午後からは久しぶりのレースだった。曇天の下に広がる阪神レース場のターフは稍重いらしい。見てきた世界とは違うみたいだ。まあ、いいかな。
慣らしがてらにジョギングしていたアタシはURAの速報を聞きながら頭を整理していた。
梅雨の季節に入ったというのに、盆地である京都では空気が少しだけ冷たかった。アタシが息を吸い込むと、冷気が肺に刺さって痛い。だけど、それは肺が空気を取り込めるっていうことに違いなかった。
――アタシの体はまだやれる。まだ脚は残っている。
大地を踏みしめるごとに、自分の選手としての寿命が削れていくのを確かに感じる。けど、アタシにはどうだっていい。まだ走れるという事実だけが全てだ。
「ぐ……っっ!」
呆れてしまうくらいにアタシの体は、弱っていた。こんな軽めのジョギングでさえ心臓と肺にかかる負荷は大きい。苛立ちを抑えるように、胸元のシャツを強く握り締める。
一度立ち止まり、肩幅まで足を開いて大きく息を吸う。
辺りを見回すとウォータークーラーが見えた。ゆっくりと歩きながら近づいていき、水分補給をする。
「酷い顔だ」
水面に映る自分の顔を見ながらアタシは自嘲気味に笑う。栗色の髪には艶がない。耳も垂れ下がっている。目の下の隈はひどい。どこか痩せこけているようにも見える。
けれど。
「死ぬにはいい日だ。だから」
目の奥に宿るぎらついた野心は自分のものなのに恐ろしかった。
三日月に歪ませた口元は、死にに行くものが浮かべるソレではなかった。
「最高の日にしよう」
本当に弱っている。今までとは比べ物にならない。たぶん、痛々しいとさえ言える。
でもアタシはそんなアタシが結構好きだと思った。
虚勢を張って生きているんじゃなくて、本心からあふれ出たアタシの気持ち。混じりけのないものを吐き出せている自分がアタシは結構好きだ。
「そろそろ帰んないと、アイツが何言うか分かんないか」
アタシはアタシのトレーナーとの戻ったような、断絶したような、深まったような複雑な距離感を測りかねていた。
「うるさくないといいけど」
曇天だ。稍重い。空気は肺を刺すほどに冷たい。
でも、アタシの足取りは軽かった。
「うぅ……」
アタシは自分の控室に帰る道すがら、透き通るような黒が目に入った。
本当に、混じりけのない黒だった。
アタシの中からぽっかりと抜け出ていった、塗り潰されて上書きも出来ないようなへばりつくような白とは、全くの正反対だった。
だからなのかもしれない。
「ねえ、あのウマ娘、人のレコード邪魔するためにレース出てるらしいよ」
「え、相手の足引っ張ることしか出来ないなんて、本当に陰湿じゃん」
こんなに腹が立ってしょうがないのは。
「ねえ、アンタ」
アタシは思わず、その黒の前に立っていた。
「ひゃ、ひゃい!……ら、ライスに何か?」
「見ててイライラするんだけど」
「え、えっと」
知らないウマ娘に話しかけられていちゃもん付けられたら誰だってそうなるのは明白だ。でも、アタシにはそんなの関係なかった。
「なんで走ってんの」
「え……」
「周りに陰口叩かれて自分は不幸だって思いたいから走ってるわけ?」
「そんな、そんなわけ!」
「なら、胸を張れ。何をしたって、アンタをコケにしたい奴はごまんといる」
「そ、それは……」
コイツはアタシだ。どうやっても、自分を好きになれないヤツだ。
その癖、自分の周りの事ばかり考えている。
自分が傷ついても構わないのに、周りが傷つくのが嫌なヤツだ。それが一番周りを傷つけることも知らない無知の塊だ。
そのあり方を見ているだけでアタシは怒りが沸々と湧き上がってくる。
「アンタ、名前は?」
「え、えっとライスシャワーです」
「いい名前じゃん」
「あ、ありがとうございます」
たしかに聞いたことがあるような名前な気がする。でも、どこで聞いたのかもう覚えていない。
目の前の黒いウマ娘のヘラヘラした顔が気に入らないから。
「アタシは今のアンタみたいな態度で祝福されても全然嬉しくないけど」
「……」
凍てつくような視線だった。今までの全てが嘘だったんじゃないかって言うくらいに、むき出しの感情がアタシに刺さる。
それがやっぱり気に入らない。
出来るのにやらない。目を背けている。
それはアイツを、アタシのトレーナーを見ているようで、とても腹立たしくて仕方ない。
自分自身の中で沸き上がるものを、悪だと決めつけて出さないように律している。
出さなければないものと同じだと思い込んでいる。
そのせいで自分の気持ちと行動がちぐはぐになって、自分の全てに自信が持てなくなって、実力も満足に出せなくって、更に自分を貶める。
それで傷つくのは自分が大切にしたいと思っている相手なのに、自分自身がその原因に向き合うことを避けているせいで、改善できずに結果、不幸を引き寄せてしまう。
その悪循環の源に気づいていないから、自分のせいだと思い込んで、更に悪化させて、いつの間にか本当に誰かを不幸にさせるようになっている。
見ていて、痛々しくて、苦しくて、悲しくて、尊くて、バカバカしくて、切なくて、腹立たしい。
結局、こういう類のヤツらは自分のことしか考えていないんだ。
「なに、その目」
「別に……ライスは何も言ってないですけど」
ほら、これだ。
すぐに本心を隠す。何もないなんて言いつつ、耐えきれず白状した時には全部が終わっていて取り返しがつかないのに。
ああ、本当に
「……気に入らない」
「なにか、言いました?」
どうして、こういうヤツを見るとアタシはアタシを抑えきれないんだろうか。
「アタシは、アンタが気に入らないって言ったんだ」
「何を言って……」
これはただの八つ当たりだ。エゴと嘘に塗れたアタシの中から勝手に抜け出ていった白への文句をぶつけている。
「アンタの中にある勝利への執着から逃げるな」
これはただの場違いな行為だ。噓だらけの末に本物を求め続けたバカへの糾弾だ。
「不幸だ災いだっていう周りの言葉に自分を適応するな。自分自身の本心から逃げるな」
バカはすぐにどこかへ行く。ふらふらと、気づいた時にはずっと遠くの手の届かない場所に簡単にすり抜けてしまう。
「アンタみたいな死にたがりにアタシは負けない。アンタをめちゃくちゃにしてやる。自分のことしか考えてないやつよりもアタシの方が絶対に、ずっと、速い」
口の中に鉄の味が広がる。
どうやら喋りすぎたらしい。このままだとこの後のコンディションにも関わる。
アタシは、一つだけ、目の前の黒に残すことにした。
「レースから逃げるな」
「……っっ!」
黒いウマ娘のアメジストのような瞳に涙が溜まっている。表情はひどく険しくて怒りが垣間見えた。
パンと、乾いた音がアタシの耳に響く。遅れて頬のじんわりとした痛みが広がっていく。
「ライス、アナタのことが嫌い!」
その言葉は混じりけのないものだった。ただの惰性も打算もなく、純粋な感情のみがあった。そして、アタシは混じりけのない黒が走り去っていくのを見ているだけだった。
「痛った」
徐々に赤くなる頬を撫でる。久しぶりの痛みだった。菊花賞の後、母親から初めてぶたれた時以来だろうか。
確かめるようにもう一度撫でる。やっぱり、悪くない。
少しだけ、レースが楽しみになった。
「勝たなきゃいけないな」
頬に溜まった熱を感じながらアタシは控室に戻る。少しだけ楽しくなりそうな予感がした。
パドックを通って、ゲートについたライスは目を閉じて今までのことを振り返る。
ライスはずっと弱虫で泣き虫だった。でも、ずっと泣いているとお父さまとお母さまが側にいてくれてライスは幸せになるために生まれてきたんだよって言ってくれてた。それがとっても嬉しかった。
ライスが泣き虫なせいでお父さまやお母さまがいつもライスにつきっきりになってくれてる。でもそれは本当は迷惑なんじゃないかって思うと心配でライスはまた泣いちゃって、また困らせてた。
ライスの名前、ライスシャワーは食べ物に困りませんようにっていう意味がある。だからお母様は『あなたは誰からも祝福されて、あなたがいるだけで誰でも祝福するような存在になってほしくて名付けたの』って小さいころによく言っていたの。
お母さまもお父さまもライスが側にいるといつも幸せになると言ってくれた。そうやって、喜んでくれる二人を見てライスもすっごく嬉しかった。だから、お母様が言っていたのはこういう意味なんだって思った。だから、ライスはいるだけでみんなを幸せにしてあげたいなってずっと思ってた。
でも、それは、ライスの思い込みだったの。
ライスは側にいるだけでみんなを不幸にさせちゃう嫌な存在だった。
はじめは小さなことだった。
小学校で隣の席のおともだちがえんぴつを忘れたみたいだった。だから、一本貸してあげた。
そしたら、その子が授業中にお手紙を書き始めた。先生のことにも気づかないくらい夢中になって書いてた。お手紙を書いていることに気づいた先生がどんどんその子に近づいていた。そのことを教えようとしても、その子は夢中で気づかなくて、結局、お手紙は没収されてそのおともだちは先生にいっぱい怒られていた。
そして、席に戻った時にその子はライスに向かっていったの。
『先生のこと教えないで黙って見てたなんてライスちゃん、さいあく』
その言葉を言われてライスは、なんて言えばいいか、わかんなかった。
ライスは喉から言葉が出そうだった。でも、ライスは言っちゃいけないって思ってた。だって、それは周りの人を嫌な気持ちにさせちゃうかもしれなかったから。
今日もレースの前に栗毛のウマ娘さんに嫌な言葉をかけられた。
ライスと同じくらい小さいウマ娘さん。顔色が悪いのに、すごく態度が大きくて、偉そうでちょっと嫌な感じだった。でも、青い瞳はとってもまっすぐで、今までライスに嫌なことを言ってきた人たちとはちょっと違うのかもなんて思ったりもした。
でも、それもライスの思い込みだった。
『アタシは今のアンタみたいな態度で祝福されても全然嬉しくないけど』
それはとっても冷たい言葉でライスの中に今もつき刺さってる。
だから、冷たすぎてライスの喉から出てきそうだった言葉をおさえこんでいた。ライスの口からその言葉が出なくて本当に良かったって思ってる。
だって、それは栗毛のウマ娘さんを傷つけちゃうかもしれなかったから。
ライスは、幸せを運ばないといけないから。
他のウマ娘たちの声がピタッと止まる。
いつもの感覚。ここから始まる。2分ちょっとでライスの運命は変わる。
第一コーナーに入った。
ライスはいつもと同じぐらいの場所にいる。本当はもうちょっとだけ前に行きたかった。でも、どうしてだろう。
少しだけ足が重い。
ライスはいつも通り先行で走る。
普通は体が小さいとバ群に飲まれやすいって言われる。でも、ライスは逆に小さいからいいんだって、お姉さま、いやライスのトレーナーさんにも褒められたの。
トレーナーさんが言うにはライスの体幹は他の人に比べてぶれにくいみたい。それに、ライスは他のウマ娘よりも目がいいって言われた。
視力じゃなくて、観察する力。だから、囲まれても飲まれずに集団から抜け出せるんだって。
ライスには難しいことが分からない。でも、トレーナーさんが言ってることはなんとなく分かるの。
菊花賞の時も、春の天皇賞の時も、ライスは集団の真ん中くらいにいた。抜け出そうにも、ちょうどいいぐらいの距離でぎゅうぎゅうにされてた。
でも、走ってるうちになんとなく分かったんだ。見えたって言うのかな。
ライスにこっちだよって教えてくれる光が見えた。すごく曲がってたり、真っすぐだったり、その時によって全然違うけど、でも、ライスの前に敷かれたその光の方に進んでたら自然とライスは前にいた。
ライスだって輝けるんだと教えてくれるような道に誘われた時、ライスはいつも勝ててた。その時のトレーナーさんはとっても幸せそうで、ライスもとっても幸せだった。
だから、ライスは今、集団の中にいる。
向こう正面に入った。
集団の中でちょっとずつ、前の方に向かってる。
本当はもっと先に進みたいのに、ライスの足はなんでか、動いてくれない。いつからこんなに足が重くなったのか、ちょっとだけ考える。
思い当たるのは一つだけ。
春の天皇賞の後からトレーナーさんは日に日に顔色が悪くなった。気づけばライスの顔を見るたびにごめんなさいって言う言葉が増えて、顔も俯きがちになって笑顔が見えなくなった。
最初はなんでなんだろうってすごく悲しくて寂しかった。。どうにかしてトレーナーさんは笑顔になってほしくてライスは一生懸命考えた。
前にライスがお母さまに買ってもらったケーキをトレーナーさんにおすそ分けしたらとっても喜んでくれたことを思いだしたの。だから、お母さまにお店の場所を教えてもらってライスはケーキを買いに行った。
その時、ライスは初めて知ったんだ。
ライスが周りからなんて言われているのか。なんでトレーナーさんが顔色が悪くなったのか。
『あ、ライスちゃんだ。元気にしてた?』
どれがいいかをショーウインドーを眺めながら悩んでいたら、そうやって、声を掛けられた。声の方に振りむいたライスの目に映ったのは、ライスがえんぴつを貸してあげた子で、あのことがあってからあんまり話していなかった子だった。もう忘れられていると思ったからちょっぴり嬉しくて、でも、すぐに悲しくなった。
『ライスちゃん、二人には謝ったの?』
『え?』
『ライスちゃんが、菊花賞と春の天皇賞取っちゃったから、すごい記録になるはずが全部めちゃくちゃにされたって私の学校のウマ娘ファンの子たちが言ってたよ』
一瞬、なんのことか分からなかった。でも、すぐに分かった。その子がインターネットでのライスの評判を見せてくれたから。
『がっかりした』、『邪魔しないで』、『迷惑だ』、『どうしてあなたがそこに立っているの』
トレーナーさんが喜んでくれて、ライスもそれが嬉しくって幸せを感じている時、見ている人は全然違っていたみたいだった。
去年、クラシック三冠が目の前にあったウマ娘から菊花賞を奪った。今年の春の天皇賞で悲願が目の前にあったウマ娘から一着を奪った。
ライスは幸せをあげるんじゃなくて、周りから幸せを奪ってしまっていたみたいらしい。
ライスが知らなかったのはトレーナーさんがこのことをライスに黙っててくれたおかげ。それはライスの分の悲しい気持ちが背負ってくれってこと。
ライスがトレーナーさんを不幸にしたんだ。
今は、レースに集中しなきゃいけない。こんなことを考えてる場合じゃない。分かってるのにライスの頭の中はそのことばかりグルグル回ってしまって、気持ちが落ち込んで、足が重くなってしまう。
気持ちを切り替えようとしても、前を向こうとしても、トレーナーさんの俯いている顔がチラついてしまう。それを思うたびにライスの胸がぎゅって締め付けられちゃう。
こんなことだから、ダメダメライスなんだ。弱虫で泣き虫で、皆を不幸にしちゃうんだ。
ライスは皆を不幸にする。
そんなことないって証明するために一生懸命走ってた。
でも、頑張って、トレーナーさんに喜んでもらいたくて一生懸命に走ったらトレーナーさんを不幸にしてしまった。
ライスが頑張れば、頑張った分だけ誰かを不幸にする。
ライスが不幸だったら、誰も不幸にならない。
じゃあ、ライスは頑張らない方がいいのかな。
第三コーナーに回った。
重たい足がもっと重くなってしまう。走りたいのに走れない。
でも、グルグル頭を回しているうちにどうして走らなきゃいけないのかも分からなくなってしまった。
ライスが走る理由。ライスが勝ちたい理由。ライスがトレセン学園にいる理由。
なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで。
なんで、ライスはここで走ってるの?
そんなことを考えているうちにライスの体は前のめりになっていた。走ったからじゃなくて、ちょっとだけ後ろから押されてしまったから。
普段だったらなんでもないくらいのことだった。でも、今のライスは受け流すことも受け止めることも出来なくて、前に押されてしまった。
すぐに次の足を前に出さなきゃいけない。でも、ライスの足は地面にくっついたみたいに動かなくて、でも、頭の中はやけにグルグル回っていた。
思い出すのは、トレーナーさんと出会ったときのことだった。ううん、私にとってのお姉さまと初めてあった時のこと。
選抜レース当日。ライスはやっぱり、レースが怖かった。失敗したらどうしようとか、他の人に迷惑をかけちゃうかもって思ったら、怖くなって学園の図書室に隠れてお気に入りの本を読んでいた。
『あなた、名前は?』
『ふぇ、ふぇ!?……ら、ライスシャワー……です』
『うん、とってもいい名前。あなたにぴったりだと思う』
誰にも見つからないと思っていたから、鈴の音みたいに透き通った声で話しかけられた時、ライスはとってもびっくりしちゃってた。
その声のする方を向くとサラサラしてる綺麗な黒い髪が目に入った。その後すぐに、くりくりした大きいおめめに釘付けになった。宝石みたいにキラキラしていたお姉さまの姿に見惚れていて言葉が出なかった。
『ライスちゃんって今日選抜レースに出る予定じゃなかった?』
『それは……』
逃げ出したなんて正直に言えなくって、ライスはお気に入りの絵本を後ろに隠しながらお姉さまの質問にあいまいに返事するしか出来なかった。
『怖くなっちゃった?』
『え?』
ライスが考えてること全部分かってるみたいに、お姉さまはライスに聞いてくる。
『みんなの前に出るのが怖くて緊張して、逃げたくって、お気に入りの絵本があるこの場所でずっと耐えてた。……違うかな?』
『どうして……?』
全部、全部。本当だった。
私のこと全部知られちゃってるみたいでカメラとかがあるのかと思って辺りをキョロキョロしていたら、それが面白かったみたいでお姉さまはぷって吹き出してた。
『な、なんですか!?』
『ごめん、ごめん』
ニコニコしながら謝るお姉さまがちょっと怪しかった。でも、お姉さまはきゅって顔を整えてライスにお話してくれた。
『いつもトラブルに巻き込まれているあなたをずっと見てた』
『え?』
『全部の信号が赤になって遅れたあなたを見た。目の前でおばあちゃんの買い物袋が破れてるのに遭遇して、全部拾っているあなたを遠目で見ていた。たまたまあなたの番でパンが売り切れになって泣きそうになりながら、帰っていくあなたを見た』
『あ、あの……その』
すごく恥ずかしいところばっかり見られていたみたいで、ライスは手を出してお姉さまの言葉を止めようとした。でも、その手をぎゅっとにぎってお姉さまはライスにもっとお話してくれた。
『一生懸命に練習するあなたを見た。誰よりも基本に忠実で、美しいフォームだと思った。あなたの走りはきっとトップでも十分に通用するレベルだと思った。私は一目見た時からあなたの実力を確信していた』
『あ、あの!』
ライスはお姉さまの言葉で頭の中がぐちゃぐちゃだった。
嬉しいけど、恥ずかしい。ライスは本当はそんな実力もないダメダメライスで、弱虫で泣き虫でみんなを不幸にする。迷惑ばっかりかけてるウマ娘だって、それを全部いいたくて、でも言えなかった。
言葉にしようとすると、すごく、喉が熱くなって、なんにもでなくなってしまった。
『ら、ライスは……ダメ、ダメ……で、みん、なを……不幸にするから……』
やっと出てきた言葉も涙が止まらないせいで言葉にするのにすごく時間がかかってしまった。後ろにもった絵本を背中にぎゅって押し付けてなかったら、たぶん、ライスは縮こんじゃってた。でも、でもお姉さまはそんなライスのぐちゃぐちゃな言葉も全部聞いてくれた。
『私はあなたを一目見た時からすごく胸が躍ったわ。こんなにすごい逸材を見つけたんだって自分の中の興奮が抑えられなかった。それはあなたのことをずっとずっと遠くから目で追う時間が増えるごとに増していった』
そういって、ライスはぎゅって抱きしめられた。
『ねえ、ライスちゃん』
『……』
『あなたは自分のことをダメダメだって言うけれど、私はそうは思わないわ』
お姉さまはぎゅってする力をどんどん強くしながらライスに教えてくれた。
『あなたはとっても心優しい。不幸な目にあっても誰かのせいにしないで、言い訳しないで、自分で飲み込んで前に進んでる。そんなの、私だったら到底できない』
ぎゅってした後に、お姉さまは頭を撫でてくれる。
『あなたは選抜レースからは逃げたわ。でも、この学園から逃げだそうとはしなかった。怖くなることはあっても練習とか自分で出来ることは全力で一生懸命取り組んでいた。私はそれを知ってる。気持ち悪いくらいにあなたのことを見ていたから』
お姉さまの言葉を聞くたびにライスは胸が苦しくって痛かった。
でも、それはライスが今まで経験した痛みとは全然違った。胸がいっぱいで、ふわふわで、苦しいけど、とってもポカポカした。
『あなたのことを思うだけで目が冴えてしまう。あなたがトゥインクル・シリーズで走っている姿を見るだけで、すごく嬉しい気持ちがいっぱいになる』
『……』
『ライスちゃん』
ライスは、喉が熱くて、目も熱くて、言葉が全然出てこなかった。
『ライスちゃんをみてこんな気持ちになっている、私は不幸かな』
そんなことない。ライスはそう言いたかったけど、やっぱり、言葉は出なくてお姉さまに抱き着いて頭をぐりぐりするしか出来なかった。
お姉さまはライスが泣き止むまで、ぎゅってして撫でてくれた。その後にライスに向かって言ってくれたの。
『ねえ、ライスちゃん。単刀直入に言うわ。私はあなたが欲しい。あなたを担当ウマ娘としてスカウトしたい』
その吸い込まれそうなくらいキラキラした目にライスは釘付けになっちゃってた。
『あなたが不幸を呼び寄せるなんてあるわけがない。不運が重なっているだけ。それは誰のせいでもないし、絶対にライスちゃんのせいなんかじゃない』
それは、ライスがずっと欲しかった言葉だった。
『そして、あなた自身も幸せにならなくちゃいけないの。あなたが幸せになって喜ぶ人はいても、あなたが不幸せになって喜ぶ人なんていない。それは私の思い込みなんかじゃなくて、絶対にそうなんだって証明してあげる』
それは、ライスが考えもしなかった言葉だった。
『だから、私の担当ウマ娘になってもらえないかな?』
そして、それは、ライスが言いたい言葉だった。先に言われたのが、ちょっとだけ悔しくってライスはその時にお願いしたの。
『ら、ライスでよければ。……あ、あの』
『なに?』
面と向かって言うのはちょっとだけ恥ずかしくて持ってた絵本の表紙の表紙を撫でながらお願いした。
誰も見たことのない、青いバラ。
そのつぼみはちょっと色が違うだけだった。ちょっとだけ咲くのが遅かった
でもみんな気味悪がって、悪いことを全部誰も見たことのないそのつぼみに押し付けた。
そんな力はないのに、そこまで特別なことは出来ないのに、ただちょっと周りと違うだけ。それだけでそのつぼみは不幸だって言われた。
でも、怖がらずにずっとお世話をしてくれた人がいた。
ついに、つぼみはその花を咲かせて皆を幸せにできるようになった。お世話をしてくれた人も、沢山喜んでくれた。
その人の名前は。
『お姉さまって……よんでもいいですか?』
たぶん、その時がライスは一番幸せだった。
お姉さまはライスのことを信じてくれて、ライスはお姉さまがいるだけでどこまでも頑張れるような気がしてた。
でも、それは一瞬だった。
幸せで終わるのは物語の中だけで、本当はそんなことはない。
ライスが一番わかってるはずなのに、ずっと目を逸らしていた。
お姉さまはライスのために、ライスが不幸をよんでるんじゃないっていったけど、やっぱりそうじゃなかった。
結局は、ライスのせいで、ライスがいたからこうなった。ただ、それだけだった。
だから、ライスはいない方がいいんだと思う。
だって、ライスがいると不幸になっちゃうから。
ライスは、弱虫で泣き虫でダメダメで不幸ばかり持ってくる迷惑なウマ娘。
このまま、倒れ込んだら、たぶん、ライスは、楽になれるんだと思う。
ライスがいなかったら、お姉さまはあんな顔をしなかったはず。
ライスがいなかったら、ライスのせいですごい記録を持ってたウマ娘さんたちも悲しくなかった。
全部、全部。ライスのせいだから。
ごめんなさい。お姉さま。
ライスは咲いちゃいけなかったみたい。
もう頑張らなくていいんだって思うとちょっとだけライスも気分が楽なった。
やっぱり、目を開けるのは怖いから目をつぶったまま、ライスは眠ることにした。
『周りに陰口叩かれて自分は不幸だって思いたいから走ってるわけ?』
『アタシは今のアンタみたいな態度で祝福されても全然嬉しくないけど』
『不幸だ災いだっていう周りの言葉に自分を適応するな』
うるさい。
もうちょっとで、誰も不幸じゃなくなるんだから、静かにして。
『自分自身の本心から逃げるな』
知らない。ライスはそんなの知らない。
『アンタみたいな死にたがりにアタシは負けない』
『自分のことしか考えてないやつよりもアタシの方が絶対に、ずっと、速い』
うるさい、うるさい、うるさい。
ライスだって死にたいわけじゃない。ライスだって、好きでこんなことしてるわけじゃない。
ライスは、ライスは、ライスは……っっ!
『逃げるな』
すごく、うるさくて堪らない。
ライスの中をぐちゃぐちゃにするこの言葉が嫌いで言ってしまいそうになる。
ライスがずっとしまっていたとびきりの言葉を。
……せいじゃない。
『アンタの中にある勝利への執着から逃げるな』
「ライスの……せいじゃない!!!」
目を開ける。倒れそうになるまえに、しっかり地面を踏む。
ライスは逃げたかった。でも、逃げる場所はここじゃない。ライスはこんな場所で死にたいわけじゃないから。
ずっと、言いたくて言えなかった言葉を吐き出してしまった。
すごく、ごめんなさいが溢れちゃうけど、同じくらい気分が良かった。いっぱいに息が吸える。すごく世界が違って見える。
ずっと、ずっと、ずーっと思ってた。お姉さまに出会うまえから。ライスが小学生になった時から思ってた。
ライスが悪いんじゃない。怒られるようなことをする人が悪いの。そうじゃないなら、誰も悪くない。
でも、他の人にはそんなの、全然関係なかった。ライスが悪者で、ライスが頑張ると自分の思い通りにいかなくなっちゃうから、ライスがすごく悪く見えちゃう。とっても悲しい話だって思った。ライスのせいじゃないのに、その近くにライスがいることが多いからライスのせいにされてた。
気づいたら、ライス自身も自分が不幸だって、思ってた。
悔しいけど、あの栗毛のウマ娘さんの言葉なんて認めたくないけど、ライスだって、自分が不幸じゃないといけないと思い込んで自分から不幸になるように行動していたんだと思う。
お母さまは言っていた、『あなたは誰からも祝福されて、あなたがいるだけで誰でも祝福するような存在になってほしい』って。
だから、ライスシャワーは、みんな幸せを運ばないといけない。誰かを傷つけちゃいけないんだってずっと思ってた。
でも、そうじゃないって気づいた。それも悔しいけど栗毛のウマ娘さんの言葉。
『アタシは今のアンタみたいな態度で祝福されても全然嬉しくないけど』
言ってる意味が分からなかった。でも、今ならライスにだって分かる。
ライスはお姉さまに笑っていて欲しい。
すごく落ち込んだ顔でおめでとうなんて言ってほしくない。笑顔でライスのことを見ていて欲しい。
それはきっと、お姉さまだってそうで。
ライスが落ち込んでちゃ、お姉さまだって、幸せになれるわけがないんだ。
ライスはお姉さまを不幸にしたって思ってた。
でも、そうじゃないんだと思う。
不幸にしたんじゃないの。だって、ライスがお姉さまを幸せにするように努力しなかっただけ。
ライスは自分の名前に甘えてた。ライスはいるだけで幸せを運んであげられるような存在になってほしいってつけられたけど、誰かが幸せになるには、幸せになるための努力が必要なんだ。
それが普通で当然のこと。
でも、ライスはそれをしなかった。ライスがいるだけでお姉さまが幸せになったり不幸になったりするって思い込んでた。
お姉さまの顔色が悪くなった時に、ライスはお姉さまから、ごめんなさい以外の言葉を聞かなかった。怖くて聞けなかったけど、それ以上に、それが全部だと思ってたから。
幸せっていうのはずーっと続くものじゃなくて、不幸なこともあって、幸せなこともある。だから、お姉さまはたまたま不幸な時期だっただけ。
それなのに、ライスはお姉さまが早く幸せな時期にはいれるようなお手伝いを全然しなかった。お世話されるだけになってた。
それが分かった。だからライスは早くお姉さまのところに行かなきゃいけない。お姉さまのところに行って、お姉さまが辛い思いをしているのを聞いて半分こしないといけない。
そして、今お姉さまが一番、喜んでくれるのは、たぶん、このレースで勝つこと。
みんなが嫌な気持ちになっても、それはライスのせいじゃない。
ライスはライスのために頑張らなくちゃいけない事情があるから。
ライスは悪くない。ライスのせいじゃない。ライスは頑張っただけ。ライスはみんなのことを悪くいうつもりなんかない。みんなが悪いなんて一つも思ってない。
だから、ライスのせいにしないで。
ライスはみんなに幸せを運ぶ存在。
でも、今は一番に幸せを運んであげたい人がいる。その人の所に早くいきたいの。
笑顔でいてほしい。悲しい顔なんて見たくない。でもつぼみのままじゃ意味がないの。
ずっと見ていてくれたの。だから、綺麗なお花を見せてあげたい。誰よりも大きくてきれいで、美しい、幸せの青いバラの花みたいに。
「ライスだって、咲ける!」
気づいたら、ライスは駆け出してた。
早く、早く、早く。
前に倒れそうになった後、体を起こしたら、また光が見えた。今度はハッキリ見えた。
今までみたいにポカポカしてるぼんやりしたものじゃなくて、カーペットみたいにハッキリ敷かれてる。この上を走ればいいんだってなんとなく分かる。
「はああああああああ」
最終直線、ライスは先頭に抜け出していた。もう、すぐゴールは目の前だった。あとちょっとだった。
すごく、寒気がした。足が重たかった。
冷たい空気。この感じは、身に覚えがあった。さっきまで感じてた。
あの、栗毛のウマ娘さん。
それはライスじゃだめだって言ってるみたいだった。
いないはずなのに、栗毛のウマ娘さんの気配がすごく感じる。もう目の前なのに追いつかれて抜かされそうな気分になる。
すごく、重くて苦しくて、走りにくかった。
あとちょっとのはずなのに、その距離が本当はずっと遠くて、一生ゴール出来ないんじゃないかってくらいに、ライスの足取りを重くさせてくる。
心が負けそうになっちゃう。やっぱり、ライスなんてダメなんだって思い込んでしまいそうになる。
ああ、やっぱり、ライスは咲けないでお姉さまの所に向かっちゃうのかな。
ライスの心が弱い気持ちに塗り替えられそうになったところで、聞いたことのある声が聞こえた。
『あなたは自分のことをダメダメだって言うけれど、私はそうは思わないわ』
『不幸な目にあっても誰かのせいにしないで、言い訳しないで、自分で飲み込んで前に進んでる』
そう、そうだよ。ライスはダメダメじゃない。ライスは一生懸命頑張ってきた。嫌なことは沢山あった。聞きたくない言葉をたくさん聞いた。ライスはとっても傷ついたし、悲しんでるお姉さまを見て、もっと悲しくなった。
だから、ライスじゃダメだって言ってても知らない。ライスは何回だって、ダメだって言われてきた。でも、でもライスはここまで来たの。それだけが誰もダメって言えない。
ここまで来てライスがライスをダメって言ったら、ライスのことをずっと見てくれたお姉さまだってダメになる。そんなことない。そんなことさせない。お姉さまはずっとライスのお姉さまでいてほしいから。ライスが幸せにしないといけないから。ずっと笑っててほしいから。
こんな所で、負けられない。負けていいはずがない。
ライスはライスだ。ライスシャワーの道に誰も入ってきちゃダメ。ここだけはライスだって譲れないから。
ゴールラインまであともう少しだった。
真後ろからウマ娘の吐息が聞こえていた。この重い足をどうにかしなきゃライスは咲けない。
でも、ライスの気持ちは誰にだって負けるつもりはない。
「はああああああああ」
ライスだってよく分からなかった。でも、ゴールした時ライスの隣に誰もいなかったことだけは覚えていたの。
ウイニングライブの後、ライスはビクビクしながら控室に戻ったの。
お姉さまに合わせる顔が無くて、一言もしゃべってなかったから。
「ただい……ふ、ふぇ!?」
「ライス!!!」
扉を開けた瞬間にライスになにか飛んできた。でも、それはあったかくていい匂いだった。
ライスの好きなお姉さまの匂い。
お姉さまはライスのことをめいっぱいぎゅってしてお話してくれた。
「ライス、ごめんなさい。私はあなたに謝らなくちゃいけないの」
「な、なにかな?」
ライスのせいでまたお姉さまは悲しんでしまったんだろうか?
「少しだけ、ほんの少しだけ私はあなたのことを侮っていた」
お姉さまの言葉は少しだけライスには難しかった。
「あなたは自分のことを不幸を呼び寄せると思っていた。でもそうじゃない。その思い込みはわたしでも解けなかった」
「うん」
「だから、どんどん落ち込んでいくライスを見て私は自分の無力さが嫌になった。あなたはこのままここで終わってしまうんじゃないかって怖くなっていた。でも、私は自分の言葉に自信が持てなくてあなたに言葉をかけるのを避けるようになっていた」
だから、お姉さまはあんまりお話してくれなかったんだ。やっぱり、ライスが幸せを奪ってたんだって落ち込みそうになってしまう。
さっきみたいに、お姉さまはライスが幸せにしないとって思いたいけど、それ以上に悲しい気持ちでいっぱいになってしまう。
ああ、やっぱり、ライスは
「だから、あなたがレースであんなに美しい花を咲かせたときに、私はどうしてもあなたに謝りたかったの」
「え?」
お姉さまは苦しくなるぐらいにライスをぎゅってしてくれる。
「あなたの走りで私は幸せで胸がいっぱいになった。あなたは自分の力で青いバラの花を咲かせることが出来てた。……第三コーナーのあの走りだったら絶対に無理だと思ってた。でも、そうはならなかった。それは私や他の誰かじゃなくて、あなた自身でなんとか出来たことなの」
そう、かな。そうなのかな。
「あなたはきっとあなた自身が思っているよりも強いウマ娘。一人でだって生きていける。私なんかいらないくらい」
その言葉を聞いた瞬間にライスはすごく悲しくて、涙がポロポロこぼれてしまった。
「お、お姉さまには……ライスはもういらない……子なの……?」
「ああ、ごめんなさい」
ライスの涙が止まってしまうくらいにお姉さまはまたぎゅってする。
「もう、そうよね。こんなこと言ったら勘違いするのは当たり前なのにね」
お姉さまは一人で何かを言っている。ライスにはやっぱり、難しい。
「私にとって、ライスがいらないんじゃないの。ライスにとって私がいらないんじゃないかなって」
「そんなことない!」
ライスはお姉さまの言っていることは違うんだよってお話したかった。でも、お姉さまがライスの胸から離してライスににっこりしてくれた。その笑顔がすごくキラキラしていてライスは言葉が出なかった。
「だからね、私はライスにお願いしたいの」
「なにを……?」
「これからも、私はライスシャワーのお姉さまでいいですか?」
胸がかーって熱くなった。
「私はずっとライスシャワーのお世話をしても大丈夫ですか?」
それはライスがお願いしなきゃいけなかったことだった。ライスの方からお願いしたかった。
また、お姉さまはライスよりも先にライスがしたいことをしてしまう。
「ライスのお姉さまは……お姉さまじゃなきゃ……だめ」
すごく嬉しいけど。ライスは胸がぎゅーって苦しくなった。ずっとお姉さまと一緒にいられるって思うとそうなった。
お姉さまが笑ってくれている。それだけでじゅうぶんだったのに。もっといっぱいにお姉さまの笑顔が見たいって思っちゃってる。
すごく、ライスはワガママさんになっちゃったみたいだ。
「お姉さま」
「なに?」
「ずっと、ライスの側にいて。ライスはお姉さまが笑ってくれるだけでじゅうぶん。でも、今はお姉さまが他の人のこと見るだけでモヤモヤしちゃう……かも」
「ふ、ふふふ」
「な、なに!?」
お姉さまの顔を見た。そしたら、ライスはびっくりしてしまった。
「私も、同じ気持ちだから」
おでこに柔らかい感触があった。今はすごく熱い。ライスの顔が燃えちゃうくらい。
そう、思うとお姉さまの顔があんまりハッキリみられなくなっちゃったような気がする。
「もっと夢中になっちゃったみたい」
「~~~~~~っっ!!!」
お姉さまがぎゅってしてくれるのが嬉しい。でも、それ以上に今までよりドキドキしてライスは。ライスは。
おかしくなっちゃうくらい、ライスは今、幸せ。
冷たい公園のベンチに座っているトレーナーを見ながらアタシは立っていた。
でも、これはきっと夢だ。だって、つっ立ているアタシはトレーナーの隣に座っているアタシが見えているんだから。
へばりつくような白にぐちゃぐちゃにされたアタシはトレーナーに呼ばれてここまでやって来た。もう、会うことはないと思っていた。でも、違った。
トレーナーはずっとたい焼きを握りしめていた。新しく買ったらしいがもう凍えてしまって、食べるのさえ困難になったもの。
奪われたらしい。あの白に。縁も、たい焼きも根こそぎ持っていかれた。
それを見つめながらトレーナーはアタシに話かけた。
『私はあなたのことを二村雄二に認めさせる道具としてしか見てなかった』
そのまま、肺が凍ってしまうほどの冷たい言葉だった。
そのはずなのに、どうしてか、そこまで痛くなかった。理由はなんとなく分かる。
『あなただって私のことを自分の欲求を満たす道具としてしか見ていなかったでしょう?』
アタシの心の中に入りこんで全部を切り裂いてめちゃくちゃにしてくる。へばりつく白みたいな言葉。
でも、その言葉を発している本人が、一番泣きそうだったんだ。
『私が初めて失敗してあなたが倒れたときもそうだった。あなたのことを道具としてしか見ていなかったから、傷つくあなたよりも、あなたの戦績に疵がつく方がよっぽど苦しかった』
アタシは盲信していて、コイツは盲目になっていた。
『新年での言葉も全部が空っぽだった。とっくに答えが出ているはずなのに、出ていないフリをして、あなたの心を縛った。揺れる気持ちの向きを誘導した』
アタシの言葉はコイツに向けたものではなくて、コイツの言葉はアタシを見てなんかいなかった。
『水族館に行った後、あなたに気持ちを打ち明けた時、私は本当に悲しかった。それは、拒絶されて悲しかったんじゃない。寄る辺を失って、誰にも縋れないかもしれない可能性が不安でしょうがなかった』
アタシはコイツの気持ちが少しだけ分かって、アタシはアタシの目的でコイツを利用した。
『私は、ずっと拒絶されてきた。化け物だとか、他の好きな人を盗る泥棒だとか、他の子たちの主観の中で、私は決めつけられて、そうであることを強制させられた。それは私にとって心底不快でしょうがなかった。でも、気にするほどのことでもなかった。泣きながら帰れば、全てを理解してくれる存在がいたから』
コイツは全部を持っていて、何も見てはいなかった。
『無条件に肯定される立場でいたかった。肯定してくれる存在が欲しかった。すぐに身近にあった私にとってのその存在が二村雄二だった。彼に連なるシンボリルドルフだった。サイレンススズカだった。私はずっと心地よいぬるま湯の中で揺蕩っていたかった。二村雄二という存在が私を見続けてもらうために、彼を越えるという目標を標榜していたのに。彼を越えるという目標が現実味を帯びた瞬間。全部が覆った。それが堪らなく嫌でしょうがなかった。一番手元に置いておきたかったものが全部私の手元からすり抜けていった』
それは子どもが大人になるための通過儀礼なんだったんだと思う。でも、コイツはそれでも大人になることから目を逸らしていたんだろう。
『私は私のせいで、私の幸せを台無しにした。それがひどく痛くて、苦しかった。だから、私は、この感情をあなたに託すことにした』
そして、アタシはその思惑に乗っかった。
『あなたは、あなた自身の都合で全てを背負わなくちゃいけなかった。だから、私はそれに乗っかることにした。全部、全部。私の都合のために。気づけば、私はどうしようもなく勝利を目指すようになった。あなたでは限界があると感じたから』
その時にアタシはアタシの中で湧いては消える色々な気持ちがずっとせめぎあっていた。
『あなたはもう、何かを背負って走ることができるほどの余力を残してはいなかった。だから、私はあなたが壊れる前に、私にとっての寄る辺を見つけるために、ただ、勝利を渇望した。でも、あなたはもう限界だった』
アタシは、アタシの中の道を決めた。でも、それも本当は逃避でしかなかった。
『私はあなたを捉え損ねていた。限界でも、ギリギリでも、それでもあなた自身のせいで縛り付けられていると思っていたから。でも、そうじゃなかった。あなたは立ち上がれなかった。ただ、それだけ。そして、私はそれを肯定した。だから、あなたの前からいなくなることを約束した』
アタシだってギリギリまで揺らいでいた。でも、少しだけ怖くなってしまった。目を逸らしたくなってしまったんだ。
『これが、ウマ娘を道具としてしか見ていない冷たいトレーナーの今まで』
その経緯がアタシの間にあったどうしようもなく埋まらない溝で、互いを縛り付けていたものだったんだと思った。
『本当に愚かだったんだ。そのことを一つも言わないで、ずっと大事なことは黙っていたから、立ち上がれないと言ったあなたに対しても、何も言えないでいた』
本当にそうだ。でもコイツを見ていて最も吐き気がするような嫌悪を感じるのは口から出る言葉と本心が全く合致していないこと。
『それなのに、私はその約束を破って、今ここにいる』
だから、こうして、今も自分の好きなようにアタシの目の前に現れた。
『冷たい、トレーナーだけで、あれたら、どんなに楽、だったかな』
ひどい話だ。自分でつきはなしたくせに、こんなに泣きそうな表情を浮かべるなんて。
『私はあなたのことを道具として見ているんだ。それなのに、どうして、あなたの走りがとても輝いて見えたん、だろうね』
それが勝手な押し付けだったんだ。
『私は、あなたの悩みなんか一切考慮しない、エゴに塗れたトレーナーなんだ。それなのに、どうして、あなたの苦悩を聞いて、自分のことみたいにどうしようもなく苦しかったんだろう』
アタシはどうしてコイツの過去を知った時に言いようのない怒りを覚えたんだろうか。
『新年の言葉は私にとって空っぽだった。とっくに答えは出ていたずだった。それなのに、どうして、あなたの言葉は私の中に深く入ってきたんだろう。空っぽになっていたはずの気持ちが満たされていって、一つしかなかった答えがもう一つ、浮き上がってしまった』
アタシは、どうして裏切られると分かっていたのに、コイツの新年の言葉を信じてしまったのだろうか。
『水族館に行った後、私の気持ちを打ち明けた時、自分のエゴであなたに私の感情を託した。それなのに、あなたは私が押し付た感情を全部飲み込んで背負ってくれた。それだけであなたに対する私の感情は溢れてしまっていた』
コイツの周辺にいる大人のエゴで画策された通過儀礼を見ているのが嫌いだった。その癖、自分から反発しようとしないコイツ自身が嫌いだった。アタシは、コイツら全員が面倒臭く感じていた。
『私はずっとぬるま湯につかって揺蕩っていたかった。私は保身のせいで二村雄二も彼に連なる全部が手元から離れた。私自身が私の幸せを台無しにした。でも、幸せがなくなってしまった中でも、私はあなただけにずっと縋っていた』
大人にならなくちゃいけない。夢を見るのではなくて、夢を見せなきゃいけないのにコイツはそれをサボった。でも、コイツの言葉には確かに夢があった。
『でも、あなたの感情なんて一つも考慮にいれていなかった。そのはずなのに、あなたの本心を考えるだけで、また大事なものが私の手元から離れていくんじゃないかと思って、向き合うのが怖くなっていたんだ』
コイツはアタシのことなんて考えたことなんか一度もなかっただろう。でも、コイツの行動はなぜかアタシの中にいつも深く入り込んできた。
『私は、冷たいトレーナーであればいいのに、あなたをみるだけで数え切れないほどのどうしてが沸き上がってきて、それが沸き上がってくる理由がどうしても分からなかった。私の考えていることと、行動がどんどんちぐはぐになっていって、欲しいものが、分からなくなって。どうしようもなくて、ぐちゃぐちゃになっていって、それがどんどん重くなって、私は動けなくなったんだ。それがどうしようもなく苦しかった』
どんどんちぐはぐになったんじゃない。最初からちぐはぐだったじゃないか。そして、コイツは気づいていなかっただけだ。自分の重さに。そして気づいていしまったから、動けなかった。それだけだ。
『あなたの気持ちに気づいていていても、きっとURAファイナルズは目指すんだろうって最悪の可能性から目を逸らして、私自身を守っていた。でも結局、あなたの意思を尊重して、あなたは死に損なって、私は消えたくなった』
でも、アタシも重くなっていた。だから、楽になりたかったんだ。
『あなたが目覚めた後も、あなたの気持ちに目を逸らした罪悪感に押しつぶされそうになって、私は自分が傷つきたくなくて、あなたのことをずっと見ているのが辛くなって、あなたの元から離れた』
アタシも楽になりたくて、コイツを遠ざけた。
『卑怯者だったんだ。そうやって自分が悪ものになっていれば、まだ楽だったのかもしれない』
お互いに卑怯者だった。その時に、進む道が平行になった。もう交わることがなくなったはずだった。でも、ダメだった。
『でも、ダメだった。あの白毛のウマ娘に全部をめちゃくちゃにされた』
アイツのせいで全部が狂った。
『白毛のウマ娘はなんにも持っていなかった。誰よりも臆病で、繊細で、敏感だった。彼女が持っている鋭い感性に対して、神様は彼女になにも与えてはいなかった。どれだけ頑張って報われない。どれだけ、研ぎ澄ましても簡単にへし折られる。取るに足らない白毛のはずなのに、臆病のくせに、他の誰でもない私たちを拒絶した。自分の方が依存していたはずなのに、半身のように思っていたはずなのに、あの何も持っていない子が一番に道を示した』
逃げ道を塞がれた。退路を断たれた。
『私は自分の保身のせいで幸せを手からこぼれていった。だから、もう、何も行動しないようにしたかった。何もしなければ傷つかないと思っていたのに、向こうからやってきた』
一緒になって溺れるはずが、溺れていたヤツに無理やり引き揚げられた。
『その時に気づいたんだ。幸せっていうのは、私の意思なんて関係なくて不確かで簡単に消えるものなんだって』
それはコイツが無自覚に踏みにじってきたものだ。
『そして、狂ってしまうぐらいに白毛のウマ娘に憎悪が湧いた』
どうしようもなく、反吐が出てしまうような抵抗だった。
『あのウマ娘こそ、保身の塊だった。私よりも絶対に下のはずだった。だっていうのに、いきなり立ち上がって勝手に私の中から消えていった。私はあの子が欲しかったものを持っていて、あの子はなにもなかった。だっていうのに、あの子はもう逃げない覚悟を誓った。痛くて苦しくて、自分から放棄したものをよりによってあの子は自分の意思でもう一度掴んだ』
自分からすり寄って来た半身みたいなやつが自分の都合で離れていった。どうしても許せなかった。それで上手くいっていた歯車を自分から外した。安定していたものを根幹から揺らがされた。へばりつくような白にアタシは燃え上がるぐらいに激しく怒りを抱いた。
『私は堪らなく悔しかったんだ! 絶対に無理だろうと高を括っていた相手が急に自分よりも前に行かれた。全てにおいて彼女よりはましだと思っていたのに、気づけば私が一番向き合わなきゃいけない物に彼女は向き合っていた』
そうだ。 底があったはずなのに、それが無くなって、アタシはどん底まで落ちなきゃいけなかった。でも、楽になることも許されなかった。生きることも死ぬことも出来ずに、自分と向き合き続けることを余儀なくされた。
『じゃあ、彼女にないものを持っているのに今もまだ逃げている私はなんなんだよ! どうして生きているんだ! どうして私は立ち上がらないんだ! 全部全部投げ捨てることも出来ずに、上を目指すことも止めた私の理由はなんだんだよ! どうして、私はこの世界に身を置いているんだ! なんで私はトレーナーになりたかったんだ! 私がやりたかったことはなんだったんだよ!』
目の前の女の苛烈さは普段の何よりも鋭かった。こんな表情を今まで見たことはなかった。ただただ、むき出しの感情でしかなかった。
『……ずっと、ずっと考えていた』
吐き出すような告白だった。
『私が欲しかったもの。私がトレーナーとして掲げていた結論で諦観は【頂点に立てる一握りは勝つために走っているんじゃない。自分らしく、自分の好きなように走る。走り終えた時、立っている場所が頂点だというだけ】でそれを覆したくて、でも出来なくてくすぶっていたところにあなたと出会った。そして私は【ナリタタイシンをウマ娘の頂点に連れていってあげる】という夢が出来た。でも、それも全然本質には降れていないビジョンだった』
一度たりとも言わなかった。大事なこと。その一端。
『だから白毛のウマ娘に私は自分の欲望を満たす手段として、あなたを利用してるだけと言われた。最初は違うと思いたかった。でも、やっぱりそうなんだよ』
それは、彼女が彼女自身に語りかける言葉そのものだった。アタシを見ていない。でも、それは悪いことではなくて、アタシという不純物を無視した本当の彼女の言葉に違いなかった。
『私はずっと誰かの側にいたかったんだ』
ひどくちっぽけな願いだと思う。
『誰かと一緒に果てしない高みを目指す。終わることのない夢をいつまでも一緒に追いかけ続けられる誰かが欲しかったんだ。私にとって寄る辺で、大樹で、頼れるパートナー。そんな人と出会えれば傷つかずに済むんだろうなって思ってたんだと思う』
ありきたりで、面白味のない言葉だ。秘する価値なんて一つもない。
『でも、それも正しくなかった。側にいるには傷つかなきゃいけないんだ。苦しくても手を離さないように努力しなきゃいけない。ただ、手を取ってくれるのをまっているだけじゃ簡単にすり抜けてしまう』
ひどく遠回りだった。敢えて、目的地を見ないでそれ以外を全部埋めてからやっと目的地に向かうようなそんな、ある意味でひどく意識しすぎたゆえの遠回り。
『私は、もう逃げないよ。取り戻しにいく。私の中から離れていった全部を拾いにいくんだ。それは、二村雄二で、シンボリルドルフで、サイレンススズカで、白毛のウマ娘。そして』
その目には信念が宿っていた。不断の覚悟があった。サイレンススズカの瞳の中に見出したものだ。あのへばりつくような白が見せた輝きそのものだった。
コイツは、本気だった。
『ナリタタイシン、あなたを取り戻しにきた』
理由は分からない。ただ、その言葉がずっとアタシの胸の中に入って来た。
目が離せない。
鼓動がうるさい。
信用も信頼も全部を白紙にしたかったのに、どんどんとその白が染まっていってしまう。
『別にあなたじゃなくてもよかった。あなたであったから、ここまでこじれてしまったのかもしれない。それは結果論にしかすぎないけれど』
その言葉はひどく重かった。
『でも、今はあなたじゃないといけない。私の隣に居なきゃいけないのは間違いなくナリタタイシンしかいない。それは誰にも否定できない。あなた自身にだって否定させない』
ああ……本当に。
『私は逃げない。私は自分自身の気持ちから目を逸らさない。私は私のためにあなたを迎えにきた。あなたの隣にいるのは私しかいないって確信している』
もう、考えがまとまらない。
眩しくて仕方ない。なのに目を逸らせない。
そんなの甘言でしかないと否定したくても、心が言うことを聞かない。
『私の中で嘯いてくる私がいるんだ。お前はナリタタイシンに相応しくない、無理だ。そのたびに私は私の中の私をぶん殴ってでも否定している。私はあなたの走りに惚れた。それは間違ないんだ。最終3ハロンのナリタタイシンの脚の前じゃ、誰も敵う娘なんていないって心の底から思った。それ以外が全部ダメだったとしても、それでも絶対に通用するんだって今でも信じている。あなたはこれからも自分自身が認められないのかもしれない。どれだけ周りが認めてもあなたの中で折り合いをつけることなんて不可能かもしれない。……だから、私が何度だって言ってあげる。あなたがあなた自身を肯定してあげられなくても、何十回でも何百回でも側にいてほしいって言ってあげる。あなたの不安に全部寄り添うよ。あなたの自信がなくなればもとに戻るまで手を握る。抱きしめてあげる大好きだって、あなたが一番だって何回でも言ってあげる。だから、黙って私に着いてこい!ターフの上で、一番見晴らしのいい景色まで私がエスコートしてあげるから!』
アタシの目の前には手が差し出されていた。
その手をすぐに取ることは出来なかった。それ以上に考えていることがあったから。
熱を持って赤くなっていったはずの手がだんだんと青白くなっていく。震えが止まらなくなるのが分かる。でも、アタシはまだ自分のなかで答えを出し切れていなかった。
『……なんてね、全部。ウソだよ』
ひどく震えた声だった。ともすれば嗚咽と表現した方が良かったかもしれない。
『本当は、今日、改めてお別れを言いに来たんだ』
やっぱり、アタシは答えが出なかった。いや、思いついていたものよりもいい言葉が浮かばなかったんだ。
『っっ!……タイ、シン?』
『本当に、アンタってバカだね』
トレーナーの体はとても冷たかった。震えていた。
アタシと同じくらいに肉がついていない。こうやって腕の中にいるはずなのに、鼓動が聞こえているのに、気づけばすぐに散ってしまいそうな儚さを感じる。
『アンタにどんだけ振り回された。アンタにどれだけ傷つけられた。アンタはいつもアタシの話なんか聞いちゃいなかった』
でも、散ってしまいそうなだけだ。鼓動は聞こえる。声だって確かに耳に入る。体の芯にはぬくもりがちゃんとある。
今の言葉だって、嘘な訳がない。噓だというには中身がありすぎた。アタシの中に深く入って剥がそうとしても剥がれないくらいにはドロドロとへばりついて仕方ない。
『許すわけないでしょ。噓つきが言う全部嘘なんて信じられるわけがない。自分で完結するな。アタシの言葉を、顔を、声を、気持ちを全部受け止めるまでアンタを許すわけがない。これでさよならですって言ってはいそうですかなんかアタシは絶対に許さない』
どれだけ言葉を重ねても、アタシの腕の中にいる存在はあやふやだ。掴むことが出来ない。こっちの心を乱すだけ乱して満足するなんてアタシの気分が悪くてしょうがない。
『ああ、苦しいな』
『今さら、後悔してんの』
『うん。許さないなんて言われてとっても辛くて、胸が、苦しくて。心が痛くて、涙が、止まらないんだ』
『本当に、バカだ』
やっぱり、こいつはどこまでも噓つきだと思った。絶対に逃がさないようにアタシは黙って、力を強めることしか出来なかった。
『ねえ、タイシン』
『なに』
『一つだけ聞いていい? ずっと、聞きたくて聞けなかったこと。知ろうとするだけで怖くて痛くて、知りたくなかったこと。……あなたの本心を聞かせて欲しい』
『アタシは』
アタシの気持ちは。
「タイシン。タイシン」
「んっ……ん」
微睡みから引き揚げられた。
夢を見ていた。アタシの番だった。その時のアタシはなんて言っていたんだっけ。
そんなことを考えながらも目は開けない。でも、扉の向こうから聞こえるガヤガヤした音で、会場の控室であることが分かる。
「……どのくらい寝てた?」
「10分くらいかな」
なんとか踊り切ったウイニングライブの後、アタシは少しだけ眠っていた。
体が重たくて、あまり動く気にはなれなかった。アタシはその場でトレーナーに声をかけて現状を理解した。
というより、枕なんてなかったはずなのに、頭が高い。少しだけ目を開けると照明に目をやられかける。
でもわかった。たぶん、膝枕ってヤツだ。
「ん、ありがとう」
「夢、見てたの?」
膝を借りていたことに礼を言って離れようとしたけれど、簡単に押さえつけられた。
本当は硬い床の方がいいんだ。こんなに柔らかくて、ぬくもりを感じてしまっていたら、ずっと寝てしまいそうだから。
「まあね」
そして、トレーナーの言葉は本当にアタシの心を覗いているようであまり気分は良くない。
「ねえ、タイシン」
「なに」
「負けちゃったね」
「うるっさいな」
本気で走った。でも、到底追いつけなかった。
あの黒は格別だった。
本当に途中までは走りが死んでいた。もうどうあがいても、無理だった。このレースでケガをするんだと分かるくらいには、諦観に包まれて死が隣り合わせだった。
それなのに、気づけば生きていた。
今日走った誰よりも鮮烈で輝いていた。
「本気で走ったんだ」
「うん」
「でも、届かなかったんだ」
「うん」
「結局、アタシはそれぐらいの実力しかない」
「うん」
「そんなのは、ずっと分かっていたんだ」
「うん」
トレーナーは何も言わない。ただ、アタシの頭を撫でるだけだ。
それが逆にアタシの中でひどく突き刺さってしまう。
もう、堪えようとしても、溜めきれない。
「悔しいっ……なあ……」
目が熱い、喉が痛い。
言葉を紡ごうとしても、気持ちが漏れ出て言葉にならない。
もう、自分を奮い立たせるほどの元気も持ち合わせていなかった。アタシは全部を失った。ここで出し尽くしたんだ。
「お疲れ様」
トレーナーから掛けられる、それだけの言葉。短いありふれた言葉なのに、今はその言葉がアタシの中にどこまでも深く入っていってしまう。
苦しくて、悔しくて、体が震えてしまう。痛くて、胸が張り裂けそうになってしまう。でも、アタシはもうそれに抵抗する術がなかった。
「っっ!……な、に?」
「苦しくて、悔しくて、一人じゃ抱えきれないなって思ったの」
気づけば、アタシは抱き寄せられていた。二つの鼓動は徐々に同じぐらいのリズムになっていく。
トレーナーの抱きしめる力が増していく。
「バカ」
「私は、一人じゃなにも出来ない弱虫なの。だから、あなたを利用させて頂戴。私の気持ちをちょっともらって」
トレーナーはアタシの話なんて一つも聞いたことがない。アタシの気持ちを考えたことなんて一度もない。
なのに、どうしてトレーナーの行動はこんなにアタシの心に入ってくるんだろうか。
ああ、本当に。
「腹立たしいくらいにバカだ」
このぬくもりにひどく落ち着いているアタシも同じくらいバカだ。言い訳のしようのないバカだ。
だから、今はこのぬくもりを、何も考えずに享受していたい。
「落ち着いた?」
「ん」
傷の舐めあいに時間をかけている暇はない。
アタシは今日で死んだ。アタシのトゥインクル・シリーズはここまでだ。
「じゃあ、行ってくる」
一線退くものとして引退のインタビュー。それがアタシの終わりだ。アタシの明確な死だ。
終わるなら、綺麗に終わろう。
だって、今日は気持ちよく負けた日だ。外は曇っている。でもアタシの心は晴れやかだ。
たぶん、今日みたいな日を死ぬにはいい日と言うんだろう。
「最後だね」
「ああ、死ぬにはいい日だ」
だからこれからアタシはターフの上で死ぬ。
阪神レース場は今もまだ曇っていた。
ウイニングライブも終わった。普段ならガラガラになっているはずの観客席にまだ半数以上の観客が残っていた。
観客の囁きは大きく、あちらこちらから『引退』や、『終わり』といった言葉が飛び交っている。
レース場に一人のウマ娘が現れた。ウマ娘がマイクを持って観客席を見つめるだけで、ざわつきは一気に静まる。
レース場に立つナリタタイシンは少しだけ笑いそうになってしまうのを堪えた。
――まるでレース直前みたいだ。
もう、二度と感じないであろう感覚を必死に刻むことを意識する。そして、すぐにマイクの電源を入れて宣言する
少しばかりのハウリング。
調子を確かめるために、発せられた言葉。
終わりのはじまりを予感させる工程を重ねていくことで観客の意識がタイシンに向かっていく。
そして、タイシンは口を開いた。
「アタシはあんまり人前でしゃべるのが得意じゃない。だから、先に宣言したい」
タイシンは自分の思いを引き出すようにゆっくりと口を動かす。
「アタシは今日で引退する」
沈黙を裂いた。
観客席からのざわつきがひどく大きくなる。しかし、タイシンは気にせずに続けていく。
「メイクデビューを勝った。ホープフルステークスを勝った。皐月賞を勝った」
滔々と語っていくタイシンの言葉に観客はまた静まりかえる。
「いつの間にか、期待の新星なんて呼ばれることにもなった」
無機質なほど重ねていく言葉を観客たちは聞き逃しまいと黙り込んでいる。
「でも、本当のアタシはそんな大それたものじゃなかった」
タイシンは語りながら、長いような短いような半生を振り返っていた。
「親からは大きく産んであげられなくてごめんねって謝られ続けた。あんな小さい体で走れるの、なんて聞きたくもない陰口に晒された。何度も何度も聞き飽きた雑音。小さいころからの嘲笑や憐憫が、喉の奥にべったりと張り付いて取ることができない。言い返す言葉も吐き出せなかった。喉の奥でドロドロと渦巻いていた。苦しい。酸素が足りない。うまく呼吸ができなかった」
あんなに悩んでいたのに、ナリタタイシンは今ではひどく遠い過去のことのようにも感じてしまう。
「レースで1番を取った時だけは、今までの雑音が聞こえなかった。ざまあみろ、と溜まった感情を吐き出すことができた。そのおかげで喉を圧迫するものがなくなり、呼吸が楽になった。いつしか、レースが自分のすべてになっていた。ターフの上でしか満足に呼吸できなかった。酸素を求めて胸郭が膨らむように、どんどんと走る場所を貪欲に求めるようになった」
自分を変えたかったのだとタイシンは自分で分析する。いじめられて、否定させている自分にだって誰かに誇れるものがあるのだと当時は思いたかった。タイシンはそう自分のなかで結論づける。
「トレセン学園に入学してから絶対的な差を目の当たりにした。今まではハンディキャップを抱えていても、勝てないだろうという前評判かあっても、それを覆して勝ち抜いてきた。でもトレセンは本当にレベルが違った。体格が違った。一握りの本物しか勝ち残れない世界に触れたことで、今まで聞き飽きた雑音を本当の意味で理解した。してしまったんだ。そしてアタシは、またうまく息が出来なくなった」
そこに信念などは宿っていなかったとタイシンは自嘲する。承認欲求だけであり、勝つために走るというより走るしか承認欲求を満たせないから走る理由としての勝利を設定していた。今のタイシンにはそれが分かった。
「でもそんなアタシにも競いあう仲間がいた。おかしなトレーナーがいた。そのトレーナーはターフの上で一番見晴らしのいい景色まで、私がエスコートしてあげるなんてアタシに嘯いた。笑ってしまうような大言壮語だと今も昔も思ってる」
本当に、おかしいというか現実が見えていない発言だとタイシンは聞いた時からずっと思っていた。でも、それでもタイシンは期待してしまっていた。
「でも、アタシは欠片でも思ってしまった。見せつけられてしまった。ああ、それは気分がいい光景なんだろうなって」
笑ってしまいたくなるくらいのバカげた話だった。現に実現なんて不可能だった。でも、タイシンはその夢を嗤いたくはなかった。バカにしても他人から貶されたくはなかった。
「アタシは、その笑っってしまうぐらいの夢物語を信じてしまった。そうであればいいって感化された。だから、アタシは、失敗したんだ」
タイシンは盲目になっていた。時を経ることで見えてくる現実に心がくじけそうになっても全部を飲み込んで、タイシンは前だけを見ていた。
「勝つことは出来た。でも、勝ち続けることは出来なかった。それをするだけの地力がないって分かっていた。それでもその夢物語のためにアタシは、アタシの可能性を前借して、自分にだって出来るって思い込もうとしていた」
タイシンにはあまりにも過酷だった。体格が違った。才能が違った。基礎能力が違った。ありとあらゆるもので劣っていたタイシンの唯一秀でたものは末脚だけだった。
「ダービーで負けた。菊花賞でも負けた。負けたことが悪いんじゃない。アタシはアタシのエゴで可能性を前借りして、自分の競技人生を縮めてしまった。もう、ロクに走ることも出来ない体になってしまった。だから、アタシはここで引退をするんだ」
タイシンの言葉には後悔や未練など一切滲んではいなかった。ただ、事務的に終了させるような淡白さがあった。
その端的な言葉に、観客席からはすすり泣く声も聞こえる。それはタイシンを応援しているファンの声だったのだろう。
「本当は菊花賞の後、すぐにやめるつもりだった。もうアタシは全部がなくなっていたから」
しかし、そんな声もタイシンには関係なかった。むしろ、ここまでよくやって来たと自分で褒め称えるほどだった。それほどまでに、タイシンの体は満足に走ることさえ出来ない体になっていた。
「でも、もうここでおしまいだ。もう、分かったと思う。アタシにはもうなにもないんだ。ラストランが最下位だった。本気だった。アタシの持てるものをやってこれだ。もう、限界だったんだ」
消え入るような声でタイシンはそう訴える。
観客たちも言葉はなく、ただ、すすり泣く声のみだった。
「逃げるなー!!!!」
その静寂を一つの声が破った。その声量は大きく、遠く離れたタイシンさえも燃えるような熱量を感じるようだった。
「逃げるな!!! ナリタタイシン!!!! 私との約束を破るのかよ!!!! 許すわけないだろ!!! こんな中途半端な所で引退なんか私が絶対に許さない!!!!」
それは燃えるような赤だった。周りの友人に取り押さえられながらもその言葉を止めようとはしない。
「私は勝った!!! 勝ったんだ!!! 私は勝ったのに、お前は負けてる!!! 私の心に火をつけたのはお前だろ!!! なんでお前はこんな所で逃げるんだ!!! 許さない!!! 許すわけがないだろ!!! ざまあみろ。ざまあみろ。ざまあみろ、バカ!!! お前は私を追いかけるんだ引退なんか絶対にするな!!!」
ほとんど一方的な押し付けだった。タイシンはうんざりしていたけれど、燃えるような赤は常にタイシンを意識していた。だからこその怒りなのだろうとタイシンは感じた。
「もう、アタシは走らない。トゥインクル・シリーズのレースは出走しない」
タイシンの言葉はその怒りさえも凍らせてしまうほど冷たかった。
「な、な、なんだよ、なんだよそれ!!!」
燃えるような赤は動揺を隠せないでいるようだった。本当なら反発されるのを期待していたような憎まれ口だった。
「勝ちたいって思う気持ちがあればいいんじゃないのかよ!!! 勝ちたい。誰が相手だって絶対に勝つ。例え、針の穴に糸を通すような可能性だって諦めなきゃ絶対に勝つんだろ!!! アンタはそれだけを信じて出せる力をレースで出すだけなんだろ!!! まだ勝ててないだけだ!!! ダメかどうかなんて走り終わるまで関係ないだろ!!! それがアンタじゃないか。ナリタタイシンじゃないか!!! アンタはそういうウマ娘だ!!! その気概だけで全部をひっくり返すぐらいのすごいウマ娘だろ!!!」
「それだ。アタシはそれに押しつぶされた」
タイシンは自分の言葉がひどく冷たく鋭くなっていくのを自覚する。しかし止めることはない。
「アタシは無理だった。勝てない。勝ち進めないというその自覚があったのに、他の奴らに押し上げられた。自分の中で見てるナリタタイシンでアタシに言葉をかけてきていた。アタシのことなんて見ようとせずに、アタシに向かってナリタタイシンを語ろうとする」
タイシンは怒りが抑えきれない。
「アタシは競いあう仲間がいた。でもそいつらはアタシの実力を過信していた。アタシなんて取るに足らないはずなのに、ずっとアタシを意識していた」
おかしいとタイシンは思っていた。ウイニングチケットもビワハヤヒデも到底太刀打ちできないタイシンは思っていた。なのに、二人はタイシンのことを自分たちと同等かそれよりも上に見ていたそれがタイシンには腹立たしくてしょうがなかった。
「アタシのトレーナーはアタシのことなんてこれっぽちも見ていなかった。だから失敗した。アタシの気持ちを利用していた」
そもそも出会わなければよかった。そうすればここまで苦しまなかった。タイシンはずっとそう考えていた。
「アタシにはへばりつくような白があった。自分からすり寄って来たくせに、アタシから離れていったくせにアタシをレースに縛り付けた」
タイシンの下に勝手にやってきて、出て行った。また戻って、そして出ていった。いるだけで心を乱してきて、そして、タイシンはレースという循環に押し戻されてしまった。吐き気を催すような白がタイシンは憎くて仕方なかった。
「アタシには先輩って呼べる人が一人だけいた。自分勝手で、何考えているのかよくわかんないくせに、アタシを認めて受け入れた。その癖にすぐにアタシの中から出ていった」
心の中にある澱があることだけをタイシンに教えてサイレンススズカはタイシンの元から去っていった。好き勝手にしてタイシンをめちゃくちゃにしてどこかに去っていったのだ。タイシンは狂ってしまうような怒りを覚えていた。
「そして、アンタたちだ。アンタたちはアタシのことなんか知らないくせに、データや少し走っただけの自分の主観でアタシを語る。アタシの本心とはかけ離れているのに、アタシの本心を否定してアタシにナリタタイシンを押し付ける」
タイシンは烈火のような怒りを抱いていた無責任な言葉ほどタイシンを傷つけるものはないのだから。
「アタシは本当は勝つために走っていたんじゃない。誰かに見てもらいたかった!」
タイシンが言いたくても言えなかった言葉だった。
「誰にも否定されない。肯定もされなくていい。ただそこにあるだけのアタシを見てもらいたかった。でも、誰もそんなことしてはくれなかった! 小さいだとか弱いだとかそんな付加価値をつけてアタシを見てくる。アタシの劣等感だけが溜まって、アタシの肺を圧迫していた」
ずっとずっとくすぶっていたタイシンの本心。
「レースで走るアタシは見てもらえた。そんな劣等感のない目で見てもらえた。でも、段々と期待の視線が重くなった。見られれている事実が耐えきれなくなった。諦めない、逆境を覆すという期待に押しつぶされそうになった。でも、人なんてのはすぐに手のひらを返す。ウソだって平気でつく。ずっと応援しているよなんて言っても気づけば他の場所に視線が言っているなんてザラだ。だからアタシは走るしかなかった! 諦めちゃいけなかった! 重圧が苦しくて仕方ないのに、それでも走るいがいにアタシに逃げ場はなかった!!! だって! だってそうじゃないと!!!」
信じるなんて到底タイシンには出来なかった。出来るのは裏切られてもいいという覚悟だけ。それもすごく苦しいからこそ、タイシンはずっと忘れられないように、呆れられないように、走り続けた。
「……誰もアタシを見てくれないじゃないか」
ちっぽけでありふれた感情なんだとタイシンは思う。しかし、タイシンはそれが全てだった。
「それが事実かどうかなんて分からない。でも、アタシはそうだった!!! だから、走るたびに走ることが苦しくなっていた!!! だってそうだろう!!! アタシは走りながらアタシ自身の首を絞めていたんだから!!!」
サイレンススズカに気づかされた。へばりつくような白に暴かれた。どうしようもなくむき出しにした本心を晒しているせいでタイシンは胸が張り裂けそうなほどの痛みを感じる。
「もう、それも今日で終わりだって思うとすごく気分がいい」
今のタイシンにはそのくらいの激痛が欲しかった。タイシンが生を実感できるのだから。
「アタシは死ぬならターフの上で死にたいって思ってた。今日で私は死ぬ。レースを走るウマ娘としてのナリタタイシンは今日を以て死に至るんだ」
タイシンは上を見上げる。
曇りだ。更に雲が厚くなったような気がする。どこまでも不明瞭で見通しが悪い。
だからこそタイシンは思う。
「今日は死ぬにはいい日だ」
それもまた紛れもないタイシンの本心だった。
「私は……私は……!!! それでも、それでも!!!」
燃えるような赤には先ほどの声量はない。でも、観客席の声くらいはタイシンには簡単に耳に入る。
「……私のこの言葉だってタイシンを傷つけていたのか」
それは自覚だった。反省だった。後悔や自責の念と形容するのが適切な独り言だった。
タイシンは呆れてしまう。ようやく気付いたのかとタイシンはため息さえつきそうになった。
「アタシは、本当は強い癖にアタシを同等だっていう仲間が嫌いだ」
タイシンの頭に思い浮かぶのはいつも笑顔の二人だった。
「アタシは自分のことしか考えていないトレーナーが嫌いだ」
タイシンはさきほどまでのぬくもりを思い出す。
「アタシは勝手に出ていったへばりつくような白に虫唾が走る。憎くてしょうがない」
本当に許さない。タイシンはどうしたって、逃がすわけにはいかなかった。
「アタシは先輩がきらいだ。アタシの中に入り込んでくるくせにアタシとは違う所を向いていて無責任な優しさだけを置いていったあの人が嫌いだ」
タイシンはあの鈴の音を思い出す。思い出しても泣いてしまいそうなほど美しい笑顔だったと今でも鮮明に思い返せる。
「アタシはアンタたちみたいな観客が嫌いだ。アタシのことなんにも知らないくせに無責任な言葉だけをかけてくるアンタたちが嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。大っ嫌いだ!!!!」
諸悪の根源だとタイシンは思う。観客の存在がなければタイシンは傷つかなかったと確信さえ持っている。
「……そして、アタシはアタシのことが一番嫌いだ」
これもタイシンが言いたくても言えなかった言葉だった。紛れもない本心だった。
タイシンのその泣きそうな切ない声に全ての勢いがかき消されてしまった。
涙さえも聞こえない。ただ、全てがタイシンの気持ちを重んじるように口を噤んでいた。
タイシンも少し気持ちを落ち着けるために、沈黙する。
本当に無音になってしまう。タイシンにはひどく長い時間のように感じてしまった。けれど、まだタイシンは言い残したことがあるのだと自分を奮わせる。
「見て欲しかった。もう無理だ。諦めや後悔や限界を口に出せばアタシの今まではずっと変わっていたのかもしれない。でもそうはならなかった。アタシがそうしなかったから!」
タイシンは自分の半生を振り返るとクソったれだったと思う。
だれも自分をそっとしておいてはくれないのが辛かった。でも、それに対する努力をしていたのかと自問するとタイシンも分からない。
だからこそだ。だからこそ、タイシンは言わないといけなかった。今までの本心を。
そして、今からは紡いでいかなくてがいけなかった。自分の野心を、夢想を、笑ってしまいたくなるような大言壮語を。
声を大にして語るのだ。
「だから、アタシは復讐したい。アタシのことを甘く見ていた奴らに。アタシが嫌いな奴らに。アタシを嫌っている奴らに」
一世一代の大見得というヤツだろう。タイシンは取りこぼさないように積み重ねていく。
「アタシは死ぬ。もう死んだようなものだ。でも、まだ道がある。一矢報いる方法がたった一つだけある」
刺激しろ。痛くてたまらない場所を探し出せ。タイシンはその一心で、揺さぶる。
「アタシは復讐する。個人に復讐するなんてくだらない。だから、この歴史にしようと思う」
その言葉に観客はざわつき始める。だから、タイシンは畳みかけた。
「来年のはじめに初めて開かれる大会がある」
タイシンはもったいぶるように、少しだけ間を置く。
「URAファイナルズだ」
その言葉に、少しだけ観客の戸惑いがタイシンはうかがえた。
「あらゆるウマ娘が、己の全力を以て頂点を、最強を、トップの座を競うことができるレースだ」
死ぬにはいい日だとタイシンは思っていた。
「そこで勝てば文字通り、最強のウマ娘だ」
でも、だからこそタイシンはもったいないとも思うのだ。
「これは提案だ。取引だ。共闘の申し入れだ。アタシがアンタたちに向かってやる最初で最後のファンサービスだ」
死ぬにはいい日なんてタイシンには毎日だった。だからこそ、死に対するハードルなんて驚くほど低くなっている。だからこそ、なのだ。
明日はきっと今日よりも死ぬにはいい日なっているに違いない、と。
まだ、最高のいい日を見つけてはいない。だからこそ、あがかないといけない。まだ、まだタイシンにとって絶頂ではない。まだ貪欲に上を目指すのだ。
「かつて期待の新星と呼ばれたウマ娘がいた。でも、今では見る影もない。ラストランは最下位だ。言ってて悲しくなるほど、出涸らしのウマ娘」
もっとだ。タイシンはもっと薪をくべたくてしょうがない。
「そんなウマ娘が最初のチャンピオンになる。ワクワクしない?」
タイシンは笑ってやるのだ。全てを一笑にふしてやる覚悟で臨む。チャンピオンになんてなるのは訳もないという無責任な期待を煽る。
「そこに出てくるやつなんてアタシじゃ到底太刀打ちできないウマ娘ばっかりに決まっている。でも、アンタたちはこうは思わない?」
――絶望を煽れ。とてつもない下を見せつけてやる。
「昔の存在になった敗北だらけのウマ娘が、磨いてきた唯一の武器で全てを薙ぎ払い頂点に立つ。上だけ見上げている奴らの足を掬って勝ちを掴む」
――いつだって、何をしていたって、この感情は誰にだって持っている。アタシみたいなやつのレースを見てるやつなんてなおさらだ。
「誰もが憧れて、殆どの人が無理だと嗤う、そんなジャイアントキリングを果たす。もし、それを当事者として目の当たりにしたらどう?」
観客の目がぎらつくのがタイシンにはハッキリと分かる。
「アタシは本気だ。絶対にこの場所で戦うためだけに今まで牙を研いできた。引退したって、それは同じだ」
――だからこそ、ここで成功させなきゃいけない。
「だけどアタシだけじゃ無理だ。アタシは一人で戦えるほどの実力をもっていないし、これはアンタたちがいなきゃできない夢だ」
――アンタたちにしか出来ないことだ。
「URAファイナルズの参加資格を得られるのは、ファン投票で選ばれたウマ娘だけだ。即ち、トゥインクル・シリーズにて活躍し、多くのファンを獲得した代表的なウマ娘“スターウマ娘”にのみ出走権が与えられる」
――自分の手でスターを生み出すんだ、そういうの好きでしょ。
「アタシはここで終わる。それじゃあスターなんて言うのには到底届かない。だから、提案だ。取引だ」
――だから、喰いつけ。渇望しろ。
「アタシはアタシが嫌いだ。アタシは一番アタシに復讐したい。だから、このURAファイナルズでチャンピオンになれば今までのアタシを少しは好きになれると思う」
――これはアタシの誰にだって否定させない欲望だ。本心だ。
「そして、アタシはその夢のためにアンタたちの想いを背負ってやる。勝ちたくて堪らないのにでも、どうしても勝てない無力な感情を背負ってやる」
――アンタたちにはウンザリだ。でも、立ち上がれたのも、走り続けてきたのもアンタたちの声だ。
「生まれついての才能で全てを諦めるしかなかったやつの無念を晴らしてやる。ここぞという時に立ち向かう勇気が出なくて逃げてしまったやつのもしもを見せてやる。負けが込んでもう全てが嫌になってしまいそうな絶望を笑ってやる。他人の才能に嫉妬してそこから先、全部を呪うしかなかったやつに世界の広さを教えてやる。アンタたちがアタシに無責任に背負わせてきた一切合切をアタシは受け止めてやる」
タイシンは観客を睨みつける。息がひどく苦しい。口のなかに鉄の味が広がる。
これぐらい、自分は弱くなったのかとタイシンは情けなくてしょうがない。でも、タイシンには関係なかった。
「だから、アタシをスターまで押し上げろ!!! 眠れる獅子だと全員に吹聴しろ!!! 全部出尽くした可能性の中でも、その中でも最後の最後まで残ってるやつをアタシは絞り出す!!! アタシの本気を見せてやる!!! 今日だって本気で戦った。でも全力なんか出してない!!! アタシの言葉に価値をつけろ!!! 可能性を見出せ!!! アンタたちが見たくて仕方なかったものをアタシは見せてやる!!!」
――アタシはまだ戦える。戦わなくちゃいけない。そうしないと欲しいものが全部すり抜ける。立ち止まっても無意味だから。
「見ろ、見ろ、見ろ、見ろ。ナリタタイシンの本気を見ろ、全力を見ろ。アタシが嫌ってる奴にはアタシの生き様を見せてやる! アタシのことを嫌っている奴には吠え面かかせてやる。だから逃げるな!!! 目を逸らすな!!! 声に出せ。耳で聞け。その振動を肌で感じろ。その時に抱いた感情の側にあったものの匂いまで、取りこぼすな。アンタたちは胸に刻まなきゃいけない。記憶に留めておかなきゃいけない。どんな時だって常に頭の隅に思い浮かんでしまうぐらいに強烈に叩きつけてやる!」
観客は空いた口が塞がらない様子だった。それはナリタタイシンにとって好都合でしかない。
「逃げるな。口に出せ。目を逸らすな。アタシを見ろ」
――アタシは逃げない。逃げられないんだ。だから、アンタたちだって逃がすわけないだろ。
「アタシの名前は、ナリタタイシンだ」
確かめるようにタイシンは口に出す。
「アタシはその名を刻む。アンタたちが歴史の立会人になるんだ……待ってるから」
最後の一押しが成功したのかタイシンには分からなかった。でも、確かに自分の魂は伝えることは出来たとタイシンは感じていた。
うるさいくらいに観客は声を上げていた。
熱狂だった。
そのうるささに感化されたように厚い雲の中から一筋の光が差す。段々と雲の間隔が広がっていく。
少しだけ覗き込んだ太陽は、確かに阪神レース場に光を注いでいた。
気づけば、眩しいくらいの晴天が広がっていく。
「本当に、死ぬにはいい日だ」
死ねない理由が出来たタイシンが惜しんでしまうくらいには、気持ちのいい空だった。
多分、あと4話で終わります。
僕が書きたかったもの全てはここにあります。あとは終わらせるだけです。