ナリタタイシンに対する強い幻覚   作:妄想投棄場

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Nobody is in my side

 放課後、ナリタタイシンはトレセン学園の練習場でトレーニングを行っていた。

 他の生徒たちは、チームで練習していたり、個人で練習していたりとそれぞれである。タイシンは広い練習場の中でもひときわ人気の少ない場所に移動して練習を行っていた。

 元々、タイシンは騒がしいのは嫌いだ。そして、今は昨日サイレンススズカと見たDVDから学んだことを試したくてたまらなかった。

 新しい走法の振り返りをするとき、タイシンは自分の思考になるべく雑音を入れたくなかった。

 

 ナリタタイシンは姿勢を低くし重心を下げて駆け出す。

 

 確か、映像で見たのはこんな感じだったとタイシンは思い返した。

 

 左足で抉れるほど土を踏みしめて、右足をつける。

 走るというよりは飛び跳ねるようなイメージ。けれど、跳ねすぎては逆に遅くなってしまう。

 リズムを取りながら、できるだけ地面と平行に足が浮くようなイメージ。

 それを交互に繰り返していくだけでタイシンの体はぐんぐんと加速していく。

 

 この走り方においては地面を踏みしめる足の力が一番重要であるとタイシンは感覚的に理解できた。

 スタートの際、地面を踏みしめることで反作用が大きく作用し、跳ねた際の飛距離の向上が見込める。小柄で足幅が必然的に小さくなってしまうタイシンにとって、歩幅が大きくなることは非常に意味があった。

 脚の回転を維持したままに歩幅の向上させることはほんのわずかではあるがスタミナの軽減にもつながる。非常に伸びのある末脚。

 この走り方は、トップスピードにするときに使うものだ。スタミナの消耗も尋常ではなく恐らく3ハロンも持たない。距離にして200mが限界といったところだろう。

 

 クールダウンがてらに思考する試走の感想としては、膝や腰にかかる負担が考えられないほど大きいと思った。しかし、当然のことだとタイシンは考える。

 イメージするのは四足歩行の動物だ。元々大地と平行になる体勢で過ごしている動物と違い、垂直に伸びた体を屈める必要がある。四つの足で踏みしめるところを二つの足で行わなければいけない。

 進化の過程で失ったものを補うにはタイシンの体では代償が大きいのだ。

 しかし、タイシンはどうしてかこちらの走り方の方が馴染みがあった。これが本来の走り方であったようなそんな錯覚にさえ陥った。

 初めて走ってみたというのに、完成形のビジョンがはっきりと思い浮かぶ。そのために必要な改善点がタイシンの頭の中で次々と湧いてくるのだ。

 いてもたってもいられずに、再び先ほどの走りの練習をする。

 タイシンが走るたびに段々と足のキレは増している。今、タイムを測ればベストを大きく更新できるような確信さえ持てる。しかし、タイシンの頭の中で何かが叫び続けているのだ。

 

 まだ、足りない。もっと、もっと速く。誰よりも速く。

 

 呼吸が荒い。タイシンは練習を再開してからろくに休憩も取っていないため肺は締め付けられ、足も重い。正直、頭もくらくらしているが、タイシンの中の何かが突き動かすのだ。もっと速く走れるだろうと。

 体は悲鳴を上げている。しかし、タイシンは自分の体よりも得体の知れない何かの意志を優先する。

 

 人やウマ娘のような二足歩行の動物と、四足歩行の動物の大きな違いは当然のように足の数だとタイシンは思う。

 そして走るということになればその差はより一層大きくなると昨日のDVDを見ていてタイシンは思っていた。

 瞬発力において決定的に重要なものは筋肉だ。それを収縮させる際に必要になるのは間違いなく酸素である。

 足は、第二の心臓と呼ばれるほど血液の循環において重要な役割を果たすとタイシンは昔に読んだことがあった。

 心臓から送り出されて末梢まで流れた血液を足が地面を蹴ることで再びポンプのように送り返すのだ。足の機能が発達していれば、酸素が全身に渡る速度が上がり、心臓が新たな酸素を送り出す速度も自然と早くなる。

 このポンプが二つと四つでは単純に考えて倍もの違いがある。どうしたって、四つ足の動物のようには走れないとタイシンは子供でもわかる結論をDVDを通して改めて理解した。

 しかし、タイシンの頭の中の何かは囁くのだ。

 

 それでは足りない。速く。誰よりも速く。

 

 いつも、タイシンの頭の中でへばりつくように反響している雑音はすべてかき消えている。白い影も囁かない。

 その声だけがタイシンの頭の中で反響するのだ。

 その言葉の言うことを叶える術がタイシンにないわけではなかった。

 

 要は二つの足に倍の負荷をかければいいだけのこと。

 

 我ながらずさんなパワープレイのような考え方に笑ってしまいそうになる。スズカのことを一つも笑えないなと。

 正直、タイシンの体が出せる速度は今が限界だ。しかし、今後も走ることを考えればの話。

 

 ターフの上で死ぬなら本望だ

 

 それはタイシンが初めから考えていたこと。

 タイシンの中の何かは、自分の現状に不満げらしいとタイシンは呆れてしまった。しかし、その声の言う通りに走ったら気持ちよさそうだとタイシンもワクワクする心を抑えきれない。

 呆れるほどバカだと自嘲しながらタイシンは再び、走る体勢を整える。

 

「はっ、はっ、はっ」

 

 敢えて呼吸を早める。心拍を上げる。本来は、レース終盤に入った時に使うためこのような準備はいらない。しかし、この走り方だけをするならばタイシンは心拍をある程度上げる必要があった。

 全身がかーっと熱くなるのを感じる。少しだけ飛び跳ねて足をあたためる。

 視界が開けた気がした。なんだか、普段よりもよく見えているような気がする。そんなことを考えているとタイシンの中の声はひどくうるさくなる。

 

 早く。早く。早く。速く、誰よりも速く。

 

「うるっさ」

 

 タイシンは血圧が上がっているせいか頭がガンガンと痛く感じる。でも、今が一番心地よい気がした。

 

「速く、速く、誰よりも速く!」

 

 足を踏みしめる。より地面と平行に体を折り曲げる。

 この体勢では腕を振りづらい。だから、タイシンは空気を掻き分けるように前に出すことにした。右足を前に出すときに左腕で空を切る。後ろに放った左腕の慣性によって、前に倒れすぎる体を何とか支えることができた。

 何かがちぎれるような音が聞こえる気がする。でもいつのまにか、音も聞こえなくなった。

 

 

 

「あっ……」

 

 気づけば、タイシンはレース場のターフの上に立っていた。

 近くに見えるハロン棒は6を差している。

 残り600m。無理だと思っていた。でも、今のタイシンならば3ハロンをトップスピードで走り抜ける自信があった。

 力を振り絞り、走ろうとした。

 

「それ以上はダメ」

 

「ひゃあっ」

 

 タイシンは全身が脱力し、腰が抜けてしまった。無防備になっていた尻尾を力の限り掴まれたのだ。

 目の前にレース場にあるハロン棒はなく、広大な練習場が広がっているだけだった。

 その声と非常識な行動をする人物にタイシンは心当たりがあった。

 

「なにするの、スズカさん」

 

「それはこっちのセリフ」

 

 チリンと、鈴の音が鳴る。

 気づけば、タイシンの眼前には、橙がかった栗毛の髪を揺らしながら宝石のように透き通った碧眼でタイシンを射貫くスズカの顔があった。

 普段は表情が分かりづらいスズカだが、中腰になってタイシンと視線を合わせてくる彼女からはっきりと怒りの表情が見て取れた。

 

「どうして……勝手に練習していたの」

 

「別に、いつ練習しようたってアタシの勝手でしょ」

 

 必死に怒気を堪えているスズカの様子にタイシンは少しだけ申し訳ない気持ちになるが、それ以上に彼女の勝手な言い分に腹が立ってしまう。

 

「別に、スズカさんはアタシのトレーナーでもないでしょ。ただ、勝手に押し付けて勝手に放りだしてるだけの無責任なことしてるくせに、たまにコーチ気取りしてるだけじゃん。アンタはアタシのなんなの? アンタが好き勝手してるんだからアタシだって何しようと勝手でしょ!!!!」

 

 体が熱い。ドロリと何かが垂れてくる。

 スズカと練習をはじめてからタイシンは全てを飲み込んできた。今回だってもう少しで自分の新しい走りの完成形にたどり着けたはずだったのに途中で邪魔された。

 いくら畏敬の念を抱こうとも、自分のやりたいことを捻じ曲げられるのはタイシンには到底我慢できなかった。

 そもそもスズカから『気持ちよく走れるようにする』と言いだしたくせに、タイシンの好きなようにさせてくれないということも殊更タイシンが納得いかない理由であった。

 

「いいえ、そんな勝手は許さないわ」

 

「……タが言ったんだろ」

 

「ごめんなさい。よく聞こえないわ」 

 

「アンタが気持ちよく走れるようにするって言ったんだろ!!! 今、アタシは最高に気持ちよくて、自分の中のベストが出せそうだったんだよ! なのにどうして! アンタは今までだってそうだ。あと少しで掴めそうになったらすぐに他のことをして……ちっともやりたいようにやらせてくれない!」

 

 タイシンの溜まった感情があふれ出す。もう無理だと思った。今までは無理やり納得させられてきたけれど、今日という今日は本当に限界だった。

 

「アタシはアンタに信じて我慢してればいつかきっと結果が出せると思って今までやってきた。でも、もう無理だ……アンタはもう指導してくれなくていい」

 

 タイシンは自分でも驚くほどに冷たい口調でスズカに宣言した。

 

「ダメよ。あなたは私が指導するわ。それが一ノ瀬ちゃんからあなたを預かった私の責任だもの」

 

「アンタはほんっとうに……!!!」

 

 スズカは狙いすましたようにタイシンを苛立たせてくる。堪らなく腹立たしくて、怒りで我を失いそうだとさえタイシンは思ってしまう。

 

「それに文句があるなら立って言ってちょうだい。そんな腰の抜けた態度ですごまれてもどうしようもないもの」

 

「~~~~~~っっ!!!」

 

 スズカは、挑発を止めない。中腰のままタイシンにそう言い放ったのだ。タイシンは自分の中で何かが切れたように感じた。

 去年、自分の軽率さでトレーナーを窒息させかけた罪の意識から、どんな時でも必死に理性を保つようにタイシンは常に最大限注意を払っていた。

 けれど、目の前の相手はそんな配慮を全部ぶち壊すかのように、タイシンの逆鱗にしか触れてこなかった。

 タイシンは理性をどこかに置き去りにして、スズカの喉元にまで手を伸ばした。

 

「え?」

 

「どうしたの」

 

 伸ばしたはずだった。タイシンの頭の中では完璧に動きのイメージができていた。しかし、体はうんともすんとも言わないのだ。

 

「ごめんなさい。その足で立ってなんていうのは酷だったかしら」

 

 スズカのその言葉でタイシンは自分の足に目をやると、タイシンの両足には紫斑が広がっていた。

 

「っっ!?」

 

 それを理解した瞬間にタイシンに急激な痛みが襲ってくる。こころなしか、口元に違和感があり、拭うと拭った腕が朱に染まっていた。鼻血が出ていた。少し抑えても止まらない。

 

「夢中になっていたせいで、痛みなんて感じる暇もなかったんでしょうね」

 

 スズカの声音には怒気のほかに呆れも加わっていた。スズカは、持っていたハンカチを強引にタイシンの鼻に押し込む。

 

「あなたは私に自分の限界を勝手に決めつけるなと言った」

 

 ゆっくりとスズカは立ち上がり、タイシンを見下ろす。

 

「自分の許容範囲も分からずに無茶をするくせに限界を決めつけるな、なんて随分大きなことを言えたわね」

 

 タイシンは声が出なかった。

 先ほどまであったタイシンの中のやかましいくらいの声も息を潜めてしまい、気づけばタイシンが抱いていた全能感はなくなる。

 

「その足は、筋肉への過剰な負荷による毛細血管の破裂、筋繊維の断裂によって今日はロクに走れる状態じゃなくなった。……人間であれば復帰までに一、二週間はかかるけど私たちであれば一日寝れば、走れる程度には回復できる」

 

 大したケガではない。しかし、わずかな距離を走っただけでここまで肉体に負荷がかかっている。

 スズカは口にしていないが、そういいたいのだろうとタイシンは何となく察した。

 

「私が止めなかったら、あなたは今日で走れなくなっていたかもしれない。もしそうなっていたら、あなたは一ノ瀬ちゃんになんて言うのかしら」

 

 タイシンは黙って歯を食いしばることしか出来なかった。

 タイシンの脳裏に浮かぶのは、病院の中で見たトレーナーの表情。初日の出を見る時に見せた表情。レストランで見た表情。

 タイシンが走れなくなったとわかった時は、今まで見た中でどれよりも深く表情に影を落としてしまうのだろう。もう、表情を変えることすらできず、常に自己嫌悪の中で毎日を過ごしてしまう。そんな未来さえタイシンには容易に想像できた。

 想像するだけでタイシンは息が苦しい。罪悪感に苛まれてしまう。

 

「タイシン。あなたは全部を背負おうとしすぎている……一ノ瀬ちゃんは見ていて危なかっしいものね」

 

 そう、タイシンにとってトレーナーは信頼できるパートナーであると同時に自分が支えてあげなければいけないものだと考えていた。

 

「はっきり言わせてもらうけれど、一ノ瀬ちゃんが危なっかしすぎるだけであなたも見ていて十分危なかっしいわ」

 

 スズカのその声音からは今までの険が取れていた。

 

「あなたは、まだクラシック級に上がったばかりの走りたての赤ちゃんみたいなもの……そんな未熟なあなたが全部を背負ったとしても責任なんて取れるわけもないし、取らせようとも思ってない。でも、あなたは無茶をしすぎている」

 

 スズカは、再び体を屈めて、タイシンと視線を合わせる。その表情はひどく穏やかなものだった。

 

「誰にも頼れなかったのね。誰もあなたの言葉を聞こうとしなかったのね。あなたは誰にも頼らなくても生きていけてしまったのね。そんなあなたを頼ってしまう人たちを無下にできなかったのね……でも、ダメよ。もうこれからはダメ。私があなたの勝手を許さないわ」

 

 大きな力でタイシンの体が引き寄せられた。ほのかな柔軟剤の香りがタイシンを包む。そして、理解する。タイシンはスズカに抱きしめられていた。

 

「あなたはまだ自分のことを知らなすぎるわ。すぐに無茶をして一ノ瀬ちゃんを、周りを悲しませてしまう。そんなことはきっとあなたが一番望んでいないはずよ」

 

「う、ぁ」

 

 タイシンがトレーナーを抱きしめることはあった。落ち着かせるように背中をさすることもあった。でも、こんなにいたわるように抱きしめられたのはいつが最後だったかタイシンは覚えていない。

 わからない。タイシンには何も分からない。タイシンの中に渦巻いている感情の名前が分からない。

 暖かいのに、悲しくて、嬉しいのに、不安でいっぱいだ。今までずっと吐き出せずにいたぐちゃぐちゃした感情が形になって頬を伝っていく。

 

「ご、めん、な、さい」

 

 しゃくりを抑えきれずにタイシンは震えながらスズカに謝罪する。

 

「許さないわ」

 

 その言葉と裏腹にスズカの声音は慈愛に満ちていた。スズカはゆっくりと背中をさすりながら、少しだけタイシンを抱きしめる力を強める。 

 

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 

「ダメよ。絶対にダメ。あなたが背負っているものを吐き出すまでは絶対に離さない」

 

 寂しかった。悲しかった。怖かった。不安だった。逃げ出したかった。諦めたかった。走りたくなかった。見ていてほしかった。頼りたかった。ほめられたかった。愛してほしかった。叱られたかった。慰めて欲しかった。仲間に入れて欲しかった。

 

 タイシンは小さいころから否定されてきた。成長すると勝気になり、周りを寄せ付けなくなった。タイシンだって本当はもっと他の人みたいに素直になりたかった。

 自分を守るために意地を張って、筋を通して、バカにされないように生きてきた。気づけば、メンツやプライドのために全てを背負い込んでしまい、吐き出すこともできずにドロドロと自分の中で煮詰まり、へばりついて、タイシン自身にさえ牙をむくようになった。

 タイシンは誰かに、どこかに、いつだって救いを求めて生きてきたが、周りに来るのは自分と似た者ばかり。結果的にタイシンは救いを求めてきた全てを背負い込んでしまった。

 タイシンには誰かに真剣に叱られた記憶がない。いつだって、建前のために言われてきた薄っぺらい言葉ばかり。

 タイシンは親以外から労わるように抱きしめられた記憶がない。その両親だって小学校の前半くらいから反発してきた。トレーナーでさえ、結局は自分のためだったのだと思う。

 タイシンは声を押し殺そうとした。でも、抱きしめられたぬくもりで脱力してしまい、体は言うことを聞いてはくれなかった。

 

「うあぁぁぁぁぁ」

 

 タイシンは恥ずかしくなるくらいに大きな声で泣いてしまったが、スズカはずっとタイシンを抱きしめていた。

 

 

 

 

「今日は練習もできないしこのまま寮まで送るわ」

 

「……はい」

 

 ひとしきり泣いた後、タイシンは我に返ってかなり恥ずかしくなっていた。

 タイシンはスズカの顔を直視できないくらいだった。

 

「お姫様だっこと、おんぶはどちらがいいかしら」

 

「肩を貸してもらったら十分なんだけど」

 

「ダメよ。あなたは少しでも目を離すとすぐに無茶をしてしまうから」

 

「……おんぶで」

 

 タイシンは反論することもできず、スズカの提案に従うしかなかった。

 

「最近、負ぶわれてばっかりだ」

 

「あんまりない感覚でしょう」

 

「まあ」

 

 タイシンはずいぶんと子ども扱いされているようで少し気になった。たぶん自分がトレーナーに対する態度と似ているからだとタイシンは思った。

 

「あ、タイシン!」

 

 声のする方を見ると、件のトレーナーが近づいてきていた。隣にはビワハヤヒデもいる。

 

「こんにちは、一ノ瀬ちゃん」

 

「こんにちは、スズカ。ってタイシンがスズカにおんぶってどういう状況なの」

 

 トレーナーの訝しげな視線にタイシンはバツが悪くなり、足が見えないようにスズカに掴む力を強め身を小さくする。

 そんなタイシンの行動を知ってか知らずか、スズカは少し思案した後に、トレーナーに対して返答した。

 

「私がタイシンの尻尾を掴んで腰が抜けてしまって、タイシンが怒っちゃったから今日は練習を切り上げることにしたわ」

 

 訝しげなトレーナーの表情がさらに神妙になる。

 

「うん、そっか!」

 

 トレーナーは理解を放棄したようだった。

 

「トレーナー、ハヤヒデと何してるの」

 

「ああ、ビワハヤヒデの妹、ナリタブライアンの走ってる様子を一緒に見に行くんだ」

 

 先日はウイニングチケットから相談を受けており、今日はビワハヤヒデと一緒に行動している。少しだけ思うところがないわけではないが、タイシンとしてはトレーナーの気を逸らしやすいこの状況が好機だった。

 

「ん、わかった」

 

「じゃあね、一ノ瀬ちゃん」

 

「うん、じゃあね、タイシン、スズカ」

 

 そういって、トレーナーはハヤヒデを伴って練習場に向かっていった。

 

「一ノ瀬ちゃんは皆から好かれてるわね」

 

「ホント、気づいたらいつの間にか心の中に入り込んでるんだよ」

 

 帰り道、スズカの背からタイシンは返答する。

 

「手のかかる子ほど可愛いものよね」

 

「それは、そう」

 

 タイシンから見ているとトレーナーはすごく危なかっしい。そして、こちらの気持ちを汲み取ったかのような行動をしていつの間にかその存在が大きくなっている。

 それも無自覚だから性質が悪い。 

 

「でも、手がかかるのはタイシンも一緒よ」

 

 ちりんと、鈴の音が鳴る。スズカは先ほどの光景を思い出して笑っているのだろうとタイシンは思った。

 

「どうして、スズカさんはアタシにそこまで世話を焼いてくれるの」

 

 タイシンにとって、スズカは初めて会った時からすごく意味の分からない存在だった。

 病院での会話も、眺めのいいジョギングコースや交通量が少なくて走りやすい道路を笑顔で紹介されたから、タイシンはなんとなく愛想笑いでごまかしていたところがあった。

 

「んー、そうね」

 

 ちりん、と鈴がなる。少しだけ首を傾げた後にスズカは端的に答えた。

 

「強いて言うなら、同情かしら」

 

「は?」

 

 台無しだった。

 先ほどまでのスズカが行っていたことはすべて同情から来たものだったのかと、タイシンはなんとも言えない気分になってしまう。

 

「ごめんなさい。今まで隠していたけれど、私は自分の気持ちを言葉にするのが得意じゃないの」

 

「は?」

 

 スズカの言葉が本気なのか冗談なのかタイシンには区別がつかなかった。

 

「タイシンに興味を持ったのは同情がきっかけよ」

 

「ああ」

 

「一ノ瀬ちゃんが担当ウマ娘に無茶させたって、トレーナーさんから聞いてタイシンに興味を持ったわ」

 

 タイシンはなんとなく理解した。スズカは、質問に対して何個かの連想ゲームをした後に言葉を出すのだ。それは意味が分からないのも当然だ。彼女からまともに話を聞くには最後まで話を聞くか、こちらが詳細に質問をする必要があるのだろう。

 

「確かに一ノ瀬ちゃんはタイシンに対してとってもハードなトレーニングを課したわ。でもタイシンだって、何も考えずにそれを受けたわけでしょう? あなたにだって非はあったはず」

 

「それは……そう」

 

 その時のタイシンはトレーナーに対して盲目の信頼を置きすぎていた。それに、見捨てられてしまうかもなんてひどく弱気にもなっていた。

 

「それは結局解決したけれど、お正月にトレーナーさんとルドルフは一ノ瀬ちゃんにばっかり構っていたわ。それは、一ノ瀬ちゃんがタイシンのことをしっかりと見るいい機会になったとは思うけれど」

 

 やはり、トレーナーの悲しみは茶番だったのかとタイシンは思わず、呆れてしまった。でも、スズカの言うような構ってあげるとはほど遠いものだともタイシンは思った。

 

「みんな、一ノ瀬ちゃんばっかり構ってるのが不公平だと思ったわ。タイシンだって、頑張ってるのに、つらいのに。みんなはもっと可哀そうな、手のかかる子に目がいってる」

 

「……」

 

「だから、私はタイシンに肩入れをしようと考えたわ」

 

 確かに、それは同情だとタイシンは思った。でも、どうしてか不思議と嫌な気分にはならない。

 

「あなたが自分の限界を勝手に決めるなと啖呵を切った時に、面白い子だと思った。そして追加のランニングを根性で走り切った時には、私はあなたに肩入れして間違いなかったと自分の判断を褒めたたえたわ」

 

「ええ……」

 

 急に自画自賛しだすスズカにタイシンは反応に困ってしまう。

 

「そして、私に残された時間のほとんどをあなたに注ぐと決めたわ。だから、一ノ瀬ちゃんにお願いしてあなたを貸してもらったの」

 

「前から言ってた残された時間ってどういうこと」

 

「私はレースの舞台を海外に移すわ。そして、引退するまで向こうで走り続けるの」

 

 タイシンの中で全てがつながっていく。勉強会を抜け出してきた。リスニング教材での勉強。単語帳。

 全てはそのためのものだったのだ。

 そして、もうレースで走らないというのも……

 

「なんで」

 

 タイシンには関係のないことなのかもしれない。でも、聞きたかった。

 どうして海外でなければダメなのか。残された時間はどうにもできないのか。

 どうしてこんなに、気になるのか自分でも分からないけれど、それでもタイシンは聞きたかった。

 

「それは今度話すわ」

 

「ほんとに今度なんて来るの」

 

 タイシンはつい、声を荒げてしまった。どうしてこんなに感情的になっているのか自分でも分からない。

 

「……本当に約束するわ。絶対に理由を話す。でも、それは今日じゃないの。それだけはわかって」

 

 少し立ち止まった後にスズカはタイシンにそう言って宣言した。

 

「もう残りは少ないけれど、私は絶対にあなたに気持ちよく走れる方法を教えてあげる。これも約束するわ」

 

 タイシンの腰を掴む力が少しだけ強くなった。

 

「あなたは、私の可愛い可愛い後輩だもの。私があなたを守ってあげる。私があなたを導いてあげる。私があなたを見ていてあげる」

 

 タイシンの目頭がくっと熱くなる。溢れないように、スズカの背に顔を押し付ける。

 

「私の周りは誰もあなたを見ていなかったわ。一番見ていたのは私のトレーナーさんだけれど、それも結局、一ノ瀬ちゃんの担当だからというだけ」

 

 また、ゆっくりとスズカは歩き始める。

 

「一ノ瀬ちゃんだって、結局はあなたを見ていなかったから、酷いことをしちゃったけれど、今はタイシンのことを少しずつ見ているわ」

 

 知っている。

 

「だから、あなたはひとりぼっちじゃないわ」

 

 そうだ。

 

「こんなに側にいるのはあとちょっとしかないけれど、遠くにいたって私はあなたをずっと見ているわ。あなたを応援している」

 

 やっぱり、タイシンにはスズカは意味が分からない。

 

「あなたは私の可愛い後輩だもの」

 

 タイシンには分からない。どうして、スズカの言葉はこんなに暖かいのか、どうしてこんなに嬉しいのか、どうしてこんなに切ないのか。

 タイシンは彼女と練習し始めてから帰り道に至るまでずっとスズカに心をかき乱されていた。

 

 

 

 

「さて、ついたわ」

 

 そういって、2人が下宿している学園内の寮である栗東寮の前で、スズカはタイシンを背から降ろす。

 

「あ……」

 

 タイシンは彼女の背から離れるのが少しだけ名残惜しく感じてしまった。そんな自分が恥ずかしくなり、タイシンの頬は少し熱くなる。

 

「部屋の前までついていくわ」

 

「うん」

 

 普段ならいらないと拒否してしまうところだが、今日のタイシンはそんな気分ではなかった。

 

「今日は安静にして寝るの。わかってるわね」

 

「わかってるよ」

 

「私が来るまで練習をしてはダメよ。あなたはすぐに無茶をするんだから」

 

「わかってるって」

 

「じゃあ、また明日。おやすみなさい、タイシン」

 

「おやすみなさい」

 

 口うるさい親か姉のように接するスズカにタイシンは少し鬱陶しさを感じるが全く嫌ではなかった。

 挨拶をして自室に戻ろうとするスズカにタイシンは声をかけた

 

「スズカさん」

 

「どうしたの」

 

「今日はありがとう」

 

「気にしないで。私はあなたの先輩なんだから」

 

 そういって、スズカは微笑んだ後に自室に戻っていった。

 

 タイシンは口が緩むのを抑えきれない。

 普段なら、素直になれない言葉もすっと口に出せた。彼女は茶化さず、バカにせず笑顔で受け入れてくれた。そんな何気ないことがタイシンには堪らなく嬉しかった。

 

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