午前2時過ぎ、夜も更けたころ。雲一つない空と輝く月のおかげで、いつもより少し明るい。ぼんやりと人の顔が認識できるほどだ。
私は、大樹のウロのそばで腰を下ろし、膝を抱えてナリタタイシンにこれまでの経緯を語る。
「最近ね、よく夢をみるんだ」
「そう」
「ナリタタイシンがメイクデビューする夢」
「ふーん」
ピクリと、彼女の耳が揺れた。
「タイシンはね序盤は後方でじっと耐えて足を溜めるの。ほんとは駆けだしたいけど、ぐっとこらえて力を蓄えてる。最終コーナーに入ってから仕掛けるの。溜めていた末脚を使うタイミング、加速力、全部が完璧だった。後ろの方にいたのに影のように忍び寄る。そして、3ハロンで軒並み追い抜いていきターフの頂上に立つ」
「……それ、夢でも私の言った通りになりますよって自慢?」
「そのはずだった。いや、そんな夢を私は見なきゃいけなかった。でもね、タイシンは動けなくなるの。残り3ハロン。糸が切れたようにパタリと地に伏せるの。必死にもがきながら、観客席に向かって必死に何かを訴えてる。ひどくすがるような、泣きそうな表情で。……ってどうしたの? タイシンすごく顔色が悪いよ」
「別に……何でもない」
「でも」
黙って聞いてくれていたのかと思っていた。でも、そうじゃなくて、気分が悪いのを耐えているようだった。タイシンの顔色の悪さはこの明るさでもはっきりとわかる。玉のような汗が浮かんでおり、心なしか呼吸も荒い。
立ち上がり彼女のもとに駆け寄るが、伸ばした手を払われる。
「いい……それより、その夢の中。アンタはどこにいたの?」
「え?」
「普段から、調子のいいことばっかり言ってるトレーナーさんは、大事な担当ウマ娘が助けを求めてたのに気づいたんでしょ? どこにいて、何してたの?」
あの時と同じだ。やるせなさや苛立ちと、現状をなんとかしてくれと助けを求めている感情がないまぜになったような、息苦しそうな表情。
ナリタタイシンの冷や汗は額から頬へ伝っていき、こぼれ落ちる。
おそらく、彼女は私に答えを見出そうとしている。私に助けを求めている。返答次第では、私と彼女の間には埋まることのない溝ができてしまうだろう。
「それは」
必死に考える。いつもなら勝手に言葉を紡ぐ私の口は、堅く閉じたままだ。
考えても、考えても彼女にあげられる答えは思いつかない。何か返さないといけないといけないと思い必死に言葉を紡ぐ。
「夢の中の私は、ずっと空の上から全体を見てる感じだった。ずっとタイシンの走りを見てたの。それで動けなくなった時は、あなたのもとに駆け寄って手を伸ばそうとするんだけど。どうやっても近づけなくて。観客席の方には私はいなくて。私はここだよって言いたいんだけど、喉の奥にひっかかったままで、出てこなくて……それで……それで……」
目頭が熱くなり、ジワリと視界が滲む。
ちがう。ちがうんだ。私はあなたを助けなくちゃいけないのに。あなたの支えになれるような言葉を贈らなきゃいけないのに。たくさんのものをくれたあなたに少しでも返したいのに、言葉が浮かばない。
その悔しさで涙が頬を伝う。
「あーもう、悪かったよ。ごめん……そんなアンタを責めるつもりじゃなかったんだよ」
「ち”がうち”がうのお”ぉ”……あなたを少しでも安心させたいのに、何もできない自分がじぶんがあ”ぁ”ぁ”ぁ”」
「いいって……アンタはアタシを信じてる。ホントに不安や心配になった時は助けてくれるんでしょ?」
「う”ん”」
「それは、痛いほど伝わったから。私こそアンタを不安にさせてゴメン……だから泣き止んでよ」
ぽん、と彼女は私の頭に手をのせる。
ね、と優しく声をかけてくれる。その行動が、その声が自分のトレーナーとしての未熟さを痛感させられるものだった。泣き止んで彼女を安心させたいのに、とめどなくあふれる気持ちを溜めることができていなかった。
「あー、タイシンみつけたあああ」
「こんな、遅い時間に長い時間出歩くのは感心しないな。危険だし、私たちも心配してしまう」
「ああ、もう!」
「わ”た”し”の”せいで、ごめ”ん”なさい”い”い”い”い」
「えー、タイシンがトレーナーさんを泣かしてるじゃん」
「なるほど、取り込み中だったか。ウイニングチケット。このまま長居しても私たちは邪魔になるだけだ。退散するとしよう」
「そうだね。ハヤヒデ!……タイシーン。トレーナーさんを送ってあげなよ? 1人じゃ危ないだろうし」
「おい、待てよ!」
私を慰めている間にBNWと呼ばれるタイシンと仲の良いクラスメートが彼女を探しに来たようだった。
しかし、私たちの姿を見て、すぐに寮に帰ってしまう。
疾風のようにかけていく2人の後ろ姿をタイシンは、頭を抱えて見送っていた。
「ん」
「え」
彼女は、私に手を差し出してくる。
「早く、繋いで。夜道で顔面からこけられても困るし」
「う、うん」
照れる様子もなく、ごく自然と提案してくる様子に驚き、涙が止まる。
「そこ、枝があるよ」
「わかった」
「ちょっとだけ、段差あるから。転ばないでよ」
「あ、ありがとう」
普段と全く違って、とても優しい彼女に最初は驚いていたが、段々と受け入れ始めていた。
というよりこれは
「タイシン、聞きたいことがあるんだけど」
「なに? トイレならもうちょっと奥だから」
「私って、実はね。24歳なんだよ」
「実質4歳でしょ」
ですよねえぇぇぇ。なんとくなく思っていたが、わかってしまった。この娘は私を園児として扱っている。こちとら大人なんだぞ!スモックなんてもう全然はいらないんだぞ!入るのは小学生の時のスクール水着ぐらいだし!
「なんで、そんなむくれてるの。おなかでも空いた?」
「そういう子供扱いしているところに憤りを感じているんですが!!!」
「じゃあ、手を離した方がいい?」
「それは転びそうで怖いので離さないでください」
ほら、私は大人なので、ここで変に反発せずに自分の身の安全を優先してますぅ。おとなでしょ!
「いい子いい子……フッ」
くっそお、このウマ娘笑ってる。自分が優位に立ってるやつの余裕を笑みをしている。許せないけれど、この帰路を無事に終えるにはこの屈辱を耐えなければいけない。
そうだ、この雰囲気なら割と彼女のことを聞けるのでは?
「ねえ、タイシン」
「なに?」
「タイシンの子供のころはどんな子だった」
「そんなの知ってどうするの……」
「4歳児だから何でも知りたいんですう」
「うっざ。ホントにクソガキじゃん」
言葉は刺々しいが、言い方は穏やかそのものだった。あんまり楽しいもんじゃないけど、という前置きをしながら彼女は語ってくれる。
「アタシはあんまり活発じゃなかったし、人間の子と比べても小さい方だったからさ、いっつもからかわれてた。手が届かない場所にものを隠されたりとか。ペアを組んで作業するとき、じゃんけんで負けたヤツがアタシのペアになるとか。そういうくっだらないことばっかりされてた」
「……」
「それで、からかわれまくってたけど、いつからか悲しいっていうよりイライラとかのほうが強くなってきてさ。喧嘩売ってきた男子と取っ組み合いになったりとかあったな」
あの時の泣いてる男子の顔はなんか笑えた、とあっけらかんと話す彼女の横顔はとても穏やかで、綺麗だと思った。
「まあ、喧嘩したら親が出てくるじゃん。それでウチの親は何度も、何度も謝っててさ。そんなに謝るもんだから、向こうの親も途中から、こちらこそすいませんってお互い謝罪し続けちゃうくらいのレベルだったな。……それで、家に帰るとさ。まあ、普通、叱られるでしょ。喧嘩売ってきたのはそっちでも、買う方にも問題があるってもんじゃん?……でも、ウチの親はアタシに謝ってきたんだよ」
「『ごめんなさい。大きく産んであげられなくてごめんなさい。そしたら男の子とけんかになることもなかったよね』って。……意味がわからないじゃん。そんなの。」
つないだ手が強く握られる。
「『こんなこともうするな』とかさ、『喧嘩したら危ない』とかって言われると思ってた……でも、『ごめんなさい』だって。それはさ、言い返せばアタシは生まれてきたことが不幸だ、っていってるようなもんじゃん。どうしろっていうんだよ。アタシはなんていえばよかったんだよ。……そう思ったらさ、ついカッとなって『うるさい、アンタには関係ないだろ』って怒鳴ってた。そしたらあの人また泣いてさ。……まあ、そのままにしておくのもなんかアレだったから『メソメソ泣くぐらいなら胸張れる親になる努力しろよ』って言ってから部屋に帰った」
やっぱり、彼女は優しい。泣かせちゃったお母さんを励まそうとしてたんだ。
「あー、言ってて恥ずくなってきた。もうこんくらいでいいでしょ」
「……どうしてレースを走るようになったの」
歩く足を止めて、彼女の顔をじっとみる。吸い込まれそうなほどきれいな青い瞳。本当に知りたいこと。知らなきゃいけないこと。やっと言葉にできた。
彼女は少し考えた後。ゆっくりと語ってくれる。
「レースだけはよかった。走って勝てば、ムカつくヤツら、馬鹿にしてきた連中、全員見返してやれるから。全員まとめてブチ抜いたゴール板の先……その場所だけ楽に呼吸できる気がした。……だから、ドンドンのめり込んでトゥインクル・シリーズにだって出てやるなんて思ってここに来た。でもやっぱり、ここはレベルが違った。位置取り、体格、加速力、全部が段違いで、それに気おされて結局、ろくに発揮できずにあんたと会うまであんな感じで走って……なに、どうしたの」
気づけばナリタタイシンを抱きしめていた。そうしなきゃいけないって、本能的に感じた。
涙が止まらない。
「私、あなたのことが好き。大好き」
「急に、なに?」
普段なら、触るななんて拒否されるところだけど、彼女は受け止めてくれた。
「私はね、あなたに救われたんだよ?」
「何もしてないんだけど」
「自覚がなくて当たり前だよ。私が勝手にあなたを見て救われたんだから」
「何それ」
「なんだろう。わかんないや……でもね、私は絶対あなたのそばを離れない。言いたいのはそれだけ」
どくどくと彼女の鼓動が聞こえる。たぶん、私の鼓動も聞こえてるんだろう。すごく早く脈うっているこの気持ちが。
「何か、不安なこと。気になることがあるんだよね。メイクデビューで」
「気にならないやつの方が少ないでしょ」
「大丈夫だよ。大丈夫」
「……」
「勝ったら泣きながら喜ぶよ……負けても大丈夫。悔し泣きしながら悪かったところを言ってあげる。それで、次は絶対に勝とうねって励ましてあげる」
「結局、泣くんじゃん」
「ナリタタイシンの分まで泣いてあげる」
「頼んでないし」
「じゃあ、辞めようか?」
「だから、その性格悪いところ直した方がいいよ」
「えへへ」
「うっざ」
ナリタタイシンは微笑みながら、悪態をつく。
その表情はとても綺麗で、ずっと見ていたいなって思った。
「ありがと、ナリタタイシンも気を付けてね」
気づけばトレーナー寮までついていた。なんだか、さっきのやりとりを思い出すとすごく恥ずかしくなってくる。
「ん、」
それだけ言うと、ナリタタイシンは寮まで帰ろうとして、少し、こちらを振り返る。
「普段、どうしてるの」
「なんのこと?」
「その、首」
「ああ。ジャージ着てファスナーを首元まで締めてるよ」
「息苦しいでしょ」
「まあね。でも他ので隠すのも面倒だし。気にしてないよ」
「ふーん。まぁ、いいや。お休み」
「うん、お休み」
彼女の姿が見えなくなるまで見送る。
長い夜も、もうじき明ける。
それははじまりを告げるようで、これから起こる出来事に私はゾクゾクと震えが止まらなかった。