私もタイシンに……取ってほしくて」
瞬間に、目の前の男の顔が歪む。奥歯が出血するんじゃないかというほどに噛みしめて、私の襟元を持つ拳もさらに強く絞る。
「もうっ……いい!!!」
なぜ彼がそんな顔をするのか、私には全然わからなかった。けれどなぜかすごく寂しくて、悲しくて、やっぱり涙は止まらなかった。
「もうオレは知らない……けど、このままじゃあまりにもナリタタイシンが可哀想だから、お前に一つ質問する」
「なん……ですか……」
「お前は、ナリタタイシンがチャンピオンになるところをみたいのか? それとも、自分が担当したウマ娘が勝つことで俺に勝ちたいのか?……その答えは聞かない。でも、ナリタタイシンにはその答えを出せ。お前は今後どうやってあの子と向き合うのかちゃんと考えろ。……じゃなきゃ、ナリタタイシンは何をよりどころにして走ればいいかわからねえだろうが」
「それは……」
あの時から感じていた私の中の疑問。改めて言葉にされると、私の口は堅く閉ざされたままだった。
お互い無言のまま、また病室に戻る。
すると、サイレンススズカとナリタタイシンが談笑している姿があった。
タイシンの笑った顔久しぶりに見た気がする。
「スズカ、話はついた。もう帰るぞ」
「そう、分かった。ナリタタイシン、またお話しようね」
「ん、ありがとう」
その会話を終えて、二村さんとサイレンススズカは退室する。
「一ノ瀬ちゃん、ナリタタイシンはとってもいい子なんだから、泣かせちゃだめだよ」
退室する際、スズカにそっと、耳打ちをされた。
その言葉は、私の心にスっと入って私をかき乱す。
ああ、気づいてしまった。私、タイシンを傷つけてたんだ。
病室の中。2人きり。沈黙。いつもは何も感じないのに、今日は驚くほど居心地が悪い。
「ねえ、トレーナー」
何を話せばいいかわからず口をつぐんでいるとタイシンから声をかけられる。
「ごめん。ほんとにアタシのせい……だよね」
違う。そうじゃない。その言葉を口にするのはアナタじゃなくて、私なのに。
「アタシは、トレーナーに言われたことがずっとに残ってた。トレーナーはアタシに救われたって。……でもアタシ何もしてない。アタシはアンタに何も返せてないってずっと思ってた。だってさ、不安も焦りも全部受け止めてくれて、私の分まで泣いてくれるなんて。普通のヤツならしないよ。……それでさ、メイクデビューの後も、やっぱりまだ、アタシの中で不安も焦りも消えない。むしろもっと増した。そんな時は決まってトレーナーの言葉を思い出した。そしたら、自然と呼吸が楽になった。……でも、最近はなんか思い出しても息が苦しくてさ。……ごめん、何言ってんだろ。アタシ」
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
見たくない。聞きたくない。感じたくない。
今のナリタタイシンは目の下のクマが濃い。顔がすこしこけており、肌は青白い。だというのに、笑っている。普段、笑わないのに、どうしてそんなに痛々しくあなたは笑っているの。
彼女の様子を観察するたびに自分の罪深さを思い知らされる。この表情も、この肌も、この謝罪も、全部私がやったんだ。私がそうさせた。
泣きたくなりそうな気持を必死に抑える。
今やることは泣くことじゃない。自分が彼女とこれからどうやって付き合っていくかを全てを使って考えろ。
「わ……わたしは」
声が震える。嗚咽しそうになる。でも、ここで言わなきゃダメなんだ。
「私は、ナリタタイシンをURAのチャンピオンにさせたかった……それもクラシック三冠を取った最強のウマ娘として」
「うん。知ってる。……アタシもそう思ってたから」
「違う!……違うの!!! クラシック三冠なんか取れなくたっていいんだよ。頂点を目指すための近道にクラシック三冠はあるけれど、頂点への道は、他にもある。でも、私はあえてあなたに1番過酷な道を選ばせた」
「アタシも、クラシック三冠勝ちたい」
「私は、あなたを……シンボリルドルフのようにしたかった。負け筋を徹底的に排除して、完璧に勝たせたかった……」
「そうできるなら、アタシだってそうするよ」
「その結果がこれでしょ!!!……私は、あなたを見てなかった。アナタを通して、シンボリルドルフと、そのトレーナーの影を追ってただけだった……」
そういうと、タイシンは目を閉じて上を向く。
「知ってた……アンタから夢を聞いた時に、そうなんだろうなって。ずっと……ずっと……思ってた。でも、アタシもそれは言えなかった。アンタが離れちゃうんじゃないかって怖かったから」
やっぱり、やっぱり全部私のせいじゃないか。この小柄で健気なウマ娘は、身に余るほどの勝利への渇望を抱いているというのに、加えて私のエゴまで背負っていた。沈んでしまって、走れなくなってしまって当然じゃないか。
「ごめん、タイシン……ごめん。全部私のせいだ……私の……」
「ばーか。ようやく気付いたんだ。」
耳は垂れ下がっている。けれど、今彼女が浮かべている表情は1番穏やかな笑顔だった。
こっちと、手招きした。そのジェスチャーを受け入れ近づく。
「グエッ」
私の襟元をぐっと引っ張られる。私の周りには、首根っこ掴むヤツしかいないのだろうか。
「アタシはアンタをちょっと評価しすぎてた。……手が届かないもの。目を離すとすぐにどっか行っちゃうって。でも、案外そうじゃないみたい」
額と額が触れ合う。少しだけひんやりとしている。
タイシンは、私の目をじっと見つめる。その青い瞳はとても吸い込まれそうだ。
瞬きをするたびに、まつ毛が触れ合う。まだ息苦しいのか荒い吐息が私の顔にかかる。くすぐったい。顔を逸らしそうになると顎を掴まれる。
「だめ。逸らすな。」
「くすぐったいよ」
「アンタはアタシだけを見ろ」
「……っ!」
その言葉は私の心の隙間に入り込んでくる。
「アタシの顔を見ながら、他のヤツを目で追うな。アンタが見るのは、3ハロン先のアタシでもなくて、あの男の背中でもない。アタシだ。ここにいる、他の誰でもないアタシ」
「タイ……シン」
言いたいことがあったはずなのに飛んだ。吸い込まれた。青い瞳に言いたいこと全部。
息をハッと飲んだ。酸素が足りなくてひどく苦しい。拍動が強まっていく。それを自覚すると私の顔はひどく熱くなった。
YESもNOも言えない。完全にタイシンの目に、眉に、鼻に、口に、その整った顔に釘付けになっていた。でも、彼女は、言葉を重ねるたびに顔は近づいて。いつか全部くっついてしまうんじゃないかと思うくらいだ。
「一度しか言わないから。ちゃんと聞いてよね。」
そう言うと、急に顎を掴む手が震えだす。彼女の顔が羞恥で朱に染まる。
「アタシにはトレーナーが必要。トレーナーにとっては、アタシは数あるウマ娘の1人かもしれないけど、アタシは誰かの背を追うための道具かもしれないけど、アタシのトレーナーはアンタしかいないから。眠れない夜に思い出すのはトレーナーの言葉。震えた手を落ち着かせるのは、トレーナーが繋いでくれる手。ターフの上で見るのはトレーナーの姿。落ち着く空間にいつもあるのは、トレーナーの匂い。……アタシにはトレーナーが必要。トレーナーもアタシを必要として? どんなに、きつくても死んでしまうことになっても、アナタが必要としてくれるだけでアタシはきっと走れると思うから。言いたいのはそれだけ」
柔らかな笑みだった。少し力を入れれば壊れてしまいそうな儚い笑み。
とっくに堕ちていたと思っていた。
けれど、私はまだまだ深化していくみたいだ。
「さっき、あの人に、タイシンをチャンピオンにさせたいのか、あの人を超えるために自分の担当のウマ娘を勝たせたいのかって聞かれた」
額の熱はお互い高いままだ。
「うん」
「まだ、私にはどっちなのか答えは出てない」
「優柔不断だね、ほんと」
呆れたたような視線。声音は穏やかだ
「でも、チャンピオンにするのはタイシンがいい。タイシンじゃなきゃダメだ……だから……お”ね”がい、わ”た”じを”あ”な”た”の”ト”レ”ーナ”ーでい”さ”せ”て」
ダメだ。こらえることもできずに堰を切ったように感情があふれてしまう。
「ほんと泣き虫だね、アンタって」
涙で目を開けていられなくなり、下を向いていると、頭を撫でられる。それがどうしようもなく、嬉しくて情けなくてドンドンと涙をこぼしてしまう。
結局、彼女は泣き止むまで私を抱きしめてくれた。
ナリタタイシンに全てを捧げたい。けれど、私の奥底にあの人への憧憬や羨望、敵対心があるのは間違いない。
私は、今までの自分と向き合って未来に進むために、改めてナリタタイシンと共にレースを勝ち進んでいくことを決めた。
――ゲートの中でナリタタイシンは、目を閉じてレース開始を待つ。
2か月ほど前の病院でのことを思い出していた。
あの後は、驚くほどに呼吸がしやすくなり、一度も過呼吸になることなく練習が再開できて、ほとんど練習に支障はきたさなかった。
あの時に学んだ。
彼女は今もまだ、あの男の背を追っている。でも、自分にだって彼女の心を動かすことができると知った。
今はそれでいい。それぐらいの方がいい。今それ以上を手にしてしまうと、自分自身を支えきれなくなってしまうだろうから。
今考えるのは、このレースで一番見晴らしのいい場所で呼吸をすること。どうやって勝ち取るか考えること。
まだ、雑音は反響し続けている。おびえるんじゃなくて抱える。そういうものだと認識して自分は走ればいい。
歓声は息をひそめ、静寂が訪れる。心の中でカウントダウンをする。少しだけ空気が揺れた気がした。足を出しながら目を開ける。ゲートが開いた。
――ホープフルステークスを走り終えた後、控室にて。
「よ”がっだねええええええ。ラ”イ”ブも”すっごい”よ”がっだよ”おおおおお」
「とりあえず、落ち着きなよ……ぷっ」
前と同じような、反応をする彼女がおかしくて少しだけ吹き出してしまう。
「まずはG1一勝……クラシック三冠の足掛かりとしてはちょうどいいじゃん」
「うん。今回は、参加してなかったけど、次は絶対。ウイニングチケットもビワハヤヒデもくる」
強いウマ娘だ。気を抜けば、簡単に食いつぶされてしまうことをナリタタイシンは身近にいるからこそ理解している。
たぶん、一筋縄ではいかないだろう。けれど、負ける気はさらさらない。
「次は皐月賞。アタシは勝つよ。絶対に」
「うん、勝とう。いや、私たちは勝たなくちゃならない」
お互いに、目標を再確認した。身を任せるだけじゃお互いに幸せにならない。ぶつかって、傷ついて、汚れて、ボロボロになってようやく自分たちは完成すると思うから。