「いいね、タイムが順調に上がってきてるよ」
2月の後半に差し掛かり一番冷え込む時期。
ナリタタイシンは、トレセン学園の練習場の一角で汗を拭いながらトレーナーの言葉を聞いていた。
肺を刺すような冷気が体にあたるが、熱がこもったタイシンには逆に心地良かった。
「それは周りのウマ娘だって同じでしょ」
「それはそうなんだけどね」
タイシンは、歯切れ悪く答えるトレーナーを見て少し申し訳なくなる。
「ごめん。ただ、アタシ自身も現状に納得できてないから口調が強くなった」
「いや、私もちょっと弱気になってたのかもしれない。もう少し負荷をかけたトレーニングで行けそうか考えてみるね」
「ん。ありがとう……もう少しだけ走ってくる」
「わかったよ。無理しないでね」
停滞している。
それがタイシンとトレーナーの共通の理解であった。
以前と比べて見違えるほどにタイムは上がっている。それは間違いない。
しかしそれは他のウマ娘も同じだということをタイシンはビワハヤヒデとウイニングチケットとの併走で実感していた。
タイシンの末脚は他のウマ娘よりも抜きんでた武器であるが、それだけを頼りに勝ち上がるのは無謀とも言える。
だから、末脚を補強するためのスキルをタイシンは身に着けたかった。しかし、どれだけやっても何かが足りない。はまらない。
トレーナーからヒントはもらった。だから、身に着けられるかどうかはタイシン自身の問題であった。
それをわかっているからこそトレーナーはタイシンの練習に何かを言うことは控えている。そのことをタイシンは察していた。
「何か、何かが足りないんだ」
「そんな気持ちで走ってて気持ちいいの?」
「は、そんなの……」
タイシンの思考になにか雑音が混じった。その雑音の方に振り向く。
「サイレンススズカ……さん」
「こんにちは、ナリタタイシン」
予想外の存在から話しかけられためタイシンは言葉に詰まってしまった。
「なんで、ここに……ていうかスズカさんも調整とかあるんじゃないの」
「うーん……別に構わないわ」
サイレンススズカは顎に人差し指を当て、何かを思案するようなポーズを取るが、特に気にしていないようだった。
「私はもうレースでは走らないから」
「え?」
当然の事柄といった風でサイレンススズカは衝撃の一言を発した。
ナリタタイシンはその言葉を受け入れることができず、固まってしまう。
「それは……」
口が渇いていた。
息を忘れてぽっかりと開いた口ではうまく言葉を紡げない。
色んなことを考えてしまう。
どうしてだとか、何が原因だとか、ありふれた疑問がタイシンの中に渦巻いている。
ふいに声を掛けられた。
「ナリタタイシン、走ろう。そしたら、そんなごちゃごちゃしたこと考えなくて済むから」
そう言って、スズカはタイシンに手を差し出す。
『ターフの上で、一番見晴らしのいい景色まで私がエスコートしてあげるから!』
「あ……」
どうしてとか、なんで止めてしまうのなどタイシンにはスズカに聞きたいことがたくさんあった。
けれど、スズカの差し出した手が、言葉が、全く似ても似つかないトレーナーと、なぜかだぶった。そう思った時にはタイシンはスズカの手を取っていた。
「ありがとう……あなたと走る道はきっと気持ちいいわ」
「あっそ」
ストレートに気持ちを伝えられ、タイシンは思わず素っ気ない態度を取ってしまった。
「気持ちいいわね」
「ちょ、ちょっと……」
「どうかしたの?」
「3時間ぶっ通しで……ランニングは……さすがに……」
スズカとタイシンは学園の周辺をぐるぐると走り続けていた。何度通ったかわからないトレセン学園の校門の前でタイシンは思わずスズカに制止をかけた。
タイシンは元々スタミナが少ない。故に、克服するために長時間のランニングを行うことはある。しかし、休憩なしこれほどの時間を走るのは未知の経験であった。
しかも、スズカは息をほとんど切らしておらず、ペースの乱れがほぼない。
これが、完成されたウマ娘と、まもなくクラシック級を迎えるウマ娘との違いなのか。それとも……タイシンはそれ以上考えたくはなかった。
「ごめんなさい。ナリタタイシンには無理だったみたいね」
「は?」
「私はナリタタイシンと走ったら楽しいと思っていたけれど、それで、あなたが苦しくなっちゃうのなら無理強いは出来ないわ。わたしのワガママにつきあわせてしまって、ごめんなさい」
「おい」
「それじゃあ、10分くらい休憩しようかしら」
「ふざっけんな!!」
心臓がバクバクと脈打っている。息もかなり乱れており、言葉を出すのさえ苦しい。しかし、タイシンにはそんなの関係なかった。
「アンタが勝手にアタシの限界を決めるな。アタシは無理だなんて一度も言ってないだろ。アタシは走る。誰がなんて言おうとそれだけは絶対に曲げないから!」
トップクラスのウマ娘がどうした。強いやつの言うことが絶対であるなどタイシンは思ってもいないし、そんな考え方が嫌いだった。
たとえサイレンススズカの言葉が善意からのものであっても、タイシンにとっては到底受け入れられるものではない。強いだとか弱いだとか、才能があるとかないとか関係なしに、自分の信念を守るためにタイシンは吠えた。
「そう……そうよね。アナタならそういってくれると思っていたわ。さあ、タイシン。走りましょう? あと、二時間は大丈夫よね」
「えっ?」
タイシンは気づいた。彼女の言葉は発破をかけるためなどではなく、純粋な感想として放った一言であったのだと。
正直、今が限界ギリギリとさえ言えるタイシンにとって、その課題は不可能にも等しかった。けれど、一度出した言葉を引っ込めることもできない。
故に、タイシンには走る以外の余地はなかった。
「うう……ぉうぇ……う”う”……」
「タイシン、大丈夫? 無理なら無理って言ってくれたらよかったのに……ドリンク飲む?」
「いら……ない……うぉぇ……うぇ」
酸欠で頭がクラクラする。めまいがして視界がぐるぐると回っている。今、水分を取ったら胃が痙攣してもっとひどいことになるという確信がタイシンにあった。
タイシンはうずくまって、体が酸素を必死に取り込む。
どうやって走り切ったのかタイシンにもわからなかった。ただ、意識を失わないことと、スズカの背を追うことだけを考えて必死に走っていた。
「ねえ、タイシン」
「なに」
「気持ちよかったでしょう」
「わかんないし……ついていくのに精いっぱいで」
「そうそれ」
「どういう、こと?」
「私も走ってる間に景色が綺麗だとか、今うちの生徒が走ってるなとか色々考えるの。でも、4時間を超えたあたりから、自分のことだけしか考えなくなったわ」
「自分のことだけ」
「この走りだときついなとか、もう少しペースを落としてみようとか、自分が一番楽に長く走れる方法だけを考えるようになったわ。そうしたら、少しだけ走りやすくなったり、走りにくくなったり、そこでまた走り方を変えてみたり」
「それは……」
スズカの言葉にタイシンは納得した。
タイシンも、後半になるにつれてスズカに追いつくために少しでも無駄を省くように自然とフォームを工夫するようになっていた。
その中でタイシンは普段の自分がどれだけ力んでいるかというのをなんとなく理解した。
「ずっと、ずぅーっと走ってもう限界って思った先にあるのは自分との対話」
「自分との対話」
「レースはとっても孤独な競技でしょう?」
ちりん、と鈴が鳴る。鈴の音に合わせてスズカの顔がほころぶ。タイシンにはとても楽しそうに見えた。
「レース場にはお客さんもいる。トレーナーさんもいる。ライバルのウマ娘だっている……でも、結局は今までの自分の記録を越えれば自然と一着になっているわ」
「……っっ」
暴論だと、タイシンは否定したかった。しかし、彼女はそれで勝ってきたのだ。タイシンには彼女の主張を否定するものなど持ち合わせてはいなかった。
「レースの上では自分以外はただそこにあるだけ。私はいつだって過去の私よりも早く走ることだけを考えているわ」
「そう……やっぱり、トップクラスのウマ娘となると、他のウマ娘は関係ないってことね」
「?……言っている意味がよく分からないのだけれど」
「別に……先頭だけ見ているウマ娘と違って、こっちは周りのウマ娘に食らいつくので精いっぱいってだけ」
肺が苦しい。胸が締め付けられる。タイシンはどうしようもなく、厭味ったらしい言葉しか吐き出せない自分自身が嫌になる。
「やっぱり、まだ意味が分からないのだけれど……タイシン。アナタの走り方でどうしてそんなに周りのウマ娘を気にする必要があるの?」
「普通に考えてそうでしょ。追い込みなんだから、周りの仕掛けるタイミングとかを見計らって勝負をかけないと」
「そんなはずはないわ。あなたの勝負を仕掛けるタイミングに周りのウマ娘なんか関係ない」
「だから……!!」
「あなたの末脚は最終3ハロンだったら誰にも負けない。唯一抜きん出てる。並ぶものなんて誰もいない」
「……っっ」
「一ノ瀬ちゃんがあなたの走りをよくこう言っていたわ。……あなたには敵なんていない。そんなあなたの一番の敵になるとしたらそれはあなた自身じゃないかしら」
「それは……」
「タイシン、あなたはよく周りを見ているわ……でも、どちらかというと見ているというより、本来見なきゃいけないものから目を逸らしているという印象ね」
やめろ、とタイシンは喉元まで言葉が出かかっていた。タイシンの全身から汗がどっと吹き出す。走るのを止めてすこし経っているはずなのに。
「いえ……これは別にどうでもいいこと」
「そう」
タイシンは胸をなでおろした。どうしてこんなに安堵しているのかタイシンにもよく分からなかった。
「それで、何か掴めたかしら」
「なんのこと」
スズカの脈絡のない問いにタイシンは理解が追いつかない。
「走る前に悩んでいたでしょう。たぶん、アレは体力をセーブするための走りのように見えたけれど」
「ああ……」
「限界を超えて、頭もうまく回らなくなって、それでも必死に食らい続けてきた今のあなたなら、なにか得るものがあったんじゃないかしら」
「スズカさん、それを狙って」
タイシンにもなんとなく彼女の狙いが分かった。限界を超えた先でタイシンは、ただひたすらに力を抜いて体力を温存するように心がけていた。その感覚は今も覚えている。
むしろ、今でなければ、もう再現は出来ないだろう。それを見越してのランニングだったのだろうか。タイシンはサイレンススズカというウマ娘の底知れなさに畏怖の念を抱いた。
「さあ、走ってみましょう」
もう辺りは暗くなったが、彼女はお構いなしにタイシンに提案する。
タイシンもまだ見ぬ自分の可能性を感じてゾクリと身震いした。鼓動がバクバクと高鳴る。あれだけ走ったというのに、自然とまだ走れそうな自信がみなぎってきた。
スタート位置につく。
スズカのカウントダウンと共にタイシンは勢いよく駆け抜けた。
他人ではなく、自分の鼓動に合わせたリズムでステップを刻む。深呼吸を心がける。
体の軸が少しぶれたのが分かり修正する。なるべく一定だ。メトロノームのように正しくリズムを刻む。
勝つか負けるかだなんて焦りはなにも考えない。ただ、リズムを刻むことだけを意識する。
それは驚くほど走りやすかった。
どこまででも駆け抜けられそうだとタイシンは思った。
最終3ハロン。タイシンの居場所だ。ここから、ギアを上げていく。ぐんぐんと加速しタイシンの脚は伸びていく。気づけば、ゴールを踏み抜いていた。
「はぁ……はぁ……スズカさん。どうだった」
「ええ……」
タイシンはスズカのもとに歩いていき、タイムを聞く。
過去最高どころか、今週で一番タイムが伸びていなかった。
「ダメじゃん……ダメじゃん!!!」
「おかしいわね……ストップウォッチの故障かしら」
「教えたアンタが事実から目を逸らさないでよ!」
「私が走った時はうまくいったんだけれど」
「はあああ? スズカさんとアタシは走りも能力も全部違うでしょ。それでどうやってうまくいくって言うのさ!」
「……そういう見方もできるわね」
「その見方以外の視点を教えてよ、ねえ!」
「もう一周したら何かわかるかしら」
「わかんないに決まってるでしょ!」
「悔しいけれど、私の見通しが甘かったと言わざるを得ないわ」
「ようやくアタシたちの認識が一致したみたいだ」
「ええ、だからタイシン。ちょっとだけ待ってて」
そういって、スズカはトレーニング場に置いていたカバンからスマホを取り出しそれを耳に当てた。
「こんばんは、一ノ瀬ちゃん」
『こんばんは、スズカ。もう練習終わったの』
「ええ、今日はもうそろそろ解散予定よ……ところで一ノ瀬ちゃんにお願いがあるの」
『え、なになに』
「三月いっぱいまでナリタタイシンを借りるわね」
『え!? いやいやいや、スズカもわかってるでしょ。タイシンは今年がクラシック級だよ。絶対に調整に力を抜いちゃいけない大事な時期なんだよ』
「だからよ」
『え?』
「今のあの子に必要なのは、レースの上でより早く走るための方法。そしてそれは、人間じゃどうしようもできないウマ娘の領分でしょう?」
『……』
「もう一度言うわね一ノ瀬ちゃん。3月いっぱいまでナリタタイシンを借りるわね」
『スズカのバカ! あほ! 走ることだけしか考えていないウマ娘!』
「ふふっ、ありがとう」
スズカは、やり取りを終えるとタイシンの方に向き直る。
「ということで、私はあと一か月ちょっとを使ってあなたに気持ちよく走る方法を教えるわ。文字通り全身全霊で」
「いや……え……」
「嫌なら別にいいの。私だってやることはあるから」
「くっそ」
スズカの発言に他意などない。しかし、他意なくここまで煽ることができるのは一種の才能だとタイシンは思った。そして、その挑発にのってしまう自分が少し情けなかった。
「ああ。いいさ、やってやる。けど、アタシをマジにさせられなかったらスズカさんだって容赦しないから!」
「ええ。これからよろしくね。ナリタタイシン」
スズカは微笑みながら手を差し出す。タイシンはその手を取り、スズカを睨む。
「きっと楽しくなるわ」
タイシンの視線など気にも留めない様子でスズカはそう言った。