ナリタタイシンに対する強い幻覚   作:妄想投棄場

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継承

「やっぱり、気持ちいいわね」

 

「ちょ、ちょっと、ハード過ぎない?」

 

 ちりん、と鈴がなる。サイレンススズカはナリタタイシンの方を向き微笑んだ。

 

 週末。日は高くなっていき、タイシンは体感的に昼ごろだと理解する。

 火照った体を撫でる風には冬の面影はほとんど残っていない。しかし、時折冬の残滓が強く吹き付けることがあった。今のタイシンにはその程度の冷気が心地よかった。

 それほどまでにタイシン達は長距離を走っていた。

 そろそろ、トレセン学園がある東京都を離れ、タイシン達は県に足を踏み入れるまでの距離だった。

 運動強度としてはジョギング程度であり、ウマ娘の体力であれば1時間弱程度のものだ。しかし、タイシンは昨日、スズカ曰く許容範囲を超えた走り方をしたせいで、ひどい筋肉痛に苛まれていた。

 長ズボンを履いているが、裾をめくれば下肢は全体に紫斑が広がっているほどだ。

 無理をするなと言った張本人が無理をさせているんじゃないかという疑問を、タイシンは走る前からずっと抱いていた。

 そんなことを考えていると、スズカは急激に減速し、徒歩程度まで速度を落とす。

 

「そういえばタイシン」

 

「なに?」

 

「あなたの足はボロボロだったわね……無理してないのかしら」

 

 ちりん、と鈴が鳴る。

 スズカはひどく訝しげな様子でタイシンに尋ねた。

 

「アンタがさせてるんだろ! 今! この瞬間に!!!」

 

 タイシンはやっぱり目の前のウマ娘のことがよくわからなかった。

 伝わるかは分からない。でも、タイシンは胸に抱いた気持ちを吐き出さなければ気が狂ってしまうと思った。

 スズカは、無表情のまま頬に手のひらを添えた。まるで、大変だとでも言いたげな表情だった。前日の真剣さを感じられないほどの危機感のなさにタイシンの怒りは更に増していた。

 スズカは目だけをぐるりと動かして周囲を見渡している。

 

「少し休憩をしましょう」

 

 そう言って、スズカはタイシンに手を差し出して、ベンチに腰掛けるように提案した。

 タイシンはその手を取る。体を動かしていたせいか、2人とも手のひらは暖かった。

 

「さて、どこから話そうかしら」

 

 側にあった自販機で買ったスポーツドリンクを持ちながらスズカはそんな風に語る。

 

「あれはなんなの?」

 

 タイシンは一番の疑問をスズカにぶつける。

 

「ウマ娘がいなくて、ウマっていう生き物が存在する世界の夢を見ていた。そこで、ウマのナリタタイシンの視界を通して不思議な世界を体験していた」

 

 夢を見ていたとはまた違うのだとはタイシンは思う。ウマのナリタタイシンのことも、ナリタタイシンのトレーナーの顔も騎手の人の顔もタイシンはしっかりと覚えている。

 しかし、言語化するには夢と表現する以外の言葉が見当たらなかった。

 

「わからないわ。私だって知らないもの」

 

「は?」

 

 どこから話そうといったのはアンタだろ、という言葉をタイシンは必死に飲み込む。

 

「勘違いしないで欲しいのだけど、私はその現象について知っているとは一言も言ってないわ」

 

「そう……だけど……っ!」

 

 スズカがどこまで把握しているのか、タイシンは知らない。でも、あんな話し方をされたら勘違いしてしまうのはしょうがないじゃないかと、タイシンは言いたくて仕方がなかった。

 

「私が知ってるのはウマがいる世界と私たちのようなウマ娘がいる世界はすごく近い存在だって言うこと」

 

 それはそうだとタイシンも同意する。

 

「世界だとか、存在だとかそんな難しいことは私も詳しくは説明できない。でも、ウマがいる世界が私たちのようなウマ娘がいる世界に影響を与えてるのだと思うわ」

 

「どういうこと?」

 

「私もあなたのようにウマのサイレンススズカを通して、不思議な世界を見たわ……そして、ウマのサイレンススズカはもう死んでしまっている」

 

「……!?」

 

 タイシンはスズカの口から当然のことのように語られる衝撃の内容に驚きを隠せなかった。

 

「少しだけ話がそれるけれど、私たちはどうしてあんな世界を体験したかタイシンはなにか考えがあるかしら」

 

 スズカに尋ねられたタイシンは、必死に思考を纏める。

 スズカは、自分たちの起源はウマであり、四足動物の動きの方が直感的に理解しやすいという考察を重ねていた。

 加えて、タイシンが四足動物のようなトップスピードに至る走り方をした際に、普段から想像がつかないほどに感情をむき出しにしていた。

 

「ウマみたいな動きを真似た……せい?」

 

「……じゃあ、ウマのサイレンススズカの話の続きをしましょうか」

 

「待ってよ、答えは!?」

 

「だって、私が考えに考えた末に辿りついた答えをそんなに簡単に出してしまうなんて悔しいもの……せっかく、タイシンにいいところを見せられると思ったのにあなたはもう理解しているみたい」

 

「ええ……」

 

 急に拗ねてしまうスズカにタイシンはどう反応していいか分からなかった。

 

「冗談よ。私も少しはユーモアを持った方がいいとルドルフに言われたから実践してみただけ」

 

「そう……」

 

 たぶん、本心なんだろうとタイシンは思った。でもまた拗ねられても困るので流すことにした。

 

「大体その認識であっているわ……加えるならばウマに近い走りを続ければ続けるほど、そのウマの一生を追体験することになるということ」

 

「それは……」

 

 あんな中途半端なところで夢から醒めた理由がそれなのだろうとタイシンは察した。

 しかし、それはつまるところ。

 

「私は、ずっと先頭で走っていたかった。いつでも。どこでも。どこまでも……一番、速くて気持ちのいい走りを追求した結果、私は昨日のタイシンと同じ結果にたどり着いた」

 

 スズカには、タイシンにとってのスズカがいなかったのだろう。

 

「見つけた時は最高の気分だった。でも走るほどにそうではなくなっていったわ。選手生命を削っていくことも知らず、私は走ることを止めなかった。一番速く先頭を走れる方法に間違いはなかったから」

 

 思い出すように遠くを眺めていたスズカはタイシンの方を向いた。

 

「でも、一人だけ私を止めてくれる人がいた……それが今の私のトレーナーさん」

 

 ちりん、と鈴が鳴る。スズカは少しだけ微笑む。

 

「本当はそうなる前。私のトレーナーになる前からトレーナーさんは『そんなにふらふらしてたら、いつか走ることが楽しくなくなる』って言っていたの……もちろん、言われた当時の私は聞かなかったわ。意味が分からなかったし、好きなように走っているのを止める気はなかったから」

 

 スズカにとってはもちろんなんだろうなとタイシンは半ばあきらめのような理解をする。

 

「ウマのような走り方をしてレースに出る。私の足もボロボロになったけれど、他のウマ娘もボロボロになっていた。体ではなく心が」

 

 スズカはまた遠くを眺め始める。

 

「当時のレースで一緒に走っていたウマ娘に話しかけるとひどく怯えた表情をしていたわ。話しかけないでと泣きながら懇願してくるウマ娘もいた。そして、何人かのウマ娘は私と走ったレースを最後に退学したウマ娘もいた」

 

 少しだけスズカの声のトーンが下がる。

 

「他のウマ娘を傷つけて、私自身の足も傷つき次第に重くなり、上手く走れなくなって、いつのまにか走ることが楽しくなくなった。でも私は走ることを止めなかった。いつかまた楽しく走れると信じていたから」

 

 そう語るスズカの表情は少しばかり狂気を孕んでいるようにタイシンは思った。

 何も見えていない。盲目的に、ただ前に進めばいつか報われると信じている表情。

 

「いつものように練習していた私にトレーナーさんが話しかけてきたの。『そんな走り方は二度と止めろ。誰も楽しくないだろ』ってあの人は言った」

 

 少しだけスズカの表情が緩む。呆れているようにも見えた。

 

「できるわけがないと思ったわ。この走りを、前に進むことを止められない。そう思っていたけれど、トレーナーさんの顔を見て少しだけ考えが変わったの」

 

 ちりん、と鈴を鳴らしてスズカは微笑む。

 

「言葉はそっけなくてその圧は強いのに、それを言っていたあの人はボロボロに泣いていたの。あの人がケガをしているわけでもないのに、あの人がボロボロになっているわけでもないのに、あの人は誰よりもひどく悲しんでいた」

 

 おかしいわよね、とタイシンに語りかけるスズカの顔はとても穏やかな笑顔だった。

 

「私は自分のことが見えていなかった。自分の心の声に少しも耳を傾けていなかった。でも、あの人が私の代わりに私の心の悲しみを受け止めて泣いてくれた。だから、私は私の心が痛くて泣いていることがわかったの……それがどうしようもなく嬉しくて悲しかった」

 

 スズカは、こころなしか嬉しそうに言葉を続ける。

 

「あの人はもう一度繰り返したわ。『周りを見ろ』と。そして、『そんな自分を傷つける走り方じゃなくて気持ちいいと感じる走り方をしろ。誰かの思いを踏みしめることになっても、自分だけは気持ちいいと、一番楽しいと思えるような走りをすれば、それは誰かの憧れになる』と言われたわ。『もしかしたら傷つけたウマ娘の希望になるかもしれない』って」

 

 いとことは言え、一緒に暮らしていたら思考や行動が似るんだろうかと、タイシンは思った。

 タイシンのトレーナーも、二村トレーナーも他人の感情を敏感に察知できる。恐らく、それは間違いないのだろうと思う。

 そして、二村トレーナーの方が感情に対して共感する手段が多いのだろう。タイシンのトレーナーは、タイシンが知る限り煽って感情をむき出しにしてから他者との会話につなげるという印象だ。

 しかし、二村トレーナーはそれ以外を知っているからこそ、スズカのようなウマ娘であっても、その心に届くようなアプローチができるのだと思う。

 

「正直、もう一度言われても私にはよくわからなかったわ」

 

「わかんないんだ」

 

「ええ。でも分からないけれどその言葉は魅力的だったわ。だからトレーナーさんの言っていることが本当なのか知りたくて、私はあの人の担当ウマ娘になった」

 

「気持ちよく走れるようになったの?」

 

「ええ、もちろん。誰よりも気持ちよく走れてる自負があるわ」

 

 ひどく楽しそうな声音のスズカだったが、少しの沈黙の後タイシンに語り掛ける。

 

「私がしたかったのはこんなどうでもいい話じゃないの」

 

「どうでもよくはないでしょ」

 

 スズカは楽しそうだった。それだけで彼女にとって意味はなくとも価値はあるとタイシンは思った。

 

「話を戻しましょう」

 

 そういってスズカはタイシンに尋ねる

 

「私はあなたと同じ危険な走りを続けていたと言ったわね……正直に言って肉体への大きな負担があるというのはわかっていた。けどやめなかった。それはある確信があったから……なんだと思う?」

 

「それは……」

 

 わからない、わかるはずもない。何も手がかりもないのだ。タイシンには見当がつかなかった。

 そんな様子を見て気分を良くしたのか、スズカは少し自慢げにタイシンに話しかけてくる。表情は相変わらず乏しいが。

 

「流石のタイシンでもこれは分からないみたいね」

 

「別にアタシは他人の考えてることがわかるわけじゃないし」

 

「私は走るレースの結果がなんとなくわかったの」

 

「スズカさんがそういう話をするなんて意外だ」

 

 スズカはそういうものを信じない主義だとタイシンは勝手に思っていた。だが違ったようだった。けどスズカならできてしまうのかともちょっとだけ思ってしまった。

 

「そう……ひどく荒唐無稽な話。でも、タイシンもその一端を見ているはずよ」

 

 どういうことだとタイシンは尋ねそうになる。しかし、彼女の口ぶりから推測するに一つの心当たりがあった。

 

「ウマがいる世界のことと関係があるの?」

 

「やはりあなたは賢いわ」

 

 今の文脈から推測できるスズカとタイシンの共通点はそこしかないだろう。

 

「ウマ娘の世界のレース結果は、よっぽどのことが起きない限りウマのレース結果と同じ結果を辿るわ」

 

「なにそれ」

 

 タイシンには到底信じられなかった。いや、受け入れることができなかった。

 

「ウマの世界がウマ娘の世界に影響を与えてると言ったのはこれが理由ね」

 

「待ってよ」

 

 淡々と説明を続けようとするスズカをタイシンは制止した。

 

「アタシにはスズカさんの話が到底信じられない。だとしても仮に、その話が本当だったとしても、アタシたちがどれだけ努力をしたって結局はウマの結果に収束するってこと? そんなの理不尽すぎるでしょ」

 

 タイシンのトレーナーに与えられた成長の機会がとんだ茶番だとタイシンは笑ってしまった。

 けれど、スズカの話が事実だとするならば、タイシンの、ウマ娘達の努力はトレーナーのやり取り以上の茶番だ。無意味だ。無価値だ。それこそどうでもいいものでしかなくなってしまう。

 タイシンにはその事実を受け入れることができなかった。

 

「中山記念。金鯱賞。毎日王冠。宝塚記念……私が勝ったレースで、ウマのサイレンススズカも勝ったレースだったわ」

 

「……っっ」

 

 先日に見た夢の中でナリタタイシンがゴールをした瞬間をタイシンは見届けてはいない。しかし、あそこから負ける展開などないほどの寸前で目が醒めたのだ。順当にいけばナリタタイシンは勝っていたのだろう。

 ということは、スズカの推測でいけば皐月賞を、勝利を手にするのはタイシンだということになる。それが事実ならばそれほど安堵できる要素はないだろう。

 

「ウマの結果とアタシたちの結果が絶対につながるなんて保証はどうやってもないでしょ!」

 

「そうよ……さっきも言ったけれどよっぽどのことがない限り、ウマの世界と同じ結果になるの」

 

「よっぽどがあったの」

 

「あったわ。私の場合は1度体験した……それが秋の天皇賞。ウマのサイレンススズカが死んだレースよ」

 

 タイシンは言葉が出なかった。

 当然のように語るその事実がどれほど重いものか、タイシンには想像もつかなかった。

 そんな思いを知ってか知らずかスズカは淡々と話を続ける。

 

「ダービーの前に私はウマの世界のサイレンススズカの視点を追体験したわ。そしてウマのサイレンススズカはダービーに勝てなかった……だから私はそれが夢だと思って、誰よりも速く走れるように努力した。でもレース展開を変えてみても結果は変わらなかったわ」

 

「そう……なんだ」

 

「結果は変わらないのに、私の走りは他のウマ娘の心を踏みつぶすには十分だったみたい……一位だったウマ娘も私を見る目には恐れがあったわ」

 

 レース結果が変わらなかった。スズカの視点では勝利が確定しているウマ娘でもそれを知らなければスズカの走りは末恐ろしいもののように感じたのだとタイシンは思った。

 どれだけ誰よりも速く走ろうとしても負けてしまうスズカと、どれだけスズカを恐れおびえていても勝利が約束されているウマ娘がいるという構図が存在したのだ。

 本当に事実なのだとしたらやはり笑えない茶番だとタイシンは思う。

 

「その後も私は追体験する未来を変えようと努力したけれど、変わることはなくって私の運命はウマのサイレンススズカに縛られていた……あがくために速く走り続けようとした私の前に現れたのがトレーナーさん。クラシック級の秋の天皇賞前に私のトレーナーになった。それからは幾分か楽になったわ。運命を変えるなんてよりも自分が気持ちよく走りたいと思うようになったから」

 

 スズカの話を聞くことで、スズカがウマとしての走りを止めなかったのかタイシンはなんとなく察した。

 スズカの体にどれだけ負担がかかってもウマのサイレンススズカを追体験した通りに進むのだ。逆に言えばどれだけ無茶をしたってスズカのレースには関係がないからゆえの負荷だったのだろう。

 しかし、その理論は破綻しているとタイシンは思う。結果的に収束するから無茶ができるというのは、運命を変えるのではなく自分から運命に縛られているだけではないだろうか。

 けれど、当時のスズカにはそう理解できるほどに心に余裕がなかったのだろうともタイシンは考えた。

 

「その後は、ただ私が気持ちよく走れることだけを考えてトレーニングをするようになったわ……レースの結果は変わらなかった。でも、それはそれでいいかと思ってからは私はウマのサイレンススズカのレース結果を自然と忘れるようになった」

 

「ウマのレースの結果が見えていたってことは、スズカさんは結局二村トレーナーの担当ウマ娘になった後も、ウマの走りをしていたってこと?」

 

「いえ、その後は一度も走ってないわ……だから、私はたったの三か月ちょっとでウマのサイレンススズカの一生を追体験できるくらいに走っていたことになるわね」

 

 やはり尋常ではないとタイシンは恐ろしく思ってしまう。タイシンが見ていた時間はわずかだった。

 彼女はそれと比べ物にならない時間をかけてウマの一生を見ていたのだろう。そのうえで肉体を酷使していた。精神的にも肉体的にもスズカにかかった負担はタイシンには計り知れない。 

 スズカは必死にもがいていたのだ。それこそ死に物狂いで。そうであれば周りも見えず盲目的になってしまうのも必然と言えるとタイシンは考えた。

 

「忘れていたはずだったのに、シニア級の秋の天皇賞の直前に思い出した。ウマのサイレンススズカが死んだ瞬間のことを」

 

 彼女の声音に変化はない。ただ、淡々と語っている。

 

「正直な話、その時の私はどっちでもよかったわ。ウマの世界と同じ結果になるのもそうでないのも……私に後悔はなかった。私は常に先頭で走っていた。誰よりも楽しくて気持ちよく走っていたという自負があったもの」

 

 ちりん、と鈴が鳴る。タイシンにはスズカの微笑みが消え入りそうなほどはかなく見えた。

 けれど、その笑みに段々と喜色が混じる。

 

「結局、どうなったか知っているかしら」

 

「いや、知らない」

 

 この場にいるのだ。何かよっぽどのことが起こったのだろう。

 

「私は走らなかったわ……いや、走らせてもらえなかった」

 

「どうして」

 

「レースの当日、トレーナーさんから手を引かれたわ。どこか遊びに行くぞって」

 

「はあ?」

 

「そう、そうね。意味が分からないわ……でも気づいたら私はあの人の手を取っていて、レースが始まっている時間帯に私たちはテーマパークの観覧車に乗っていた」

 

「なに……それ……」

 

 いきなりの展開に追いつくことができない。

 

「その時は流石に私だって、どうして走らせてくれなかったのかと問い詰めた……そしたら、なんていったと思う」

 

 なんども鈴の音が鳴る。その時の光景を思い出しているのだろう。

 はっきりと笑っているとわかるほどに緩んでいるスズカの表情はとても柔らかくて美しいとタイシンは思った。

 

「どこか遠くに行きそうな気がしたから、先に目いっぱい楽しもうと思った……ですって。あの人はすごい不機嫌そうな顔してそう言ってたわ。今考えても意味が分からないわね」

 

 そう冷静に分析するスズカだが、やはり楽しそうだった。

 

「ウマのサイレンススズカのことはトレーナーさんには一言も言ってなかったの」

 

「言ってなかったんだ」

 

「聞かれなかったし、言う必要がないと私が考えていたからよ」

 

「スズカさんのその癖、本当にやめたほうがいいと思う」

 

 タイシンは本心からそういった。

 スズカは特に気にせず話を続ける。

 

「ウマの世界の結果を回避する方法は、走らないことだと思うわ。これは私が実際に体験したことだし間違ってないと思う。もしかしたら他にも方法はあるかもしれない。私はそれしか知らない」

 

「走らないって……」

 

「私たちが見たウマというのは、私が見た限りでは速く走るために改良されて行っているようだった」

 

 タイシンはなんとなく納得してしまう。ウマのナリタタイシンはどこまでも速さを追求していた。

 

「だから、走るという意思を私たちが持つ限り引っ張られてしまうのでしょうね」

 

 ウマの走りを真似た時から、ナリタタイシンの声がタイシンの頭の中でガンガンと響いていた。つまり、そういうことなのだろう。

 

「話を戻すけどさ、ウマのサイレンススズカが死んだ後もスズカさんは走ってるけど何か変化はないの」

 

 残酷な話だが、ウマの世界に結果が引っ張られているということなら、ウマが死んだあとはウマ娘はその宿命から解放されるということではないのだろうかとタイシンは推測する。

 

「変化はあったわ。私は代償を背負うことになった……それは、運命を回避した代償ではなくて、ウマに近づきすぎた代償」

 

「ウマに近づきすぎた代償」

 

 タイシンには想像がつかない。

 

「タイシンもウマのナリタタイシンの視点からウマの世界を体験していたと思うけれど、その時にウマの意志は聞こえたかしら」

 

「うん……速く、速く、誰よりも速く走りたいってうるさいぐらいにがんがんと言ってた」

 

「そうね……私の場合、ウマのサイレンススズカは先頭の景色を見続けていたい。いつでも、どこでもと何度も言っていたわ」

 

「それぞれによって違うんだ」

 

「私たちが見たウマは速く走るために改良された結果、速く走りたいという衝動を抱えている。何度も何度も重ねて煮詰められた宿業のような、一個体では抱えきれないほどの燃えるような衝動。その衝動の形がウマによって違うのだと思うわ」

 

「なるほど」

 

 その業がウマのあり方に大きくかかわっているのだろうかとタイシンは思った。

 

「ウマのサイレンススズカの衝動はサイレンススズカの死によって肉体を失った。でも、その衝動はまだ生きているサイレンススズカの肉体を見つけたの」

 

「それって」

 

 嫌な予感がした。背中から嫌な汗が流れる。タイシンの思考にあるそれは、非現実的で非科学的な話でしかない。

 信じたくはない。信じられない。

 

「私の中にはウマのサイレンススズカが抱えていた衝動がある。私がどれだけ、全てを忘れて過ごそうとしてもこの衝動が私の頭の中で叫んでしかたないの。先頭の景色を見続けていたい。いつでも、どこでもと」

 

「それこそ、走るのを止めれば」

 

「タイシン。ここで休憩する直前まで私はあなたの足がボロボロであることを忘れていたわ。忘れていたというよりはそれ以上に夢中になっていたというべきね」

 

「……っっ」

 

「走るのが楽しかったわ。いえ、先頭の景色を見続けていただけなのかもしれない。あなたの足をいたわるのことを失念するほどに」

 

 タイシンは目頭が熱くなってしまう。

 それが意味するところは、つまり……

 

「スズカさんの中にウマのサイレンススズカがいるの」

 

「ええ。正確にはその衝動だけ」

 

「アタシとランニングしていた時は」

 

「本当は途中でやめるつもりだった。でも気づけばあの時間になっていたわ」

 

「途中でDVDを取りに学園に行ったのは」

 

「それは本当に忘れていたわ」

 

「ああ……」

 

「でも、取りに行って少しだけ時間がかかったのは遠回りをして走っていたせい」

 

 もはや、その言葉でタイシンの予感は確信に変わる。

 口がふさがらない。乾いてしまい。うまく動かない。ひっしになってようやくタイシンは言葉を吐き出せる。

 

「じゃあ……今のスズカさんはどっちなの」

 

「さあ、私にもわからないわ」

 

「……」

 

「時々、どんな場所にいても駆け出したくなる衝動に襲われる。意識が戻った時にはどこか走っているなんてこともざらにある。私はウマ娘のサイレンススズカなのか、ウマのサイレンススズカの残滓なのか分からなくなる時がある……だから走るしかないの」

 

「走らなきゃ……ダメなんだ」

 

「ええ、走ることを避けていたら、簡単に衝動に支配されるわ……なら、逆に衝動が消えてしまうくらいまで私は走り続けなきゃいけない」

 

 その言葉を語るスズカの瞳には強い意志が宿っていた。

 

「日本での大きなレースは大体走ったわ。でも、この衝動から来る渇きは一つも満たされていない……なら、この海の外に越えていくしかないでしょう?」

 

 徐々にスズカの声色は嬉しそうになっていく。

 

「怖くないの……自分が自分じゃなくなる時があるってわかりながら生きるのは」

 

「そうね……」

 

 そう言って、スズカは顎に指を当てて思案する。

 

「怖いわ。すごく怖い……でも、心配はしてないの」

 

「なんで」

 

 タイシンは自分だったら到底耐えられないと思った。スズカはずっと負荷がかかって生活をしてきたからそう言えるのかとも思った。

 

「信じているからよ」

 

 ちりん、と鈴が鳴る。

 

「私は私のトレーナーさんを信じているわ」

 

 スズカは柔らかく微笑んで言葉を続ける。

 

「眠れないほど衝動に駆られる夜に思い出すのはトレーナーさんの言葉。自分が自分じゃなかったせいですっぽり抜けた記憶に気づいた時に震える手を落ち着かせるのは、トレーナーさんが差し出してくれた大きな手。ターフの上でに我を失いそうになる時思い出すのはトレーナーの泣いている姿。私が私であることを思い出すのはトレーナーさんの匂い。……離れていたって私にはトレーナーさんがいるもの」

 

 タイシンは呼吸をするのを忘れるほどにスズカの笑顔に見入っていた。

 

「この衝動に魅入られた時に一番初めに気づいてくれたのはトレーナーさん。ウマのことを話した時にトレーナーさんは私よりもずっと怒って、ずっと泣いて、ずっと真剣に寄り添ってくれた。この鈴もどうせ忘れっぽいから付けとけって、古くなった鈴の代わりにプレゼントしてくれた」

 

 スズカは自分の右耳の鈴に触れる。ひどく愛おしそうに何度もそれを撫でている。

 

「私が海外に行きたいと言った時、はじめは止められた……でも、あの人も私の衝動のことを理解して結局は送り出してくれることになったわ」

 

 困ったように語るスズカの声を聴くだけでタイシンはひどく胸が締め付けられた。

 

「トレーナーさんも一ノ瀬ちゃんも、ウマ娘のことを理解しているけれど、ウマ娘の心情はこれっぽっちもわかってないわ」

 

 鈴を撫でる手を止めた。

 

「私たちは別に勝ちたいわけじゃない。ただ速く走りたいだけ。心に従っているだけ……心に従うんなら死んだっていいって、たぶん心の中ではみんな思っているわ」

 

 それはそうだった。

 タイシンも自分が求めているものが手に入るならそれは命よりも価値があると本気で思っている。

 

「私たちの心を知らない。でも、そうやってウマ娘が自分の心に従いすぎると、ウマに引っ張られて私みたいになってしまう」

 

 ウマのナリタタイシンよりもタイシン達は知性を持っている。

 でも、本能に近いのは間違いないことだった。

 

「ウマ娘は人間よりも本能に忠実よ。私とタイシンはより忠実になりすぎてしまったけれど……それを引き留めてくれるのは間違いなくトレーナーという人間の存在」

 

 タイシンも異論はない。

 

「ウマは色んな人間に支えられているけれど、私たちウマ娘を支えるのはトレーナーさんだけ……そして私にとってそれはもっと特別な意味を持つわ」

 

 騎手は紐で意思を伝えていた。ウマの世界のトレーナーは毎日の世話の中で心を通わせていた。

 ウマ娘にとってのトレーナーは、ウマ娘の本能にとっての楔だと、スズカは言うのだ。

 

「私はトレーナーさんが好きよ。大好き。愛だとか恋だとかそんな感情を抱いているわけじゃないわ……でも、あの人が来てくれと言えば私はどこからだってあの人のところに行くわ。それこそ、海の上だって走っていける。一緒にいてくれと言われれば、あの人が満足するまでついているわ……そんなトレーナーさんが海外に行っていいと言ってくれたの。向こうに行っても勝てと、気持ちよく走って来いと私を送り出してくれるの。……だから私は私の全てを賭して、海外で走らなきゃいけない。勝たなきゃいけない。私をウマ娘のサイレンススズカでいさせてくれるたった一人の大好きなトレーナーのために、私は走り続ける」

 

 そう宣言した後にスズカは不思議そうにタイシンの方を見ている。

 

「どうして泣いているの」

 

「泣いて……ない」

 

 タイシンは必死にこらえているつもりだった。でも、どうしたって、目頭が熱くなるのだ。

 

「ヤキモチをやいてしまったの?……大丈夫よ。私のトレーナーさんはたった一人だけれど、私が後輩だと認めたウマ娘もたった一人よ」

 

「ヤキモチなんか……じゃ……ないっっ」

 

 その言葉のせいで、タイシンのこらえていた感情が頬を伝う。

 

「私はあなたが来てくれと言えばどこへだって駆けつけるわ。あなたがいたいって言えば満足するまで側にいてあげる」

 

 その言葉が苦しくて、切なくて。

 タイシンはどうしようなくスズカを困らせてしまいたかった。

 

「じゃあ……側にいてよ……どこにも行かないでよ……っっ」

 

「それはできないわ。だって、トレーナーさんとの約束が守れないもの」

 

 分かっていた。当然のことだ。タイシンだって、同じ立場ならそういうだろうから。

 でも、口に出されてしまうと、どうしようなく胸が締め付けられる。

 

「じゃあ……そんなこと……いわないでよっっ」

 

 本当は困らせたくはない。笑顔で見送りたい。でも、どうしようなくタイシンは悲しかった。

 

「そうね」

 

 少し困ったように、スズカは思案している様子だった。

 

「じゃあ、こうしましょう」

 

 スズカは優しくタイシンの頭を撫でる。目頭から涙を拭い、じっとタイシンと視線を合わせる。

 

「あなたが私のところまでくればいいの。私と同じ場所で走りましょう」

 

 ちりん、と鈴が鳴る。

 

「きっと楽しくなるわ」

 

 泣きたくなるぐらい、綺麗な笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 光陰は矢のように過ぎていった。あと数日で、3月も終わる。

 トレセン学園の記者会見場では重大な発表があるということで記者たちが詰めかけていた。

 しかし、もう情報は出回っているようで、海外だとか、引退という言葉を記者たちは口々にしている。

 

『では、今から記者会見をはじめます』

 

 二村がスーツで居立ち振る舞いを正し、両脇にいるシンボリルドルフとサイレンススズカを見やった後に厳粛に開始を宣言した。

 

『この度はこのような場を設けていただき感謝します。早速本題に入らせていただきいと思います』

 

「突然記者会見とか驚いた! タイシン、なんか話聞いてた?」

 

「別に」

 

 ミーティングルームのテレビで2人は以前のURAファイナルと同じように記者会見の様子を観覧していた。

 トレーナーの言葉に、タイシンは短く返す。

 記者会見を開くとは聞いていなかったから嘘ではないと言い聞かせた。

 

『4月1日を以て、シンボリルドルフはレース選手を引退します。そして、サイレンススズカは海外に拠点を移して活動していくことになります』

 

 何度もシャッターがたかれている。

 

「なに……それ……」

 

 会長が引退するのはタイシンも知らなかった。

 2人の反応をよそに話は進んでいく。

 

『シンボリルドルフは引退はしますが今後もトレセン学園の運営に携わり、以前より表明していた全てのウマ娘のための支援を続けていきます。サイレンススズカにありましても、現地の通訳とコミュニケーションを取りながらレースに向けてトレーニングを行っていきます』

 

 記者から二村の今後についての質問が上がった。

 

『前々より相談は受けていましたがまだ実感がわいておらず、今後の方針もまだ未定の所です』

 

『担当ウマ娘が2人も契約解除となりますが、次の担当ウマ娘について目ぼしい相手などはいらっしゃるのでしょうか』

 

『シンボリルドルフは引退ですが、サイレンススズカに関しましては本人の強い要望がありまして、今後も契約は続行となります。ですが、トレーニングメニューや出場レースなどについては現地のトレーナーに全て委任するという形になると思われます……そうですね。特に担当ウマ娘については決まっていません』

 

「あんのクソ野郎……!!」

 

「なに急に怒ってんの」

 

「別に……ただ、面倒みないんだと思って失望しただけ」

 

『まあ、走り方がへったくそなヤツがいるんで……時々見かけることにはなるかなと思うけれど』

 

『んんっっ』

 

『おっと……回答は以上となります』

 

『ありがとうございました』

 

「な~んだ、素直じゃないだけか」

 

「いいことでもあったの」

 

 先ほどまで怒っていたはずのトレーナーの機嫌がよくなる。

 

「いや、別に」

 

「そう」

 

 素っ気なく返すトレーナーの表情は笑顔だった。

 

『シンボリルドルフさん、引退の理由や今後の展開についてお聞かせ願えますか』

 

『はい。今回、私が引退を決意した理由としましては、新しい時代を感じたからです。来年の年末およそ1年と9か月程度でURAファイナルズが開催されます。参加資格を有するのは最年少は今年ジュニア級の生徒達です。誰もがまだ見ぬ頂点を決める戦い。私も挑戦しようとも思いましたがそれではいけないのです。私や隣にいるサイレンススズカはレジェンドなどと呼ばれることもあります。非常に多くの方が我々を応援してくれている。やはり、それではいけない。有力なウマ娘が抜けたうえで誰が強いのか。誰が勝てるのか……新しい世代から始まる、まだ見ぬ頂点を決める戦い。そこに安牌などいらない。安寧などあってはならない。私は真っ白な状態で皆さんに期待していただきたい。ウマ娘達の走りを、ドラマを。挫折も、勝利も、敗北も、逆転も。誰が勝ってもおかしくない場所に私はしたい』

 

 会長の信念が窺えた。

 

『しかし、ここまで言ってしまうと私が自分が勝つと信じて疑っていないような感じも致しますね』

 

 空気が少し変わった。

 

『私自身の自信過剰。今後も勝利を欠いて小利を得ないように気を付けたいと思います』

 

『スズカ! どうして海外遠征するの!?』

 

 笑い待ちのドヤ顔を浮かべている会長の側で二村トレーナーが間髪入れずに、スズカに促していた。

 

『私は先頭の景色を見続けたいです。いつでも。どこでも。夢は海の上を走れるようになることです』

 

 会場内のざわめきが収まらない。どれに対するざわめきなのかタイシンは検討つかないが。

 

『右足が沈む前に、左足を前に出せばいいらしいです。それを交互に繰り返していたら走れるらしいですが、私はまだできません』

 

 更にざわめきが大きくなる。

 

『ごめんなさい。読んでいた台本を間違えました』

 

「コントでしょ。こんなの」

 

 その言葉にトレーナーの返答はなかった。

 

『私は海外で走ります。私のために、トレーナーさんのために、私の周りの人のために』

 

『やり残したことなどはないのでしょうか』

 

『ありません……私の、ウマ娘のサイレンススズカの意志はもう伝えました。たとえ、私がどんな結末を迎えても私の意志はつながっていきます』

 

 タイシンは少しだけ胸が締め付けられた。

 

『皆さんは今までウマ娘のサイレンススズカを応援してくれました。だから、ウマ娘のサイレンススズカに未練はありません。衝動はありません。私のこの気持ちは誰かを苦しめるものではなくて、誰かの力になっていると信じています』

 

『今後の展望をお願いします』

 

『勝ちます。気持ちよく走ります。誰よりも楽しかったと言えるようにベストを尽くします』

 

『最後に一言をどうぞ』

 

『先頭で走って待ってる……一緒に走ったらきっと楽しいわ』

 

『ありがとうございました』

 

 その後も記者会見は続いている。しかし、タイシンはあまり画面が良く見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日で4月を迎えた。

 スズカはトレセン学園の体育館で壮行会に参加していた。

 色んな人に見送られている様子だった。

 

「行かなくていいの」

 

「別に……タイシンの方こそお礼言ったの」

 

「別に」

 

 実際は明日の早朝の飛行機で出発するらしいとのことを聞いていた。でも、やっぱり顔をあわせるのはタイシンにはなにかためらいがあった。

 タイシンもトレーナーも他の人に混じって見送りはしなかった。

 そして、2人とも不愛想な表情を浮かべていた。

 

 通知音とともにメッセージが来る。

 送信者はサイレンススズカだった。

『三女神像の前まできて頂戴。一ノ瀬ちゃんも一緒に』

 

 

 

 放課後、多くの生徒が練習をしているせいか、三女神像の前には一人しかいなかった。

 サイレンススズカはタイシンとトレーナーを見つけると2人に向かって胸の前で手を振る。

 見送りで色んなものを受け取っていたようで、荷物に囲まれていた。

 

「2人とも薄情じゃないかしら。あなたたちのことを待っていたんだけど」

 

「挨拶はもうしたし」

 

「私、スズカから聞いてなかったし」

 

 ふてくされている2人を見てスズカは困ったような視線を送る。

 

「それでも悲しいわ。私はあなたたちと離れるのが寂しいもの」

 

 タイシンはぎりっと音が出てしまうくらいに奥歯を噛み、拳を握りしめた。

 

「それに一ノ瀬ちゃんにはいったと思っていたけれど……ほら、海の上を走る練習をしているって」

 

「あ、あんなの……説明になってるわけないじゃん!!!」

 

「そうかしら……そうかもしれないわね。ごめんなさい」

 

「あ、謝んないでよ……」

 

 激昂したトレーナーに対して正直に謝るスズカに調子が狂ったのか、トレーナーはすぐに怒気を散らす。

 

「ありがとう。ごめんなさいね。たぶん、私は一ノ瀬ちゃんと話すたびに振り回してしまったかもしれないわ」

 

 そう言って、少し屈んでトレーナーの頭を優しく撫でている。

 

「それでも私を慕ってくれる一ノ瀬ちゃんが大好きだったわ。いえ、今も大好きよ」

 

「うっ……うぅ……」

 

 トレーナーは嗚咽混じりで必死に涙をこらえている。

 

「トレーナーさんも、ルドルフもあなたをすごく甘やかしていたわ……そんな風にタイシンに甘えてばっかりじゃだめよ。あなたの方がお姉さんでしょう?」

 

「うぅ……うぅ……」

 

 何度も頷く、トレーナーの頬にはいくつも涙が伝っている。

 

「一ノ瀬ちゃん、ナリタタイシンはとってもいい子なんだから、泣かせちゃだめだよ」

 

 そう言ってスズカは、トレーナーを優しく抱き留めた。

 

「うぁ……あああああ!!!!」

 

 抑えようとしてもとめどなくトレーナーの感情はあふれてくる。

 それをスズカは優しく受け止めていた。

 

「タイシン。私はアナタに教えられることは教えたつもり」

 

「知ってる」

 

 タイシンは振り返らずスズカに伝える。

 

「無茶はしちゃだめよ。近づきすぎてもだめ」

 

「わかってる」

 

「それから、ご飯はちゃんと食べなきゃダメよ」

 

「いいから! 明日朝が早いんでしょう?……帰って休みなよ」

 

 やっぱり、タイシンは振り返ることができなかった。

 たぶん、振り返ったら、終わってしまうと思ったから。

 この気持ちを抱えたまま過ごす方が楽だと思った。

 自分の気持ちを伝えてしまったら、甘えてしまってタイシンはもう立ち上がれないような気がした。

 それならいっそ、後悔や苦しみを抱えて、甘えていたらのもしもにおぼれていた方がずっとずっと心が楽だった。

 

「ありがとう……さようなら。大好きだったよ」

 

 絶対に振り返らない。でも、これだけは言葉にしようと思った。

 タイシンはスズカに振り返らない。今までのように一人で抱えることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その場を離れようとしたが、足が動かない。背中は重くて暖かい。

 

「離してよ。トレーナー」

 

「や”だ、ぜっだい”や”だ」

 

「ちゃんとありがとうも言ったし。お別れの挨拶もしたでしょ」

 

「そ”う”じゃな”い”でしょ」

 

「ああ、もう! うっさいなあ、アンタは!!!」

 

 怒りたいわけではなかった。別にトレーナーにはなんの非もない。

 タイシンも理解しているが、どうしようもなく声が荒ぶるのを止められなかった。

 抵抗するが、トレーナーは絶対に離れなかった。

 必死に深呼吸をしているようで徐々にすすり泣く声が収まる。

 

「タイシン」

 

「なに」

 

「私は……わかったよ」

 

「なにが」

 

「悲しいんだよ。私は悲しいんだ。大事な人が遠くに行くのがとっても悲しいんだ」

 

 そうだ

 

「今は、ケータイもあるし、飛行機もある。会いに行こうと思えばいつだって会える。でも、いつもいた場所にはぽっかり穴が空いてるんだ」

 

 分かる。痛いほど分かる。

 

「声も聞こえる。姿もわかる。でもぼやけてくるんだよ。ケータイを通しての機械音交じりじゃなかった声はどうだったのか。写真に写っているヤツ以外の笑った顔、楽しそうな顔、泣きそうな顔、怒っている顔。どんな顔だったか。ぼやけるんだ。一番大事だったはずなのに、誰よりも思っていたはずなのに、その思いもぼやけてきて、いつのまにか大切にとっていたはずのその人に対する感情の容量が少なくなっていっちゃうのが悲しいんだ」

 

 ああ……ああ……

 

「撫でてくれた手の感触も、語り掛けてくれた言葉も、優しくてきれいな姿も、抱きしめてくれた時の匂いも……記憶の中でどんどん劣化していくのが怖くて恐ろしくて悲しいんだ」

 

 なんだよ……なんだよ……

 普段なら挑発することでしか感情に触れられないトレーナーのその言葉がひどく自然とタイシンの心に入っていく。

 それが嫌に腹立たしかった。

 

「だから、タイシン。私たちはこの気持ちを言葉にしないといけないんだよ……私たちはすぐに忘れちゃうから。大切だったものも。大事にしなきゃいけなかった信念も、揺らぐことがないと思ってた気持ちも、ふとした瞬間に、軽くなっちゃうんだ。それなのに、心は中身が無くなっても持ってた気持ちの重さだけはやけに鮮明に覚えていて、軽くなった気持ちと心が覚えている重さの齟齬で、私たちの大切なものはすぐにどうでもいいものなるんだ」

 

 この気持ちもいつかはどうでもいいものになってしまうのかもしれない。

 

「だから、私たちは言葉にしないとダメなんだよ。口で言って、耳でとらえて、その気持ちの振動を肌で感じて、その時に抱いた感情の側にあったものの匂いを記憶に止めておけば、この気持ちもちょっとは長く覚えておけるんだと思う」

 

「あたまを……撫でてくれた」

 

「うん」

 

「抱きしめて……くれた」

 

「うん」

 

「ほめてくれた。しかってくれた。おこってくれた。みとめてくれた。みていてくれた。なぐさめてくれた」

 

「うん、うん」

 

「離れたくないんだ! ずっとそばにいたい!! そばにいてくれって……遠くにいかないでって」

 

「うん」

 

「でも、困らせたくないよ!!! アタシは、スズカさんが大好きだ……大好きだから、困らせたくない」

 

「う”ん”」

 

 ああ、苦しい。

 やっぱり、気持ちを吐き出すのはひどく苦しい。どうしようもなく、胸が締め付けられて、息ができない。言いたい言葉も全然口に出せない。

 

「わたしは……わたしは……スズカさんをえ、笑顔で……うぅ……」

 

「がんばれって、いいたい。私も……」

 

 なんだよ……なんだよ……なんで、トレーナーはわたしの気持ちがこんなにわかるんだ。

 

「私もスズカが大好きだ。タイシンと同じくらい大好きだ。大好きな人を困らせたくない。心配かけたくない。でも、でも!!!……どうしたって、この涙が止まらないんだ……っっ」

 

「うぅ……うぅ……」

 

 ちりん、と鈴が鳴る。

 背中が重かったが、さらに重くなる。

 

「あなたたちは本当にひどいわ……こんなに、こんなに、行きたくなくなるなんて思わなかった」

 

 強く抱きしめられていた。

 スズカの声は少し涙ぐんでいる。

 

「うぁ……ああ……あああ」

 

「うぅ……うぅ……ううううう」

 

「どうしてくれるの……こんなに、こんなに切ないなんて。私だって初めて。自分が死ぬよりもつらいかもしれない」

 

「ごめん……なさい……っっ」

 

「ごめん、ごめん……」

 

 タイシンもトレーナーも必死にスズカに許しを請う。どうしてか、そうしなきゃいけないというくらいに自然に言葉が出ていた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……!!!」

 

「スズカぁ……ごめん……」

 

「許さないわ。絶対にダメ。あなたたちの気持ちを全部吐き出すまで絶対に離さない」

 

「ああ……ああ……ああああああああ」

 

「う……ぁ……ああああああああああ」

 

「本当に……本当に……手のかかる子……可愛い後輩たち」

 

 全員が感情を抑えることができなかった。タイシンはどうしようもなく、寂しくて、切なくて、あったかくて、嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 中山レース場の控室。

 今日は、皐月賞当日となった。

 

「タイシン、調子はどう?」

 

「悪くないよ……絶対勝つ」

 

 ホープフルステークスからかなり時間が空いてしまったが、タイシンに過度の緊張感はなかった。程よいストレスで武者震いが起きる。

 

「もうすぐだよ。今日からクラシック三冠が始まるんだ」

 

「アタシは勝つよ。絶対に勝つ。勝たなきゃいけないんだ」

 

 絶対に勝つ。この満たされない勝利への渇望のため。トレーナーのため。そして、遠くで共に走るのを待っていてくれる先輩のためにタイシンは負けられなかった。

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