ナリタタイシンに対する強い幻覚   作:妄想投棄場

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ダービー

 天気は晴れ。東京レース場は良バ場だった。

 アタシはゲートの中で目を閉じて、思い返す。

 トレーナーさんたちの顔。

 長かった今までの道のりを振り返る。

 でも、もうちょっとだ。2分とちょっとで、アタシの夢は終わる。

 醒めるのか、叶えるのかは分からない。でも、走り終えたアタシは今のアタシじゃないことだけはわかる。

 ピタッと、音が止んだ。

 目を開けてアタシはじっと前を見つめる。

 

 

 ゲートが開いた。

 

 

 トレーナーさんと話し合って決めたアタシの作戦。

 いつもと変わらない。

 足を溜めて後半で差す。いつも通りでいい。

 

 

 向こう正面回ってもアタシは後方にいた。

 普段通りだ。変わらない。

 前に芦毛が見える。といっても結構離れてるけど。

 ハヤヒデだ。

 やっぱり今回も彼女は飛んでいる。

 高く昇りすぎても、後ろの様子が見えないから、先頭集団の少し後ろから上と下を眺めている。

 アタシも結構、後ろにいる。

 タイシンの姿は見えない。彼女の気配は感じない。でも、どうしてか背筋がすごく寒い。

 

 

 第三コーナーから、アタシは少しずつ詰めていく。

 焦ることはない。

 まだだ。アタシはまだ伏せてなきゃいけない。

 ただ、じっと鳳を捉えているだけ。

 

 

 最終コーナーが来た。

 

 鳳が舞い上がったのが見えた。

 俯瞰しながら、組み立てたピースをはめているようだった。

 つまり、ハヤヒデが勝利を確信した合図だ。

 

 溜めた脚を使う。

 そこはアタシがいなきゃいけない場所だ。

 

 ハヤヒデはスパートをかけて、先頭に立った。

 上から見下ろすように後ろも前も全部見えているみたいだ。たぶん、このまま行けば彼女が勝利する。

 

 でも、ダメだ。ダメなんだ。

 アタシは昇る。昇らなきゃいけない。

 ハヤヒデだって見下ろせるくらいに高く舞い上がらないといけないんだ。

 

 背は見えた。溜めた脚でアタシは飛ぶように加速していく。 

 掴んだ。アタシはハヤヒデの背を掴んだんだ。

 その勢いのままアタシは更に加速していく。

 

 あとちょっとだ、ちょっとでアタシは届けられる。

 それがアタシが生まれた意味で、アタシが走る意味だ。

 きっと、アタシという存在はこの時のためにあったんだ。確信を持っていえる。

 誰かのために捧げたいと思っていた、アタシの勝ちたいという願い。

 そして、アタシはやっと見つけたんだ。

 勝ちたい場所も、勝利をあげたい人も見つけた。

 

 

 ぞくり、と身が震えた。足が凍ったように固まる。

 息が出来なくなった。

 

 あと、ちょっと手を伸ばせば絶対に届く。もう少しだ。たった少し指先をかすめるだけでいい。

 そのはずだった。

 そうでなければいけない。

 それなのに、ゴールはアタシの手から遠ざかっていく。お前にはまだ早いとでも言ってくるみたいに、ゴールがドンドンドンドン遠ざかっていく。

 けど、おかしいんだ。だったら、ハヤヒデに先を越されているはず。

 でも、ハヤヒデだってアタシの隣には来ていない。

 

 

「はっ……はぁ…っ…くっ……」

 

 後ろからハヤヒデの息遣いが聞こえてきた。

 それぐらいには近い。でも、ハヤヒデはアタシよりも上には昇ってこなかった。

 

 

 ゴールはアタシたちからドンドンと遠ざかっていく。

 

 時間なんか止まったっていうくらいに、秒針を刻むよりも速く、アタシの頭だけが回転している。

 何度も、何度も、何度も、何度も何度もこのおかしななんでを考えていた。

 どうして、アタシたちはゴールを掴めないんだ。でも、誰もゴールしないんだ。

 苦しかった。早くこの時間が終わってほしいとさえアタシは思うくらいだった。

 そして、気づいたんだ。

 

 

 

 ゴールが遠ざかってるんじゃない。アタシたちが墜ちているんだ。

 

 

 

 いけない、前だけしか見ちゃいけない。

 引いたら負けだ。

 レースの上で振り返るなんてのは走ることをバカにしているだけだ。

 勝つという気持ちを踏みにじっている。真剣に走っている人を踏みにじっている。誰かを傷つけるだけの最低で最悪な行為。アタシが考える限りで一番やっちゃいけないマナー違反の一つだ。

 でも、逆らえなかった。

 アタシの考えがあってるなら、それはとっても恐ろしいことだった。信じられないことだ。

 アタシの考えの答え合わせがしたかった。怖いもの見たさがあった。

 そして、あふれて零れだして吹き出すほどの声が聞こえたんだ。

 

 見ろ、見ろ、見ろ、見ろ、見ろ、見ろ

 全身が信号をかき鳴らしていた。見るんじゃないと、絶対に振り返っちゃいけないって毛が逆立った。

 

 

 見ろ、見ろ、見ろ。早く、早く、早く、早く、見ろ、見ろ、見ろ。

 アタシを見ろ。アタシの本気を見ろ。これがアタシだ。ナリタタイシンの本気だ。

 速く、速く、速く、速く、誰よりも速く。

 

 見てはいけなかった。見てしまったら終わりだった。全身を包むような冷たさがアタシを覆う。

 足が動かない。

 ソレは最後方にいたはずだった。どんなに素晴らしい末脚だって、まくるのは無理だと思うほどに離れていた。離したはずだった。

 現に、ソレはまだアタシを追いすがっている。アタシが少し動けば簡単に突き放せる距離だ。

 だっていうのに足が動かない。

 目があった。タイシンの視線にアタシは射貫かれた。

 タイシンの眼がどうしようもなく、アタシの心に入ってくるんだ。

 

 

 どうして飛んでいるんだ。そんな場所から見下ろすのは不公平じゃないか。

 

 

 おかしいよ。おかしい。

 鳥は羽があるんだから飛ぶ。龍は空に住処を作るんだから飛ぶ。当たり前のことだ。

 だっていうのに、あの眼は不公平だっていうんだ。

『勝負の世界なら特にそうだ。強いやつが力をふるって何が悪りいんだよ』

 そうだ、持ってる力を全部使うのが礼儀だ。残していた、とか隠していたなんて卑怯だ。甘えだ。

 

 その眼の訴えは絶対的に間違っている。そのはずなのにアタシの心はその眼に屈してしまった。

 そのまなざしが、アタシの体を縛ってくる。

 アタシだけじゃない。ハヤヒデもだ。アタシたちはタイシンに縛られた。墜とされている。

 彼女が何かしたわけじゃない。彼女の溢れる気持ちがアタシたちを縛ってくるんだ。

 

 獅子が睨んだ。それだけで龍を、鳳を、地に叩きつけてきた。

 

 アタシの後ろにある呼吸が一つ増えた。

 狙っている。

 アタシの喉元を食いちぎろうと影のように迫ってくる。

 

 もう、ダメだ。

 アタシは泣きそうだった。

 悔しいんじゃない。悲しいんじゃない。たまらなく嬉しかった。どうしようもなく感動していた。

 

 その眼には狂ってしまうほどの勝利への執着が宿っていた。その足はどうしようもないほど満たされないほどの走ることへの渇望に突き動かされていた。その生き様は胸を張って宣言できるほどの夢の体現しているようだった。その精神はいつまでももがき続ける信念を持ち合わせていた。

 

 キラキラしていたんだ。どうしようもなくキラキラしていた。泣きたくるほど綺麗だった。美しかった。

 走るって、ああいうことなんだってアタシは確信さえ持てた。

 

 アタシは、初めてダービーを見た時に心奪われた。

 誰もが勝ちたくて走っている。そして、走ることがたまらなく嬉しくて心地よくて楽しいものだと知った。

 レースは残酷だ。たった一人だけしか勝てない。それ以外に意味はない。敗北は罪だ。遅いということは無意味だ。

 

 だから、ウマ娘たちはどうしようもなく懸命に走る。

 報われなくても走る。負け続けたとしても走る。勝ちたくて走る。たった一度の勝利が忘れられなくて走る。誰かのために走る。勝ってほしいという期待に応えるために走る。自分自身のために走る。

 レースに出るウマ娘の思いは様々だ。アタシは今までのダービーを見てきてそれを痛いくらいに感じていた。

 だからこそ走るという行為は尊いものだし、絶対に汚しちゃいけないと思っている。

 

 アタシは、レースに臨むウマ娘が大好きだ。

 無理だとわかっていても誰もが勝ってほしいと思ってしまう。その走りは魂だ。生き様だ。どんな走り方でも、勝ち方でも、敗北でもそのウマ娘の生き様をどうしようもなく表している。

 

 だからこそ、彼女の、ナリタタイシンの走りはどうしようもなく美しかった。

 

 彼女は勝つことの喜びを知っている。敗北の苦渋の味を知っている。負け続けることへの塗炭の苦しみを味わい続けてきた。苦しくて苦しくてもがき続けてもいつまで経っても報われない経験を知っている。

 でも、彼女は走ることを止めなかった。

 止められなかったんだと思う。勝利の味を知っていたから。

 勝利というたった一度でも味わえば抜け出すことのできない劇物のような快感を彼女は知っていたから、彼女は抜け出せなかった。

 そして、タイシンはタイシンのトレーナーさんと出会った。

 そこでタイシンは知ったんだろうね。自分の走り方と、誰かのために走る意味を。

 誰かのために走るタイシンはとっても強かった。でも、タイシンはそれがあまり好きじゃなかったみたいだ。

 誰かのために走るってことは、負けた時や自分が思ってない結果になったときに自分以外の誰かのせいにするかもしれないってことだから。

 アタシはそれをアタシのトレーナーさんから教えてもらった。でも、タイシンはずっと前から、ここに来る前から気づいていたみたいだった。

 だから、タイシンは走るときは自分のために走ると思っていつも走っていた。本当はトレーナーさんのために走っていたかもしれない。でも、それでトレーナーさんのことを嫌いになったり、少しでもマイナスな気持ちを持ちたくなかったから、タイシンはいつも一人で走っているようにしていた。

 

 だから、失敗した。

 

 でも、やっぱりアレはタイシンも悪いよ。きついときはきついって言わなきゃ。

 アタシたちは誰かの考えなんか全然わかんない。アタシはアタシのトレーナーさんが何を考えているのか全然わかんない。本当は、もしかしたら、トレーナーさんはアタシのことがそんなに好きじゃないのかもしれない。

 たぶん、そんなことはない。それは絶対にわかるけど、でもやっぱり嫌いじゃないなんて一言も言えない。だって、アタシはトレーナーさんじゃないから。

 アタシはアタシだ。トレーナーさんはトレーナーさん。だから、言わなきゃダメなんだ。苦しいときは苦しいって。嫌な時は嫌って。好きな時は大好きって伝えなきゃ相手には絶対に伝わらない。

 タイシンはそれをしなかったから失敗した。でも、最近はちょっとだけ違うのがアタシでも分かる。

 タイシンだって誰かに気持ちを伝えるようになった。

 

 だから、今のタイシンは前とは全然違う。怖いよ。恐ろしい。震えるぐらいに強くて美しいんだ。

 タイシンのあの眼は、勝ちたい奴の眼だ。死んでも生き抜く人の眼だ。

 

 誰かのために走ってる。それは、誰かの思いを乗せて走ってるっていうことだ。誰かの気持ちを、自分の中にあるどうしようもなく煮えたぎった執念の中に混ぜ込んでいる。

 そうやって、自分だけじゃない沢山の人の思いや希望を背負って走っている。そうやって、泣きたくなるくらいに、絶望したくなるくらいに圧倒的な差をタイシンは誰かの気持ちに押されてここまで上がってきた。

 

 ウマ娘が持つべき走ることの意味を理解している。本能的に体現している。そして、誰かの思いを乗せて走り続けている。どうしようなく綺麗で美しい。

 アタシは、その輝きが美して堪らなく好きだ。大好きだ。

 でも、アタシは直視するには近すぎた。ハヤヒデだってそうだ。

 

 タイシンの光にアタシたちは焼かれてる。

 目が焼かれた。足がつぶされた。気迫を溶かされた。他の人からもらった思いを上書きされた。アタシの飛翔やハヤヒデの翼はロウソクでできたまがい物だってぐちゃぐちゃにされた。

 眩しすぎて、力が抜けてしまう。

 

 気づけば、タイシンはアタシの隣にいた。

 もう少しだ。もう少しでアタシはゴールできるのに、アタシはタイシンに身を焦がされた墜とされている。

 泣きたくなるぐらいに感動している。 

 正直、もう、心が認めていたんだ。

 タイシンは強い。彼女がダービーを取るんだって。

 

 悲しかった。切なかった。ああ、アタシの努力も、今までもかすんじゃうくらいの光に当てられるとこうなっちゃうんだって。そう思った。

 

 

 アタシは負けたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 勝て。

 

無理だ。アタシは負けた。感動してしまった。

 

 勝て。勝て。勝て。

 

うるっさいなあ。

 

 勝て。勝て。勝て。勝て。勝て。勝て。

 

アタシは負けた。悔しさよりもこの光の余韻に浸っていたいんだ。

 

 誰だ。

 

本当に、なんだろうか。この声は。

 

 誰だ。誰だ。誰だ。お前は誰だ。

 

アタシは、ウイニングチケット。

 

 ウイニングチケット。ウイニングチケット。ウイニングチケット。お前はウイニングチケットだ。

 

もう、本当にうるさい。

 

 勝て。勝て。勝て。勝て。勝利を。勝利を。勝利を。勝利を。

 

勝つ、勝利、ウイニングチケット……

 

 お前は誰だ。なんのためにお前はそこにいる。

 

アタシは誰だ……なんのために……

 

 お前は誰だ。お前はウイニングチケットだ。勝て。勝利を。勝て。勝利を。勝て。勝利を。勝て。勝利を。

 

アタシは、勝つ。勝たなきゃいけない……

 

 お前はなんのためにそこにいる。

 

アタシは、アタシのために。

 

 お前の勝利はなんのためだ。

 

アタシの勝利は……トレーナーさんの、ため。ショーカ先輩のため。セミ先輩のため。

 

 お前は誰だ。お前はなんのためにそこにいる。お前がすべきことはなんだ。

 

……

 

 お前は誰だ。お前は誰だ。お前は誰だ。お前は誰だ。お前は誰だ。お前は誰だ。

 

 

 

ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!

うるっさい、うるっさい、うるっさい、うるっさい、うるっさい、うるっさい

うるっさい!!!!!!!!うるっさい!!!!!!!!うるっさい!!!!!!!!

 

アタシはウイニングチケット!!! アタシが好きなのはダービーだ! アタシの夢はダービーで優勝すること!!!

 

 お前は誰だ。お前はなんのためにそこにいる。お前がすべきことはなんだ。

 

アタシはウイニングチケットだ!!! アタシは誰かにこの勝利を捧げたかった!!! アタシが勝利を捧げたいのはトレーナーさんだ!!! セミ先輩だ!!! ショーカ先輩だ!!! 

アタシは、みんなが大好きだ!!! アタシは、アタシが大好きな人が笑顔でいて欲しい!!! アタシはみんなが生まれてきてくれたこと、出会えたことにいっぱい、いーっぱいありがとうを言いたいんだ!!!! 

アタシは他の誰でもなく、アタシ自身のために!!! アタシがみんなに笑っていてほしいから!!! アタシはトレーナーさんたちに勝利を捧げたいんだ!!!!

 

 勝て。勝て。勝て。

 

うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい

黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ

 

 ここはどこだ。お前はどこにいる。お前がすべきことはなんだ。

 

うるさい! うるさい!! うるさい!!!見ろ、見ろ、見ろ!!!

アタシはウイニングチケットだ。アタシは勝利を捧げるために生まれてきた。この日のためにこの瞬間のために走って来たんだ。

急に出しゃばるな。アタシはアタシだ!!!

他の誰でもない、アタシだけが持つ。アタシだけのものだ。

黙れ、黙って見ろ。アタシの走りを見ろ。ウイニングチケットの本気を見ろ。

アタシは捧げるんだ。勝利を捧げる。ただそれだけだ。

 

 勝て。勝て。勝て。勝て。

 

黙れっていってるでしょ!!!!

 

 ここは、どこだ。

 

ここは、この場所は!!!!

 

 

 

 

 

 

「ダァァァァァビィィィィィィ!!!!!」

 

 光に目が眩んだ。心に魔が差した。

 アタシはアタシを見失っていた。

 だけど、そうじゃない。今気づいた。たったこの瞬間に理解した。

 気づかないうちにアタシは執着を無くしていた。自分の夢を自分で嗤っていた。

 アタシは自分が許せなかったあの芦毛のウマ娘と同類になっていた!!!!

 

 そんなんじゃ勝てない。遠ざかってしまうのは当然だ!!!!

 アタシはウイニングチケットだ。誰でもない。ウマ娘で。走ることが好きで。みんなが大好きだ。

 アタシはみんなが好きだ。

 タイシンが好きだ。ハヤヒデが好きだ。トレーナーさんが好きだ。ショーカ先輩が好きだ。セミ先輩が好きだ。

 好きだ。好きだ。大好きだ!!!

 

 アタシは、アタシが好きだ。アタシのことが大好きだから、アタシのことが好きな人が大好きだ!!!!

 いま、アタシはアタシが嫌いになりそうになった。いや、嫌いになった。

 そうじゃない。そうしてはいけない。

 アタシはアタシが好きじゃなきゃいけない。だって、そうしないとアタシを好きだと言ってくれる人が惨めだと嗤われる。愚かだと罵られる。

 

 アタシを嫌いな誰かに食い物にされる。

 

 ダメだ。ダメだ。絶対にダメだ。

 アタシは勝利しかない。勝たなきゃいけない。アタシはアタシが好きな自分が正しいことを証明しないといけない。

 弱さは罪だ。遅いとは無意味だ。

 負けるのは悪いことじゃない。でも、このトレセン学園では絶対的な罪だ。

 ただ、貪られるだけ、食い物にされるだけ。

 アタシがどれだけ、好きだと言っても、大切だと言っても簡単に踏みにじられる。

 

 もう、嫌だ。

 大好きな人が、泣いているところは見たくない。

 大好きな人が下げたくもない頭を誰かに下げるところは見たくない。

 アタシがどれだけ傷つけないでってお願いしても、ここで負けたら絶対にアタシの大好きな人が踏みにじられる。

 許せない。許しちゃいけない。

 

 だから、アタシは喉が枯れるぐらいにアタシを奮い立たせた。

 

 ここはダービーだ。ずっと夢見てきた場所だ。長かった。狂ってしまうかと思うくらい長い道のりだった。

 それまでたくさん嗤われた。理不尽にあった。そのたびに、どうしてと思った。

 でも、結局はそれを振るえなかった。振るう気がなかった。振るってはいけないと言われた。振るうタイミングじゃなかった。

 色んな理由があった。でも、結局、アタシは今までにたくさんのどうしてを溜め込んできた。

 

 だから、今だ。振るうのは今だ。

 

 目が眩んだ。足は焼かれた。気迫は溶かされた。心に魔が差した。思いは上書きされた。飛んでいるところを墜とされた。

 

 だけど、まだだ。まだ残っている。

 

 チケットは焦げてない。燃えていない。勝利のチケットはまだアタシの中にある。アタシの魂までは溶かされてはいないんだ。

 どうして、諦められる。どうして、アタシの夢を嗤える。どうして、アタシが負けなきゃいけないんだ。

 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして

 

 どうして!!! 

 どうしても!!!! アタシは!!!! 勝ちたいんだ!!!!! 

 

 この勝利のチケットを、君に!!!! 

 

 

 

「ダァァァァァビィィィィィィ!!!!!」

 

 二度目だ。二度目のスパートをかけた。

 もう、脚は使い切っていたから、そんなでもなかったかもしれない。

 でも、確かに、その時のアタシは今までで一番だった。

 一番楽しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づけばライブが終わっていた。あっという間だった。

 なんだか、ぽっかりと大きな穴が空いたような気持ちで、アタシは控室に向かった。

 先輩たちが出迎えてくれた。

 二人とも泣いてアタシを抱きしめてくれる。でも、なんだろう。今はアタシはアタシを受け入れられないんだ。

 

「おい、チケゾー」

 

 トレーナーさんから声をかけられた。腕を組んで丸椅子に座ってむすっとしていた。

 

「トレーナーさん」

 

 トレーナーさんになんて言えばいいかわかんなかった。

 だって、アタシはぽっかり空いていたから。

 なんにもわかんなくなるくらいの大きな穴が空いていた。

 

「アタシ……アタシ……」

 

 どうしたって、アタシはトレーナーさんに言わなきゃいけなかった。ありがとうって。本当にたくさんのありがとうをアタシにくれた人だから。

 

「ダー、ビー」 

 

 でも、無理だった。アタシはもう、この言葉しか口に出せないくらいの全部を吐き出してたんだ。

 

「てめえは初めて見た時からそうだった」

 

 そういってトレーナーさんはアタシにドンドン近づいてきた。

 

「口を開けばダービーだ。勝ってもダービー。負けてもダービー。ダービーじゃなくてもダービー。てめえは本当にダービーしか見えてなかった」

 

「ダー……ビー」

 

 そうじゃないよって言いたかった。アタシはダービー以外のことも考えていた。

 音楽が好きだ。ゲームも好きだ。ドラマも好きだ。

 好きなものはダービー以外にもある。でも、やっぱり好きなことを見たり、聞いたりしていると、ダービーの影がちらつくのは仕方がない。

 

「何を言ったって話を聞かねえ。理解してるのか、してねえのかよくわかんねえ。そしてすぐ泣く。意味が分かんねえところで泣く。んだよ、錆びついたガードレール見て突然泣き出すってのはよォ」

 

「ダー……ビー」

 

 しょうがない。あのガードレールは一生懸命だった。誰も傷つきませんようにっていう誰かの優しい気持ちのために生まれてきて、錆ができるまでずーっと長い間、誰かを守って来たんだ。

 その姿にアタシは感動したんだ。

 

「でもてめえは、俺なんかよりもバツグンに頭がいい。そして誰かを思えるウマ娘だ」

 

「ダー……ビー」

 

 そんなことはない。トレーナーさんは物事がよくわからないアタシなんかよりもずっと頭がいい。トップクラスに頭がいい人だ。そして誰よりもずっと人の側に寄り添える人だ。

 あの時、たづなさんに言われて謝ったのだってそうだ。

 あれはトレーナーさん同士での謝罪だった。アタシたちに頭を下げさせたくなかった。そして、謝罪することで、サブトレーナーさんにそれ以上追及をさせないっていうたづなさんの考えをすぐに理解して、反論せずに謝罪した。今後アタシたちに被害がいかないように。

 トレーナーさんは練習中もそうじゃないときも、アタシたちにめちゃくちゃに無理なことやひどいことを言ってくる。でも、理不尽なことは言ってこない。たぶん、出来るだろうっていう期待を持ってトレーナーさんはアタシたちに言ってくるんだ。

 そして、無理でも絶対に見捨てない。次にやる奴は絶対にこなせよって、言ってくれる。そう言われてもできないときもある。それが何度も続いてどれだけできなくても、トレーナーさんは絶対に次を用意してくれるんだ。めちゃくちゃにぶちぎれている。烈火のごとく怒る。でもトレーナーさんは決まって、次にやる奴は絶対にこなせよって言ってくれるんだ。

 そこまで根気強い人をアタシはまだ知らない。たぶん、トレセン学園の中でトレーナーさんが一番寄り添ってくれるトレーナーなんだと思う。

 すごく頭がいい。誰かを思える。でも、言葉よりも先に手が出やすいからすごく怖く思われちゃうんだ。

 

「てめえは、物事を理解してるのかしてねえのか分かんねえ時がある。それは理解してねえんじゃねえ、あえて理解しねえんだ。他人のあくどい面や、悪意のある考え方を理解しようとしねえ。それは、てめえ自身がその考えに染まることを嫌うからこその理解の拒絶だ。自分の思考に悪意が混ざってしまうことへの恐怖に対する防衛反応だ」

 

 そうなんだろうか、分からない。

 

「てめえは、悪意の恐ろしさを知っている。悪意のある考えや行動は簡単に他人を傷つけることを知っている。そして、自分の力を知っている。自分が簡単に他人を踏みにじることができる力を持っていることを十分に承知している。自分が悪意を持てば、どこまでも他人を食い物にできるという理解を本能的にしている。だからこそ、そういうもの対する理解を拒絶するんだ。」

 

 そうだ。レースってそういうもんだ。勝ち負けってそういうもんだ。

 

「てめえは今まで傷つけられて生きてきたから、他の奴らみたいに好きにしようではなく、その痛みを自分だけに留めようとしている。どこまでも誰かを思えるウマ娘だ」

 

 そうじゃない、アタシには難しい話だからわかんないんだ。

 

「どうせ、頭がよくないとか自分で思ってるんだろ。でも、んなことはねえ。俺がてめえのトレーナーになったあの日。俺が土下座をした時、てめえは怒り狂っていた。でも、ついに手を出すことはなかった。そして、俺たちに勝利を捧げると宣言した。ウマ娘は勝ち続けることでしか、誰も守れないというたづなのあの真意を理解しなきゃ到底、ああはならねえ」

 

 分からない。

 ただ、アタシはそうしなきゃいけないって思っただけだったから。

 

「走る才能に関しては申し分ねえ。そして頭がいい。誰かを思える。三女神に愛されるウマ娘ってのはたぶん、てめえみてえなウマ娘を言うんだろうな。そして、そんな奴にこそ運が与えられるべきだ。べきだった」

 

「だー……びー……」

 

「天運を得られるかもしれねえウマ娘が選んだのはツキに見放されたバカだった。いつか届くはずだって、思い続けて、でも、決して届かない。見放されたことすら気づかずにいたバカだ」

 

 そんなことはない。そうじゃないんだ。

 

「そのウマ娘も結局バカだったんだよ。どこまでもいけるはずなのに、天まで昇れるはずなのに、どうしようもない落伍者を選んで乗せたばっかりに失敗した」

 

 違う、違う、違う。トレーナーさんは落ちこぼれてなんかない。

 

「乗せたバカは重すぎたんだ。そいつは敗北を重ねすぎた。どうあがいても覆せないほどに積み重なった敗北を抱えていた。龍でも抱えるのがやっとのほどの質量だった。だから、獅子の一睨みで墜落した」

 

 トレーナーさんは重たい。それは敗北の重ねたからじゃない。

 一緒に走って来たウマ娘の苦しみも、悲しみも、後悔も、全部、全部抱えて、今まできたからだ。

 欲しい。勝ちたい。そう思っても取れない。そんな敗北を積み重ねてきた。

 でも、たぶん、途中からは欲しかったんじゃない。夢破れた誰かの思いを継ぐうちにそれに取りつかれていたんだ。

 重すぎて抱えるのが苦しくなって、下しか見えなくなったせいで、いつしか手に届かないって思い込んでしまった。本当は取れなくてもいいのに、取りたいって思うようになった。

 取らなきゃいけないって思いに憑りつかれた。

 だから、見放されたように思っただけ。アタシはそんなトレーナーさんに見せてあげたかった。

 トレーナーさんが欲しかったものを見せてあげたかった。そして言ってやりたかったんだ。そんなに特別なものじゃないって。

 

 アタシにとってのダービーは特別だ。トレーナーさんにとってのダービーも特別だ。

 でも、結局はそう思い込んでいるだけだと思った。

 

 負けても死ぬわけじゃない。アタシのレースは続いていく。

 特別だけれど、絶対じゃない。

 でも、トレーナーさんはトレーナーである限り見続けるんだ。

 ダービーの夢を見続ける。いつか、叶うかもしれないっていう夢を見続ける。

 それはなんだか嫌だった。ダービーはもちろん、感動があふれている。ドラマしかない。アタシにとって最高の場所だ。 

 でも、アタシの人生はダービーだけじゃない。ダービーが終わっても次がある。

 それはトレーナーさんも同じのはずなんだ。トレーナーさんがダービーを取ったからと言って引退をするわけでもない。

 トレーナーさんはダービーに憧れているけれど、それ以上にウマ娘のことが大好きだ。一生懸命努力するウマ娘が大好きだ。だから、抱えちゃったのかもしれない。

 散っていったウマ娘の後悔や悲しみをトレーナーさんは抱えすぎていた。下しか見えていない。

 だから、もっとこの世界はありがとうにあふれているんだよってアタシは伝えたかった。

 遠くを見すぎて近くにある大切なものを取りこぼしてほしくなかった。

 アタシはトレーナーさんが大好きだ。ずっと笑顔でいて欲しい。ダービーを引きずっていてほしくなかった。

 

「でも、龍の眼は死んでいなかった」

 

 トレーナーさんはアタシの目をまっすぐに見てそういった。

 

「獅子に喉笛を噛みちぎられても、点睛がこぼれ落ちることはなかった。その龍は絵空事ではなくて、本気で高く天まで飛び上がった。バカをどうしようもなく縛り付ける引力さえ鼻で笑うぐらいに天に昇った」

 

「だ……び……」

 

「本当にてめえを選んで後悔してるよ……こんなに、こんなに」

 

 トレーナーさんの声はすごく震えている。顔だってしわくちゃだ。

 

「こんなに、ありがとうって気持ちがあふれると、息ができなくなるくらい苦しい……なん……って……しらな……っ……かったっ……!」

 

 喉がひくつくのを抑えてトレーナーさんは必死にそういった。

 大粒の涙を浮かべてアタシを見ている。

 

「あり……がっ……とう……! お前は……俺の……っっ勝利の……女神だっっ!!! 三女神だって見放したバカに微笑んだ女神だっ!!!!!」

 

「ダああああビいいいいいい!!!!」

 

 トレーナーさんが浮かべて笑顔はどうしようもなく綺麗だった。

 顔はとっても怖いよ。その笑顔は人を泣かせることだってある。

 でも、でも、この人はこの笑顔は綺麗で、見惚れるほどに美しかったんだ。

 

「ダービー以外……なんか言えよっっ!!!!」

 

 トレーナーさんは先輩に抱きしめられているアタシを抱きしめながらそう言った。

 でも、仕方ないんだ。

 アタシは今、この気持ちを、言葉にできないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「というわけで、ダービーは歴史があるレースです。みんなドラマがあってかんどー!って感じですっごいんです!!! アタシはダービーが好きです。大好きです」

 

 アタシのダービーは終わった。

 アタシは夢を叶えた。

 そして、約束を守らなきゃいけないんだ。

 

「あの、ウイニングチケットさん!!!」

 

 発表を終えたアタシの元に小さな栗毛のウマ娘がやって来た。たぶん、まだ小学生くらい。

 

「私のお姉ちゃんはダービーに出ました。そして……負けました」

 

 その子は少し表情を暗くしながらそう話してくる。

 

「お姉ちゃんはそこから勝てなくなって、走るのを辞めちゃいました。私はダービーなんて嫌いです!!! 私のお姉ちゃんから笑顔を奪ったダービーなんか大嫌っい!!!」

 

 その子は大粒の涙を流しながらそう言った。

 アタシは少しだけ困ってしまう。

 走るのは苦しい。辛い。上手くいかない。どうしたって負け続けることもある。

 だから、その子のお姉ちゃんはすっごく悲しかったんだと思う。

 

「ダービーが大好きなんていうウイニングチケットさんが私は大嫌っいです!!! あなたは勝ったからそう言えるの!!! アタシのお姉ちゃんは……お姉ちゃんは……っっ!!!」

 

 アタシはやっぱりかける言葉が見つからなかった。

 この子が真剣に悲しんでいるのがわかるから。アタシはどんな言葉も言っちゃいけない。

 否定もできない。肯定もできない。

 だって、勝者の言葉は敗者には刃でしかないから。ただ、この子の言葉をアタシは受け止めることしか出来なかった。

 

 

「こら! アンタ、何やってんの!!!」

 

「だってぇ……だってぇ……」

 

 ボロボロに泣いているウマ娘の元に一人のウマ娘がやって来た。

 女の子を抱きかかえて慰めている。

 たぶん、お姉ちゃんなんだろうって思った。

 

 

「ウイニングチケットさん、ですよね」

 

「はい、ウイニングチケットです!!!」

 

「すっごく元気。やっぱり、レース通りのとってもまっすぐウマ娘ですね」

 

 腰まで伸びた栗毛はとっても丁寧に手入れがされていて枝毛一つなかった。

 すっごく上品でお嬢様って感じの優しそうな人だ。さっきいっぱい怒ってたけど。

 

「妹が言ったと思うんですけど。私も以前はトレセン学園の生徒でした。まあ、そこそこの実力で、トレーナーさんに向かって宣言するほどの自信家でした。皐月賞も取ったから、次はダービーも取って三冠を目指すよって。でも、そうはならなかった」

 

 懐かしそうに思い出すように、妹を抱えながら、アタシのダービーの展示を見ながらそのウマ娘はそう語った。

 

「負けました。入着すらできなかった。悔しかった。どうしてってずっと悩んでました。周りからも皐月賞を取ったのはマグレじゃないかと、からかわれるようになって、私はそこからドンドンと転落していきました」

 

 その人はただの事実のように語る。

 でもアタシの心にはずんと深く重く積まれていた。

 

「結局、シニアも振るわなくて、辞めました。もう、走るのが疲れていたんです。そして、走るのが苦しかった。辛かった。逃げ出したかった」

 

 やっぱり、アタシにはかける言葉がなかった。

 

「ウイニングチケットさん……あなたはダービーが楽しかったですか」

 

「アタシは……アタシは最高でした! 最高に楽しかった!!!」

 

 突然の問いかけにアタシは驚いてしまった。でも、この気持ちは嘘をついちゃいけない。

 

「そう、よかった」

 

 少しだけ、彼女は微笑んでいた。

 

「そして、私はトレーナーさんにやめることを告げました。引きとめられたけど、私はもう疲れていて、正常な思考が出来ていなかったんです。だから、言ってしまった。最低の言葉を」

 

 その瞳には昏い光が宿っていた。

 

「実際に走らないあなた方に、負ける悲しみが分かりますか。夢を嗤われる悔しさが分かりますか。何をやってもあきらめろと言われる悪意に身をさらされる苦しみが分かりますか。何も言われずに鼻で笑われる屈辱がわかりますか。……本当にただの八つ当たりですよね」

 

 その人は優しく微笑んだ。でも、アタシにはすごく痛々しく感じていた。

 

「今ならわかりますよ。どうしてそれを実際に言った相手にぶつけなかったのか。どうしてそれをトレーナーに相談しなかったのか。どうして、勝てるように努力したいことをトレーナーに伝えなかったのか。トレーナーを頼らずにどうして一人全部を背負っているのか。若かったです。どうしようもなく野心に溢れていた私は一人でなんとかできるという根拠のない全能感があった。そして、それをずっと捨てきれなかった。だから、抱えきれずに辞めてしまった」

 

 そこ冷えするようような劣等感と罪悪感と自嘲がその言葉には滲んでいたんだ。

 

「ダービーで私のウマ娘生は狂った。あなたが私を狂わせた。それだけトレーナーに言い逃げして私は負い目を抱えながら学園を去りました。そして、全てに無気力になった。……何もできずに若さを無駄にしてしまった。可能性を自分でつぶしました」

 

 息が出来ない。

 自分で自分の敗北を認めるのは簡単だ。

 でも、それを誰かに話そうとすると、自分の中の尊厳が必死に抵抗して口を閉ざそうとする。

 茶化さずに、誇張せずに、ただ自分の敗北を語るのはそれこそ死ぬよりもつらい。

 死んだ方がマシだ。だというのに、このウマ娘はできている。

 それがアタシは悲しくて辛くて、苦しかった。

 

「この気持ちは一生抱えながら生きていくんだと思っていました。つい、この間までそうだった。私は、今回のダービーを見て変わったんです。そうじゃないんだって気づきました」

 

 彼女はやっぱり自嘲しながら話を続ける。

 

「おかしいですよね。ダービーに狂された。ダービーから狂ったのに、私はダービーを毎年テレビで見ているんです。……会場は足が震えていけないから。……ああ、変わんないなって思ってました。やっぱり、苦しいって、見ていて辛いなって」

 

 動悸が止まらない。

 

「でも、やっぱり見ちゃうんですよ。なんででしょう。裏切られたのに縋っているんですよ。何に期待しているのか自分でもわかりません。でも、なぜか見てしまうんです。勝っているウマ娘が憎かった。早いウマ娘が恨めしかった。楽しそうに走っているウマ娘を呪いたくなった。毎年見るたびに、心にそんな感情が重くのしかかってくるのを実感していました」

 

 息が苦しい。アタシがやったわけじゃない。でも、アタシの前に踏みにじったものが目に形になったようにも思えた。

 

「そして、私は輝いているウマ娘を見ました。ナリタタイシンというウマ娘です。あの子はとんでもなく離されていくはずなのに、誰よりも闘志に溢れていて、ウイニングチケットさんに手が届きそうでした。でも、届かなかった。あなたに蹴落とされた」

 

 心臓が止まるかと思った。でも、心臓を鷲掴みにされているのは間違いなかった。

 冷や汗が全然止まらない。

 

「悔しかった。届かないのかと、どれだけ絶望から這い上がる英雄でも、さらに強いものは嘲笑いながら突き落としてくるのかと」

 

 アタシがやった。彼女のその感情はアタシが踏みつぶしたから生まれた感情だ。

 

「でも、違った。あなたは強かった。本当に強かったんです。あなたは、その精神がとても輝いていた」

 

 どうしてか、嫌な感覚が少しずつ抜けていった。

 

「アナタは背負っていたものは、とびきりの憎悪です。後悔です。怨嗟です。焦がれては散っていった、ウマ娘の無念を抱えていた。あなたはそれを晴らしたの」

 

 そのウマ娘はアタシの頭を撫でながらすごく優しく微笑んでくれた。

 

「ありがとう。三石龍介を勝たせてくれてありがとう。私や他の夢破れたウマ娘が吐いた憎悪を、怨嗟を、後悔を抱きながら彼は生きていた。そしてそんな彼を救ってくれたのは紛れもなく、あなたよ。本当にありがとう」

 

 そのウマ娘は泣いていた。ポロポロと泣きながら微笑んでいた。

 

「私は、ずっと後悔していた。苦しかった。泣きたかった。でも、本当は自分が苦しかったんじゃないの。自分のせいで他の人を傷つけた事実が苦しかったの。それでもあの人は泣き言言わずに、毎年ダービーに挑むのよ。だからでしょうね。私が毎年見ていたのは」

 

 アタシは、アタシの感情をこらえきれなかった。

 頬が熱くなっていく。

 

「毎年、見ていたのはあの人に今年こそは勝ってほしいと期待していたからでしょうね。私は、私たちは、彼を呪った。その癖に救われてほしいと願った。愚かですよね。自業自得だというのに。私たちが与えたというのに。理不尽極まりないでしょう」

 

 ダメだ。ダメなんだ。ちっともアタシの気持ちは収まってはくれない。

 

「彼は背負ってくれた。逃げずにいてくれた。でも抱えすぎて、どうしようもなく手詰まりになった。彼は自分が抱えた重さに耐えきれなくなっていた。そんな時にあなたが現れた。あなたがそれだけじゃないと気づかせてくれた。このレースという世界の広さを教えてくれた。無念という枷から解き放ってくれた」

 

 喉が熱いよ。

 

「彼だけじゃなかったの。私も彼を呪ったくせに救われてほしいと望んだ報いをこの身に受けていた。下しか見えないくらいに重たいものを抱えていた。でも、あなたが解いてくれた。あなたはどうしようもなく私にとっての勝利の女神よ」

 

「ああ……あぁ……」

 

「あなたは今後も妬みを買うわ。羨望の的になるわ。勝手に期待されて、勝手に絶望される。ひどい誹謗も中傷も受けるでしょう。根拠のないレッテルだって張られる。弱者の悪意にさらされながら生きていく」

 

「胸を張ってください。前を向いてください。走ることを止めないでください。あなたの走りは誰かの救いです。あなたの姿は誰かの希望です。あなたの勝利は誰かの願いです。少なくとも、ここに一人はいる。誰もがあなたに失望しても、私だけはあなたを罵りません。あなたを傷つけません。あなたを肯定します。あなたが生まれてきてくれてよかったと何度だっていいます」

 

「うぁ……あ……あぁ……」 

 

「あなたは勝利を届けてくれる。ウイニングチケットなんですから」

 

 そのウマ娘の涙は綺麗だって。笑顔は見惚れるほど美しかった。その言葉はどこまでも深くアタシの中に入っていった。

 アタシは目の前のウマ娘が大好きになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ソラ! そろそろ練習止めなって。そんなにしても逆効果だよ」

 時刻は22時を過ぎている。辺りは暗い中でも体育館の明かりはついたままだった。

 ソラは、燃えるような赤い髪を揺らしながら、繰り返し、ゴールに向かってシュートを入れていた。

 チームメイトの制止などまるで耳に入っていない。

 250回。

 ひたすらに3ポイントが入るゾーンからソラはシュートを決め、250回連続で決めている。

 彼女自身も訳が分からない。どうしてこんなに練習を続けているのか。どうしてこんなに胸がざわついているのか。

 菊花賞でのナリタタイシンの走りを見た。

 途中からの失速。

 今まで見てきた震えるようなキレはなくからがらのゴールといった風だった。

 そしてゴール直後に彼女は地に伏した。

 そこからは観客もウマ娘たちも痛いほどの沈黙に包まれた。

 泣きながら近寄るトレーナー。そのトレーナーに手を伸ばそうとして、だらりと力なく腕を落としたナリタタイシンの姿。

 ソラは正直見ていられなかった。

 そして知りたくなかった。その後がどうなってしまったか。

 それ以降、ウマ娘のレースに関する情報を一切絶って、彼女はただ練習を続けていた。

 一度として同じ軌道のシュートはない。途中で伸びたり、はたまたいきなりキレを見せだす不可思議なシュートは相手側からガードをさせにくくしていた。

 年末にあるウインターカップに向けてソラは自分の武器をただただ磨いていく。

 勝ちたい。

 自分の中にあるどうしようもなく膨らんだこの飽くなき渇望を満たさなければいけない。

 そして、ウインターカップで勝利した暁にはあのウマ娘に、自分の諦めかけていたこの気持ちを震わせたナリタタイシンに言わなくちゃいけない。

 ざまあみろ。私は勝った。お前は負けた。次はお前が私を追いかける番だと。

 ソラはナリタタイシンにそう宣言するためにただがむしゃらに練習し続けていた。

 

 

 

 

 

 

 「酸素マスク、点滴……それに心電図ってやつ? まさに死にかけって感じじゃん。だから、私はずーっと言ってたんだよ。そんなに無茶する必要はないってさ」

 

 白毛のウマ娘は、ベッドで眠っているナリタタイシンに向かって声をかける。

 

「もう、そこまで行くとまさに生かされてるって感じだね。自分の意思じゃなくて他人のエゴの被害者って言うのかな」

 

 傍から聞けば眉を顰めるような、憎たらしい口ぶりだが、病院のスタッフは特に気にしていない。

 白毛のウマ娘の目の隈はひどく濃くなっている。

 入院して集中治療室での治療から、一般の病棟に移り面会謝絶が解かれた日から彼女は面会が可能な限りナリタタイシンの側について甲斐甲斐しく声を掛けたり、可能な限りの顔拭きなどをしていた。

 恋人や家族というよりももっと深い、自分自身を世話しているかのような甲斐甲斐しさ。

 それを見てきたスタッフたちは彼女の言葉を咎めたりなどはしなかった。

 

「タイシン、そんなに眠ってたってさ。つまんないでしょ……だから、早く目を覚ませよ」

 

 彼女は言葉をかける。帰ってくるのは、機械的な呼吸音だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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