元日の夜。肌を刺すような冷気が体を覆う。
ナリタタイシンは、トレーナーたちとの初日の出を見た後、実家に帰省していた。
彼女の両親はとても嬉しそうに彼女を出迎えた。少し涙ぐんでいる両親を見て、大げさだとタイシンは思ったが口には出さなかった。それを言うのはなんだか違うと思ったから。
久々の実家の湯船。いつもより手の込んだ母の手料理。入学直前までと全く変わらない自分の部屋。ナリタタイシンは自室のベッドに身を包む。1年ぶりの部屋の天井を眺めながらふと思った。
静かすぎる、と。
タイシンは昔から騒がしい場所と自分に干渉してくる者をとても嫌っていた。タイシンの両親はタイシンのことをできる限り尊重している。だからこそ、極力干渉してこない。それが当たり前で自分にとっての理想の距離感だとタイシンは思っていた。
チク、タク、チク、タク
ドク、ドク、ドク、ドク
ここには話を聞かないクラスメートはおらず、おせっかいを焼くルームメイトもいない。……とてもおかしな自分のトレーナーもいない。
今聞こえるのは秒針と自分の心音だけ。騒音のないこの空間は心地よい。けれど、どこか物足りない。
チク、タク、チク、タク
ドク、ドク、ドク、ドク
いつもなら今の時間帯に誰かがトラブルを起こしているころだ。寮内がちょっとざわついていたりとか、大きな声が聞こえたりだとか。
チク、タク、チク、タク
ドク、ドク、ドク、ドク
「ああ、もう!」
ナリタタイシンも、どうしてこんなに落ち着かないのかよくわからなかった。
とりあえず体を動かさないといけない。そう思うと、彼女は驚くほどの手際の良さでランニングの準備を整えて、夜の道を走ることに決めた。
「はっ、はっ、はっ」
念のためナイトラン用のアームバンドはつけているが、交通量の少ない道を走る。目を閉じて走っても問題ないくらいにはタイシンにとって走り慣れたコースだ。
冷気が肺に刺さる。苦しい。けれど、タイシンにとって今はそれがよかった。
大きな道を曲がり、少し小高い山へのルートに入る。山と言っても、殆ど人の手が入ってるため、道はかなり整備されている。
山の上にある展望台は、タイシンが小休憩する際の馴染みのスポットだ。まだ少し距離があるが直にたどり着くだろう。
「はっ、はっ、はっ」
右の角を曲がった。看板に散歩コースと書かれている。
やはり実家はひどく心地いい。ずっと浸りたいと思う。けれど、タイシンにとって今はそれが耐えられなかった。
学園では毎日がイベントの連続で、息つく暇などなかった。忙しない日常をなんとかこなすだけで日々が過ぎていった。時には立ち止まることもあったが、常に誰かがタイシンの手を引いてくれた。
息つく暇がなかったからこそ、実家の穏やかな空間は居心地がいい。そのはずなのに、タイシンは落ち着かない。
なぜなら自分の中の葛藤と向き合わないといけないからだ。
自分が走る理由。本当にこの先、勝ち上がっていけるのかという漠然とした不安。今も頭の中で響く雑音。
忙しさにかまけて考えないようにしていた気持ち。ふとした脱力で、押さえつけていたそれはあふれ出す。じっとしていると自分自身がそれに押しつぶされて塗りつぶされるような気がしてタイシンは落ち着かなかった。
自分自身さえ見失ってしまいそうな感情の濁流。手を引く人がいないここでは肺に刺さる冷気が、タイシンの居場所を教えてくれる。同時にタイシンは走らなくてはいけないと突きつけてくれる。
「はっ、はっ、はっ」
少しだけ、勾配が上がる。
メイクデビューを勝ち、ホープフルステークスを勝ち上がってもなお、この息苦しさは止まない。むしろ、増している。
影が囁くのだ。
次は勝てるのか。ここが限界なんじゃないか。負けたらすべてなくなるぞ。
吸い込まれそうなほどの真っ黒い影がそう言う。どろりと溶けそうなほどの甘言ではない。落ちてしまいそうな魅惑も感じない。ただ的確にタイシンを刺す刃のような言葉。
うるさくて、どうしようもなく自分自身に深く刺さる。その気持ちを振り払うように、自分は走り続けると白い影に宣言した。でも、この影は一向に消えちゃくれない。
「はっ、はっ、はっ」
徐々に勾配が大きくなる。間もなくだ。
日に日に増していく、逃げ出したいという感覚。
自身の葛藤に押しつぶされて、立ち止まることを選択しても両親はそれを尊重してくれるだろう。それが堪らなく彼女にとっては嫌だった。
雑音を背負っていく、この背を追って来いといった言葉を反故にする。あまつさえそれを他人に肯定させる。しょうがないと言わせる。それだけは堪らなくタイシンには許せなかった。
そんな腑抜けた自分を戒めるには肺に刺さる冷気が丁度いい。
「ふぅ……」
気づけば、展望台についていた。
クールダウンのため、少しずつ速度を落としていく。
木造のテラスに近づく。そこから見える夜景はタイシンは嫌いじゃなかった。
「ん?」
先客がいた。小柄な影。わずかな光で見てわかるほどの燃えるような赤髪。
この時期、この時間帯に人がいることにタイシンは少し驚くが、あまり気にしない。自分には関係ないから。
そのはずだった。
「勝ちたい……」
女性、というより少女の声。たぶん、彼女にとってはつぶやきだっただろう。この静かな場所ではその言葉はしっかりとタイシンの耳に入っていた。
切実で、ひどく思いつめた感情がこもっていたその言葉は、タイシンに刺さった。
タイシンは少女にゆっくりと近づく。
声を掛けようとすると少女はタイシンの方を向いた。その瞳からは一筋の滴が頬を伝っていた。
そして、タイシンの顔を見るや否や腕で顔をぬぐってどこかへ駆け出していた。
「いたっ……う、うぅ」
ウマ娘でもない。明かりもつけていない。夜道で転ぶのは当然と言える。
しかし、少女はすぐさま立ち上がり、タイシンが声をかける前に駆け去っていた。
「なんだったんだろう」
よく分からない。でも、赤髪の少女が発した言葉はとてもタイシンにとって印象的だった。
意識的に彼女について考えるのを止めて、夜景を見る。
都会のように綺麗な夜景ではなく、まばらに明かりがついている。歪で不格好だけれど嫌いじゃなかった。均等じゃない風景の方が生きているという感じがするから。
それぞれの人やウマ娘が毎日、生きている。みんな悩みを持って、それでも懸命に生きている。自分もそのうちの1人で、この押しつぶされそうな気持ちは、自分だけではないって思うと少しだけ安心する。
タイシンはウジウジと悩んでいた自分が馬鹿らしくなる。
「勝ちたい」
先ほどの少女の言葉を繰り返す。負けた時のことを考えていてもしょうがない。今の自分はこれだけを考えて進むしかない。
両手で頬を叩く。
「よし」
自分の気持ちに整理をつけてタイシンは帰宅した。
母親はひどく泣きそうな顔で出迎えてくれた。申し訳ないという気持ちはある。
しかし、どこに行っていたや心配した、ではなくて居心地が悪くさせてしまったならごめんなさい、と謝るその言葉はとてもタイシンにとって腹立たしかった。だから彼女は素っ気ない態度で自室にこもってしまった。
本当なら自分が謝らないといけないと思っていても、言葉にするのはすごく難しい。
「ホント、めんどくさい」
母親に対しての言葉なのか自分自身への言葉なのかタイシンもよくわからなかった。