梅雨も明け、夏の訪れを感じる。
トレセン学園内の生徒会室ではシンボリルドルフが書類に目を通していた。
シンボリルドルフはその書類の内容を読みながら吹き出してしまうのを必死に堪えている。最後まで目を通し終わるとその感情を堪えきれずに、シンボリルドルフは自分の視界に映る男に話しかけた。
「二村トレーナー、この嘆願書には目を通しただろうか」
生徒会室のソファーに横柄な態度で腰かけている二村は、シンボリルドルフの言葉に疎まし気な表情で返答する。
「ああ、一応な。揃いも揃ってバカばっかりだ」
「いささか、言葉が強いような気がするが、その意見には概ね賛成だな」
シンボリルドルフは確かめるように最初から読み返す。
『ナリタタイシンのURAファイナルズ出場に関する署名』
宝塚記念の一件の後、ナリタタイシンの発言は相当な物議をかもすことになった。
その時の、あまりの会議の多さにシンボリルドルフは辟易していた。というのも、引退を宣言したウマ娘がURAファイナルズのみに出場は認められないという意見を持つ職員と、出場資格があると認識する職員の対立が起こったためであった。
『一線を退くと表明して、最後だけ走るのはどうなのでしょうか』
『そういうウマ娘がいるからこそ話題性になったり、どう活躍するか面白いんじゃないんでしょうか』
傍目から見ればくだらない意見だった。どう会議したところで結論など出るはずもないのにと、シンボリルドルフは胸の内をグッとこらえるのに精一杯だった。
その会議の中でシンボリルドルフや、生徒会の顧問として在籍している二村の意見も求められたが、二人ともその立場を明らかにすることはなかった。
「議論など無意味だ」
シンボリルドルフは切り捨てる。
「こんな書類に価値などない」
嘆願書を机の上に放り捨てる。
署名の数は3万を越えていた。目に見える形で自分の意思を表明するファンがこれだけいるのだ。潜在的なファンの数を考慮すると、ともすれば、スターウマ娘に簡単に届きうるのかもしれないとシンボリルドルフは思う。
しかし、それも意味はないのだ。
「全ては年末に行われるファン投票での結果でしかない。参加資格を有するのは今年のクラシック級までの選手という下限しかない」
年始に開かれるURAファイナルズとは、あらゆるウマ娘が己の全力を以て、頂点を競うことができるレースである。シニア級のウマ娘だって多く出場することになる。年齢の差や経験の差など取るに足らないものでしかない。
有マ記念やジャパンカップなどはそういう舞台であった。しかし、本当の意味では少し違う場所だった。
安牌がある。優勝候補が決まっている。戦う前から勝敗が決してしまうことがあったのだ。だからこそ、シンボリルドルフは引退することにした。サイレンススズカも海外へと拠点を移した。
それだけでしかない。シンボリルドルフたちに参加資格がないわけではないのだ。
ただ、そうしていないだけ。
「参加したいという意思は大いに奨励したい。そして、参加すべきでないという意見にも頷けるものがある」
シンボリルドルフは頭をふった。
「主張の数だけ正義がある。大義を持っている」
シンボリルドルフの網膜に焼き付いているのは伝統を重んじる職員の姿。新しいレースの開設に最後まで反対していた。しかし、正式に開設にすることになってからは一番に働いていた。その彼が難色を示しているのだ。シンボリルドルフとしても、彼の意見を尊重したいという思いは非常に強かった。
「だからこそ、対立が常であり、その対立や衝突の中で私たちは折り合いをつけていく」
歯がゆい思いの中でシンボリルドルフは目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、この嘆願書を提出してきた燃えるような赤い髪をした少女。泣きはらした目元がひどく印象的だと思った。
大粒の涙を流しながら、嘆願書を提出している姿にシンボリルドルフは憐れみを覚えた。そして、その赤い髪の少女の目の奥に宿る勝利への渇望にナリタタイシンを見出し、恐怖さえ覚えた。
たかが一人のウマ娘にここまで心動かされることがあるのかとシンボリルドルフは内心驚くばかりだった。
しかし、その影響力も意味はない。ことURAファイナルズに限ってはその限りではないからだ
「ファン投票の開票日。その時の投票結果が全てだ。どれだけ説得力があっても、どれだけ荒唐無稽でも、その結果が絶対でしかない」
それがURAファイナルズ出場におけるたった一つの明確な条件だ。
「君はどんな顛末になると予想する?」
いままで黙していた二村に意見を尋ねた。少しだけあくびをする彼の姿を見て、取るに足らない質問をしてしまったとシンボリルドルフは少しだけ自省する。
「そんなの、俺が分かるわけないだろ」
「ぷっ」
その感情は杞憂であった。この男は何も考えていない。その事実がシンボリルドルフにとって、呆れと納得をもたらす。
「誰が出るか、誰が勝つか。そんなの他人の勝手だ」
二村は大っぴらに開けた口を閉ざす。そして、シンボリルドルフを射貫くように見つめる。
「あの怪物はウマ娘の頂点に最も近い存在だ。それだけは確信を持って言える」
「ほう。あまり、君は普段そこまでの力を彼女に見出していなかった気がするが?」
シンボリルドルフとしては想定外の言葉であった。
優勝候補の一人や、トップクラスの実力を有しているという認識は持ち合わせていた。しかし、頂点に最も近い存在などという、大言壮語にも愚かな発言が出てくるとはシンボリルドルフは思わなかったからだ。
「あれは、欠けている存在だ。怪物じゃなくて、怪物に怯えている少女だった」
遠い過去を思い出すように、トレーナーはシンボリルドルフから視線を逸らし過去を見つめるように言葉を紡いでいる。
「ルドルフ。お前が引き揚げたトレーナー見習いは俺たちの想定をはるかに越えていた。どちらも高い能力なのは間違いなかった。けどそれ以上にアイツらは嵌ったんだよ」
「嵌った、とは少々棘のある言い方のようだが」
二村の言葉から相性が良いという意味をシンボリルドルフは汲み取ることは出来なかった。どちらかと言うと、どつぼに嵌ると言ったような、概ね悪い表現であった。
「アイツらは互いの弱みに付け込んでいる」
シンボリルドルフは黙した。沈黙を以て続きを促す。
「互いが互いの欲しくて欲しくて堪らないものを持ってんだよ」
「だから、惹かれあっていると」
あまりにも陳腐な発言であった。そんなペアなどこの学園に掃いて捨てるほどいる。
「自分の中にないものを求めていると、大体は不満が出はじめてどこかで対立が起きる」
シンボリルドルフにとっては概ね、意見が一致する。
「そして、対話や行動を通して、他者を理解していく」
二村の視線がまた遠くへ行く。その視線の先に想起されるのは恐らく、ナリタタイシンとそのトレーナーの関係性。
「けど、理解したら意味がないんだよ」
「理解したら意味がない、とは」
「勝負において、感情的になることは敗北を意味するが、感情の昂ぶりがなければ勝てないのもまた事実だ。だから、理解なんていう安定を求めてはいけない」
「感情というエネルギーに振り回されることがよくないのであって、そもそも感情がみなぎっていなければ勝てない、と」
納得できる論理ではあるが、それが絶対ではないとシンボリルドルフは思う。
「こんな穴だらけの考え方を理論なんていわない。どうしたって、一般化できる訳がないんだから。……だが、極めて限定的な状況であればそこに道理が生まれる」
「いままで君が語ったのは、君の考えではないという風にも聞こえるが」
「ああ、そうだよ」
二村は大きく息を吐き出してシンボリルドルフの方に改めて体を向けた。
「お前が見出したあの白毛のウマ娘は、ナリタタイシンとそのトレーナーの一ノ瀬だけを見ている」
「だから、私は見出した」
「自分の感情も、怪物の感情も全部を俯瞰的に見て、どうすればナリタタイシンに勝てるかだけに注力している。偏執的なほどに」
二村の印象を聞き、非常に良い物を拾ったとシンボリルドルフは少しだけ気分が良くなった。この幸せな地獄にまた一人引きずりこむことが出来たことの喜びをかみしめる。
「言葉も、感情も、やり取りも全部に意図がある。恐ろしいほどに思考が張り巡らされている」
「だろうな」
二村とのやり取りに少しだけ、シンボリルドルフは頭を振る。辟易としてしまった。
「話が脱線しすぎている嫌いがあるな。どうして、君は怪物ナリタブライアンとそのトレーナーをそこまで評価しているのか。端的に語ってくれ」
雑談に興じるのも悪くはないが、そこまでお互いに時間を持て余しているわけでもない。ただ、シンボリルドルフの疑問はそこだけであった。
「ナリタブライアンが持つ満たされることのない渇きと、白毛のウマ娘が持つ叶うことがない勝利への渇望。互いが互いにそれを満たす手段を持ち合わせている」
渇き。ウマ娘、ひいては何かに一意専心するものにとっては非常に厄介で不可欠な感情。満たされは終わってしまい、渇きすぎれば身を滅ぼす。
「でも、白毛のウマ娘はあえてそれを無視して、互いの渇きを広げている。そしてその不満をただ一人のウマ娘にぶつけるように誘導している」
所詮は拡散してしまうはずの感情に指向性を持たせているのだという。それにはどれほどまでの相手や自分に対する理解が必要なのか。シンボリルドルフでさえも推し量るには少しばかり時間を要すると思ってしまった。
「悪辣に、的確に、全てを考慮した満たされない渇きを広げているナリタブライアン達を止められるやつらはいない。だからこそ、このまま行けばあいつらは頂点に最も近い存在だ」
「だから、彼女たちは嵌ったのか」
その言葉でシンボリルドルフには合点がいった。
「まあ、俺が抱いている印象はそう言う所だ。ベラベラ喋ったし、アイツらの様子を見てくることにするかな」
「私の仕事に付き合ってくれると思っていたんだが」
「あー、無理無理。俺の仕事じゃないし」
その情けない言葉は先ほどまでの真剣さを露にも感じさせない。二村はサボりがちなトレーナーの顔になっていた。
シンボリルドルフは僅かばかりだがその事実に郷愁を感じていた。今までは口ではごちゃごちゃと言いつつ付き合ってくれてはいた。
しかし、レースを引退し、契約を解除したシンボリルドルフと二村の関係は担当ウマ娘とそのトレーナーではなくなっている。自分の思い描く未来を見るための行動に変化はつきものである。
仕方ないこと。それでも、幾ばくか感じるものがあるのもまた事実であった。
「それに、今のお前は間違ってない」
二村から発されたその言葉は、よどみなくスムーズにシンボリルドルフの胸の内に入っていった。
「お前が間違っていたら、それこそぶん殴ってでも止めなくちゃいけない。でも、今のシンボリルドルフは全てに耳を傾けて、その上で判断している。自分の気持ちを押し殺すわけでも、他の意見を封殺するでもなく、真摯にウマ娘の未来のために行動している」
その言葉にシンボリルドルフは思わずぐっと力を込めた。ただ表情を壊さないように、しっかりとした面持ちを保つ。
「だから、それを手伝うのは俺の仕事じゃない。俺はアイツらの様子を見に行く。そっちの方がURAファイナルズが面白くなるだろ」
「君は」
「皇帝の工程を肯定するための行程ってな」
「ぷっ」
シンボリルドルフは堪えていたものが全て無駄になってしまった。
せめてもの抵抗として、机に顔を伏して必死に笑いを嚙み殺す。
いくらか時間を要して気持ちを落ち着かせて顔を上げたころには二村の姿はもうなくなっていた。
「今の私は間違っていない、か」
であれば、引退するまでの自分はどうだったのだろうか。シンボリルドルフはふと思いを馳せる。
シンボリルドルフのレースは強者であったが、無敗ではなかった。
いくつか土をつけられたものもある。それらは学園でのトラブル解決に注力していたが故の調整不足であった。
「思えば、ああいう時だけ彼はごちゃごちゃ言いながら率先して手伝ってくれていたか」
慢心があった。驕りがあった。自分ならば全てをこなせるというプライドがあった。そう言う時に限って、敗北を喫した。
そのたびに、先達を失望させ、ファンを裏切り、後続に不安を抱かせた。
こぞって詰ったり、慰めをかけてくる者たちの中で二村だけはいつも真剣に向き合っていた。
どこが悪くて何をしなければいけないか、口で聞かせてやってみせて、そして、出来るようになるまでシンボリルドルフに付き合い、それ以上口出しすることはなくなった。
「絶対ではない。私も、彼も。それは生きとし生けるもの全てに言えることだろう」
ナリタタイシンのトレーナーである、一ノ瀬 鐙鞍がトレーナーとして、勤めるようになってから、彼女に対する事柄についてだけ二村の目は曇りはじめた。
それはまるで過去の自分を見ているようであり、シンボリルドルフにとっては心底不愉快であった。
去年の一月。
たづなのマンションで新年の挨拶をしていた時の二村の一ノ瀬トレーナーに対する対応は決定的だった。汚れ役になるという彼自身の考えと、彼が一ノ瀬トレーナーに対する肉親に対する感情が対立し、どっちつかずの対応になった時は、腑抜けた二村の行動にシンボリルドルフも怒りで我を忘れてしまったほどだった。
「だが、それと同時に変化していくものだ。成長と取るか老いと取るか、それぞれの解釈ではあるが」
去年のダービー後、ナリタタイシンに起きている体の状態を聞かされた時、シンボリルドルフも対応に窮していた。脳裏に浮かんだのはサイレンススズカのこと。
魅入られてしまい、走ることに憑りつかれた彼女とナリタタイシンを重ねた。そして、ナリタタイシンがどこまで魅入られているのか知るのが怖くなっていた。彼女の意思を尊重するのはひどく重く苦しいことであった。しかし彼女から走ることを奪うことは出来ず、そんな権利を持ち合わせてはいなかった。
ただ、泥を被るだけ。
それがシンボリルドルフが下した判断。救いがなくとも、怒りをぶつける悪を立てること。誰もが損をする代わりに、誰も得をしない、きわめて消極的な希望。
正しく悪に努める気でいた。
自分に怒りをぶつけることで、ただ誰もが抱く負の感情を誰もがゆっくりと受け入れる土壌作りに専念しようとした。
「それさえも、間違っていたんだな」
全てのウマ娘のことを考えなければいけないのに、シンボリルドルフはあろうことか自分自身をその勘定から抜いていた。だからこそ、二村は動いていた。今になってようやく分かった。
「けれど、今の私は間違っていないらしい」
ナリタタイシンの出場に関する賛否両方に耳を傾けた。そのうえで、両方とも無意味だと切り捨てた。
「彼は私に王道ではなく、覇道を進めと言っているのだろうか」
彼の真意はシンボリルドルフには分からない。しかし、それで別に構わないと思った。間違っているなら、彼がメンツも場所も考えずに正しに来るだろうから。
「失望させてくれるなよ。二村雄二」
今のシンボリルドルフは間違っていない。しかし、それは二村雄二が間違っていないわけではないということ。二村の行動も注視する必要があるということだ。
シンボリルドルフは思いを馳せるのを止めた。ただ、仕事に専念する。自分だけしか出来ないことに。
「ふぅ」
小一時間ほどの作業の後、一息入れる。
頭の片隅で思考しているのは先ほどの二村とのやり取り。
「彼女たちは嵌っている」
白毛のウマ娘は全てを綿密に組み立てて、ナリタブライアンの渇いた感情を広げている。その渇きからくるエネルギーが底知れないものであるという確信があるため。
「本当にそうだ。嵌っている。だから、不安定を保つことが不安定になっている」
白毛のウマ娘はナリタブライアンと敢えて、理解を拒否をしているのだという。しかし、それは到底難しいことだとシンボリルドルフは先ほどから思っていた。
「他人を見つめ続けた果てに、ついに自分自身を認めた存在が、理解をしないようにするなど無理な話でしかない」
息をするように他人の本心に入りこむ。そして、他人のために行動を起こしたのだ。ナリタタイシンや一ノ瀬トレーナーのような存在であってもそうなってしまう。であれば、ナリタブライアンなど想像に難くない。
「踏み潰された。心を折られた。それは対象を正しく認識していなかった恐怖心によるものでしかない」
本当の意味でのナリタブライアンの本心に触れれば、白毛のウマ娘など簡単に心動いてしまうのは当然の帰結と言える。
「さて、と」
椅子から立ち上がり背伸びをした後に、窓から練習しているウマ娘達の様子を垣間見る。
探しているウマ娘の姿は見えない。しかし、底冷えするほどの圧はひしひしと感じていた。
「手負いの獅子を狩るには、こちらも命を懸けて挑まなければ簡単に食い破られてしまうのは自明だろう」
小休止を終わらせ、仕事に戻る。
最後に視界の端に映ったのは、艶のある黒鹿毛と、へばりつくような白毛のウマ娘達。その二人に近づいていく一人の男性。
シンボリルドルフは願ってしまう。
「精々彼女たちをかき乱して欲しい。二村トレーナー」
安定してしまえば、ナリタブライアン達に勝ちの目は薄いだろうから。