木々に豊穣の息吹がかけられて、自然の恵みがあふれだしている。
それに伴って、風はどんどんと切なさを増している。外に吹く風はここ一番、突き刺すような冷気を纏っていた。
「ねえ、お姉さん。聞かせて欲しいんだ。これまでのことと、これからのことを」
病室の中。
清潔感に溢れた白に満ちている空間。
眼前に映るのは、自分の担当ウマ娘のナリタタイシン。
人工呼吸器は外されて酸素マスクがついていた。彼女は自分の意思で呼吸ができている。しかし、機械に生かされているのは変わってないままだった。
それを甲斐甲斐しく世話をするドロドロにへばりつくような白が特徴的な白毛のウマ娘。
清潔と透明感に溢れているこの空間で、私の目の前にいる二人の空間だけが異質だった。
ドロドロとしている。悲壮と後悔と侮蔑。得も言われぬ負に満ちていた。近寄るだけで窒息してしまいそうなほど閉塞していた。
行き場のないやるせなさは決して私をその感情のはけ口にはしていなかった。それが私を責め立ててきていた。
糾弾や怨嗟をぶつけない事実がどうしようもなく私を狂わせる。
私は二度目の失敗をした。
過失があった。慢心していた。胡坐をかいていた。
でも、私だってどうしようもなくいき詰っていた。
ウマ娘殺しと詰ってくれた方がまだましだった。自分を悪だと罵れる。
悪辣な白は私を責め立てることはしなかった。あまつさえ今後の話をしようと促すのだ。
自責の念に堪え切れない。
私は、私の罪を懺悔する。
私たちはダービーで敗北した。
ハヤヒデとウイニングチケットの二強になっている中で、タイシンは目を見張るほどの追い込みを見せた。
それによって、彼女は絶望とも言える状況を一変させ、一位に一番近づいていた。
でも、届かなかった。
タイシンは強かった。それは、間違いない。
このレースで三女神の寵愛を受けたのがウイニングチケットだった。それだけだ。
ビワハヤヒデの勝利への執念による追い上げで結局、タイシンは三着だった。
メイクデビュー以来の初の敗北。それは私たちを狂わせていった。
タイシンは、初めての敗北の後、狂ったように走り込みを続けていた。
何度も、何度も、何度も。
見ているこちらが痛くなってしまう、苦しくなってしまう、そんな自暴自棄やストレス発散のようにしか見えない練習だった。
最初は好きにさせていた。
初めての敗北だ。自分との折り合いをつけるには、やはり時間が必要だ。
彼女は彼女なりに自分の心を守っている。自分を守れる言い訳を自分にしている。そう思っていた。
でも、彼女の狂気は一過性のものではなかった。
むしろ、日を増すごとにソレは激しくなっていった。何かに魅入られたように、ただそのことばかりに執着するように練習を続けていたんだ。
クールダウンの際に、タイシンの口から真紅がこぼれ落ちた。見惚れるほど鮮やかで、全てを圧倒するような赤だった。
もはや、練習の域なんてとうに超えていた。ただの自傷行為にすぎなかった。
その赤は、麻痺していた私の心を奮わせた。彼女を制止しなければいけないという思考に追いやった。
赤い信号を気にも留めずに、走り続けようとするタイシンに私は声をかけた。
「これ以上のトレーニングはケガの元だよ。今日は終わりにしよう」
まだ練習を続けようとする彼女に告げるた
「うるさい」
こちらを振り向きもせずに言い放ったタイシンの声はひどく冷たかった。
「私のことは私が一番知ってるなんて言わない。でも、私にはこれしかないんだ……っっ!!」
『あなたのことが心配なの』『自分の体は大切にしないと』
そんな言葉が脳裏によぎった。
私たちは、これを続けた先にある未来を一度経験している。
だから、私は絶対に止めなきゃいけなかった。
でも、結局、私の口は堅く閉ざしたままで、脳裏によぎった言葉は、喉の奥につかえたままだった。
「ごほっ……ごほっっ……くっっ」
私のことを気にせずに、練習をしようとナリタタイシンは苦しそうに胸を押さえながら地面にうずくまった。
タイシンは死の病に侵されていた。
生命の死じゃなくて、選手生命の死の病。
タイシンの体はウマ娘が行うハードなトレーニングやレースに耐えうる強度ではなかった。それだけの話だった。
トレセン学園に入学してから、慢性的に行われた全身の酷使していた。特に衰弱していたのが呼吸器だった。
彼女は乾くことのない勝利への渇望を抱いていた。潤しても潤しても決して満たされることのない渇望を満たすために、がむしゃらに自らの牙を研いでいた。
ウマ娘一人が抱えるには荷が重すぎるほどの熱量だ。私もいつかはその牙の熱でその身を焦がしてしまうという予測はしていた。
でも、それは覚悟の話だった。
勝ちたいという渇望が、どうしようもない執念だけがドンドンと膨れ上がるのに、対して結果が伴わないことによる挫折。絶望。諦観。
そういったものでタイシンの選手生命が切れてしまうという予測はしていた。
皐月賞を走り終えた後、タイシンの体から赤が噴き出した。
医師は彼女の灼熱は、自らの喉を焼き尽くしたといった。
潤しても、潤しても、今まで得た勝利はタイシンの抱いた熱量ではすぐに蒸発してしまい、その蒸気が気道を焼いた。
彼女の勝利への渇望は選手生命を侵す猛毒だった。だけど言い換えれば、まだ猛毒だった。
死の病ではない。手の施しようはある。
ウマ娘はレース中に、一度だけ目を見張るようなとてつもない速度や加速度を出す。これはウマ娘にあるリミッターを解除することによる一時的なブーストだ。
しかし、タイシンはその一度限りであるはずのリミッターを解除する術を身に着けていたようだった。
おそらく、勝利への渇望が彼女に与えたレースで究極を追い求めるウマ娘にとっての祝福。レースで夢を追いかけるウマ娘にとっての呪い。
その祝福はタイシンの猛毒に侵された体を限界まで追いやっていた。
ウマ娘のリミッターは一度までならどんなに、か弱いウマ娘であっても、耐えうる。それほどの強度がウマ娘という肉体には備わっている。
しかし、二度三度となると、話は全く別だ。
閾値の問題だった。
酷使したとしても、回復できる範囲というのはある。一度のブーストであれば、十分に回復圏内だ。
だが、二度三度となると、その閾値を軽々と超えていく。閾値を超えた分は回復することなく、そのウマ娘の体を蝕んでいくというのが医師の見解だった。
タイシンは、勝利への渇望という毒に侵された結果、本来ウマ娘が持っているたった一度のブーストさえも使えば選手生命を脅かすものになった。
そのブーストは軽々と彼女の血圧を高めて、突き刺すように血液を巡らせていく。
焼け焦げた喉は血液の奔流で簡単に決壊してしまい、血液は出口を求めて口腔までせり上がってくるのだ。
一度のブーストでそれだ。
彼女の肉体の回復圏内は一度のブーストでも、閾値を超えるほどに狭まっている。
彼女が必死に磨いた牙がその身に突き刺さった。
酷使した体を回復させることは可能だ。
でも、ウマ娘の肉体の閾値を上げるということは、それは医師ではなくて神の領分だった。
彼女はブーストができない。強引にすれば死に直結する。選手生命だけでなく、ウマ娘としての一生を終える可能性もある。
ブーストは彼女の牙だ。
長い間馬鹿にされて負け続けて、それでもあきらめることなく、投げ出すことなく鋼の意思で磨き続けた諸刃の剣。
医師の宣告は、タイシンにとって生きる意味を奪われることと同義だった。だからこそ、彼女は狂気に魅入られてしまっていたのかもしれない。
「ナリタタイシン!!」
気づいた時には彼女の元に駆け寄っていた。
止めないで!と拒絶する彼女の声など気にも止めずに背をさすった。
「今日はここで終わりにしよう」
「お願いだから止めないでよ!!!!」
悲痛があった。怒りがあった。この残酷な世界が簡単に与えてくる理不尽に対しての義憤だった。
何かに縋るような深刻さだった。
どうしよもなく胸が締め付けられるのを実感した。
根性や気合、ガッツなどというのは、人事を尽くして天命をまつ者が最後に行う一押しでしかない。
タイシンは、決して折れない鋼の意志があった。誰かの意思を背負い走り続ける強さがあった。頂点に届きうる彼女だけの武器があった。
けれど、彼女の肉体はそうではなかった。
鋼の意思は脆弱になった肉体を守らない。誰かを背負って走ればすぐに限界を迎えるほどに弱っていた。彼女の武器は頂点に届く前に彼女の喉笛に突き刺さってしまった。
ただ、それだけだった。
「アタシは、アタシのつまらないちっぽけなプライドで自分の選手生命をつぶしてる。それはアタシが一番わかってる!……でも、アタシにはもう、時間がないんだよっっ!!」
私は、タイシンの慟哭のような咆哮に身を竦めてしまった。
空回りしていても、自分の中の何かを守るために、必死に世界に抗う彼女を止めることができなかった。
でも、せめてと思って堅く閉ざしていた口を私は必死にこじ開けた。
「私は……あなたに死んでほしくないっっ!!!」
本心だった。他は何も届かなくていい。
私の言葉がどれだけタイシンには無意味だとしても、この願いだけはタイシンに届いて欲しかった。
その言葉がタイシンの心の奥に届いたかはわからない。でも、タイシンの耳には届いたみたいだった。
タイシンは、練習を続けようとするのを中断して私に語り掛けたんだ。
「これだけは信じて欲しいんだ。たぶん、アタシはどれだけ走っても死ぬことはない」
そういう彼女の瞳は確信に満ちていた。まるで未来を見てきたかのような口調で私に断言してきた。
「どうしてそんなことが言えるの。……あなたの体は、ずっと悲鳴を上げているんだよ?」
「アタシはさ、夢を見たんだ。……夢っていうには現実感がありすぎたけど」
そういって彼女は少しだけはにかんでいた。普段のタイシンとはかけ離れた言動に自分で笑ってしまったのかもしれない。
「ウマっていうこの世界にはいない動物の一生を追体験した」
彼女の口から出た言葉は、本当に普段のタイシンとはかけ離れた言葉だった。
「嘘みたいでしょ。アタシもまだ、夢なんじゃないかって思ってる。でも、アタシは追体験した風景がしっかりと焼き付いているし、誰がどこにいたのかをはっきりと覚えている。夢のようにあいまいな記憶じゃないんだ」
彼女の表情からは先ほどの深刻さが無くなり、少しだけ穏やかさが窺えた。
「どうして見たかって言うとさ、たぶん、代償だ。私がかつてウマ娘という種族が捨て去った、祝福とも呪いともつかないものを手に入れた代償」
皮肉げにタイシンはそう笑った。
「ウマっていうのは四足で走る動物だ。ウマ娘と同じような耳や尻尾がついていた。そして、クラシック三冠とか、シニア三冠とかさ、ウマ娘と同じようにレースするんだよ。……そんな世界でアタシは一匹のウマのレースを追体験した」
彼女の語り口はまるで見てきたかのようだった。空想だと片づけるには現実味がありすぎてた。
「そのウマの名前はナリタタイシンだ」
だから、その言葉は真実なんだと私は思った。
「そのウマもクラシック三冠を目指してレースに挑んでた。初めの皐月賞は一着で勝った。そして、日本ダービーは三着だった。一着のウマはウイニングチケット」
タイシンが語る言葉が指す事実というのはつまり
「今、アタシはウマのナリタタイシンが追体験したレースと同じ試合結果になっている。ただの偶然かもしれない。でもアタシは信憑性が高いものだとも思っている」
彼女は、疑似的にではあるけれど未来を見てきたようだった。
「そして、ナリタタイシンはその後“一度の勝利もなく”敗北にまみれたまま引退するんだよ」
その言葉を吐き出すタイシンの表情は憑き物が取れたようだった。
安心というか、安堵というか、テストで自己採点をした時に、解答例と同じ答えを導き出していたことに対する喜びみたいな感情が滲んでいた。
でも、私には信じられなかった。信じたくなかった。
「じゃあ、これからのレースは負け続けるって言うの? 私が知ってるタイシンはそうじゃない。そんな未来がなんだって吐き捨てて、全力を出して勝利だけを追い求めるんだ!」
タイシンの気持ちなんかこれっぽちも考慮していない私の理想の押し付けだった。
タイシンが嫌がる行為の一つだった。でも、私はどうしても言わなきゃいけないと思った。
だって、嫌な言葉っていうのは聞きたくない言葉だ。刺さってしまう言葉だ。耳を塞いでも、心を閉ざしても少しでも隙間があれば易々と心をずたずたに引き裂く刃だ。
狂気の中にあるタイシンにだって届くって、理性を揺さぶれば何かが変わるって、どこかで思ってた。
「アタシはアンタが思ってるような奴じゃないんだよっっ!!!」
でも、それはただ獅子の尾を踏むだけだった。
「競り合えばすぐに押し負けるくらい体が小さい。肺も弱い。すぐにスタミナが切れる。どれだけすごい末脚だってそれを発揮する体力が無かったら全くの無意味だ。アタシの勝ちはまぐれだったんだよ。結局は虚像だった」
タイシンは勝利への執着が削がれていた。自分の夢を嗤っていた。
「アタシはウマのナリタタイシンを通してそれがはっきりわかった」
泣いているような笑顔だった。
タイシンは、敗北を認めていた。レースを走る前から敗北するなんて意味が分からない。でも、彼女はこれが天命だとばかりに敗北を認めていた。
「走って見なきゃわかんない!」
私は認められなかった。
敗北の運命も、敗北を認めて執着を手放そうとしているタイシンも。
「だから!!!」
私の押し付けは彼女の怒りを増長させていた。
「アタシは弱いんだ。本当はアンタが思ってるような才能なんかはない」
でも、敗北を認めていた彼女の瞳は腐ってはいなかった。眼は死んでいなかった。
「でも、私が体験したものとこの現実が全部同じかといえばそれは違う。あの世界にはURAファイナルなんてレースはなかった」
その言葉は未来を見ていた。仕方ないと諦める運命ではなく、自分で切り開く未来。
「たとえ今後走るレースが敗北しかないアタシでもそのレースの未来だけは誰にも見えない。だから、アタシはそこに全てを懸けたいんだ」
彼女は、勝利への執着が削がれていなかった。自分の夢を嗤っていなかった。私がただ、早とちりしていただけだった。
「アタシにとって、URAファイナル以外は全部前座みたいなもんだ。例え負けが決まっていても潔く受け入れる。だから、アタシはURAファイナルで勝つためだけに今しかないんだ」
たった一つの目的のために全てを手放す。いき詰まった彼女が最後に見出した活路。
「死なない。未来のアタシは来年も再来年も死んじゃいなかった。だから、アタシは今死ぬ覚悟で練習をする。スズカさんから教えてもらったスキルを全力で磨き上げる」
彼女は疑似的な未来を見て、敗北の運命を受け入れた。
それは誰も見ることのできない、まだ見ぬ栄冠を戴くための手段だった。
彼女は敗北にまみれる。けれど、死にはしない。それを逆手に取るって言ったんだ。
来年も再来年も死なない。だから、医師の宣告があろうと、今どれだけ肉体を酷使しても問題はないと、そういうことだった。
「練習だけじゃダメだ。本番で絶対に勝ちあがってくるだろうハヤヒデやチケットを倒さなきゃいけないんだ。そのためには、アイツらが出てくる試合でアタシは戦わなくちゃいけない。本番で絶対に成功できるように、精度を上げ続けなきゃいけない」
タイシンは、サイレンススズカの指導の下、スタミナを補強するために、眠るようにスタミナを温存しながら走り、レース終盤で影のように追いすがる走り方を身に着けた。
けれど、確実に発揮できるかと言えばそれは未知数だった。
経験が足りていない。実践が足りなかった。だから、彼女は練習で精度を上げながら、レースに出場して本番での実践を確実なものにしたいと私に展望を語ってくれた。
「だから、アタシは! アタシは!!!」
タイシンの声は、色んな感情が混じっていた。
悔しさ、理不尽、怒り、決意、安堵、覚悟、恐怖、苦しさ、渇望。
「ごほっ……ごほっっ……くっっ」
そんな感情の奔流さえもタイシンに牙を向き、易々と喉笛に突き立ててた。
「ゴメン。……本当にゴメン。でも、お願い……止めないでっっ!!」
私はタイシンの必死の言葉に、練習を止めることができなかった。
彼女のURAファイナルズで勝ちたいという信念は本物だった。だから、本気で死ぬ気はなかったんだと思う。
それで私はボロボロになっていくタイシンをじっと見つめながら、彼女のやりたいようにやらせることを選んだんだ。
「バカだね、本当にバカだ」
白毛のウマ娘は目を覚まさないタイシンの頭をゆっくりと撫でながら私の話をじっと聞いていた。
「未来が見えた? 自分が死ななかったから、死なない? それはウマとかいう生き物の話であって、タイシンとは全く関係ないじゃないか」
普段のような胡乱な言葉はない。ただ、突き刺すような冷たい事実だけをタイシンに語り掛けている。
「お姉さんも大変だったね。このバカのバカげたことに付き合わされてさ」
白毛のウマ娘は、あくまでタイシンの責任だという。私は被害者だとそう言っている。
そうじゃない。絶対に違う。私が間違えた。私が修正するべきだった。誰が見てもそうだ。
これで二度目だ。絶対に失敗にしないと、今度は間違えないと誓った。
そのはずなのに私は懲りずにまた失敗したんだ。
「違う! 私の、私のせいなの!!!」
声が震える。大罪を犯した自分を罰してほしいと、白毛のウマ娘に私は請う。
「そうだね。お姉さんのせいだ」
白毛のウマ娘は、タイシンを撫でる手を止めて私の方を見つめてそう言い放った。
改めて見ても美しいウマ娘だった。
細く長い手足はやはり、走ることには向いてはいない。
目元は隈がひどく、化粧をしてもあまり隠せてはいないものだ。
だというのに、それでも彼女は美しい。
そして、その容姿から放たれる言葉は鋭く適切だった。
「どうして、殴ってでも止めなかった」
彼女はどうしようもなくタイシンのことを考えていた。
「どうして、お前のそれは妄想であって、ただの幻覚だと、絵空事だと糾弾しなかった」
でも、レースに懸ける思いは一切考慮してはいない。
「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして」
顔をつきあわせているはずなのに、どうしてか白毛のウマ娘の姿を捉えられない。
あいまいでぼやけてしまう。
「どうして、勝利への執着を捨てろと言わなかった。どうして、ナリタタイシンの夢を嗤わなかった。どうしてお前はどう努力しても無意味だとなじらなかった。どうして、ナリタタイシンのそれはただの馴れ合いだと、ごっこ遊びだといってナリタタイシンの信念を腐らなせなかった」
冷たい言葉だ。肺が凍えそうだ。息もままならない。
それなのに、私の口は勝手に言葉を紡ぐんだ。
「出来るわけないでしょ!!! 私はタイシンに魅せられたの!!! あの子の輝きが見たいと思ったんだ。どんなことになってもあの子はずっと走り続けてくれるって信じていたからそんなことはできなかった!!! あの子の苦しみは痛いほど分かった!!! 満足に走れないなら、死んだ方がマシだって、それが苦しいぐらいに伝わって来たのに、そんなことできるわけない!!!!」
ぐちゃぐちゃだった。
私はこの自分の中に抱いた感情のはけ口を探していた。
そして、あろうことか、懺悔をした白毛のウマ娘に、罰してほしいと請うた彼女に対して吐き出した。
「うん。分かるよ」
彼女は、優しく微笑んで私を抱きしめた。
溜まったものを外に出すように何度も何度も背中をさすってくれる。
「私たちは、タイシンに魅せられたんだ。私たちはあのバカの走っている姿に魅せられたバカだ。だから、お姉さんは絶対にそんなことが言えない。なら、悪いのはそれをわかっててやったタイシンだ」
「……っっ」
声が出せなかった。
言葉の代わりに感情が頬を伝ってボロボロとこぼれ落ちていく。
私は最低だ。
「お姉さんも悪い。でも、それ以上に悪いのはタイシンだ。そして、お姉さんと同じようにタイシンに魅せられた私にはお姉さんを責められないよ」
恨んでしまいたくなるくらいの優しい許しだった。
白毛のウマ娘は、私を許すためにわざと責め立てた。そして、許したのだ。
それをさせたのは私だ。私が白毛のウマ娘の言葉を受け入れればよかったのに、許されたいと願ってしまった。
それがひどく情けなくて許せなかった。
「落ち着いた?」
「うん、ありがとう。ごめんね」
「別に、いいよ。私とお姉さんの仲だからね」
そう言って、白毛のウマ娘は私に微笑んでくれる。
ドロリとした感情はなく、彼女の言葉は私の心にすっと入ってきた。
「だから、聞かせて欲しいんだ。菊花賞の時のこと。お姉さんの眼から見た、あの日に起こったことを」
菊花賞当日、彼女は遠い目をしていた。
まるで、どこか遠くに行ってしまいそうな全てを済ませたような穏やかな表情だった。
嫌な予感はすごくあった。でも、タイシンのあの言葉は本物だった。
でも、やっぱり不安はぬぐえなかった。
それで、私はタイシンに言ったんだ。
「ねえ、タイシン……どこか遠くに行こうよ。ここじゃない。ずっと、ずーっと遠い場所に」
私は手を引くべきだった。手を引かなきゃいけなかった。だって言うのに、私は結局口で言うことしか出来なかった。
「遠い場所ってどこ?」
「えっ?」
タイシンから表情は消えていた。ただ、今から起こる本番に向けて覚悟を整えているようだった。
「アタシが見るのは現実だ。ただじっと前を見つめてなきゃいけない。アタシはアタシから逃げちゃいけない。運命からは逃げられないんだ」
「じゃあ、いってくる」
誘導に来たスタッフに促されるようにタイシンはパドックに向かっていった。
去り際に微笑んだタイシンの顔は、とっても穏やかで消え入りそうだった。でも、泣きたくなるくらいに美しかったんだ。
タイシンは皐月賞やダービーのように最後方についていた。
向こう正面を過ぎ、第三コーナーを回ってもペースは上げなかった。
上がらなかったんだと思う。上げることが出来ていないほどに彼女の体は疲弊していた。
最終コーナーに入って、タイシンはいつものようにブーストをかけた。自分の命を削って。
ギアが入ってはいなかった。必死に胸を押さえてた。何かを吐き出そうとして、それを必死に抑えるように走ってた。
結局、ハヤヒデが一着を取って他のウマ娘もゴールしていく中、タイシンだけが取り残されるようにゴールを睨んでいた。
彼女が何を思っていたかは分からない。でも、タイシンは禁忌を犯した。
二度目のブーストをかけた。
足には紫斑が広がっていき、彼女の勢いは伸びるどころかドンドンと減速していった。
だって言うのに、タイシンは倒れなかった。走るのを止めなかった。
ただ、ゴールだけを捉えていた。何がタイシンをそこまで突き動かしていたのかは全然分からないけれど、タイシンは必死にゴールまで目指していた。
ゴールをした瞬間にタイシンは倒れた。
もう見てられなくなった私はタイシンに近づいていった。
そうしたら、タイシンは口から赤を吹き出しながら微笑んでた。
痛くなるくらいに美しい笑顔だった。
私は、頭が真っ白になって、タイシンの手を取ることしか出来なかった。
ドンドン力が抜けていって、顔が青白くなっていく、タイシンの体を抱きかかえて、泣くことしか出来なかった。
これが運命だったんだって。
どうしようもない無力感に打ちひしがれていた。
目の前で命が無くなるかもしれないって言う時に。私は全部が分からなくなっていた。
「なあああにしてんだああああああああ!!!! 一ノ瀬ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
私が抱えていたら後ろから、怒声が聞こえて私の思考は再回転し始めた。
でも、やっぱり、どうしたらいいかわかんなかった。でも、近づいてくる、その怒声は私の手を引いてくれた。
「横に向けろ!!! 背中をぶん殴ってもいい!!!! 口の中にあるもん全部出させろ!!!!」
「ああ……あああ……ああああああ」
それが正しいのかは分かんない。意識があったかとか、呼吸はしているかとか、そういう常識的なことの確認が先だったのかもしれない。
でも、私はどうにかしたくて、その声はずっと私の手を引いてくれていて、きっとタイシンを救うにはこれが一番なんだって信じて、夢中で彼女の背を叩いた。
幸いなことに彼女の意識はおぼろげだったけど、あったみたいで、私の刺激に合わせて、どんどんと赤を口から吐き出していった。
「よくやったっっ!!……よくやったっっ!!!」
その声は二村さんだった。
どうして、二村さんがそこにいたのかも分からない。後ろには医療スタッフがいた。
私はいち早くタイシンに駆けつけていた。たぶん、引き連れている数が多い分、二村さんたちの初動が本当に数分ぐらい私よりも遅れていた。
でも、その数分がタイシンの今後を大きくするタイムリミットだったって後から聞いた。
「こいつらはバカだ。自分の本能を優先するアホタレばっかりだ。目を離すとすぐに遠くに行こうとする。……こいつらの好きにやらせたんだ。こいつらはそれで死ぬならそれいいと思ってるのか知れねえ。けど、オレはこいつらのワガママを聞いた。黙って見過ごした。じゃあ、それが終わったらこっちの番だ。俺は俺の好きにやる。殺してくれた方が良かった、死んだ方がマシだったなんて言われても知らねえ。俺は俺が信じる最善をつくす。そんなこと言われた泣きわめかれても、うるせえバカ!って一蹴してやる」
救急車の中で、二村さんはタイシンを見ながらそう言っていた。
「頑張ったな、鐙鞍。よく耐えた。よく動いた。お前が救ったんだ」
二村さんは大きな手で私を撫でてくれた。
「お前は、お前の信念を貫いた」
労ってくれた。
「立派なトレーナーだ」
褒めてくれた。
「うぁ……あぁ……あああああああああああ!!!」
違うんだって。私はただ、見殺しにしようとした最低な人間だったって言いたかった。
でも、私は全然言葉にはできなくて、泣いて、泣いて、泣いて、泣き続けるしか出来なかった。
「これが、私の犯した罪」
言葉にすると、ひどく苦しい。胸にずんとのしかかってくる。
「私は失敗するのが分かっていた。でも、止めなかった。最低の、トレーナーだ」
私は、許しを請うように、白毛のウマ娘に告げた。
「そうかもしれない。お姉さんは最低のトレーナーかもしれない」
白毛のウマ娘はまた、タイシンの方に目をやり、彼女をいたわる。
「でも、タイシンを助けたのは紛れもなく、お姉さんだ。それは偽りのない事実だ」
白毛のウマ娘の声は少しだけ震えていた。
何かを堪えているようだった。
「ありがとう。本当にありがとう」
肩を震わせる彼女の姿を見て、私はまた、白毛のウマ娘の姿がぼやけて上手くとらえられなくなる。
だからだろうか、その体が動いたような気がした。
「長かったよ。本当に待ちわびた」
白毛のウマ娘の声に喜色が混じる。
「ねえ、おはよう。タイシン」
眠れる獅子が目覚めたんだ。
木枯らしが時折、外で息吹いている。
紅葉も少しずつ葉が落ち始めた頃だった。
私が目を覚ましてから一か月ほどが経つ。
「タイシン、今日はみかんを持ってきたよ。コタツで食べるみかんっておいしいよね。まあ、放置しとくと簡単に腐っちゃうんだけどさ」
「なんで、食べる前から腐るかどうかについて言及してんの」
私の側にいるのは、トレーナーではなく、白毛のウマ娘だ。
彼女は私が眠っている間からずっとそばにいるらしかった。その真意は分からない。でも、それはとても心地いいものだとおもった。
誰かに必要とされる。誰かに見てもらえる。それは私が常に追いかけていたものだったから。
走った先に答えがあるとずっと思っていた。でも、大切なものは本当に欲しかったものはすぐ近くにあったのかもしれない。
たぶん、トレーナーは、もうここには来ない。
私が拒絶したからだ。
私は走るのを止めた。
未来を見た。そこで死なないと過信していた。でも、やっぱりそれは私の考察であって事実ではなかった。
ウマのナリタタイシンを通して見えていたものが私たちの世界に反映するなんて道理はなかった。
死ぬときは死ぬ。
そして、私は、死にかけた。
やはり、死ぬのは怖い。
どうしたって、あの恐怖は拭えるものなんかじゃない。
死に触れたからわかる感覚だ。どうしようもない闇だった。もう二度と体験したくないと思う。
でも、得るものもあった。
私が、目覚めてから親が面会に来た。
そして、お母さんは私の顔を見るなりに頬を叩いた。
『私は、いつもあなたに謝ってきた。ごめんなさいって。あなたが傷ついたのは私のせいだと思ったから。でも、もう私は謝らないわ』
目を赤く腫れさせて、涙ながらにお母さんはそう語っていた。
『許さない。勝手にどこかに行くなんて許さないから』
そう言って、お母さんは泣きながら私を抱きしめてくれた。スズカさんと同じように暖かった。
だから、私の口もその熱で緩んでしまい、普段しまい込んでいた言葉がすらすらと出てきた。
『ごめん。ごめん。ごめんなさい。ワガママばっかり言って、いっつも困らせてばっかりでごめん』
『許さないわ。絶対に許さない。本当に心配ばかりかけて悪い子よ。あなたは』
思っていても、吐き出せなかった言葉。
どうしようもなく、私の中で溜まっていたものが全部、あふれるように出ていく。
少しだけおかしかったんだ。
私たちは死にかけて、やっと家族の会話ができた。これまでは家族ですらなかったのかもしれない。
バカは死ななきゃ治らないってのは本当なんだと思った。
そして、その後に面会に来たトレーナーを顔を見るなりに私は拒絶した。
『もう走りたくないんだ。怖いんだ』
いつものように、私を心に刺さるような言葉を浴びせてくるのかと思った。
でも、そんなことはなかった。
『そっか。……ごめんね』
ただ、それだけだった。
彼女は別れの挨拶を私に告げてきた。
『私は、タイシンのそばにいるだけで、あなたを傷つけちゃうって、それが痛いほど分かった』
目を伏せながら、トレーナーは私に語る。
『ありがとう。大好きでした。傷つけてしまってごめんなさい』
その言葉と共に一筋の涙が頬を伝った。
見惚れような美しい笑顔だった。
その表情を見た瞬間に息が苦しくなった。動悸が激しかった。吐き気が止まらない。胃の中にあるものを全部吐き出したくなる衝動にかられていた。
頭の中で、ガンガンと警鐘がうるさいほどかき鳴らされていた。
これが最後のチャンスだと、私の口が手が頭が四肢が、私に警告してきた。
そして、私はそれら全部を無視して、トレーナーを見送った。
私は、走るのを止めた。
ただ、それだけだ。
「そろそろ、冬季のスポーツ大会も始まってるみたいだよ。ほら、中継でタイシンのことを名指しにしてた赤髪の子いたじゃん」
「ああ、そう言えば」
遠い昔の記憶のように感じる。
私は、やはり、彼女に何かを言える立場ではなかった。少しだけ申し訳ない気持ちになる。
でも、仕方ないんだ。
「あの子の高校、いいとこまで行ってるみたい。明日あたりに予選だけど中継するらしいからさ、一緒に見ようよ」
「別に、いいけど」
正直、気は乗らなかった。
でも、白毛のウマ娘の誘いを無下にする理由もないので、私はそれを受け入れることにする。
「タイシンはさ」
白毛のウマ娘は、改まったように、私に尋ねてくる。
「今、幸せ?」
その言葉の真意はわからない。考えれば考えるほど。心は重たい。でも、息はしやすい。
勝つことを考えていたことに比べたらずいぶんと楽になっていると言ってもいい。
だから、私が出す答えは一つだ。
「うん、幸せだ」
勝利を掴んだ時の劇物のような快楽はない。
記録をドンドンと縮めていく時の達成感はない。
ただ、自重で沈んで、生きるとも死ぬともつかない、曖昧なままで過ごす。
熱狂するほどの興奮はない。けれど、絶望するほどの悲しみくれることもない。
ただ、穏やかな日々。緩やかな自殺。
本当に自分が求めていたのは、こういうことなんだろうなって思う。
私は誰も傷つけないし、私は誰にも傷つけられない。
見栄を張って、意固地になって、白毛のウマ娘を拒絶していた。
けれど彼女の言うとおり、もしもを抱えて沈むのはひどく心地いい。
私は、レースを止めた。ただ、それだけだ。死んだわけじゃない。
一つのことが終わって今から新しい道を探すだけだ。
「ちっぽけな幸せかもしれない。でもこれがアタシが本当に欲しかった幸せの形だ」
私は、胸を張って白毛のウマ娘に宣言した。
彼女も微笑み返して、言葉をかけてくれる。
「そう。じゃあ、おままごとはこれで終了だ」
「え」
意味が分からなかった。予想していない言葉で私は一瞬思考が停止してしまう。
「聞こえなかったのかな。こんなくだらない幸せごっこはもう終わりだって言ったんだ」
先ほどまでの笑顔が嘘のように、白毛のウマ娘は私を睨んでくる。
憎悪が宿った、敵意をむき出しにした瞳だった。
「タイシン。君は逃げられると思ったのか。無理だよ、絶対に無理だ。君はどうしたって、走らなきゃいけない。それ以外の選択肢は君には与えられていないんだ。逃げ出すチャンスはいくらでもあった。でも、君はそのたびに、蹴ってきた。もうこの段階で降りようなんて無理な話だ」
白毛のウマ娘は私を責め立てるように訴えてきた。
「君は嘘をついている」
その言葉に私は声が出せなかった。
冷たい事実を突きつけられた。ひどく凍ってしまい息もできない。
「私に嘘が通じると思っているのかな。君なんかよりも私はずっと嘘つきだ。君の嘘はずさんすぎる。お粗末だ。見抜けないわけがないだろう」
目を逸らそうとするが、どうしても全てを見透かされたような瞳からは逃げられなかった。
「お姉さんも、タイシンも嘘つきだ。そんな上っ面だけの友情ごっこをして何が楽しいんだよ。吐き気がする。君たちの悲しみは、絶望は今まで見てきた中で、一番、薄っぺらい子供だましだ」
瞬いた間に白毛のウマ娘の顔がものすごく接近していた。
彼女の息遣いが鮮明にわかる。
「私は、お前の敵だ。陰気で、目を背けたくなるような事実をつきつけるどうしようもなく嫌な奴だ」
その言葉に私は息を呑むしかなかった。
「私が君たちの嘘を晒してやる。泣いて縋られたって、絶対にやめないで、心の奥のその奥までズタズタにしてやる。私という全存在を懸けたって君たちのプライドを粉々に砕いてやる。覚悟しろ」
そんなことできるわけがない。ただの誇張でしかないとは思ったけれど、白毛のウマ娘の言葉は私の心にへばりついていた。
粘度が高すぎて、私は言い返すこともできずに彼女の言葉を黙って聞くしかなかった。
「でも、先にお姉さんだ」
そういって、白毛のウマ娘は顔を離した。
「お姉さんをぐちゃぐちゃにしてくる。タイシンだって、お姉さんの顔はもう見たくはないでしょう?」
そういって、白毛のウマ娘は三日月のように口元を歪ませて、狂ったような笑みを浮かべていた。
私は、その言葉にすら返答できず、白毛のウマ娘が立ち去っていくのを眺めることしか出来なかった。