ナリタタイシンに対する強い幻覚   作:妄想投棄場

28 / 39
塞翁が馬

 ナリタタイシンが目を覚ますと、目の前には草原が広がっていた。

 おかしい、どこがというほど些細なものではなく全てがおかしい。

 タイシンはトレセン学園の寮の中で床に着いたはずだった。だというのに、今は牧草地のような草原に立っている。

 日は高く昇っている。しかし、ここまでの暖かさではなかった。練習場に吹く風には少しばかりの冬の面影があったはずだ。

 周囲をぐるりと見渡すと、人やウマ娘はいないが動物の姿はまばらに見えた。

 長い首と流線形のシャープな顔つきの動物で、加えて四肢が細長く一見アンバランスに見える。しかし、四肢の付け根の筋肉は相当に発達しており、持久力、瞬間速度共に、野に駆ける上では十分な体つきだと思った。

 四つの足を折り曲げて、木陰で休むものもいれば、草を食むものもいる。

 だが、タイシンはその動物に心当たりがなかった。タイシンの記憶のなかで一番近いのはバクやサイだろうかと推測する。背が高く、それらに比べれば心配になるほどに細い四肢ではあるが目の前の動物の蹄の特徴を一番とらえているのはバクやサイだとタイシンは思った。

 

 「タイシン、他の奴らと混ざらなくていいのか」

 

 タイシンが思考をしていると、突然に誰かが不躾に体を撫でてきた。

 奇妙なこの空間に対する緊張と、知らない人間から気安く体を触れられたことによる不快感でタイシンはその手を振り払う。

 

『気安く触るな!』

 

「おおっ、アブね!……すまん、すまん。後ろから撫でて悪かったよ。許してくれ」 

 

 そういって声をかけてきた眼鏡をかけた男性は、タイシンの頭や首を撫でてなだめる。

 普段のタイシンであればそんなことをされればもっと激昂してしまい、手を振り払うどころではないだろう。現在のトレーナーやスズカであれば、タイシンだってすこし気にしつつも受け入れはする。見ず知らずのましてや成人の男性など以ての外だ。父親にだってよっぽどのことがない限り触れさせはしない。

 しかし、今のタイシンはそこまで激昂しなかった。怒りよりももっと大きな変化に対する処理に精一杯だったからだ。

 

『いま、アタシは確かに触った手を振り払った』

 

 そのはずだった。しかし、実際に動いたのは腕ではなくタイシンの脚だった。

 そして、目の前の男性は平均的な成人男性で間違いないはずなのに、タイシンは彼を見下ろしているのだ。

 何かがおかしい。本来は逆のはずだ。見下ろされることはあっても見下ろすることなどない。

 そして、男性はタイシンの眉間に手を当ててゆっくりと鼻の先まで滑らせる。なんども往復を繰り返す。普段なら、嫌悪する行為も別に気にならない。むしろ気が落ち着くのをタイシンは実感していた。

 それもおかしい。

 タイシンの眉間から鼻の先までの距離など、男性の掌にすっぽりと収まるぐらいの範囲で往復する余地などなどはないはずだ。それができている。

 タイシンは顔を両手でつかまれる。そして、ゆっくりと下に向けられると目の前の男性と視線があった。男性は笑顔でタイシンに告げる。

 

「ナリタタイシン。そろそろ厩舎に戻る時間だ」

 

 男性は笑顔でタイシンにそう告げた。

 そして、タイシンも男性の顔をじっと見つめる。彼の目を射貫くように視線を合わせる。そして、タイシンはこの違和感の一端を理解した。

 瞳の奥に見える姿は、毎日見慣れた先ほどまで自分の顔ではない。先ほどまで観察していた動物の顔をしていたのだった。

 

 

 

 

 

 厩舎と呼ばれた場所には狭く区切られた部屋がいくつもあった。

 たぶん、牛とか豚のような家畜と同じような施設なんだろうとタイシンは考えていた。この空間はタイシンにとって未知のことばかりだった。

 確かに、タイシンからすると、夢にしてはやけに現実味を帯びているこの状況に対するストレスは計り知れない。しかし、藁が敷きつめられたこの狭い空間で過ごすことや眠ることは、特にストレスや違和感なく受け入れることができていた。

 一晩を過ごしたが、この体は、草食動物としての本能が色濃く残っているようであまり長時間の睡眠は必要ないようだった。

 そんな中でタイシンは状況を整理していた。

 

『昨日、あの人に連れられて一晩過ごしたけれど、この夢から醒めることはなかった。じゃあ、ここは夢じゃないのか』

 

 まだ、わずかに朝日が昇っているくらいの早朝、敷かれている藁の匂いははっきりとそこにあるかのように感じられるほどリアルであった。

 しかし、ここは夢にしてはリアルだが、だからといって現実でもないとタイシンは頭を振る。意識ではその行動をはっきりとイメージしていた。しかし、そのイメージとは違って、動物のナリタタイシンは鼻を強く鳴らすだけだった。

 このイメージと実際の行動の差異が如実に現れていることからも、やはりここは現実ではないのだと実感する。

 タイシンがこうやって思考している間の出来事切り取ってもそれはわかった。

 タイシンの意識のイメージとしては顎に手を当てて思案している。しかし、動物としてのナリタタイシンはずっと狭い部屋の中を歩いたり、四肢を畳んで休んだりを繰り返している。

 ウマ娘としてのナリタタイシンの思考と動物のナリタタイシンの行動が一致しない。

 このことからも、やはりタイシンはこのよくわからない世界に生きているというよりは、この世界の一端を傍観させられているといった風だとおもった。

 かと思えば、時折現実なんじゃないかと感じるぐらい思考と行動が一致するときもあった。

 意識としてのウマ娘のナリタタイシン、動物のナリタタイシン。タイシンは現実なのか夢なのか、現実だとしたらどちらがホンモノのナリタタイシンなのかわからなくなりそうにもなる。

 どうしてそこまで、リンクしてしまう時があるかの理由はウマ娘のナリタタイシンにはなんとなくわかった。

  

『アタシたちはどっちもナリタタイシンなんだ』

 

 非現実的で笑ってしまうようなことだとタイシンは思う。今、彼女が笑ってもそれは周りには分からないが。

 こんなことになる前、ウマ娘のタイシンがトレセン学園で練習している際、四足での歩行をイメージして走るときとても容易にイメージできた。むしろ、そちらの方が本来の走りのようであるとの錯覚さえ感じた。

 ウマ娘のタイシンにとって、未知の動物であるナリタタイシンの体は、タイシンがイメージした走りをするのに最適なフォルムをしているのだ。

 言ってしまえば、ウマ娘のタイシンはそれをなぞっていたに過ぎない。つまり、ウマ娘のタイシンは無意識にこの動物を知っていたことになる。

 そしてもう一つ、強く確信できることがあった。

 この動物は意識しかないウマ娘のナリタタイシンにさえ聞こえるほど大きな意志を秘めている。

 

 まだ、足りない。

 もっと、もっと速く。誰よりも速く。

 早く。早く。早く。

 速く、誰よりも速く。

 

 いつも、タイシンの頭の中でへばりつくように反響している雑音はすべてかき消し、白い影の囁きも届かないほどにタイシンに干渉してきたのは、この動物の意志であったのだとタイシンは確信を持っていた。

 

『ほんと、うるっさい』

 

 ウマ娘のタイシンがこの世界にいると意識したときから、この動物は孤独に過ごしていた。それは、馴染めないのではない。その周りを焼き尽くすほどの意志を発散するために周りを気にしない遠くにいたのだ。

 タイシンはそう考えた。

 そう推測すると、タイシンが夢を見ているというよりは、この荒くれものに引き寄せられたのだろうとタイシンは思った。

 つまるところ、このナリタタイシンはウマ娘のナリタタイシンに見せつけているのだ。速く走るとはどういうことかと。

 それを理解しないとこの動物の声は小さくならないんだろうとタイシンは思った。

 概ね間違ってはいないのだろう。どちらもナリタタイシンなのだから。

 

 

 

 

「タイシン。今日は少しハードな調教をするぞ。バてるなよ」

 早朝から昨日の男性がタイシンに声をかけてきた。

 タイシンの体を点検するように愛撫した後、タイシンの背中に何かを装着する。

 

「この前のレースから騎手が変わったけど、しっかり走ってくれて安心したよ。次のレース……皐月賞でもお前の末脚をしっかり見せてこい」

 

 そう言って男性は、タイシンをじっと見つめた。眼鏡の奥にある瞳からはしっかりとした信頼が伝わってきた。

 タイシンは、この男性の真剣さをしっかりと感じると同時に、もう一つ理解したことがあった。

 頭の中でうるさいほど主張してくる、動物のタイシンがその主張をやめてしっかりと男性の顔を捉えていたのだ。

 

『ああ、この人はこの世界のアタシにとってのトレーナーなんだ』

 

 燃え盛るほどに猛る思いも押し込めるほどの強い信頼を目の前の男性に寄せている。

 この世界にもレースがある。そしてトレーナーがいる。そして、この世界のナリタタイシンは自分のために、この世界のトレーナーのために誰よりも速く走りたいと考えている。

 この世界のことはよくわからない。でも、タイシンはそれだけわかれば十分だった。

 トレーナーはナリタタイシンにそう告げた後に、一人の男性を連れてきてその場を離れる。

 

「よろしく」

 

 十分な距離を取った後にじっとタイシンを見つめる。そこから少しずつ近づき、タイシンの背にまたがった。

 タイシンも動物のタイシンも特に不快には感じない。

 敬意がある。

 その敬意に報いることはあっても無下にする道理などない。両方のタイシンの考えは一致していた。

 ナリタタイシンの背に乗った男性は口元に付けられた紐を通して、指示を出す。

 

『この人が騎手ってやつかな』

 

 タイシンはそう思った。

 紐から伝わる強弱や、声に応じてナリタタイシンの体は動いている。この世界ではタイシンがいつもレースで考えている動きや、スパートのタイミング、位置取りなどは人間が代わりに行ってくれているようだった。

 

『だから、この世界のアタシはこんだけ走りたがってんだ』

 

 ナリタタイシンもどうしたら速く走れるかは考えてはいるが、レース相手のことまでは考えていないのだろう。だから、自分のやりたいことに専念ができる。

 

『そんだけ好き勝手出来たら生きてるだけで楽しそうだ』

 

 この世界のナリタタイシンの自分勝手さにタイシンは呆れる。同時に少し羨ましかった。タイシンは自分自身に対してそんな悪態をついていると、強く紐をひかれたのが分かった。 

 その瞬間、意識だけのタイシンも驚くほどに体が前に行く。

 

『なにこれ』

 

 ナリタタイシンがトップスピードに走りだした。

 それはタイシンがイメージしていた走りとは比べ物にならないものだった。

 一番近いものを想像するなら走り幅跳びだ。

 前足で一歩、二歩と大地を踏みしめたあとに、前に跳躍する。その時に後ろ足も一歩、二歩と大地を踏みしめている。特筆すべきは後ろ足の接地している時間の短さだ。

 トップスピードに至った時に、前の二本の足が跳躍する直前かしている間に、後ろ足が一歩、二歩と踏みしめて跳躍を行っている。

 

 走り幅跳びをした瞬間に、もう一度、走り幅跳びを行っているという表現がウマ娘や人間の体で表現できるもの近い言葉なのかもしれないとタイシンは思った。

 前後の足で跳ぶタイミングをずらすことで、接地面が三つ以上にならないようにしているのも推進力の増大に大きく貢献している。

 

 これは物理などという難しい話ではなく、タイシンが小学校か中学校で聞きかじった程度のことだ。

 接地面は、一点だけであれば非常に不安定であり、力が加わる向きに崩れる。

 二点であれば安定性を増すが、どちらかの接地面に力が加わると、一点で支える。二点が崩れるほどの力を一点で支えるのは容易ではなく、殆どが一点で支えることができず崩れてしまう。

 三点以上の接地面があると一点に力を加えても安定性は保てる。不安定になるには同時に複数の向きに力が加えられる必要がある。

 

 つまり、トップスピードを維持したままに前に進むというのであれば安定していてはいけない。地を蹴った際に反発する力も、飛んで前に進む推進力も、三つ以上の足で設置してしまうと力が全て大地に流れてしまい、勢いを失ってしまう。

 この世界のナリタタイシンは本能的に、自分が生み出した勢いを前に進めるために常に、タイミングを少しずつずらしながら飛んでいる。

 その体は大地と平行に伸びている。大地を抉るほどの踏み込みを可能にする前足と胸の筋肉によってほとんど体幹をぶれず、ただ速く倒れるように前にだけ進むことが可能なのだ。

 

『ふざけている』

 

 タイシンは憤りを覚えずにはいられなかった。この世界のナリタタイシンは、タイシンとは比べ物にならないくらいに恵まれた体を持っている。だというのに、まだ速くなりたいと願っているのだ。

 タイシンには到底許すことのできない渇望だった。

 

『アタシがこれだけ走れる才能があったら、きっと見えてた世界は違ったんだろうな』

 

 それほどまでに、このナリタタイシンの走りは末脚は恐ろしいほどのキレを見せていた。

 だというのに、ナリタタイシンはこのトップスピードで駆けている今でさえ渇望している。

 

 まだ、足りない。

 もっと、もっと速く。誰よりも速く。

 

 その渇望を遮るように、紐が大きく引かれる。止まれの合図だ。ナリタタイシンはそれを理解しているが、納得せず、速度を落とすのを止めない。

 

「ナリタタイシン、これ以上は本番に差し支える!」

 

 ナリタタイシンは物言わぬ動物だ。

 けれど、ナリタタイシンにまたがる騎手は意思ある気高き存在として扱っている。普通なら、もっと強く引っ張ったりであるとか、鞭などの痛みで言い聞かせるような道具を用いるのだろうとタイシンは勝手に考えていた。

 しかし、騎手はそうすることはない。ただ、理解してもらえると信じて必死に言い聞かせるようにナリタタイシンに語りかけている。

 

 まだ、足りない。

 もっと、もっと速く。誰よりも速く。

 

 だというのに、ナリタタイシンは一つも聞き入れていない。

 

『なにしてんの』

 

 タイシンは、ひどく腹が立ってしょうがなかった。

 生きている世界や場所は違っていても自分自身だ。敬意には敬意を返すという一線は絶対に超えないとタイシンはどこか甘えていた。

 しかし、違った。

 

『アンタは動物だ。アタシなんかじゃない自分勝手にしか考えない理性のない獣だ』

 

 うるさい、うるさい、うるさい。

 早く走りたい。ここが走る場所だ。

 速く、誰よりも速く。

 

『うるさいのはアンタの方だ! アンタに語り掛けてる人はアンタを認めてる。アンタを見てる。他の誰でもないアンタならそれぐらいできるって信じてるんだよ! なのに、どうしてアンタはちっとも走るのを止めないんだよ!!! アンタは!!!』

 

 タイシンは許せなかった。

 ナリタタイシンには見ていてくれる人がいる。信じてくれる人がいる。止めてくれる人がいる。

 タイシンがようやく見つけたものを持っているというのに、この獣は自分の欲にすぐに眩んでしまって全部を投げ出そうとしている。

 だから、ありったけの気持ちを込めてナリタタイシンに怒りをぶつけよう。

 

 そう思った瞬間に、目の前から声がした。

 

「タイシン!!!」

 

 

 タイシンは距離にして600mほど前方に人影が見つけた。ナリタタイシンのトレーナーだった。

 

 

『トレーナー! 早くそこから退いて!』

 

 タイシンは届かない言葉だとしても、叫ばずにはいらなかった。

 600mだ。普通に減速すれば問題はない。しかし、ナリタタイシンには先ほどから減速する意思は見られなかった。

 この勢いで衝突すれば普通に命を落とすのはタイシンから見ても明白だった。

 だというのに、トレーナーは退く様子はない。タイシンもほとんど減速しないまま直進していく。

 

『アンタは! アンタのトレーナーも理解できないぐらいに自分の事しか考えてないのかよ!!!』

 

 悪い夢だとタイシンは嘆かずにはいられなかった。自分勝手にふるまうナリタタイシンというのは客観的に見た際にここまで醜い下等なものになるのかとタイシンは悲しくてしょうがなかった。

 先ほどまでのナリタタイシンは、騎手に対する敬意があった。トレーナーに対する厚い信頼が窺えた。だというのに、本能に飲まれればその知性さえも全てなくなるなんて信じたくなかった。

 

『アタシは……アタシが嫌いだ……っっ』

 

 タイシンがずっと言えなかった言葉。メイクデビューの時に言えなかった言葉。まだ事情を知らないトレーナーと二村トレーナーの親密さを知った時に言えなかった言葉。私たちが失敗したときにトレーナーに言えなった言葉。

 小さいときからの雑音や白い影の囁きなんかよりもずっと深い場所でどうしようなくへばりついてきて、いまだに少しも取れることのない、その感情。

 誰にも吐き出せなかった。

 トレーナーやスズカにだって言えない、目を背けたくなるような感情。ずっと蓋をして平気なふりをして生きてきた。しかし、目を背けたくなるようなむき出しの自分自身の本質を直視してタイシンの口から自然とこぼれてしまった。

 

『アタシはアタシが嫌いだ。信頼も、信用も、見てくれる人が手に入っても、自分の都合ですぐに投げ出すアタシが嫌いだ』

 

 タイシンは許せないのだ。

 ナリタタイシンが他人の好意を無下にしている様を見ているのが許せない。

 でも、本当に許せないのは、そのナリタタイシンの意志に感情に、ひどく共感してしまう自分自身が許せない。

 

『そんな風に好き勝手してるアタシが嫌いだ』

 

 タイシンは許せない。

 ナリタタイシンは、信頼している人間ならこんな風に振舞っても問題ないと考えていることが許せない。

 でも、本当に許せないのは、他人に必要とされたがってる自分の心に嘘をついているタイシン自身だ。他の人の助けてほしいとか救ってほしいという気持ちにつけこんで、勝手に救われただなんて言いながら、無意識に救いを求めている自分自身の浅はかさが嫌いだ。

 

『アタシはアタシを好きになれないアタシが嫌いなんだ!!!』

 

 タイシンは許せない。

 ナリタタイシンは愛されていると自覚している。信頼されていると自覚している。

 タイシンは、愛してほしいけれど、自分は愛されないと思っている。見て欲しいけど見てもらえないと思っている。どうせ、スズカだって結局はどこかに行ってしまうんだと冷めた感情を持っているタイシンがいる。

 自分自身が好きになれないから、そう思うしかない、自分の気持ちがタイシンは嫌いだ。まっすぐに、受け止めてもらえると思っているナリタタイシンの自己肯定をしている姿が大嫌いだ。

 自分自身なのに、自分を好きでいられるナリタタイシンのことがタイシンは憎くて羨まして、嫌いだった。

 

『夢なら醒めてよ……』

 

 この世界のナリタタイシンはタイシンにとって眩しかった。自分の嫌なところや背けたくなるようなものを突き付けられるような気がして、本当に嫌いだった。

 意識だけなのにタイシンの目頭はひどく熱い。鼻の奥もツンとしてしまう。

 気づけば、もうトレーナーの姿は目と鼻の先ほどだった。

 

『いやだっ……!』

 

 タイシンは意識だけではあるが、思わず目をつぶってしまう。

 

『あれ……?』

 

 悲鳴は上がらない。嘶きも聞こえない。

 目頭から鼻先まで撫でられている感触があり、タイシンは目を開けてみる。

 

「流石に肝が冷えたよ。タイシン」

 

「先生、大丈夫ですか!? すいません、ボクの指導力不足で」

 

「いいんだよ。どうせこいつは聞きやしないんだ……でも、お前は俺たちのことをよく見ている」

 

 ナリタタイシンは顔を両手でつかまれる。そして、ゆっくりと下に向けられるとトレーナーと視線があう。

 トレーナーはひどく穏やかな笑みを浮かべており、ナリタタイシンは返事をするように少しだけ鼻を鳴らした。

 

『なんだよ……なんだよ……』

 

 意識だけのタイシンには体なんてない。でも、確かに視界は滲んでぼやけている。

 タイシンは理解できた。この世界のナリタタイシンは、どうしようもない衝動を抱えながら生きている。周りのことなんか、気にせずに好き勝手に駆け出しているけれどそれは信頼の証なのだ。

 

『やっぱり、アタシはアンタが嫌いだ……』

 

 タイシンはナリタタイシンを理性がない獣だと言った。それは正しくないと訂正する。

 この世界のナリタタイシンは、誰よりも周りを見ていて理解しているのだ。

 自分の本能が自分では抑えきれないことを理解している。

 自分を見ていて、信じてくれている人がいることを理解している。

 そして、好き勝手に走っていても周りが止めてくれることを知っている。

 自分が本能に飲まれてしまってもトレーナーの声で自分を取り戻せることを知っている。

 だから、この世界のナリタタイシンは他人を気にせずに衝動を満たすように走り続けているのだ。

 

 その信頼が、その理解が、そのあり方がタイシンにとってはとても腹立たしくて、憎くて、うらやましくて、キラキラしていた。

 

 

 

 

「ナリタタイシン、今日はよろしく頼むよ」

 

 タイシンの意識は何日か朝と夕を繰り返してもウマ娘の体に戻ってはいなかった。

 気づけば、今は中山のレース場にいる。今日は、この世界の皐月賞があるようだった。

 そして、この時間を過ごしてタイシンはなんとなく理解した。

 この世界のナリタタイシンという動物の種族はウマというらしい。

 

 ウマ娘。ウマ。

 

 無関係ではないだろう。むしろ、非常に近しいからこそ引き寄せられたのではないかとすらタイシンは勘ぐってしまう。

 この世界ではウマ娘の代わりにウマがレースに参加して、競い合うのだ。そして競いあうウマのことを競走馬というらしい。

 近しい。けれどひどく異なる世界の中で声をかけてきた人物にナリタタイシンは視線を向ける。

 

「弥生賞は2着だったけれど今回は大丈夫だ。君の末脚があれば負けない」

 

 調教、というかトレーニングの時に乗っていた人は騎手とはまた違う存在であるということをタイシンは最近分かった。そして、この人が実際にレースに参加するときにまたがる騎手なのだと理解する。

 ナリタタイシンがトレーニングを受けていた場所はトレーナーなどからトレセンという名称で呼ばれていた。実際は、ナリタタイシンのトレーナーもトレーナーという名前ではないらしいがタイシンにとっては彼はトレーナーだった。

 タイシンが聞く限り、トレセンは大きく分けて二つあるらしくナリタタイシンは栗東トレセンでトレーニングを受けていた。これもとても近くて全く異なる世界の共通点だった。

 

『まあ、悪くないかな』

 

 騎手を値踏みするようにタイシンが言葉を発する。それに合わせるようにナリタタイシンは軽く鼻を鳴らす。

 タイシンもはじめは早く帰ることを目指していた。しかし、どうも無理そうだということが分かってからは、この奇妙な世界を観察するようになった。

 似ている場所とそうでない場所。少しだけ観光気分もあった。タイシンが一番興味が湧いたのはやはり競走馬のことだった。

 

『この世界のレースをアタシは見てみたいんだ』

 

 ウマ娘ではなくウマが走るこの世界では、どういう風にウマが走っているのかタイシンは非常に興味深かった。

 

 ナリタタイシンは騎手を背に載せると、誘導されるままにパドックへ向かう。

 この世界ではウマが歩くだけでアピールになるようだった。

 

『こっちの方がごちゃごちゃ考えないで楽かも』

 

 そう思いながらゲートに入場する。

 他のウマたちは、落ち着いているウマもいれば既に興奮しているウマもいた。騎手が必死になだめているがあまり効果がないのがタイシンは音だけでわかる。

 このゲートに入った時のソワソワはウマもウマ娘も変わらないことを知るとタイシンは少しだけおかしかった。

 全馬が入った後にゲートが開かれた。

 

 

 早く。早く。早く。速く、誰よりも速く。

 

『まだその時じゃないでしょ』

 

 このウマはひどく落ち着きがないなと、タイシンは自分のことながら呆れてしまう。

 

『今は足を溜める時だって、トレーナーさんも言ってたじゃん』

 

 騎手が紐を繰りながら後方で待機するようナリタタイシンに伝える。

 騎手の意志が通じたのか、タイシンの言葉を聞きいれたのか、ナリタタイシンはその渇望を必死に抑えながら足を溜めている。

 

 

 第二コーナーを回って1000m付近でナリタタイシンは後ろから二番目というかなりの後方に位置していた。

 ナリタタイシンはもはや耐えられない様子で、タイシンにだけ聞こえる渇望を吐露している。

 

 早く。早く。早く。早く。早く。早く。

 

『そうだよ。アタシは勝ちたくて、アンタは走りたくてしょうがないんだ。でも、まだダメだ。今はそのドロドロした感情を溜めて煮詰めなきゃいけない』

 

 ウマ娘のタイシンの走りからすると、ここまで後方に位置するのはいささか不安になってしまい、距離を詰めてしまうと思った。

 だが、騎手はそうは考えていないらしかった。

 騎手も声を発することはない。でも、その指示はタイシンにとってとても馴染みのあるような気がしていた。

 

『だめだよ。今は力を溜める時間だから。最後まで取っておかないと』

 

 ウマのナリタタイシンのトレーナーではなく、ウマ娘のナリタタイシンのトレーナーの言葉。ああ、そうだ。焦ることはない。

 

『最終3ハロン。そこが誰にも譲らせないアタシの、アタシたちだけの居場所なんだ。それまでは溜めておかなきゃ。もどかしさもイライラも、一つもこぼさないように、落とさないように』

 

 タイシンが、こらえきれないほどに猛っているナリタタイシンにそう声をかけているうちに気づけば最終コーナーへと突入していた。

 

 

 早く。早く。早く。速く、誰よりも速く。

 

 その声はもう我慢できないという怒りをにじませていた。

 そんなナリタタイシンの感情を解き放つように騎手が鞭を入れる。

 

『速く、速く、誰よりも速く!!!』

 

 速く、速く、誰よりも速く。

 

 一人と一頭のナリタタイシンが同時にその猛りを吐き出す。

 

 ナリタタイシンは前足で一歩、二歩と大地を踏みしめたながら前に跳躍する。すかさずに後ろ足も一歩、二歩と大地を踏みしめながら跳んだ。

 

『すっごい。アンタも速いけど、他のウマもこんなに速いんだ』

 

 タイシンはこの世界のタイシンの走りに勝るものなどないと思っていた。しかし、この皐月賞の場においてナリタタイシンの渇望は至極当然のものだと理解した。

 信じられない末脚を出しているのに、思っていたよりも前との差が縮められない。

 とはいえ、その末脚によって、先頭のウマの姿は捉えられる。

 その瞬間、タイシンは理解した。

 

『ハヤヒデ……チケット……』

 

 姿は違う。走っている様子も全く分からない。けれど、確かにそれはタイシンにとって見覚えのある二頭だった。

 ビワハヤヒデが先頭を走っている。ナリタタイシンが誰よりも速くかけていると、目の前に黒鹿毛の尾が目に入ったのだ。

 馬群を抜けて外からぶち抜いてくる、力自慢で向こう見ずな走りは確かにウイニングチケットそのものだった。

 

『やっぱり……あいつらは、強いな』

 

 タイシンにとっての親友とも呼ぶべきともであり、恐ろしほど強力なライバルである2人のウマの姿にタイシンはつい辟易としてしまう。

 ナリタタイシンはタイシンにとって比べ物にならないくらい恵まれた肉体だ。でも、それはウマとウマ娘を比べて時のこと。

 ウマ同士であれば、ビワハヤヒデやウイニングチケットと比にならないくらいナリタタイシンは小柄であった。

 

 まだだ! まだ、足りない!

 もっと、もっと、もっと、もっともっともっと速く。誰よりも速く!!!

 

 タイシンの戦意の減退など気にも留めていない。ナリタタイシンはどこまでも他のウマに目をくれずに正面だけを見ていた。

 

『アンタ……』

 

 

 どれほどの熱がナリタタイシンを掻き立てているのか、タイシンには推し量ることはできなかった。

 けれど、このウマはどうあっても速く走らなければいけないのだ。自分のために、そして自分のトレーナーのために。それだけはタイシンにも理解できた。

 

 

 速く! 速く! 誰よりも速く!!!

 

 

 最終200m地点でもう一度ナリタタイシンはスパートをかけた。

 ビワハヤヒデと体が並ぶ

 

 

 速く! 速く! 誰よりも速く!!!

『ああ……』

 

 

 ナリタタイシンは頭一つほど体がビワハヤヒデよりも前に出る。

 

 

 

 速く!!!

『いけえええええええええ!!!』

 

 

 

 

 この自分の渇望だけを追いかけるウマが眩しくて、タイシンはあらん限りの声を絞り出した。

 誰でもなく自分のためだけに走るのその姿は、タイシンが泣きたくなるほどに眩しかった。

 

 

 

 

 

 

「いけえええええええええ!」

 

 突き出した拳は空を切る。

 

「タイシンちゃん! どうかしましたか!?」

 

 見慣れた天井。聞き慣れた同室者のスーパークリークの声。

 何度か手を握っては開く。タイシンにとって生まれた時から見ている見慣れた自分の体だ。

 そして、理解する。

 夢から醒めたのだと。

 

「タイシンちゃん!?」

 

 必死の形相で窺ってくる、スーパークリークの姿。

 タイシンは先ほどまでの長い長い夢のなかで一つも忘れている部分などない。夢というにははっきりとし過ぎている。

 しかし、客観的に見れば突然拳を突き上げて叫び声をあげた一人のウマ娘がいるだけでしかない。

 もしもを願ってタイシンはスーパークリークに質問する。

 

「クリークさん、アタシ何日寝てた?」

 

「???……8時間くらいでしょうかー」

 

「寝る……気にしないで……」

 

 あれは、ここでは8時間程度の経験でしかなかったようだ。その事実にタイシンは泣きそうだった。

 毛布をかぶってタイシンは二度寝の準備をする。今日が週末でよかったとタイシンはひどく安堵した。

 

「タイシンちゃん!?……も、もしかしてすごく長い夢でも見てたんですか!?」

 

 どうしてか、勘の鋭いクリークの言葉を必死に無視する。

 

「ええ!! 私がボランティアでお世話してる子にそういう子がいたんですよ!!!」

 

 少しだけ、ピクリとタイシンは反応した。

 よぎったのは自分と同じ経験をしたウマ娘がいるのではないかという期待。 

 

「そう……なの……」

 

 タイシンは毛布から少しだけ顔を出してクリークから話を聞く。

 

「ええ!!!……その男の子が言うには勇者としてお姫さまを救う冒険にでたそうなんですよ。その子は中学2年生の男の子だったのでタイシンちゃんとも年齢が近いかなと思って」

 

「話しかけないで!!!……もう寝る……」

 

「タイシンちゃん!? タイシンちゃん!?」

 

 必死に、毛布を退けようとするスーパークリークの猛攻を防ぎながら、タイシンは毛布にくるまっているといつの間にか意識を手放していた。

 

 

 

「起きて頂戴」

 

「だ……れ……?」

 

 ちりん、という鈴の音が鳴る。毛布ごと体をゆすられる。

 聞き覚えのある声がする。でも、今のタイシンは睡魔の誘惑には勝てそうになかった。

 

「私よ」

 

「わたし……って?」

 

 タイシンのぼんやりとした頭ではよくわからなかった。

 すると、突然体が宙に浮いた感じがあった。

 

「タイシン。ランニングに行きましょう」

 

「スズカさん!?」

 

 タイシンは毛布にくるまった状態で俵のように抱えられていた。

 

「走りたくないの?」

 

「いや、そうじゃなくて!!!」

 

 昨日無茶をするなと言ったばかりの人がランニングに誘ってくるのに少しだけ驚いた。ケガしないようにするんじゃなかったのかとタイシンは内心ちょっとだけ思った。

 

「私たちには時間が限られているわ」

 

「行く、行くよ。行くからちょっとだけ準備させてよ!」

 

 タイシンの必死の説得にスズカは納得したようで、タイシンを下ろして準備をするよう促した。

 最低限の身なりを迅速に整えていると、スズカから声をかけられる。

 

「スーパークリークから聞いたわ。夢を見ていたそうね」

 

「まあ……そうだけど」

 

 そう言ってスズカの方を見ていると、単語帳と尋常じゃない速さでめくっていた。

 意味がないのではないかとタイシンは思ったが、あえて口にしようとはしなかった。

 気にせずに支度を続ける。

 

「長い夢だったそうね」

 

「……別に、勇者もお姫様も出てこなかったけどね」

 

「でも、ウマは走っていたでしょう?」

 

「そうそ……は?」

 

 タイシンは驚き、もう一度スズカの方を見る。

 

「たぶん、アナタも魅入られてしまった、いえ近づきすぎてしまったのね。ウマとしてのあなたに」

 

「どういう……こと?」

 

「それも含めて今からランニングをしましょう。準備はいいかしら?」

 

 そう言って、スズカはタイシンに手を差し出す。

 タイシンには全く訳が分からない。でも、あの出来事について事情を知っている人がいたら、話を聞きたかった。

 

「きっと楽しくなるわ」

 

 ちりん、と鈴の音が鳴る。スズカはタイシンにそっと微笑んでそう言った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。