許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許せない。
深い、深い、深い、どこまで潜っても底が見えない深淵。そんな深い場所まで私はもしもを抱えて沈んだ。
深い場所は、暗くて、何にも見えなくて、聞こえない。考える必要もない。
穏やかな場所。
死んでいるのか生きているのか分からないほどの変化のない日々はひどく私を癒す。
感情の起伏などすべて消え去った心地だ。ただ、深くにだって、音は伝わるし、波は立つ。それらに合わせて私はよどみなく周囲に適応していく。
心地よい停滞だ。
ここは生きることや死ぬことから最も遠い、全てを投げ出したものだけが至れる楽園。
目は見えない光を求めるように巨大になり、物事を拡大解釈し歪曲した認識をするようになる。
耳は聞こえない音を受け取れるように広くなり、信じたい解釈でしか聞こえなくなる。
口はありもしない獲物をきちんと捕らえられるように大きくなり、虚言や誇張しか吐き出せない悪臭をまき散らす。
奇形、グロテスク、神が作った失敗作。楽園に至るものの一切合切は、誰もが鼻をつまみ、眉をしかめるほどの醜悪な見た目にその身を変える。でも、誰もそんな自覚なんかはない。
この深い場所では真実は見えないし、聞こえない。考える知能すら腐らせてしまっているから。
幸いなことに私は楽園に至る前から、その見た目になっていた。だからこそ、この楽園の中でも、自分自身の醜悪さを自覚できる。
吐き気を催すようなおぞましい姿だが、悪くはない。ここは私一人ではないのだから。
少し鼻を鳴らせば、吐き気が出るような悪臭が漂う。そちらに耳を傾ければ呆れるほど心地よい妄言や虚言をまき散らす声が聞こえる。目を凝らせば、誰もいない場所で、居もしない誰かに向かって、ありもしない事実に対して自分の正当性を主張しながら、相手を糾弾している醜悪な化け物がいた。
穏やかで愉快な場所だ。ここでは何をしたって無意味だし。価値もない。何も変わらない。
楽園の住人はただ揺蕩うものか、無意味で無価値な自分にも気づかずに醜悪さをまき散らしているかのどちらかだ。
私はもう、醜悪さをまき散らす気概も腐らせてしまい、揺蕩うのみになった。
心地よい。穏やかだ。
でも、どうして私はこの楽園に至ったんだっけ?
遠い昔の記憶だ。案外近いのかもしれない。もう、そんな時間の感覚さえ腐っている。でも、強烈な記憶はわずかばかり残っているのも確かだ。
私がこの楽園に至ったのは、怪物に踏み潰されたあとだったと思う。
きっと、あれは私のことをちっとも見てはいなかった。
だから、たぶん、きっとあれは災害だった。天災だった。突発的なすさまじいエネルギーの発散。
たった、それだけなんだ。
ただ、私は偶然にもその場にい合わせていただけの運のないウマ娘だった。
振るうべき力の本質も、それを振るうべき意味も、何も理解せず、分からず、ただがむしゃらに、意味を求めるように、ただその天賦の才だけで勝ち上がってきた強者。それがほんのわずかばかり力を振るった。
それだけで私は自分の存在は罪で、無意味だということを理解させられた。
たった、2分とちょっとで今までの人生の中で私が私なりに培ってきた灼熱みたいな執着が、夢が、信念が、私を構築してきたあらゆるものが根本から全て否定された。そう思って全てに絶望して、諦めてしまい、唾棄していた馴れ合いに身をやつすことを強制させられた。
屈辱だった、惨めだった。悔しかった。切なかった。ぐちゃぐちゃにされた。どうして自分がここまで否定されなければいけないのかと思った。どうして自分が上を目指してはダメなのかと世界を呪いたくなった。無意味だと知りたくなかった。
天災に巻き込まれ敗北した私を罵るものなんてなかった。笑うものもいなかった。誰もが私を黙って見ていた。
誰も私の手を引いてもくれなかった。
でも、たぶん、きっと、それは私のせいだ。
立ち上がれるのだと、私もまた、たった一度の敗北など歯牙にもかけない強者だと思われていたんだと思う。
今回は勝った。次はどうなるかわからない。無様な走りをして笑われたらどうしよう。弱くて、卑怯で、卑屈な本心を見せて周りが去ってしまったらどうしよう。そんな気持ちなどひとかけらも晒さずに、ただ、理想の強者を描きそれを自分で実現していった。
だから、誰も悪くはない。
手を引いてくれないと嘆いたところでしょうがない。自分が描いていた強者は、他者の助けなど必要としていないものだったから。
私の人生は、いつも否定が最初にあった。走る前から無理だ、諦めろ、勝てはしない、勝てないウマ娘だという無意味で傲慢なレッテルを貼られ続ける人生だった。周りに対する反発心だけを糧に生きてきて、そして、勝ちあがることができた。
それはとても恵まれたことだったんだと思う。
同じようにレッテルを貼られ続けたヤツもいたけれど私の方が何倍も優れていた。私は相手をしてやっていたに過ぎない。だから互いに研磨しあう相手もいなかった。
ただ、自分の信念なんていうちっぽけで薄っぺらいものを、どうにか大きく厚いものなのだと自分に言い聞かせて、自分が大義を持った強者であるかのように振舞い努力してきた。
その姿が偽りで、虚像で、空虚だとしても、その結果だけはたぶん、本物だった。縋ってしまうけれど、私はそう信じている。
強者の甘い部分だけを羨ましいと指を咥えながら見ていて、それだけを手に入れようと浅ましくもがいていた。そしてたまたま、私は強者であるかのように勝ち進むことができた。
敗北の意味も、挫折の苦渋も少しも理解していなかった。
自分を偽り、周りを欺き、ハリボテの強者が出会ったのが、天災だった。それはただ吹きすさぶ一陣の風だった。周りを踏みつけるようなとんでもない勢いの雨だった。追いすがる影の居場所を粉々にするような地割れだった。
それは一瞬にして、ハリボテを暴いた。偽りを白日の下に晒した。弱者であると喧伝された。
屈辱だった。惨めだった。悔しかった。本当の強者であればこんなことにはならなかった。やはり、自分は偽りの強者でしかなかったのだと。思い知らされ、全てをぐちゃぐちゃにされた。
敗北も、挫折も理解していなかった。それ以上に、強さの本当の意味なんか欠片もわかってはいなかった。
人は災害にあっても、どうにか補修し、足りないものを継ぎ足していき、復興する。
吹きすさぶような風も遠くから新たな命を根付かせる恵みだと言える。踏みつけるような雨も、木々を豊かにし、生態系に刺激を与える。地割れは土を耕し、新たな開墾の糸口になりうる。
災害なんて結局は、受け手の解釈でしかなかった。全てを壊す絶望の象徴なのか、全てを作り替える強大な自浄作用なのか、それは受け取り手次第だ。大半のものは、災害の爪痕に絶望しながら、その中に残った希望を見つけて復興する。
だけれど、基礎もなにもあったもんじゃない、ただ大きくて立派に見えるだけの空虚な建物であれば、直せるものなんてない。継ぎ足す余地なんかない。それこそ一から作り直すしかない。でも、持ち主に作り直す知識も経験もなければ、頼れる人間もいなければ、もう全てを投げ出すしかない。逃げて、逃げて、逃げて、逃げ続けるしかない。
私は逃げた。逃げて、逃げて、逃げて、息も出来なくなった。苦しくなった。自分が吹聴してきた偽りが偽りだと露見するのが怖かった。言葉にはしない他人の態度をネガティブにしか捉えられなくなった。
本当は誰も何も考えていないんだ。私のことなんか本当に気にもかけちゃいない。私は無意味で無価値なんだから。
でも、偽り続けた私は、自分が今までついてきた嘘が全員にばれたと思い込んだ。偽りだらけの今までの代償だ。
全てが嘘で全員が嘘つきに思えてしかたなかった。全員が私の本心のその奥にある弱さを見抜き、全部を嘲笑っていると、そう思った。
一つ何かアクションを起こせばみんなが嘲笑い、二つ目には哄笑に至る。起こってもいない事実を幻視し、ありもしない中傷の幻聴が聞こえ、私が口を開けば、する必要もない、言い訳を並べて、見えないなにかから、必死に自分を守っていた。
本当はそんな脅威なんてありもしないのに。
自分の言葉に息がつまり、他人の視線や態度に気道を塞がれた。もう、動いても、動かなくても、苦しかった。私の体は、心は、真綿で首を絞めるようにじっくりと痛みや苦しみを自覚させられながらただ緩慢と死ぬのを待つことを余儀なくされた。
だから、私は身を投げた。
一人では到底抱えきれなくなった、自分が天災に出会わなければというもしもは、楽園に至るには十分な錘になった。
そのもしもさえ、偽りだったのかもしれないけれど。
初めはその楽園の醜悪さに嫌悪した。どこまでも自己中心的で、人を傷つけることでしか自分の価値を見出せない弱者どもの集まりなのだと義憤に駆られた。
自ら楽園に至ったはずなのに、自分はこんな奴らとは絶対に違うと思い私はこんな場所から抜け出したいという衝動にかられた。しかし、自分を縛り付ける錘は、やはり上昇することを許してはくれなかった。
この楽園は楽園などではなく地獄、いやそれですらない。煉獄だった。悔いを改めることもできないし、抵抗を止めても、錘を外さない限り救済されない。生きることからも死ぬことからも最も遠い場所。
全てが停滞しており、何をしても何もならないし、何もできない。無意味で無価値の極致。
そうであるはずなのに、私は何かの行動を起こさなければならないという衝動だけが溢れていた。
他の住人の姿なんて見えないのに、彼らから寄せられる、誰に向けられたかもわからない妄言を自分ごとのように受け取り、お前たちとは違うと罵る。
自分だけは、いつかこの楽園から這い上がるきっかけが与えられる。自分を引きずり上げてくれる存在が必ずやってくると信じた。
その存在に見つけてもらえるように私は、がむしゃらに周りに醜悪な姿をさらし続けた。
無意味で無価値である自分の本質を気づくことなく私は、自分が何か意味のある価値のある行動をとり続けていると信じて行動していた。
自分が何者であるかもいつしか思い出せなくなるほどに、その住人として馴染んでいった。
あるときにその穏やかで幸福な停滞に変化があった。
私のすぐ近くに一筋の強い光が差した。
天からの導きかと思い、その場所に向かい上を見上げる。そして私の眼は焼かれた。
醜く肥大化した眼にはその光は強大すぎた。幾重にも波に揺蕩い減衰した光であるはずなのに、私の瞳の中で反射を繰り返して、私の網膜を焼き切るほどの熱量があった。
この楽園では絶対に味わうことの出来ない痛み。その痛みが私の理性に喝を入れた。そして、私は少しずつ、何者であるかを思い出す。
理性が最初に伝えた感情は怒りであった。
私にそばから差した光の正体は私のクラスメートだった。同じように無意味で傲慢なレッテルを貼られ続けたヤツだった。
彼女は私なんかと比べものにならないくらいちっぽけだった。絶対に勝てないし、すぐに潰れてしまう。そんな誰の眼にも明らかなハンディキャップを背負って走っていた。
だからだろう、私はここまで堕ちたというのに、どうしてお前はそこでのうのうと走っているんだという、どうしようもないほどの怒りに駆られた。
彼女の走りは、その姿から零れた光に怒った。彼女の光で眼を焼かれた。その事実が私という存在を否定された気がした。同情されたような気がした。呆れられているような気がした。
だからこそ、私はより烈火のような怒りが沸き上がった。
私は天災に踏みつぶされた。彼女からそうされるならばわかる。反論の余地さえない。しかし、私よりも劣るちっぽけな存在からそんな感情を向けられるのは我慢なんて出来ようもなかった。
潰さないといけない。その輝きを塗りつぶさなければ自分自身が耐えられなくなる。その確信だけでちっぽけな存在の心を折ることを決めた。
私はエゴの悪魔と契約した。楽園に堕ちた時から、いや楽園に至る前から姿ではなく、仮初めのまっとうな姿に変えてくれと願った。その代償として、私の吐く言葉に本心が一切混じらないようになった。
仮初めの体になるのだから、その言葉も仮初めでなければならないと、そう言われた。
気づけば私は、深い場所から上がっていた。
あれほど焦がれた場所に思いのほかあっさりと至れた。でも、その契約が間違いだったことにすぐに気づく。
醜悪な環境に慣れ過ぎた。そこも見えないほどの深い場所にかかる途方もない圧力に適応していたのだ。地上に向かうほどに私の体を痛めつけていく。
格の差を見せつけてやろうと、ちっぽけな彼女にレースを挑む。けれど私の脚は使いもにならないのだ。
天災によって私の脚なんてターフの上にいるだけで震える。見えない怪物を幻視して不快感と吐き気が止まらない。偽物、嘘つきなんて聞こえない中傷が幻視する。
急速な圧力の変化で私の体はぐちゃぐちゃだった。
ろくに走れない。
すぐに負けてしまった。
けれど、彼女は、それだけだった。呆れてはいる。だが、見下しもしないし、中傷もしない。
それがどうしようもなく屈辱だった。憐憫や同情されたような気がして自分が惨めになった。
私はそれが嫌で敗北が認められなくて、何度も何度も食ってかかった。勝てるまで走って、負けても負け惜しみをして必死に自分を守りながらどうにか彼女の心を折る方法を模索した。
私たちが卒業するころにはなんとなく、気づいていた。自分と彼女の違いを、輝きの違いを。
そして、私も、たぶん、這い上がることが出来るのだ。仮初めの体ではなく、楽園に至った姿でもそれは出来る。でも、それは、私には出来なかった。
あの苦しみは嫌だった。屈辱は嫌だった。見えないなにかに追われるように、眠っていても心落ち着く時などほとんどない日々に身を窶すほどの覚悟を私は楽園で腐らせてしまっていた。
『タイシン、私はやっぱりトレセン学園に志望するのはやめるよ。違う学校に行く』
『は? なんで』
『世界は広い。ウマ娘にとってレースは大切だけれど、レースだけがウマ娘の全てじゃない』
『……あっそ』
私のその言葉に嘘はなかった。しかし、本心など欠片も語らなかった。耳障りのいい言葉を騙っただけだ。
そして、私は楽園に沈み、彼女は走り続けた。
地上と楽園の違いを知った。
ここは、本当に穏やかな場所だった。愉快な仲間がいる。
ここでは誰も私を踏みつけないし、傷つけない。屈辱もない。だって、彼らの言葉に説得力もないし、踏みつけるほどの覚悟もない。
くだらないもしもを抱えた、私と同じ臆病者の弱虫だから。
私の契約は続いていた。むしろ、契約というよりは呪いと形容するのが適切かもしれない。
真っ当そうなふりをして、時折、地上に上がる。本心も語らずに、上辺だけを楽しむ。ある意味楽園と地上を私は一番楽しんでいた。
だけど、そんな私なんかよりもずっとおぞましい悪魔に出会ってからは一変した。
初めは、小学生、よくて中学生というほどの可愛らしい女の子という印象だった。でも、それは仮初めだった。
そんなのよりも、もっとずっと私の理解の範疇の外にいる存在だった。
子どもじみたエゴの裏に隠した徹底したリアリスト。呪われた私なんかよりも巧妙に本心を隠す術に長けている化け物。そして他人の本心を暴く能力がずば抜けて高く、踏み荒らす躊躇など全くなかった。
私は愚かにもそんな彼女の本性が見抜けず、仲良くお友達ごっこをしてしまい、全てが狂った。
お姉さんはタイシンのトレーナーだった。そして、私はそんな彼女がどうしても許せなかった。
人の心を暴く化け物はあろうことか、レースでの一着がターフの上で一番見晴らしのいい場所などと宣ったんだ。
お姉さんの悪辣さが今だからわかる。タイシンが一着を取るなんてのは理論上可能でしかない。お姉さんが言ったんだ。たぶん、確信があったのかもしれないが、その過程でどれほどの苦痛を味わうのだろうか。
タイシンは、何度心を痛めるんだ。もう走りたくないと何度願うだろうか。一度の敗北がタイシンに与える影響ははかり知れない。それに至るまでに取り組み練習も、それは特訓ではなく拷問というのが適切なほどの過酷さが必要だろう。
そして、その夢が叶った時に喜べるほどの感情がタイシンに残っているんだろうか。私には全てが不安定な妄言に見えた。
幼子がアリの巣に水を流しながら夢を語るような、そんな無邪気さと残酷を感じた。
だから、私はタイシンを潰すことにした。
光を求めて真綿でじっくり首を絞めて苦しむより、一思いに壊された方が苦痛は少ない。
他ならない私が言うんだ。間違いないだろう。
私はタイシンの光に焼かれた。彼女の光は強力だ。けど、それは彼女の心が強いというわけじゃない。
自分の身を焼くほどの渇望に突き動かされているから彼女は輝く。その危うさが増すほどに彼女の光も増す。
眼が焼かれた私でも、偽りの姿であれば直視足りうる。レースの外にある彼女はひどく脆い。
常に何かを求めてる、何かに怯えている。その弱さが増すほどに輝きも増す。だから、日に日にお姉さんと出会ってから、レースまでの三日間でも彼女の輝きはましていたのはそういうことなんだ。
レースに対する恐れをつついてやればいい。それだけで彼女は瓦解するだろう。
実際に、私の囁きで彼女は輝きを失うほどに憔悴していた。その状態で敗北すれば確実に彼女の心はおれる。
そのはずだった。
『タイシーーーーーーン、ぶっとばせえええええええええ』
その言葉でタイシンは輝きを取り戻した。今までの全部を取り戻すかのような走りを見せた。
本当に嫌で、仕方なかった。
どうして、私はその場に走っていないんだ
私はまた、彼女に眼を焼かれた。
どうして、私の側に絶対に信頼できる人がいなかったんだ
タイシンの輝きを取り戻して、彼女の苦しみをいたずらに伸ばそうとするお姉さんが私にはどうしても許せなかった。
そして、どうして私の心がこんなに、苦しいのかずっと分からない。
タイシンの瞳に輝きが戻った。つけ入る隙なんか見当たらなかった。
だから、私は、化け物の本質も見抜けずに、お姉さんの中につけ入ろうなんて考えた。
水族館の中で気づかずに漏れ出ていた私の言葉を繋ぎ合わせてお姉さんは私の本質に触れてきた。安易な虚言から、彼女は私の奥を抉ろうとする。本当に一つも隙なんか与えちゃいけない。思考を放棄しては簡単に貪られて暴かれてしまう。恐ろしい化け物だ。
だから、私も必死になって化け物の中を探ろうとした。そして、彼女の危うさにたどり着けた。
所詮、お姉さんにとってタイシンはタイシンである必要はなかった。他でもよかった。でも彼女はタイシンでなければならないとしきりに語った。
おかしな話だ。
運命や神託なんかがない限り、絶対にその人でなければいけないなんていうことはないんだ。
誰だっていい。
いくつもの思い出を繋ぎ合わせて、関係に対する価値を補強して、その人と繋いだものを強固にすることで、ようやくその人でなければならなくなるんだ。
お姉さんの信頼はハリボテだった。語る夢はちっぽけで薄っぺらいものだった。吹けば飛ぶ。雨で基礎がなくなる。地が揺れれば元の形には戻らなくなる。
それほどまでにもろくて不安定なものなのに、お姉さんはそれが絶対であるかのように騙った。
だから、少し揺さぶるだけで彼女の口は堅く閉ざしていた。
私は吐き気がするほどにお姉さんのことが嫌いだ。
その気持ちは今だって変わらない。いや、ドンドンとその気持ちが膨れ上がっている。
あんなに手を伸ばせばなんでも手に入る力を持ち合わせているのに、全てをいつでも投げ出せるようなエゴの塊の彼女が嫌いだ。
本当に、嫌いで、嫌いで、殺したくなるほど憎いのに、いつの間にか心の中に入ってくる無邪気さが嫌いだ。
あれほど心をかき乱して全てをぶち壊す癖に、結局は、全てが収まるべき場所に収まるように収束させる力が嫌いだ。
いつだって、間違い続けるのに、正しさを振りかざしているのが嫌いだ。
他人なんか簡単に傷つけるのに自分の身は絶対に守ろうとする卑怯さが嫌いだ。
今まで自分が積み上げてきた関係性を無視して、自分が全て悪いんだと自己陶酔に浸ろうとする自己愛が嫌いだ。
そんな癖に他人の悩みを見つけると、そんなのを全部投げ出して誰かのために動こうとする自分勝手さが嫌いだ。
醜くて汚いのにその自分を自覚しているのに、少しでも隙を見つけると善人ぶろうとする浅はかさが嫌いだ。
嫌いで、嫌いで、嫌いで、嫌い。
許せない、許せない、許せない、許せない、許さない。
だから、私はお姉さんを壊さなくちゃいけない。私の優しさだ。
敵である私に壊されるんだ。
彼女は自分の罪なんて感じずに私だけを恨んで生きていける。私は私の心優しさを労わずにはいられないね。
「ここでお姉さんとたい焼きを食べるのも久しぶりだね」
「そう……だね」
タイシンが目覚めてから随分と経ち、12月に入った。木々からは葉がすっかり零れ落ちている。
私たちの座っているベンチは底冷えするような寒さで、口のなかにある暖かいあんこだけが唯一の救いだった。
お姉さんの顔がひどく陰っていた。どことなく、こけた印象もある。瞳に宿っているのは、諦観でしかない。
仄暗い感情の中にお姉さんは身をやつしている。
「タイシンとは、あれから話してないの?」
「それは白毛さんの方が分かるでしょ」
「あいにく、私は自分の事しか考えないから、私の立場が悪くならないんなら他人の事情なんてどうでもいいからさ」
「ほんと、白毛さんって感じ」
お互いに腹を探るような冷めきった上辺だけの会話だ。一つも油断なんかできない。
「私は、タイシンのそばにいるだけで、傷つけてしまう。それが痛いほど分かった。だから、私はもう、タイシンの前に現れるべきじゃないんだ」
「ふーん」
嘘つきの自己弁護を私は黙って聞く。
「あの子は、タイシンは走りたくなかったんだ。それに私は気づけなかった。自分の事でいっぱいだった。あんなに間違いばかりだったのに、やっぱり私はまた、間違えてしまった」
「それはお姉さんだけのせいじゃないよ。それを欠片も言わなかったタイシンも悪い」
「……本当に白毛さんは私を責めないんだね」
「ただの傍観者の私にはお姉さんを責める資格がない。ただ、それだけだよ」
「でも!……本当に、ありがとう」
「傍観者の私から言わせるとさ、お姉さんは自分を責めすぎてるんだよ。あなただけの責任じゃない。あなたが全部、仕組んでいたわけじゃない。誰も望んでいなかった。ただ運が悪かっただけだ」
「…………ごめん」
俯きながら呟くぐらいに小さな声でお姉さんはそう言った。
私は、聞こえないフリをして、たい焼きを頬張る。食べ進めるほどにひどく甘ったるく感じてしまう。
「お姉さんは、タイシンにまた走ってほしいと思う?」
「それは……どうだろう。私にはわかんない」
「いいよ。別に、ここは私とお姉さんしかいないんだ。私もこれをタイシンに絶対に言わない。だって、彼女に言ったところで相手にされないだろうから」
「……そう、だよね」
少しだけ驚いた後にお姉さんの顔がまた陰る。タイシンに相手もされないという言葉をお姉さんなりに解釈したんだろう。
「戻ってきては、欲しいかな。私も彼女の走りは見たいから。……でも、たぶん、トレーナーは私じゃない方がきっと彼女のためだ」
「そう? 私にはもしタイシンがまた走るんならお姉さんしかいないと思うけど」
「どうして、白毛さんはそう思えるの?」
「どうしてって、私はタイシンとお姉さんの敵でしょ? じゃあ、タイシンのトレーナーにはお姉さんしかいないよ」
お姉さんの疑問に答えると、彼女は一瞬呆気にとられたような表情になる。
「フフっ……そうだったね。白毛さんは確かに私たちの敵だった」
「過去形じゃなくて、現在進行形なんですけど」
「もう、拗ねないでよ」
彼女の表情に光が差した。少しだけ彼女に活力が出たようだった。私も少しだけ安心する。
「やっぱり、お姉さんは笑った顔の方が素敵だよ。とっても綺麗だ」
「……そういうのはちょっと」
「まあ、嘘だけどね」
「あ! 今、乙女の純情を弄んだな。おい、そんなひどいこと言うと私は泣いちゃうんだけど」
「え、24にもなって乙女って言い張るんだ。いや、うん、まあ、ごめんね。乙女にひどいこと言っちゃった」
「……正気に戻るの止めてよ」
そう言って、お姉さんは笑ったり、照れたり、怒ったり、傷ついたり、表情をころころと変えていく。
少しの沈黙の中、私は寒くなって、少しだけお姉さんの方に寄る。拒否することはなく、お姉さんも私の方に身を寄せて互いに暖を取る。
「人もウマ娘もさ、一人じゃ生きていけないんだよ。お互いがお互いに身を寄せ合って、少しずつ距離を詰めて生きていく」
そう言いながら私はお姉さんの瞳を覗き込む。
まつ毛とまつ毛が触れ合う距離で、白い息がお互いにあたるくらいには近くなる。
「でも、一つにはなれない。私たちは、融和じゃなくて共存する関係でないといけないと思うんだ」
彼女の頬が紅潮していくのが分かると、私もつられて顔が熱くなっていくのを自覚する。
「お互いがお互いを分かり合うんじゃなくて、お互いの境界線を理解する。そして、その境界線をその時々によって話し合って引き直したり、近づかないようにしたり、一線を守る関係。それが健全な関係だと思うんだ」
少しだけ目を閉じる。視覚以外の感覚が研ぎ澄まされて行き、私とお姉さんの心音がはっきりと聞こえる。ドクドクお互いに鼓動が早まっているのがなんだか気恥ずかしい。
「トレーナーとウマ娘だって同じ関係だ。お互いの考えなんか分からない。少しずつ、一線を知って、そこを守りながら、壁に当たった時には話し合って、その一線を話し合って壁を乗り越えていく。……私には出来なかったことだけどさ」
「そんなこと」
お姉さんが反論しようとした。額を抑えてその続きを封じる。
「私には出来なかった。出来たかもしれない。でも、私は逃げたんだ。……私はね、お姉さんたちに同じ轍なんか踏んでほしくない。私とお姉さんたちは絶対に違うって信じてるからさ」
目を開ける。それだけで、私の鼓動は増していく。彼女の透き通った瞳に映る私の肌は、真っ赤だった。全部が加速度的に熱を増していく。
なんだか、お姉さんの顔を見るのに耐えられなくなって、私は彼女を抱きしめた。
「白毛さん……?」
お姉さんの方に頭を置き、首と首が触れ合う。
「ああ、未練がましいなあ。私は」
お姉さんの抱き心地はすごく柔らかくて暖かった。ずっとこの中に居たいと思うほどの幸せがあった。
お姉さんも黙って私を抱きしめ返してくれる。
「私はね、お姉さんもタイシンも大好きなんだ。好きで、好きで、大好きでたまらない。でも、二人の関係が途切れそうになっている。それが堪らなく嫌なんだ」
「うん」
「二人は、私の光だ。何もできない、何者にもなれない私が見つけた宝物だ」
「そんなんじゃ」
「そうだよ。お姉さんやタイシンには分からない。私が、私だけの宝物なんだ。二人には一生分からない感覚だっていうのは知ってる。だからこそ、私は嫌なんだ」
「……」
「私は、私のために、二人がまた一緒に手を取り合って、走っている姿が見たい。でも、私の言葉では二人の心には一生かかっても届きはしない。それがどうしようもなく、切ないんだ」
お姉さんの抱きしめる力が自然と強くなる。
「ねえ、ごめんね。お姉さん。ダメだって分かってても、もう、無理だって知っていても、どうしても二人がまた歩み続けることを望んでしまう未練がましい私を……許してください」
ダメだ。熱い、体中が熱い。特に、目が熱い。鼻の奥が痛い。喉が痙攣しそうなほど震えている。
嗚咽の音が一つ増えた。
「ごめん、ごめんね。私は、私たちのせいであなたに私たちの全部を背負わせてしまった」
「そんなに言うなら……はじめから、私に希望を見せないでよ。バカ」
彼女の首元から伝って来た雫が私の首に伝う。不思議と嫌な気持ちはしなかった。
もう、終わってしまった関係かもしれない。でも、この幸せはいつまでも続いて欲しかった。
私たちは心地よい停滞に溺れていた
少しだけ時間が経った。先ほどまでのやり取りが気恥ずかしくなって、私たちは少しだけ距離を離した。
でも、やっぱり、外の寒さは続いていて、暖かさが欲しかった。自然と伸びた指先に、何かが当たる。
「あっ」
「あっ」
どうやら、気持ちは一緒だったみたいだ。少しだけ驚いた後に私たちは笑いあい、手を握った。
「ほんと、お姉さんと遊ぶといっつもかき乱されるな」
「それはこっちのセリフなんだけど」
「ほーんと、呆れるくらいお姉さんたちって関係が壊れそうだよね。人生やり直した方がいいんじゃない?」
「それは、ちょっと言葉が強すぎないかな!? いやね、私だって、なんとかしようと思うんだけどさ、口が勝手にしゃべってしまったりとか、無自覚にやってしまうことが多くてさ」
「自分自身も制御できていないのは本当にどうかしてると思うよ、私は」
「ぐっ……本当に反省してます」
「うんうん、よくできました」
「私は24なんですけど!? その子ども扱いはやめて欲しいというかさ!」
「いやー、ごめんごめん。心にもないこと言っちゃった」
「それはそれでひどいと私は言いたいんですけど」
「それでさ」
「?」
「タイシンと向き合う覚悟は、出来た?」
「……」
「まあ、無理になんて言わないよ。ただの私のエゴだからさ」
「わかんない」
「そっか」
「でも、白毛さん。あなたのおかげで私は、自覚できた。今度はちゃんと向き合える。そんな気がするんだ」
「やっぱり、お姉さんはお姉さんだ」
彼女は握る力を強めながら私の目を見てそう言った。
その笑顔は、私には強い輝きのように見えた。私は、本当に嬉しかった。彼女の本心にようやく触れられた気がした。
「そんなの君に出来るわけないだろ」
こんな薄っぺらい茶番をし続けるなんて、本当に我慢の限界だった。
化け物がようやく堅く閉ざしてずっと遠いところに隠していた心臓を見つけたんだ。私の心は歓喜にうち震えていた。
ようやく、ぐちゃぐちゃに出来る。
「白毛……さん?」
「ねえ、君にそんなの出来るわけないじゃないか。そんな偽りだらけの言葉でどうタイシンと向き合おうって言うのかな」
「え?」
突然のことで、お姉さんは理解してきれていないような呆けた表情をしていた。
今だ。今のうちに彼女の全てを崩さないと、逆に本心を暴かれて瓦解するのはこちらだからだ。
「偽りだらけだ。君の言葉には真実がない」
「何を、言って」
「タイシンの気持ちに気づいていなかった? 違うでしょ。気づいた上で放置していたんだよ。君は」
「!?」
タイシンは走りたくなかった。その気持ちにお姉さんは気づいていた。でも、あえて無視していた。その理由なんてちんけなものだ。
「でも、彼女の勝ちたいっていう気持ちも本物だったからだ。君は、両方の気持ちに気づいていて、そして、君はタイシンが勝ちたいという気持ちが本当の本当だと思った。いや、思い込みたかった」
「そん、な」
お姉さんは、他人の心を敏感に感じ取る。でも、それは感じ取るだけだ。それを選択するのはお姉さん自身でしかない。
お姉さんが信じたいものが本心だと思えば、選ばれなかった方は切り捨てられ、お姉さんの中で考慮にすら入れられなくなる。
これが今までのお姉さんとタイシンの失敗に至った正体だ。
普通、二つの選択肢が出たならば、どちらの選択をしてもリカバリー策を考慮するのが一般的だと言える。だけど、彼女はそれをしなかった。
そんな理由は簡単だ。
「それは、そうだ。考えてみれば簡単なことだ。だって、走りたくないという気持ちがタイシンの中にあったならば、君のビジョンに大きなほころびが生まれてしまうから」
「っっ!」
彼女たちは時に間違いながら突き進んでいた。でも一歩引いてみれば前提から間違えていたんだ。
それじゃあ、いつ失敗したっておかしくはない。
「私は以前にお姉さんに言ったはずだよ。自分の欲望を満たす手段として、タイシンを利用していると。そしてこうも言った。タイシンがみたいのか、タイシンの末脚がみたいのか」
そして、彼女は答えを出すことはなかった。新年、私の頭を膝に乗せながら語った彼女の言葉からも、タイシンのことを知らなさすぎると答えを出すことはなく、曖昧にしていた。
たぶん、お姉さんはきっと自分の中で答えを出すことができていない。それは今に至るまで。
「ねえ、答えてよ。嘘つきのお姉さん」
「それ、は……」
「これは、二人の問題だ。けれど、何か一つを解決すれば全部が良くなるなんてものじゃない。もっと複雑に全てが絡み合っている。込み入った話だ。君のこの答えだって、聞いたところで何かが良くなるわけじゃない」
そうだ。これを紐解いても次はタイシンの問題がやってくる。けど、タイシンの問題を放置すればまた、お姉さんに新たな課題がやってくる。終わることのない堂々巡りだ。
本当に吐き気がする。
ただ、たった一つのアクションで全てが解決するって言うのに、こいつらは全くそれをやってこなかった。
「でも、君はさっき言ったよね。私に全てを背負わせてしまったと。私がこんな状態にするためにどれだけの犠牲を払ったか君に想像がつくかい? その報酬として受け取ってもばちなんか当たらないと思うんだけど」
「それは……」
「ねえ、早く」
私は、下から持ち上げるようにお姉さんの顎を掴む。
彼女の罪悪感につけこみながら、圧迫させる。思考させる冷静さを欠かせて本心の欠片を吐き出させる。
こうでもしないとこの化け物の本心なんて欠片も捉えられやしないから。
「タイシンが見たかった、なんて言うなら彼女の走りたくないという気持ちに寄り添うはずだ。その原因を探って解決する手段と能力が君は持ち合わせている。でも君はそれをしなかったんだろう」
「……」
誘導をしたところで、彼女の口は動かない。
本当に舌打ちしたくなる。
この沈黙は返す言葉がない沈黙じゃない。返す刀を探している沈黙だ。お姉さんは冷静さを取り戻しつつある。
掴んだはずなのに、すり抜けていくような掴めなささえ感じる。
「私は……たぶん、タイシンを追い込んでいた」
「チッ……」
「この気持の本当の恐ろしさなんてかけらも理解していなかった。私は、自分の気持ちに蓋をしていたんだ」
逃げられた。
あくまで、お姉さんは自分の気持ちを知らなかった。そう訴える。
自分の意志を自覚して、自分の意志で追い込んだとは認めようとはしない。
「やっぱり、こんな卑怯な私じゃあ、タイシンに合わせる顔がないよ」
ああ、やっぱり、私は失敗した。
彼女はまた、自分を守った。傷つくことを恐れて、自分の本心を自覚するのを恐れて、自分が全て悪いと、自己陶酔に浸りだしている。
その眼には仄暗い感情が濁っている。
ああ、本当に口惜しい。
これじゃあ、このまま行けばお姉さんだって、楽園に至ってしまうじゃないか!
?……どうして、私はそんなことを思ったんだ。
そうだ。別にこれは悪いことじゃないんだ。だって、私はお姉さんをぐちゃぐちゃにしたかったんだ。
彼女が楽園に来るというなら私は喜んで迎え入れることが出来るはずだ。
どうして?
……どうして、私は問題を解決させようなんていう思考をしようとしたんだ?
吐き気がしてきた。この疑問に答えを出すとすると自覚してはいけない、と脳が警鐘を鳴らしてくる。
考えたくもない。
……そうだ。お姉さんをぐちゃぐちゃにすることだけを考えないといけないんだ。
そう。そうだ。ここで、彼女にタイシンを傷つけたという罪悪感を強くつつきさえさすれば、彼女なんて自己嫌悪ですぐに沈む。
ただ、それだけでいいんだ。
「君はいつまでそうやって逃げ続けるんだ!……タイシンは君の本心を知ったところで、君を拒絶したりなんかしない! 君を化け物なんて罵ったりしない! それはお姉さん自身がよくわかってることじゃないか!」
やめろ。やめろよ。なんで、私の口はこんなに勝手に動いているんだ。
「君は、ナリタタイシンを道具として扱っていた! そうだろう!」
「わからない……わかんないよ!!!」
「タイシンに合わせる顔がないのは自分の罪の重さに怖くて震えているからだ!!! 君が菊花賞で他のトレーナーに声をかけられるまでつっ立っていたのは、自分の想定にない展開で理解したくなかったからだ。そして、君は声をかけられるその直前までタイシンと死を結びつけることが出来ていなかった。本当に他人事のようにボーっとつっ立っていたからだろう! だからこそ、タイシンに対する見殺しにしたという深い罪悪感が少しも薄れることがない!」
「知らないって!!!!!」
彼女は、信じられないほどの力で私の拘束を解き、全ての音を遮るように耳を塞ぐ。
その様子を私も他人事のようにぼーっととらえていた。
想定とは違った彼女の追い詰め方だ。でも、このまま突き落とせば彼女は一生立ち直れない。それに安堵していた。
「目を逸らすな! 耳を塞ぐな! 真実を語れよ!……そうやって、知らないなんて言って逃げ続けた先にあるのは、全てが腐った醜悪な楽園だ! 全部が唾棄すべきおぞましい場所だ。生きることも死ぬことも許されない煉獄なんだよ!!!」
やめろ。やめろ。やめろ。
私は彼女をその素晴らしい心地よい楽園に導くだけでいいじゃないか。どうして、そんなに彼女を遠ざけようとするんだ。
どうして、私の両手は彼女の手を耳から剥がすんだ。
全部を拒絶する、全部を諦める、全部を知らないフリをする。楽園に至る近道じゃないか。どうして、私の体は言うことを聞いてくれないんだ。
「なんで……私にそんなひどいことをするの……?」
「知らないよ! 私だってなんでこんなことを口走っているのか全くわかんないんだよ!!!」
なんでだ。本当になんでだ。私はただ、ぐちゃぐちゃにしたいだけなのに。
彼女の心身は限界に近いことは明白だ。先ほどまでの抵抗も諦めて、ただ縋るように私に質問してくる。
やっぱり、私の口は勝手に喋る。
「私は君たちの敵だ。敵なんだ。君たちにもしもを抱えさせて、どこまでも深い楽園に連れていきたいとそう思っているはずだ。だって言うのに、私のこの口は君たちの関係を修復しようとしている!!!」
「……え?」
「君は本心を自覚しないといけないんだよ! まずは前提を変えなきゃいけない! 彼女と一緒にターフの上の一番見晴らしのいい場所を見るんだろう!!! 君が傷ついたからなんなんだよ! 自分の中の冷たい自分がいるからなんだよ! 誰にだって色んな側面があるはずなのに、君はあくまで、一側面しかないとのたまう! そうじゃないだろ! 君は、自分をさらけ出して、今までのハリボテを自分で崩さないといけないんだよ! そして、タイシンと偽りない本心で話し合って本当の意味であるべきトレーナーとウマ娘の関係を一から立て直さないと言けないんだ!!! 君にはそれをする手段がある! 能力がある! 相談できる相手がある! 全てを持ってるんだ。どうして君が逃げてるんだよ!!!」
やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。
これじゃあ、彼女に本心を見透かされる。今まで隠していた心の内が全部暴かれる。私という存在をめちゃくちゃにされる。
私がここまでする必要なんかこれっぽちもないじゃないか。
どうして、私はこんなことをしているんだ。
「わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない」
思わず、頭を抱えてしまう。
ああ、なんだよ。この感情はなんだ。なんと形容すればいい。私は確かにお姉さんもタイシンも大嫌いだ。それは間違いなく事実だ。
「どうして、何も持っていなかった私が君の手助けなんかしなくちゃいけないんだよ! 君はなんでも持ち合わせている。私には何もなかった。手段も、能力も、頼れる誰かも。だから逃げたんだ! 目を背けた。それだって言うのに、どうして君は自分のエゴで全てを投げ出せるんだよ!!!! 私は、私にはそれしかなかったんだよ! 引き留める誰かなんていなかった! 君にはあるじゃないか!!! なんで、私が! 逃げ出した私が君を引き留めているんだよ!!!」
もう、ぐちゃぐちゃだ。彼女に乱される前に私は既にぐちゃぐちゃになっていた。
ああ、相反する心が私の中でドンドンと渦巻いて、溢れそうになる。
「持たないものが持つものに施こさなけれならない、この屈辱はなんだ!? 自分よりも豊富なものを持ってる奴に自分のわずかばかりの私財を投げ打つ、この惨めさはなんだ!? どんな言葉を束ねたところで、持つ者の心には絶対に届かないこの悔しさはなんだ!? 誰かのために使い潰されるだけで、絶対に物語の主役にはなれないと吐き捨てられているかのような、この切なさはなんだ!? 私はぐちゃぐちゃにされた。お前たちに全部をかき乱された! 壊されたんだよ!!! どうして私はここまで苦しいんだよ! どうしてお前たちがおままごとじみたやり取りで関係が破綻しようになっているのを見て、こんなに自分が否定されたような気持にならなくちゃいけないんだよ!!! どうして私の隣にいるタイシンはあんなに切なそうな顔をしているんだ! どうして、こんなに優しくしているのに、お姉さんは私と話している間にタイシンの影を追っているんだよ!!! 私は、誰かの代わりでしかないってことなのかよ! どうして、私は、私自身であることを許されないのか!? どうして、私を誰も見てはくれないんだ! 私は、私なんだよ!!! 誰かの影でもない。代わりでもない。他でも誰でもないはずなのに! どうして、私の言葉は誰にも届かない!? 私の本心なんか誰も見つけてはくれない!!!」
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして
「どうして、私は、こんなに無意味なんだ」
ああ、ぐちゃぐちゃだ。全部がぐちゃぐちゃだ。欠片も見せたくなかったものが出てくる。
「タイシンの、一番になりたかった。もっと早くにお姉さんにあって、見初められたかった。私は価値のある人間なんだと、誰かに肯定してほしかった」
契約が破棄されたようで、私の偽りが少しずつ剥がれていくんだ。
「君たちのことが大嫌いなはずなのに、それ以上に君たちの姿を目で追っていて、君たちが笑うたびに私も嬉しくって、君たちが傷つくたびに私も心が痛くなって、もう、もうダメなんだ。私の中には君たちがいないとダメなんだ」
いいよ。
私はこのまま泡のように消えていくんだ。
「でも、こんな言葉でさえ、君たちにはかけらも届きはしないんだ。ああ、切ないなあ」
ああ、遠い。世界の音が遠く聞こえる。ドンドンと全部が真っ暗になっていく。
私の見せたくもない本性が垣間見えてしまう。
「大好きだ。大好き。大嫌いなのにね。大嫌いって気持ちが増していくと、その倍の気持ちで好きが溢れてくるんだ。でもさ、でも、私の言葉には決して本心なんてない。ただの飾った言葉なんだ。だから、この言葉が私の本心なのかも私には分からないんだ。私は本当は君たちのことが好き。ではなくて、嫌い。というわけでもなくて、どうでもいい。どれなのかも私には分からない。だから君たちに向けていた、この敵意だって、たぶん、偽りだ」
この言葉も分からない。私という存在がなんなのか。
私はもう、敵ですらないんだ。好きでも嫌いでもない。ただ、そこら辺にある一個体でしかない。
敵であることさえ放棄してしまった。もう、私と二人を結ぶ関係なんてない。
「これはもらっていくよ」
お姉さんの側に置いてあった、口をつけていないたい焼きを拾い上げる。
「返してくれてありがとう。冷えてても美味しいね」
私の言葉を聞きながら彼女はひたすら静かに泣いていた。
口にしたたい焼きからあんこの味はしなかった。ただ、ひたすらに突き刺すぐらいに冷たかった。
これで、私とお姉さんを結ぶものはなくなった。
私が壊した。
もう、ぐちゃぐちゃだ。やっぱり、私には無理だ。誰かを救うヒーローにもなれないし、誰かが迎えに来てくれるヒロインでもない。
何も成せない、ただのそこら辺のモブでしかない。
やはり、泣きたくなるぐらいに楽園の住人なんだ。
「じゃあね、お姉さん。大好きだったよ」
別れは、短い方がいい。
徹底的に関係はぶち壊した方がいい。そっちの方が後腐れがないから。
「おまえっは……わたしのてきだっ……」
背中が熱い。
「だいっきらいだ。きらいきらいきらい。おまえは、わたしも、たいしんも、ぐちゃぐちゃにするんっだ!!」
もう、ぐちゃぐちゃだ。せっかくお気に入りの服を着たって言うのに、背中が濡れてしまった。
「だから、ぜったいにゆるざない! おまえが、おわかれなんていってもわだじが、おまえっをゆるさない!!!」
寒い、もう、全部が凍えてしまう。さっきのたい焼き、冷たかったし。
だから、この全身を刺すような痛みは、たぶん、きっと冬のせいだ。
「たいしんといっしょにおまえをやっつけるからっ! ぜったいに、にげるなっ! わたしは……もうっにげないっ!!!」
約束なんか出来ない。だって、私は逃げたんだ。逃げて、絶対に浮き上がれないほどのもしもを抱えて沈んだ。
そして、もう、仮初めの姿も失ってしまった。
いや、まあ、あとほんのちょびっとなら残ってるか。
「そ、精々期待しないで待っとくよ」
待つ、なんて偽りだ。私はどうしたって、楽園の住人なんだから。
もう、残りなんて、ない。
私がまだ辛うじて、敵であるうちに、約束通りタイシンをぐちゃぐちゃにしないといけない。
「ただいま、ぐちゃぐちゃにしてきたよ」
通い続けて、もはや馴染みさえある病室に入る。
タイシンはこちらを見るなり驚いた顔をしている。
「!?……そう、私には関係ないけど」
「お姉さん。泣いてた。まあ、あんだけ言ったんだ。もう、無理だろうね」
「チッ……」
「気になるんだ。もう、走りたくない癖に」
「別に、そんなこと言ってないけど」
「そう」
沈黙が襲う。ただ、幾分か気は楽だ。
あんな化け物に比べたら、こんなの雑魚に等しい。
「お姉さんはやっぱり、嘘つきだったよ」
彼女は何も答えない。ただ、耳だけがピクリと動く。
これだけわかりやすければ、私もこんなに疲弊しないで済んだんだ。
「タイシンが死んでも生きてても構わなかったんだって。ただ生きてた時は、その時で次の勝てる作戦を考えるし、死んだら死んだときでそこまでだってって言うだけ、だって」
「ふーん、あっそ」
彼女は何も反応しない。本当に何にもだ。普通なら驚きで、手や体が動くはずだ。
相当に力を込めてなきゃ、ここまで微動だにしない、なんてありえない。
「あーそれとこんなことも言ってたよ」
「なに」
声が冷たいな。のわりに、怒りが滲んでいない。
「タイシンが未来を見たなんて言うのは嘘。直近の出来事はホンモノかもしれないけれど、未来を見てると言うには予定のスケジュールの立て方が脆すぎるだって」
「噓つかないでよ」
敵意をむき出しにした瞳でこちらを見ている。
やはり、あっていたらしい。
「ああ、嘘だよ」
「……フン」
「でも、君が走りたくない。死んでもいいと思っていたっていうのは見抜いてたよ」
「!?……なんのこと」
本当に、彼女は単純だ。
「君は、未来で起こるレースの敗北を認めていた。お姉さんはそう言っていた。そして、勝つために死ぬ気で練習していたのに安堵の感情があったって。感情なんてものをとらえるなんて規格外だけど、あながち間違いじゃないって私にもわかった」
「……」
そうだ。この沈黙だ。全てを見透かされて、言葉が出ない沈黙というのはこうだ。
だからこそ、より追い立てられる。
「君、わざと嘘ついて、お姉さんに死んでもいいっていう気持ちを示唆させた。そのうえで、URAファイナルズってやつの勝つビジョンを語った。そうでしょ」
「それが、どうしたの」
「タイシン、気づいてたでしょ。お姉さんがタイシンに抱いている感情を。自分の本心から必死に目を背けようとする弱さにつけこんで、君は巧妙な自殺を企てた」
「うっさい!」
「君は、前からそうだ」
タイシンは危うさが増せば増すほどに、輝きを増していく。そして、その輝きは試合を追うごとに増していっていた。
おかしな話だ。
「『手足が細い』『体が小さすぎる』『お前じゃ勝てない』、そんな言葉を背負いながら走る? ねえ、メイクデビューを終えた君は走れば走るほどに、その実力を示していった。そんな雑音、もう聞こえないはずだ。どうして、君はいつまで経っても、あんなに輝いているのに、あんなに速いのに、なにかが詰まったように、苦しんでいる」
「……知らない」
「ねえ、本当に君の息を止めているのは、その雑音なのかな。私の囁きなのかな」
「何がいいたいんだよ!」
彼女の咆哮に私は、思わず、笑いをこらえることが出来なかった。
「何がおかしいの」
「いや、別に」
やっぱり、見れば見るほどおかしいんだ。
「君、自分で自分の首を絞めて息苦しくなってるんだよ? ずっと前から気づいてるのに、知らないふりして目を背けて、ずっと苦しいのを他人のせいに出来る面の厚さに面白くなっちゃった」
「!?……」
「そんな気持ちも言わずに嘘ついてさ、自殺しようとしたんだ。君は本当に浅ましいウマ娘だ」
「助けてほしいなんて言葉も、走りたくないなんていう本心も言わずに、君はずーっと走り続けていた。それで今さらもうやめます? 出来るわけないだろ。」
「……アンタに言われたくない」
「君はずっと前からそうだ。周囲の雑音もあった。私の言葉にも苦しんでいた。でも、一番に苦しんでいたのは自分を好きになれない自分自身への嫌悪じゃないか!!!」
「っっ!」
「そんな自分に嫌気がさして自殺したけど、失敗した。それは君自身のせいだよ。君は自分が嫌いすぎた。そして他人に呪いをかけ続けた。『逃げるな』『走り続けろ』『絶対に許さない』、それは自分自身を鼓舞する言葉で他人を縛り付ける呪いだ。自分をどうしたって肯定できない弱虫がどうにかするために作った虚像だ」
そうだ。そんな虚像。私にだってすぐに見抜ける。
「君のその気概は、誰にも屈しない鋼鉄の意志は、はじめはハリボテだった。見掛け倒しの吹けば飛ぶような脆いものだった。勝ち続けていき、気づけばそれは、本物になっていたんだ」
それが、私と彼女の決定的な違いだ。本当にどうしようもないぐらいの絶望的な差だ。
「だれも君を逃がすわけがない。君が逃げようとしたって、君が呪った誰かが君を連れ戻すんだ。君の脆くなった土台を誰かが鍛えなおす。もう、君は逃れることの出来ない循環に囚われているんだよ」
「そんなの……アタシには関係ないっ!」
タイシンの目には涙が堪っていた。彼女は私が手を下すまでもなく、もうぐちゃぐちゃになっていたみたいだ。
「アタシは、アタシのこの気持ちは!……アンタみたいなのとは全然違う」
耳も尻尾も、全てが力なく伏している。
「怖い、本当に走るのは怖いんだ。誰かがアタシを見ている。そして、少しでもなにか失敗すればアタシは全てがひっくり返されたように罵られるんじゃないだろうかって、そんな気持ちだ。……アンタにわかるって言うの!?」
「分かるよ」
「え?」
本当にタイシンは吐き気がするほどにイライラさせられる。
「私は、ナリタブライアンに踏みつぶされた後、全員が私を弱者だと嘲笑い罵っていると本気で思っていた。何かをすれば笑われて、次に何かをするとみんな心の中でドッと笑い、私を軽蔑していると本気で思っていた!」
本当の敗者というものを彼女は全く理解できていないんだ。
「起こってもいない事実を幻視し、ありもしない中傷の幻聴が聞いて、する必要もない、言い訳を並べて、見えないなにかから、必死に自分を守っていた!」
本当に、苦痛の日々だった。
「だから、君のそんな気持ちは、君なんかよりもずっと知っている。その恐ろしさも、震えて眠れない不安も、いつ傷つけられるかわからない、神経をすり減らされる苦しみと絶望。全部、全部、全部!君が感じる前から私は心に抱えていた!」
遅すぎるんだよ、君たちは。
言うのも、気づくのも、こっちを見るのも何もかも、全部。
「そん、な」
「だからこそ、わかるさ! 全てが醜悪な楽園に身を窶している私だからこそ出した結論がある!」
やめろ。
「本当は誰も何も考えていないんだよ! 君のことなんか本当に気にもかけちゃいない。笑ってなんかないし、弱いとさえ思ってない。たまたまだなとかそこらへんでしかないんだよ! 君は見えない敵に怯えている。でもそんな脅威なんてありもしないんだ! それがあるとするならば見えない敵を作り出している自分自身でしかない!」
やめろ。やめろ。やめろ。
「君は敗北も挫折も欠片も理解していない! 敗北なんて、ただの事実でしかない! そこに何かが付随するなんて言うのは自分の思い込みでしかないんだよ! 挫折なんて言うのは、立ち上がるための手段だ。そこから更に跳躍するための方法の一つだ! それは私が君たちを見て学んだ事柄なんだ!」
本心を晒すな。早く、誰か私の口を閉ざしてくれ。
「君は、自分の信念なんていうちっぽけで薄っぺらいものを、どうにか大きく厚いものなのだと自分に言い聞かせて、自分が大義を持った強者であるかのように振舞い努力してきたのかもしれない! その姿が偽りで、虚像で、空虚だとしても、その結果だけは本物だ! まぎれもない事実だ! 他ならない君が証明している!」
だから、どうしてだ。もう、私には資格がないって、私自身が理解できているだろう。
「君は弱くて強いんだ。君の薄っぺらいと語るそれは、掲げ続けることで本物になった! 誰かを惹きつけるほどの魅力があるんだよ。少なくとも私がそうだ! 私が君に焼かれた。君が希望になった! 誰かの支えになるほどの魅力を惹きつけるんだ! それは紛れもない強さだ。速さや人気なんかじゃない! 誰かの人生を根底から支えるほどの支柱になりうるものを強いというんだ。君が遅くても、小さくても、弱くても、誰かは君を見て、立ち上がって奮い立たせる力を得てるんだよ!!!!」
敵でもない、味方でもない。
何をしても無意味だし、無価値な私が何を言ったところで、彼女たちには届かないんだよ。
その事実に気づいて、絶望するのは私だ。だというのに私はどうしてこんなに、何かにつき動かされているように、口が勝手に動くんだ。
「逃げるな! お前は私から逃げるな! お前はお前だ! 私は私だ! 決してお前の影なんかじゃない! お前の裏でしか動けないわけじゃない! 私は私の意志で動いている! この感情も、この気持ちも、お前と一緒のものも似たものも、ひとかけらもない! お前なんかに渡してやるもんか! だから、私は私の意志でお前に言ってやる! お前は絶対に逃げられないんだよ! 私はお前を逃がさないし、お前が呪ってきたヤツは全員、お前を逃がしはしないんだよ! 私は絶対に追いつく! お前の背を追いかけるんじゃなくて、お前を絶対に追い越す! だから、絶対に逃げるな! 私がお前を追い越してから、お前は惨めに私を追いかけるんだ!!!!」
私は、私だ。
私は私のことが愛おしくてたまらない。
だから、愛おしくてたまらない私が好きになったんだ。光栄だろ。
「だから……君は自分を嫌いなんて、言うなよ。君が君自身を嫌いだと、価値のないものだと言うなら、価値のないものが大好きな私が惨めになるじゃないか。君を信じる、この感情がひどく浅ましいものなんて、私は嘘でも思いたくないよ……」
ああ、もう、バカだなあ、私。
「……ごめん、帰って」
「………………そっか。……分かった」
結局、空っぽな私の言葉なんて、誰にも聞こえないし、届きはしないんだよ。
結局は、私の片思いだ。
どうしたって、この気持ちは重苦しい、厄介なだけのもの。
たった、それだけだ。
ひどく苦しい。全身が痛い。引き裂かれそうなほどの苦痛だ。
息もまともに出来ない。
たぶん、代償だ。浅ましくも何か成せると思った、愚者への罰だ。
私の言葉は誰にだって、届いてはいない。
何度も自分に言い聞かせてそれでも勝手に動く私の口が災いした。
タイシンともお別れだ。
「たくさん、たくさん、傷つけて、どうしようもないほど苦しめて、ごめんね。これが最後だから……夢を見させてくれて、夢をかなえてくれてありがとう。……大好きでした」
返答はない。
彼女の心はどうしようもなく私からも離れてしまったみたいだ。
ああ、苦しいなあ。
病室の外は、泣きたくなるくらいに寒いような気がした。
『うああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
壁を隔てていてもその声は聞こえた。
でも、その真意は分からない。
だから、たぶん、このつんざくような痛みは、冬のせいだ。
一日で全てを失った。
光も見えないし、希望もない。
逆に、考えれば、これで私は心置きなく楽園に浸れるんだ。何も考えなくていいんだ。
ああ、それはたぶん、きっと、心地いいんだろうな。
「苦しい……なあ……」
たぶん、この言葉は偽りだ。私の本心なんかじゃ決してない。
「嫌いだった。大嫌いだった」
本心だ。
「でも……それ以上に大好きだった。もっと見ていたかった」
偽りだ、この感情はどうしようもないぐらいの嘘だ。
「浅ましい私の勝手だったんだ。……でも、これでようやく、楽になれるんだ」
本心かは分からない。でも心が軽いから、きっと本心だ。
深い、深い、深い、どこまで潜っても底が見えない深淵だ。
そんな深い場所まで私はもしもを抱えて再び、沈んだ。
深い場所は、暗くて、何にも見えなくて、聞こえない。考える必要もない。
穏やかな場所。
死んでいるのか生きているのか分からないほどの変化のない日々はひどく私を癒す。
感情の起伏などすべて消え去った心地だ。ただ、深くにだって、音は伝わるし、波は立つ。それらに合わせて私はよどみなく周囲に適応していく。
心地よい停滞だ。
ここは生きることや死ぬことから最も遠い、全てを投げ出したものだけが至れる楽園。
「君はもう無理だ」
!?
「君はやり過ぎた。その輝きを周囲に放ち過ぎた」
沈んでいくはずの私の体が引き上げられる。
「君自身が語ったんだ。循環に囚われた、と。……その中に、どうして君が入っていないと思い込んでいる?」
何を、言っているんだ。
「君の走りは確かにハリボテだった。基礎も何もなっちゃいない、お粗末なものだった」
そうだ。私は所詮、敗者だ。
「けれど、君はターフの上ではなく、他人の心の隙間を渡り歩き、奔走していた。その手腕たるや、辣腕と言わざるを得ない」
だから、なんなんだ。それは。
「喜びたまえ、白毛の君。君はトレセン学園に見初められた。君はその辣腕を振るいに値すると認められた」
「だから!!!」
引き揚げられた先、ようやく、その声の主の顔をしっかりと認識した。
「君をトレーナーとして迎え入れよう。ウマ娘として、走ることもままならず諦めた君の真価はトレーナーとしてのものだった」
「あなたは……」
「トレセン学園の生徒会会長の特権だ。君はこれから、トレーナー見習いとして学園に来るんだ。なに、転校の手続きなど今日には終わらせておこう。そうでなければ、誰がデウスエクスマキナを名乗れようか」
それは、悪魔との契約だった。
「拒否権は?」
「あるわけがない」
本当の横暴だった。
「だが、メリットは提示できる。……君に任せるウマ娘はかなりの暴れん坊だ」
その悪魔はひどく、やる気にさせるのが上手かった。
「だが、実力は折り紙付きだ。君の手腕を考えるならば、大きな失敗さえしなければ必ず、URAファイナルズの決勝まで勝ち進める実力を有している。君は盤外ではなく、ターフの上で彼女たちと相まみえることが出来るだろう」
だが、契約内容はしっかり確認しなければ、簡単に食い物にされる。
「そのウマ娘ってのは誰なの?……それに、お姉さんとタイシンがレースに戻るなんて確証はあるの?」
「ない」
「じゃあ」
「君が介入するまではなかった。むしろ、驚くほど低いと言って差し支えなかった。だが、私が君を見初めたのだ。後は、語るまでもない」
本当に、高圧的で嫌になる。
ああ、こういう存在が一番嫌いだよ。私は。
「そう、君が担当するウマ娘の名だが」
少しずつ、間を取りながら聞き手の注意を引き付ける。これがカリスマってやつなんだろう。
私には全く持ち合わせることの出来ない、無関係なものだ。だからこそ、より腹立たしい。
「ナリタブライアン。君の人生を狂わせたウマ娘だ。君ならきっと御せるだろう?」
本当に、こういう輩は不敵に笑って、無茶を押し付けてくるのだ。
その声が、君なら出来るという自信を湧きあがらせる。誰もが盲信したくなるような心地よい声音だ。
ああ、本当に腹立たしい。
やはり、悪魔だ。
退路を断って、私に手を取らせるようにしかしてこない。だというのに、この契約に乗り気になっている私がいる。クソったれだ。
掌で踊らされている。腹立たしい。だから私は、反逆しよう。
この悪魔の想定さえ超える混沌にしよう。全てをぐちゃぐちゃにするんだ。
「やはり、君は素晴らしい。想定を超えてくれかき乱してくれ。全てを塗り替えてくれ。色だけに、な」
「チッ……」
本当に、喰えないウマ娘だ。唾棄すべき悪魔だ。
私は、そう思わずにはいられなかった。