ナリタタイシンに対する強い幻覚   作:妄想投棄場

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すいません、前編後編に分けます。


URAファイナルズ準決勝 前編

 ゲートの中で私は目を閉じて今までを振り返る。

 

『やあ、私は見習いトレーナーのウマ娘だよ。名前は、そうだなあ、白毛さんとでも呼んで欲しい』

 

 突然、軽薄そうな笑みを浮かべながら私の前に現れた白毛のウマ娘。彼女は美しい毛並みの中に垣間見えるへばりつくような不気味さや不快さを持ち合わせていた。

 そして、私は白毛のウマ娘からそんな輝きを見出した。

 

『呆れるほどに、泣いてしまうぐらいに弱いんだよ』

 

 それは聞いている方が苦しくなるような自傷のような告白だった。

 

『君と何回走っても勝てない。そんなことははじめから分かっていた。そんなの当たり前のことだよ。私は何もしなくて、君は走った。それだけのことだ』

 

『だけど私には夢がある。狂ってしまいそうなぐらい勝ちたくてしょうがない。でも、それだけだ!!! その夢も執着もあまりにも脆いんだよ。弱いからだ! 私には勝てないからだ! 弱者だから! だから、君が必要なんだよ!!!』

 

 私にとって弱さは愚かさだった。罪だった。糾弾されるべきものだ。それを口に出すなど取るに足らない弱者のソレでしかない。強くそう思うのは、かつての私がそうだったからだ。

 すぐに泣く。誰かを困らせる。1人では何もできない。そんな自分が情けなくてしょうがなかった。

 

 私の姉はそんな私とは正反対だった。

 姉はどんな時でさえ強かった。泣き言など言うことはなかった。そして、いつも笑って私の手を引いてくれていた。

 その姉を困らせたくなくて、姉を安心させたくて、追いかけるのではなく隣に立ちたくて私は泣くことを止めた。

 

 だから、泣くのは醜いことだと思った。自分の弱さを認めることは、弱者のすることだと思った。姉のように強く在るためには、他人の手を借りるのは不要だと思った。

 

 しかし、私は自らの弱さを語る白毛のウマ娘の言葉に心が揺さぶられた。白毛のウマ娘から自然と零れる涙が美しいと思った。

 今にして思えば、あの時の出来事がきっかけが私の中にある考えが少しずつ変化していったよう思う。

 

 

 トレーナーとして契約した後の白毛のウマ娘は軽薄そうな笑みで本心を隠してばかりだった。

 自分の弱さを涙ながらに語ったあの時の輝きはなく、ただ塗りつぶしたような能面みたいな笑みを浮かべるのみだった。

 しかし、夏の合宿で白毛のウマ娘の本心に再び触れた。

 

 

『私は、エゴの塊だよ。この涙だって、君を利用しているためのものかもしれない。でも、私はそれでも君と一緒にURAファイナルズを、チャンピオンを目指したいんだ。私のために、そして君のその渇きを満たしてあげたい』

『改めて、お願い。私を君のトレーナーにしてくれないかな』

 

 私の中にある渇き。追いつきたくて、それでも追いつけなくて必死に背中を追いかけるような飢え。目指す場所も分からずに暗闇の中を突き進んで必死に答えを掴もうとするような、決して満たされることのない欲求。

 それを満たすだけに走ってきたこの体にもう一つの渇きが生まれた。

 手を伸ばせばすぐに届くのに、掴んだだけでは決して手に入ることのない、ひどく身近で滅入るほど遠い場所にあるもの。夜空を照らす月が欲しくて手を伸ばしたあの頃と同じ感覚。

 

 今まで私の中にあった渇きに比べれば、その渇きを満たす方法はずっとハッキリしている。

 私が最強であることを証明すればいいだけだ。

 弱さを捨て渇きに苦しんでいた期間を思えば、ずっと短くて分かりやすい。

 だからこそ、渇いてしょうがないのだ。

 

 ずっと身近にいる。誰よりも触れることが出来る。しかし、その心が向いている先は私ではない。

 それを実感するほどに光よりも、ずっと速く私の渇きを広げていく。

 だからこそ、私は今この瞬間が楽しくてたまらないのだ。

 

 

 

 

 

 

 音が止む。静寂だけがこの空間に満ちる。

 誰かがハアと息を吐く音が聞こえる。もう、限界だ。

 

 ゆっくりと目を開け、フォームを構えた瞬間にゲートが開いた。

 

 

 右足を出す。その次に左足を出す。

 リズムよく刻まれるこの音が私の心を震わせる。たまらなく高揚して仕方ない。

 

 

『ナリタブライアン、圧巻の走りを見せつける!!!』

 

 

 大地を蹴り上げ、ただ前だけを見て突き進む。

 

 

『菊を背負い、日の丸を背負う!!!』

 

 

 今ならば、海の上でも走れてしまうんじゃないかとさえ思う。

 

 

『そして、今年最後の締めくくり! ファンの期待を背負って無敗の五冠ウマ娘が!!! 今ここに誕生しました!!!!』

 

 

 勝利するたびにこの渇きは加速度的に広がっていく。月にはまだ手が届かない。ただ、この渇きに従って進めば、月にだっていつか触れられそうだ。そう思えて仕方なかった。

 

 

 

 

 

『強い! 強すぎる! 今このウマ娘の勢いを止められるウマ娘は存在しているのか!? URAファイナルズ予選も難なく突破していった! この勢いのまま頂点の座もさらっていくのでしょうか!!!』

 

「どこのテレビもお前の話で持ち切りだなブライアン」

 

 こじんまりとしたラーメン屋の中で姉であるビワハヤヒデが私に話しかけてくる。

 

「別に。私はただ、姉貴を追いかけているだけだ」

 

 美しい芦毛の髪。眼鏡の奥に見える金色。私と同じ瞳の色。

 ずっと、背中を追い続けてきた。追いかけても、追いかけても、その距離は遠のいていくばかりで、渇きも広がるだけだった。

 

「流石、私の自慢の妹だ」

 

 普段の穏やかさからは想像もつかないほどの獰猛な笑み。この笑顔を見ると私も姉も本質は変わらないだろうと思う。

 

「ブライアン。お前は私の背中を追いかけていると言ったな」

 

「ああ」

 

「次だ。次のURAファイナルズ準決勝で私と戦「ラーメン、特盛二丁お待たせしましたー!!!」……ありがとうございます」

 

 私たちの前に丼が二つ運ばれてくる。もくもくと上る湯気と醬油の匂いが腹の虫を刺激する。

 

「食べるか」

 

「ああ」

 

 姉に引っ付いていなければ不安になっていた昔とは違い、今の私にはあまり会話は必要ではなかった。

 だから、黙って麺を啜る。

 柔らかく煮込まれたチャーシューを噛みしめる。スープを吸わせた海苔と一緒に麺を啜る。

 特盛を注文しても私の空腹を満たすには至らなかった。

 

「最近はどうだ、ブライアン」

 

「別に、いつも通りだ」

 

「同室の子には迷惑をかけていないだろうな。……スイープトウショウだったか、食堂であの子と一緒にいるのをよく見かける。困らせるんじゃないぞ」

 

「私の方が迷惑をしているんだが」

 

「そうか、仲がいいのはいい事だな」

 

「……」

 

 私にはあまり会話は必要ではない。しかし、姉は気にせずに私の事情をずかずかと聞いてくる。

 うっとうしく思う。しかし、嫌ではなかった。

 

「替え玉、頼んでもいいか」

 

「別に構わないが。……おい、ブライアン。野菜が残っているじゃないか。せめてそれを食べてから」

 

「すいません、替え玉ひとつ」

 

「おい!」

 

 相変わらず口うるさい。母親よりも姉の方がずっと私にとやかく言ってくる。

 

「私はもう子どもじゃないんだ。そこまでぐちぐちゃ言わなくて自分のことは自分で出来る。姉貴は心配しすぎだ」

 

「そう、か」

 

 そう言いながらわずかに見えた寂しげな姉の表情に、何故か胸が締め付けられた。

 

「だがな、ブライアン。お前は勘違いしているよ」

 

 その表情はすぐに消え、穏やかな笑みを以て、私に語りかけてくる。

 

「お前は生まれた時から私の妹だ。子どもの時だけじゃない。引退しても、仮に結婚して子どもが出来たとしても、皺くちゃの老人になったとしても、お前は私の妹だ」

 

 ああ、止めてくれ。

 

「お前が私の妹である限り、お前を心配するなというのは無理な話だ。私のたった一人の自慢の可愛い妹なのだから」

 

 その声が、その表情が、そのまなざしが、私の中の渇きを広げていく。見えていた背中が遠のいていくように錯覚する。

 私は私なりに歩んできた。しかし、どうやっても姉のようにはなれない。

 

「次のURAファイナルズ準決勝でお前に見せてやろう。勝つのは妹ではなく、わ「替え玉お待たせしました!!!」……ありがとうございます」

 

 丼の中に放り込まれた麺を見つめる。茹でられて間もないため、もくもくと湯気が立つ。

 冷めないうちに飢えを満たすように掻きこんだ。

 

 本当に勝てるだろうか。今の私に触れられるだろうか、遠く大きな背を。

 

 そして、思考がまた転がる。もしも、私が勝ったらどうなるのだろうか。

 この渇きは満たされるのか、それとも渇いたままなのだろうか。

 

 一玉だけでは満たされなかった。

 その後、六玉ほど頼んで店を後にした。

 

 

 帰り道、姉と肩を並べるが、やはり大きさを感じるより他なかった。

 ごちゃごちゃとしたことを考えそうになる。

 

「姉貴、勝つのは私だ」

 

「ふっ、期待しているぞ」

 

 その余裕の表情を崩す言葉を私は知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 ある日のミーティングルームでの出来事だった。 

 

「君にとってビワハヤヒデはどういう存在かな」

 

「姉貴は強い。負けないし、泣かない。泣きごとも言わない。私もそうあるようにしてきた。しかし、結局未だに追いつけない」

 

 私の返答に対して白毛のウマ娘は噛みしめるような表情をした後、また質問してきた。

 

「なるほど、じゃあ弱いってどういうことだと思う?」

 

「負けることだ。すぐに泣くことだ。一人では何も出来ないことだ」

 

 その言葉を吐き出すたびになぜか胸が痛くてしょうがない。

 

「負けることが弱いんじゃない。泣きごとを言うのが弱いんじゃない。弱い自分に目を逸らしたまま生き続けるのが一番弱いんだと思うよ」

 

 痛みを通り越して、息が出来なくなった。それぐらいの衝撃だった。

 その言葉だけは許してはいけないという憎悪さえ感じた。

 つい、体は力み、白毛のウマ娘を掴んでしまいそうになる。

 その瞬間。

 

「ビワハヤヒデは、本当に泣いたことがないのかな。泣きごとを言ったことがないのかな?君がビワハヤヒデの強い部分ばかりを見て、弱い部分から無意識に目を逸らしていただけじゃないかな」

 

 その言葉だけで私は動けなくなった。

 

「君は次のURAファイナルズの準決勝で彼女と戦うことになる。言ってしまえば今まで追いかけていた背中に触れられるチャンスだ」

 

 ひどくへばりつくような言葉だ。

 

「でも、君の理屈で言うならば負けたビワハヤヒデはそれはビワハヤヒデなのかな」

 

 否定したくなるような言葉のはずなのに、反論する言葉が一つも浮かんで気はしない。

 

「どういうことだ」

 

「君にとって、ビワハヤヒデとは強いウマ娘だ。泣かないウマ娘だ。泣きごとを言わないウマ娘だ。負けないウマ娘だ。じゃあ、彼女が負けたら君が考えているビワハヤヒデの定義からビワハヤヒデはいられなくなってしまう。違うかい?」

 

「それは……」

 

 すぐに返答が出来なかった。自分の中で答えを出せていないから。

 

「人もウマ娘も案外ドライだ。焦がれていたはずなのに、手に入った瞬間にすっかり興味が失せてしまうことなんてザラだ」

 

 ふと、自分の中で必死に追い求めていた姿を思い出すが、ひどくおぼろげのような気がしてきた。

 

「君にとってのビワハヤヒデはどういう存在だろうか」

 

 今まで信じてきたものが不安定になったようでひどく気分がわるい。

 先ほどはすっと答えることが出来た問いに私は言葉を失ってしまった。

 そして、その質問をする白毛のウマ娘の顔が、とても痛々しいものであることもなぜか私の言葉を奪っていく。

 

「ねえ、私に教えてくれないかな。ブライアン」

 

 私にとっての姉とは、なんだろうか。

 

 目を閉じて振りかえる。すぐに思いだすのはいつも泣きながら姉に頼っていた姿だ。

 

 

 

『おねえちゃん、一緒にきてよ~』

 

 

 

 私は幼い妹を助けるために目を開けた。

 

「夢か」

 

 椅子に座ったまま、鏡を見て自分の姿を確かめる。

 芦毛の髪に金色の瞳。ただ目の下の隈がひどい。

 

 ビワハヤヒデというウマ娘にとってナリタブライアンは可愛い妹だった。この子のためなら何でもできるとさえ思った。

 私は、ブライアンにとってのお手本となるような存在であろうと心がけた。

 

 その決意は今も変わりはしない。しかし、幼い私には姉であるという事実が問題になっていたことも確かだった。

 あの日のことを思い出すために再び、目を閉じる。

 

『お姉ちゃんはよくできているわね。ほら、ブライアンも見習わないと』

『おねえちゃん、すごい!』

 

 姉として率先して行動した。ブライアンも私の自慢の妹だった。だから、これは本当に些細なことでしかない。

 

『おねえちゃんなんだから、しっかりしないと』

『あ、ブライアンのねえちゃんだ』

『やっぱり、ブライアンちゃんのおねえちゃんだけあってすごいわね』

 

『おねえちゃん、一緒にあそぼ!』

 

 私は、ナリタブライアンの姉だった。姉でしかなかった。

 私にはビワハヤヒデという名前がある。しかし、誰もその名で呼んではくれなかった。

 だからこその過ちだった。それは本当に誰のせいでもないはずなのに、私は一度だけ恐ろしいことを口走ってしまった。

 

『……居なくなってしまえばいい』

『おねえちゃん?』

 

 無邪気に笑う妹はとても可愛いかった。しかし、自分に注がれるはずの愛情、呼んでくれるはずの名前が妹に全部奪われた。そんな勘違いから、一度だけ、いや、一度でも抱いてしまったのだ。

 

 不安そうに見つめる妹の顔を見て私は、自分の過ちに気づき、より一層姉たるように努力するようになった。

 だが、妹は優秀だった。それこそ憎んでしまいそうになるほどに。

 

『あのブライアンの姉なら相当に優秀なんでしょうね』

 

 ウマ娘の中でも一握りの存在しか行くことが出来ないトレセン学園に入学した。実力だけが評価されるここなら変わると思った。しかし、ここも結局は変わらなかった。

 私をスカウトしてくるトレーナー達が口に出すのはブライアン、ブライアン、ブライアン。

 呆れてしまうほど、彼らは私のことなど見てはいなかった。

 変わらない現実に歯噛みしそうにもなった。しかし、救いも確かにあったのだ。

 

『ハヤヒデ~~~~~、トレーナーが見つからないよ~~~~~』

 

『お、おいチケット! 鼻水を垂らしながら近づくんじゃない。制服が汚れるだろう!』

 

『ごめんねええええええええ!!!!』

 

『だから、もっと泣くのは止めてくれ!』

 

『大変そうじゃん」

 

『タイシン、見てるだけじゃなくて、君からも何か』

 

『ビワハヤヒデの実力なら引く手あまたでしょ。そのうちの1人でも紹介してあげれば?』

 

『タイシン~~~~~』

 

『うわ、こっちくんなって』

 

 彼女たちは、私を見ていた。この2人の前では私はナリタブライアンの姉ではなくビワハヤヒデで居られた。私が欲しくてたまらなかった場所だった。 

 

 

 

 

 

「ハヤヒデちゃん、ニコニコしてるけどいいことでもあったの」

 

 思考の海に沈んでいた私の意識が引き上げられる。

 目を開けると見慣れた姿を認めた。

 

「……トレーナー」

 

 

 セミロングで明るい茶髪。ハキハキとした喋り方と笑顔から自信に満ちた女性だという印象を受ける。

 本人曰くよく遊んでいたせいで今もギャルと勘違いされているのが今の悩みらしい。

 

「はい、買ってきたよバナナ」

 

「すまない、助かる」

 

 彼女から差し出された一房のバナナを受け取る。

 

「あの」

 

 その手は固かった。

 

「ああ、ごめん。顔が良すぎて固まってた」

 

「君は相変わらずだな」

 

 そう、あの時もそうだった。

 

 

 

 

 

『私の顔に何かついているだろうか』

 

『いやー……あんまりにも私の好みの顔過ぎてビビっちゃったわ』

 

『は?』

 

 タイシンやチケットと出会った後、私は、あてもなく私のトレーナーを探していた。

 “ナリタブライアンの姉”ではなくビワハヤヒデのトレーナーを探していたというのが適切だろう。

 そんな中で私に声をかけてきたのが、今の私のトレーナーだった。

 

『あなたの名前、なんて言うの?』

 

『ビワハヤヒデだ……いや、ナリタブライアンの姉と言った方が分かりやすいだろうか』

 

 何回も繰り返してきた自己紹介。皮肉なことに姉であることを付け足すと驚くほどスムーズに私の存在を受け入れてくれる。

 

『ナリタブライアンっていうのがどんな子かしらんけど。……うん、じゃあ今からハヤヒデちゃんって呼ぶわ』

 

『なっ』

 

『アタシの名前は四谷チトセ。まあ、好きに呼んでいーよ』

 

 今までトレセン学園で出会ってきたトレーナーとは明らかに異質であるのは間違いなかった。

 他人の顔だけで判断するのはどうなんだと、抗議すべきだったのだと思う。

 この奇怪なトレーナーとの奇妙な邂逅はある意味では奇跡的だったのだと思う。

 

『アタシはハヤヒデちゃんの顔に一目惚れしちゃった。だからさ、アタシの担当ウマ娘になってよ』

 

 その言葉は一番私が欲しかった言葉だった。

 他の誰でもないビワハヤヒデに対する言葉。

 気づけば、私は差し伸べられたトレーナーの手を取っていた。

 

 

 

  

 

「いやー、好みの顔面したウマ娘探してトレーナーになったけど、こんなにどストライクの子に出会えるなんて思ってなかったから、今も時々固まっちゃうんだよね」

 

 バナナを掴んでいた手を離しながらトレーナーはそう語る。 

 いつ聞いても不純な動機だと思う。不純な動機でいつまでも在籍できるほどトレーナーの業務は楽なものではない。

 しかし、私と出会う前から彼女はトレーナーとしてトレセン学園にいた。それこそが彼女の本質なのだろう。

 

「あ、そうだ。バナナ以外にもハヤヒデちゃんに頼まれていたヤツ用意してきたよ~」

 

 そう言いながら、彼女はマスコットが沢山ついたカバンの中から封筒を取り出す。

 

「今日出てくる子の過去のレース結果のまとめね。今日のバ馬とか天気が同じような時に走った状況をまとめるってすっごい複雑な注文だったんだけど。……ハヤヒデちゃん、年々トレーナー使い荒くなってない?」

 

「そうだろうか」

 

 備え付けられたテーブルにバナナを置き、封筒の内容に目を通す。

 精確にまとめられている。彼女のトレーナーとしての有能さを聞かれればこういう部分だと真っ先に答えるほどの情報選択能力だ。

 しかし、ここまでならばG1ウマ娘を担当したトレーナーならばできなくてはならない範疇だ。

 

「……この激ヤバとは何だろうか」

 

「え、たぶんこの子は第三コーナー辺りからエグイほど加速入れてくるから、ちゃんと距離取っとかないと飲まれそ~って思ったから」

 

「なるほど」

 

 トレーナーがまとめてくれる資料には赤字の丸で囲まれた“激ヤバ”だとか、“鬼キツイ”とかいうよく分からない注釈が入っている。

 

「しかし、今聞いたウマ娘はコーナーでの加速が強みなどという評価は聞いたことがないが」

 

「あ、そうなんだ。ごめんね。じゃあアタシの勘違いかもしんないや」

 

「いや、君がそう思っただけで十分警戒に値するさ」

 

 彼女の資料にある注釈は、独特なワードチョイスだ。しかし、この注釈の真意こそ彼女が有能たる証でもあった。

 

 私のトレーナーはハッキリ言ってトレーナーに向いていない。

 何故ならば、興味がないウマ娘に関しては言うまでもなく、担当ウマ娘である私が走っている所でさえ、興味がないと言ってほとんど練習を見てはいない。

 走っている姿を見てるだけでは退屈だから、本人からそういう理由を聞いた時は、どうしてトレーナーを続けられているか疑問に思ったほどだった。

 

 しかし、それで何の問題もなかった。いや、見ない方がいいのだ。こと彼女に関しては。

 彼女の特筆すべき点はその洞察力だ。

 資料には乗っていなデータ。つまり、ウマ娘やそのウマ娘を担当するトレーナーでさえ気づかないポテンシャルを彼女は読み取る。

 

 私はデータを基に論理的に相手を分析するが、彼女は過程をすっ飛ばして本質にだけ触れていくのだ。

 彼女からもたらされた情報を基に私が作戦を再構築する。

 

 そのおかげで驚くほどに勝率は上がった。三着以降を戴くことはなかった。

 

「本当に、感謝しているよ。トレーナー」

 

「どうしたのハヤヒデちゃん。改まっちゃって」

 

「君には迷惑をかけてばかりだったから。試合直前での注文が多くなって結果的にトレーナーの負担が大きくなっているのは私のせいだ」

 

「えー試合前にそういう湿っぽい雰囲気出しちゃう感じ?」

 

「そういうつもりではなかったが」 

 

 彼女のおどけた口調に私もつられて気持ちが軽くなる。どうしても固い雰囲気になってしまのを自省する。

 

「それに、今回勝っても終わりじゃないんだし」

 

「それは……そうだな」

 

 資料に目を通して気づく事実。 

 

「……やはり、トピックはブライアンが多いな」

 

「やっぱね。なんか強いウマ娘なんでしょ」

 

「……何度も言っているが私の妹だ」

 

「あー、なんか聞き覚えがある」

 

「あのなあ」

 

 今まで見てきたトレーナーの資料の中で一番注釈が多い。それはつまり最も高いポテンシャルを備えているということ。

 我が事のように嬉しく感じる。そして、同時に体が震えそうなほど恐ろしいと思った。

 

 自分の中に湧いた疑念をトレーナーにぶつける。

 

「なあ、トレーナー」

 

「どうしたの、ハヤヒデちゃん」

 

「今日、私は勝てるだろうか」

 

「えー、いつも自信満々なハヤヒデちゃんでもそんなこと思うんだ」

 

 トレーナーのその質問に、少しだけ時間をおいて返答する。

 

「ブライアンは私の妹だ。可愛くて仕方がない。しかし、私には彼女に負い目がある」

 

「ふーん」

 

「贖罪のため、ブライアンの理想の姉であり、ブライアンが乗り越えるべき壁として私は強くあらねばならない。……でも、怖いんだ」

 

 私は、たった一人の最愛の妹を逆恨みしそうになった。幼い時分など関係ない。その事実は消えない。だから、私はブライアンにとって最善の行動をしないといけない。

 だが、その信念が年を重ねるごとに私を体を重くさせていく。下を向いて、立ち止まってしまいそうになる。

 

「怖くて怖くてたまらない。ここで負けたら私は結局、ブライアンの姉でしかないんじゃないかって不安に押しつぶされそうだ」

 

 自分で誓ったこの贖罪はエゴなのではないかと、私の中の理性が叫んでしょうがない。結局のところ、妹に甲斐甲斐しく世話をする姉として、自分の存在意義を妹に仮託しているだけの弱虫なのではないかという疑念が常に渦巻いている。

 妹のためだと言って負ける理由を探しているような臆病者なのではないかと自分を責め立ててしまいそうになる。

 

「今日だけじゃない。ずっとだ。ブライアンがトレセン学園に来てから私はずっと息が詰まりそうだったっ!」

 

 だから、この行為にだって意味はないのに。

 トレーナーに私のこの負の感情をぶつけることさえ、身勝手だというのに、どうしてか抑えきれない。

 許してほしいと懇願したくなる。妹に許されて、自分には出来なかったこの八つ当たりのような感情を受け入れて欲しいと思ってしまう自分がいた。

 

 

 

「……すまない。私も緊張でうまく思考できていないみたいだ」

 

 自分の中でドロドロと煮えていたものを矢継ぎ早に吐き出すことでわずかに理性を取り戻す。

 ああ、またつい感情的に行動をしてしまった。その自省の念がこみあげる。

 

「ぎゅーっ」

 

 その瞬間に柔らかい感触に包まれる。

 ドクドクと聞こえる鼓動と、温もりが心地いい。

 それは恐らく。

 

「トレー、ナー?」

 

「いや、なんか妹思い出しちゃった」

 

「いもうと、か」

 

 トレーナーにも妹がいたのは、知らなかった。

 

「アタシの妹ってすぐにあれもしたくない、これもしたくないってギャーギャー言うんだけどさ。こうやってぎゅーってしてあげると落ち着くんだよね」

 

「ああ」

 

 落ち着くのは、なんとくなく分かる。

 

「でも、あの子も別に嫌だっていうよりは、ただそれ以上にやりたいことがあって、それが出来ないからギャーギャー言ってただけだと思うんだ」

 

「やりたい、こと」

 

「そ。それが何かは妹にもよく分かんないかもしんないけど、アタシが妹に出来るのはこうやって抱きしめてあげることだけだったよ」

 

「そう、なのか」

 

 私もトレーナーの妹ではないから分からない。でも、トレーナーのその行動はきっと最善だったんだと思う。

 

「んで、ハヤヒデちゃんも妹みたいな目ぇしてたからしてあげた。……どう?」

 

「どう、と言われても」

 

 言葉に詰まってしまう。

 

「そっかー」

 

「……でも、もう少し、このままで」

 

 何か声をかけなければ、この温もりが遠ざかっていくような気がした。

 それは、すごく、嫌だった。

 ワガママだ。

 こんな姿、タイシンやチケットは勿論、ブライアンには絶対に見られたくない。

 

「そっかー」

 

 先ほどと同じ言葉。

 それ以上、私たちの間に言葉はなかった。

 

 ただ、抱きしめながらゆっくりと背中をさすってくれる暖かさに私の意識はまどろんでいった。

 

 

 

「ねえ、ウララちゃん肩車してあげるけど、どう!?」

 

「ほんとー! やってやって~!」

 

 心地よいまどろみの中で揺蕩う私の耳に何かの声が聞こえてきた。

 

「あ~、さいこ……いや、危ない、危ないわウララちゃん!」

 

「え、どうしたのトレーナー」

 

「そうやって足をバタバタをさせてたらバランスが取れなくなっちゃう」

 

「え、ウララはどうすればいいの?」

 

「アタシの体にしっかりと絡みつけて! 足を! そしたら落ちないから!!!」

 

「ウララ~、よく分からないけど、トレーナーさんの言う通りにするね!!」

 

「君たちは何をやっているんだ!」

 

 無垢な少女を汚すような、邪なやり取りを私には到底見過ごすことが出来なかった。

 視界に入るのはトレーナーと、彼女が担当するもう一人のウマ娘ハルウララ。

 

「あ、ハヤヒデちゃんが起きたよ、トレーナーさん!」

 

「やっば」

 

 バツが悪そうな顔をするトレーナーと、彼女の頭上で満面の笑みを浮かべるウララに注意の一つでもしようとしたが、その前に重要なことに気づく。

 

「っっ!……レースの時間は!?」

 

 2人への対応もそこそこに、私は現在の時刻を確認する。

 

「だいじょーぶだよ」

 

「トレーナー」

 

 頬を掻きながら、トレーナーは説明してくれる。

 

「20分くらいしか経ってないよ。……レースまではまだまだ時間があるから、その間にウララちゃんと遊んで、いい時間になったら起こそうと思ってたんだ」

 

「そう……か」

 

「ごめんね、ハヤヒデちゃん。ハヤヒデちゃんは寝てなかったみたいだから、ウララも静かにしなきゃいけなかったのに」

 

「ウララ……気にしないでくれ。その気持ちだけで嬉しいよ」

 

「えへへ」

 

 桜色の髪をかすかに揺らしながら微笑むウララの表情は天真爛漫という言葉がよく似合う。

 8か月前、新入生だったウララをトレーナーは一目惚れしたと言って契約した。

 経験不足な彼女には敗北の屈辱も、勝利の重圧も、託される期待の責任もまだまだ縁遠いものだ。

 だからこそ私は先達として勝者として、レースで走るものとして、その在り方を行動で示さないといけないと思っていた。、

 

 しかし、先ほど私を窺う時に見えた沈んだ表情。

 天真爛漫な彼女の表情を曇らせた事実が、自分に余裕がないことを改めて突きつけられたような気がした。

 

「ウララ」

 

「なあに?」

 

 無垢な瞳がかつての妹とダブる。

 

「この場所は恐らく君が将来目指すべき場所の一つだ」

 

 しかし、ハルウララは妹ではない。

 

「苦しいこともある、辛いこともある、もう逃げ出したくてたまらないことなんてしょっちゅうだ」

 

 そこにいるだけでみんなの心が華やぐような誰からも愛されるべきウマ娘だ。

 

「そんなに嫌なら逃げればいい。理性の片隅にはその思いが常にあった」

 

 本当に胸が締め付けられそうだ。消えてしまいたい。

 

 でも、

 

「私はここにいるんだ」

 

 自ら消えることすら出来ない臆病な私を赦してくれ。

 この懺悔を聞き入れてくれるのだろうと、分かっていながら告白する私の浅ましさを笑わないでくれ。

 これが、私なんだ。ただのビワハヤヒデなんだ。

 

「勝つのが楽しかった。私の姿が誰かの力になれるのならばそれはとても素晴らしいことだと思った。逃げ出すのは誰かを裏切ることだ。誰かを傷つけることだ。私にはそれが許せなかった。でも、私が走ることから逃げないのはそんなものよりももっと単純なんだと思う」

 

 臆病でも逃げ出したくても、意気地なしで浅ましくある私の性根の中でも一つだけ。

 たった一つだけ私にだって残っている。

 

 今まで歩んできた今までの中で誰にも譲れないものがあるんだ。

 

「たぶん、私は走るのが好きなんだろうな」

 

 この気持ちだけは本物だ。

 

 例え妹の実力が恐ろしくとも、ここで負けてしまえば私はまた、ナリタブライアンの姉でしかなくなるとして。

 それでも私は、私の中に根付いた妹よりもずっと前から抱えていた感情だけは!!!!!

 

「見ていてくれ、ウララ」

 

 これが実力の差も理解できない愚かなウマ娘だ。

 

「私は誰よりもこのレースを楽しもう」

 

 あと少しでいいんだ。このレースの間だけでいい。

 誰にも譲れないレースを楽しみたいんだ。

 でもそれと同じくらいに走るのが恐ろしくてたまらない。逃げ出したい。それは本当に今この瞬間だって変わらない。

 ターフの上で走り出すまでに、逃げ出さないようにする寄る辺がなければ、楽しむことすら出来ないほど弱いんだ。弱くなってしまった。

 

 だから、お願いだ。

 

「君のために、私を支えてくれる人のために、何よりも私自身のために」

 

 もう少しだけ“おねえちゃん”で居させてくれないだろうか。

 

 

「ぎゅーっ」

 

 柔らかくて、暖かい感触があった。

 

「ウララ……?」

 

 彼女をじっと見ていたはずなのに、抱き寄せられるまで彼女が近づいてくることに気づけなかった。

 少しずつ、抱きしめる力は増していって。

 やがて、ゆっくりと離れた。

 

「今のはね、ハヤヒデちゃん頑張れ~のぎゅーっ!」

 

「そう、か」

 

 溌溂な笑みがひどく眩しいような気がした。そして、胸のうちにある罪悪感の影が色濃くなっていく。

 

「ウララね、ハヤヒデちゃんのこと大好きだよ」

 

「ああ」

 

「ハヤヒデちゃんが今までいっぱい練習してきたの。ウララも隣で見てたから分かるよ」

 

「……」 

 

「だからね、だからね。うーんと、ハヤヒデちゃんはすごくて、一生懸命で~、かっこよくて~、あれれ、何言いたかったんだっけ」

 

 にこやかに語るかと思えば、なにを言おうとしたのか分からなくなり思案したりと、コロコロと表情が変わる。

 何事も全力で伝えようとするウララの姿に、私は少しだけ堂々巡りする自分の思考がバカらしくなってしまった。

 

「ぷっ」

 

「あ、ハヤヒデちゃん! いつもみたいに笑ってくれた」

 

 一瞬の惚けた顔の後、先ほどよりも一層の笑顔でウララは話す。

 

 いつもみたい。

 では、先ほどまでの私の虚勢は見抜かれていたわけか。

 

「今みたいにニコニコしてるハヤヒデちゃんの方がもっと好き~」

 

 ブンブンと尻尾を振りながら全身で自分の感情を表現するウララを少しだけ羨ましく思う。

 私もこうであったら、今みたいになってはいなかっただろうか。

 しかし、そのもしもをすぐに切り捨てる。

 

「だから、レースが終わったらニンジンケーキを一緒に食べよ? ウララね、ハヤヒデちゃんと、トレーナーさんと食べるニンジンケーキ大好きなんだ♪」

 

「いいよ~、ウララちゃんとハヤヒデちゃんのためならアタシ、ニンジンケーキ買い占めちゃうよ」

 

「流石にそれは、他の人に迷惑だろう、トレーナー」

 

 

 一生許されざる罪を犯した。臆病者だった。弱くて、意気地なしだった。それは、事実だ。

 でも、それだけではない。

 

 私の今までは決して不幸などではなかった。

 愛すべき家族が、妹がいる。共に高めあう友がいる。私を見つけてくれたトレーナーがいる。私を慕う後輩がいる。それもまた事実だ。

 

 自分の境遇を嘆き、後ろを向き続けるのは簡単だ。

 しかし、後ろを向き続けた先に、答えはあるだろうか。

 

 答えとは、自分の今までを肯定してくれるものだ。

 この世界において間違いはあっても、答えなどというものはないのかもしれない。

 

 しかし、答えは一つではないだろう。一つだけの答えなど数式にしか存在しない。それも極めてがんじがらめにされた前提の上で成り立つ。ひどく脆いものだ。

 この世界は広がっている。私には収集できないデータが際限なく散らばっている。

 ならば、答えを出すのは自分自身だけだろう。

 

 後ろを向き続けても答えは出ない。

 後ろを向き続ける。その果てに見出したもの、その結論を出すには前を向くしかない。

 

 答えを探していた。

 私は妹にとって理想の姉で居られただろうか。

 私は友に恥じない走りが出来ていただろうか。

 私はトレーナーに見てもらえるほどの輝きを持っていただろうか。

 私は後輩がこれより歩む道の一つを示すことが出来ていただろうか。

 

 前を向かなくてはいけない。

 その答えを出すのに絶好のチャンスがすぐそばにあるんだ。

 

「ウララ、トレーナー」

 

「ん?」

「なあに?」

 

「行ってくるよ」

 

「行ってらっしゃい」

「行ってらっしゃ~い♪」

 

 姉として、勝たなくてはならない。そして、トレーナーのために後輩にも私は走る。

 

 

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