「なんだ。これは。」
艦長席に座るミハエル=ゲルン大佐が眉をひそめた。巡洋艦ウィル=ゲイムのブリッジにいた全員が突然鳴り響いた騒音に驚いている。定期的に音量は上下し、不定期で鳴る高音が耳に刺さる。動物的な恐怖心が呼び起こされるような音だ。暗礁宙域周縁のパトロール中は食事中であれシャワー中であれ、油断することはできない。
「古い連絡回線からです。ただ、発信者は不明であります。」
クルーがノイズの周波数を特定したようだ。この回線は今では使われていない。近い周波数の通信が混信しているか、もしくは何者かが周波数を合わせて、このノイズを送信しているかのどちらかだ。
「ノイズに周波数を合わせてくれ。なにか重要な連絡かもしれん。」
ゲルン大佐が眉をひそめた。軍人らしい大きな体躯の彼が眉間に皺を寄せると結構な迫力である。担当のクルーが少しずつダイヤルを回していくと、次第に信号が鮮明になっていった。恣意的にプログラミングされた音程がある。
「…ピアノ?」
周波数を合わせきると、場にそぐわぬ脳天気で明るい音色がブリッジに響いた。クラシックの曲ように聞こえる。いたずらか。と、全員が呆れたような、安心したような顔をした。
「待て。」
クルーが回線を切ろうとしたとき、若くして副艦長席に座るグエン=ラインフォードがそれを遮った。
「曲にしては変だ。」
ラインフォードの言葉に反応して、数人のクルーが曲に耳を傾けた。
「メロディーに不自然な規則性が…ある気がします。」
「そのようだ。この曲にはパターンがある。解析できないか。」
ラインフォードに指示され、前方のモニターにオシロスコープが映し出された。ランダムに見えた曲の波形が、解析するにつれて、パターン化されていく。ゲルンは興味津々で前のめりになっている。アラベスクのような複雑な幾何学模様が映し出されると、その隣のモニターには文字が表示され始めた。意味のないランダムな文字列にしか見えなかったが、次第に、それが繋がり合い、虫食いではあるが、文と呼べるような状態にまで復元されていった。
(…級2隻…に…けて発進…たし……ちに…標…2…されたし……級2隻…に…けて発進…たし……ちに…標…2…されたし…)
「もっと鮮明に復元できないか。」
ラインフォードは口もとに笑みを浮かべた。
刺すような日差しの下、こびりつくような湿った冷気が頬をかすめた。遠くの山麓の木々がしなるように揺れている。あたりの牧草も風になびいて、波紋のような模様を描いている。晴れていても、この風が吹くときは決まって雨が降るのである。嵐が近い、とロラン=セアックは感じた。春の嵐がようやくやってくる。
荒涼と佇む山々は風でその雪化粧を振払おうとしているようだ。外の羊たちを畜舎の中に帰さなければいけない。
雨漏りは大丈夫だろうか。色々と思考をめぐらせながら、18歳の彼は仕事に取り掛かった。
ヴィシニティのはずれに位置するこの場所で、ロランが今の暮らしを始めたのは10年以上前のことだ。畜産業を営むセアック家の夫妻が幼き日のロランを街の孤児院から引き取った。もちろんその時のことなどは一切覚えてはいない。
ロランの緑色の目と褐色の肌、そしてシルバーの頭髪は、エキゾチックな雰囲気さえある。しかしセアック夫妻は、彼を実の子であるかのように育てた。血のつながりなどは関係が無かった。ロランも本当の両親のように彼らを慕っていた。
小学校に通い始めた頃から、羊の世話の仕方を教わった。時期尚早な気もするが、このあたりでは普通らしい。おかげで、二人が亡くなり自分一人となってしまったいまでも、彼はこうやって生計を立てることができているのだ。
自分の小屋に戻り、夕食を取って暫く経った。日もほとんど落ちたようだ。風のせいで建付けの悪い小窓が小刻みに震え金属音を立てている。空気と空気の擦れる音が、時折聞こえていた羊たちの声を打ち消しはじめた。まだ雨は降っていないが、じきに降るだろう。
嵐の雨はいつも突然である。この華奢な家で嵐をこすのは、それなりの恐怖を伴う。街に行けば屈強な建物で溢れているが、こんな田舎のはずれでは話は別だ。このあたりの殆どの家屋は木造で、大男3人もいれば、10分もかからずに取り壊せてしまいそうな見た目をしている。
しかし意外にも、こういった家々は丈夫だ。草原に点在する家は、住宅街の家のようにお互いを風雨から守り合うことができないので、かなり頑丈に作らなければいけないのだ。もちろんロランは一度も倒壊した家など見たことはない。こうも建物の体裁が貧弱なのは、最低限の木材しか使用しないからだろう。とはいえ、やはり嵐は恐ろしい。
ロランは電気を消した。天井からぽつぽつと音がする。雨が振り始めたようだ。吹き付ける風のせいで家の至るところから軋む音がする。なかなかぐっすりとは眠れないが、ベッドに入り彼は目をつむった。もうほとんど羊の声は聞こえない。
雫の音でロランは目を覚ました。朝焼けが眩しい。昨日の風雨が凄まじかったせいか、羊の出す音や木の揺れる音など、日常の音も耳につく。雫の音は雨漏りではなかったし、窓も割れていない。家は無事に嵐を越したようだ。ロランは安堵の息をついた。ただ畜舎はどうだろうか。ロランは眠くて半分ほどしか開いていない目をこすりながら、ベッドの縁に座るようにして起き上がった。もう日は完全に昇っていた。暫くしてから立ち上がり、外に出た。
雨で濡れた草や木の葉が、日にあたり輝いている。虹色にも見えるその輝きは、ロランにとって、嵐がもたらす唯一の幸せだった。
靴下が濡れてきたが、大して気にはならない。畜舎の方も遠くから見る限り大丈夫そうだ。念の為損傷を点検することにしたが、屋根も飛ばされていないし、壊れた箇所もない。羊たちも元気そうである。今年も無事に嵐を乗り越えた。ロランはやっと肩の力を抜くことができた。
ひとしきりの雑務を終え、牧場を囲む柵に腰を下ろした。ロランはズボンに挟んである茶色みがかった古びたタオルで、額の汗を拭いた。時計を見ると、もうすでに午前10時をまわっている。
仕事が一段落したら、お茶を入れた水筒を片手にラジオを聴く。これがここ最近のロランの日課だ。
お茶が驚くほど苦かったのは玉に瑕だったが、空も晴れ渡っていて清々しい日だったので、街に行くことにした。こういう日でないと乗り気にはなれない。実物を見ておきたいものや通販だと送料が高いもののために、月に一回程度買い出しに行くのだが、ロランは人工的で都会風のヴィシニティの中央部が好かない。コンクリートと鉄で区切られた街。人さえもコンクリートと鉄でできていそうな街であった。
ヴィシニティはかつてハイム家が経営する鉱山街だったのだが、次第にハイム家は事業を拡大していき、今やヴィシニティはハイム家の雇われ労働者たちによる都市となったのである。パン屋もあるし、工場だってある。セアック夫妻も例に漏れずハイム家に雇われて畜産業を営んでいたので、後を継いだロランも当然雇われ牧場主である。そうでもなければ、ロランのような庶民が地球に住むことはできない。ロランたちヴィシニティ市民は特例で、一般に地球の居住権を持つのは富裕層だけというのが現状であった。
街へ行くときは、友人のキース・レジェに羊の世話をしてもらっている。例に漏れず今回もキースの家に向かった。彼の家までの距離は歩いて15分といったところだろうか。それなりの距離ではあるが、キースの家はロランの家から3番目くらいには近い。
「キース!」
ロランはドアをノックした。小麦とバターの香ばしい匂いがする。連絡を入れてあるので、すぐにドアの奥から足音が聞こえてきた。ガチャとドアノブがいかにもドアノブらしい音を鳴らした。
「よう。ロラン。あがれよ。お茶は入れてある。」
キースが笑顔で迎えてくれた。彼はロランと同じ孤児院にいた。ロランは幼い時にセアック夫妻に引き取られたので、もちろん彼のことなど覚えてはいなかったが、ハイスクールでできた数少ない友人の一人が孤児院出身で、さらに自分と同じところだと知った時には目が飛び出る程驚いた。
機械工学専攻のロランとは違い、キースは農業経済専攻だった。パン屋になるために、孤児院を出て、ローンを借り、ここに引っ越してきたらしい。
彼の目は、夢や希望に満ち満ちて輝いている。ヴィシニティ1のパン屋になると豪語して、彼は足がかりにこのあたりでは最高のパン屋になった。ロランは自分の手で夢をつかもうとしているキースを尊敬していた。ただ今日の彼はあまり元気がないように見えた。
二人はリビングの中央のダイニングテーブルを挟んで椅子に腰を掛けた。
「今日はなにか買うものはある?」
ロランが聞いた。どちらかが街へ行くときは、留守番をしてくれる方のお遣いもするというのが、二人のルールになっている。
「大丈夫。この前のあまりがあるから。」
そう答えてからキースは少し眉をひそめて話を続けた。
「ところでさ…ロランはハイム家の噂は聞いてるか?」
「噂…?」
全く見当がつかない。
「ハイム家が引き上げるっていうのは…聞いてないか…?」
ロランは背筋が凍った。ヴィシニティの人間は皆ハイム家に雇われている。ハイム家がヴィシニティの経営を辞めるというのであれば、それは市民全員がリストラされるというのと同義だ。もちろん地球に住むことはできなくなり、皆が少しずつ積み重ねてきた生活は崩れ去る。
「鉱山を掘り尽くしたからこの街に要はありませんってことらしい…おかしいよな…そんなこと…鉱山経営をしてるって言っても、それしかしてなかったのはの何十年も前の話だ…今じゃおまえみたいに羊を飼ってるやつだっているんだし…俺だって…」
キースは下を向いた。本当だとすれば、死活問題である。驚きと動揺でロランも言葉が見つからなかった。
「なにかの間違いだよな…ロラン…」
キースは下を向いたまま言った。
「……ただの噂だよ!…たぶん…」
前向きに考えようと明るくした声が沈黙を際立たせた。
「…だといいけどな…」
部屋には時計の秒針の音が響いていた。
ヴィシニティには電車が通っていない。そのため必然的に中心部までは車で行くことになる。未舗装の道を2時間走ったあと、国道に出ててからは3時間走る。田舎道は、凸凹の曲がりくねった道のせいでろくに速度を出せない。これは本当に骨が折れるが、うって変わって幹線道路は軽快で、山脈を背中に疾走するのは快感さえ覚える。
国道を1時間程度走ると、今までの大草原の中に家屋が見受けられ、道端に住宅街や商業店舗が現れ始める。さらに進むと、次第に小さく灰色の建物が見えてくる。草木の量も減り始め、人類の築き上げた科学文明の叡智が姿を現す。空気も幾分か灰色に淀んできて、溶剤が揮発したような匂いが漂ってくる。もっとも、この淀みと匂いは三分もすればわからなくなるのだが。
ロランは都会の空気が好きではなかった。それは単純に大気が、というのもあるが、そこに住む人々の雰囲気が感覚的に気に喰わないのだ。皆何かに操られているかのように常に時計を気にしているし、何よりも、ここの人間は他人との優越を常に気にしているのが居心地を悪くさせる。彼らは道端ですれ違う人やベンチの隣に座っている人より劣っていないかを毎回確認しているように見える。こんな街では落ち着かないのでなるべく早く帰りたいが、買い出しには2、3日かかるので、ホテルを借りてそこに宿泊する。
とりあえずロランはいつものホテルにチェックインした。値段だけを見て選んだホテルだが、ありがちな大げさな装飾が無くそれなりに気に入っていた。むしろ、ロランにとってこのホテルは、乾ききった砂漠の中の小さなオアシスであった。
リュックサックを部屋に置き、中から買い物用のバッグ出し、ポケットに財布を入れた。軽く伸びをしたあと、部屋を後にした。フロントの横を通り過ぎると、エントランスの自動ドアの向こうに、忙しく歩くサラリーマンが何人も見える。
外に出ると午後の日差しが想像以上に体にこびりついてきた。熱を持ったアスファルトのせいで足が蒸れる。いつも以上に都会への不満を感じていることに気づいたロランは、それがハイム家が引き上げるというキースの話が、常に自分の神経を絶えず刺激しているのせいなのだと気付いた。
具体的に言えば、生鮮食品を買うのが街への買い出しの主な目的だ。たくさん買って、冷凍庫に保存し、ちまちまと1ヶ月かけて食べるのである。スーパーまではホテルから歩いて5分もかからない。ロランは買うものを頭の中で暗唱しながらスーパーに向かった。
時折すれ違う人がスーツを着た人より作業着のような薄汚れた服を着ている人の方が多いことに気づいた。そういった人はほとんどが街の裏の鉱山で働く労働者なのだが、明らかに普段よりは多い。ハイム家の噂となにか関係しているのだろうか。前から歩いてくる中年の男もそうだろう。酒を飲んでいるのか千鳥足で、頬が赤らんでいる。髪も服もやつれていて…
「おいっ!」
男は突然声を上げた。ロランは思わず自分が絡まれたのだと思い、一瞬硬直したが、どうも独り言のようだ。その後も何かぶつぶつと言っている。
あたりの通行人は空気のようにその男を無視して横を通り越すが、ロランはすれ違いざまで不用意にもその男の方を見てしまった。運悪くその時ちょうど男が顔を上げ、目があってしまった。
「おい。おまえ。なんだ…何見てんだよ。てめえ…ヒックッ…おい。」
ロランはすぐに目をそらして少し速歩きで横を通り過ぎようとしたが、間接視野から男が消えたタイミングで、自分の腕が生暖かいゴツゴツとしたものにがっつりと掴まれた。ロランは反射的に振り払おうと腕を振ったが、酔っていても鉱夫の腕力は鉱夫の腕力ようだ。ロランはため息を吐かずにはいられなかった。
「おい。てめえ何見てん…だ。てめえ…ヒックッ。」
意識が朦朧として視線すら定まっていない男は、ロランの腕を引き寄せ、触れてしまいそうなほど顔を顔に近寄せてきた。ロランはすぐに顔をそむけたが、酒臭さのなかに胃酸の匂いが混じった、いかにもな臭気が鼻に刺さる。
「あの…急いでるんで…僕…」
ロランはこう言いながらもしきりに手を振り払おうと試みた。もう片方の手で、男の指を一本ずつ剥がしていこうともしたが、無理だった。異常な握力である。男は独り言のような罵詈雑言を呟いている。初めは運が悪かった程度にしか考えていなかったが、次第に言葉が通じない、猛獣にでも出会ったかような恐ろしさがこみ上げてきた。
酒男を振払おうとじたばたしていると、横目に一人男が近づいてくるのが見えた。
「大変だな。少年。」
その男は少し笑みを浮かべながら近づいてきた。同じく鉱夫らしい身なりをしているが、酒男とは違って整った印象を受ける。大丈夫か?とロランの肩に手をかけた後、ロランの腕を酒男の手からいとも簡単に引き離してみせた。突然の介入にきょとんとする酒男に座って休めと声をかけ、歩道の端に座らせた。
「悪いな。大変なのさ。俺たちも。」
そう言って男は戻ってきた。
「突然暇を出されて給料も出ないんだぜ、誰だって不安で酒に溺れたくなるもんさ。先が真っ暗なんだよ。俺ら鉱夫は。」
男は遠くを見つめていた。彼にはどこかやりきれなさのようなものが漂っている。ロランはこの男に昼からずっと神経を逆なでしていた話題を切り出した。
「…ハイム家が引き上げるから、こう、なっちゃてるんですかか。」
男は目を細めた。
「さあな。俺らがクビにされたってのはほんとだ。だけどな…おかしなことにまだ鉄は残っているんだ。たくさん。あと30年分はある。だから誰もリストラなんて思ってもいなかった。」
男は話を続けた。
「君らがどうなるかはわからない。ただハイム家がどっか行っちまうってんなら、君だってうかうかしてらんないだろうな。」
男はまた肩に手をかけてきた。
「気をつけろよ。少年。世間はそう甘くないぜ。」
こう言い残して男は去っていった。
なかなか男の言葉は脳裏にこびりついて離れなかったが、ロランは気を取り直してスーパーに向かった。もう日はほとんど暮れていた。街灯が点灯し始め、街ゆく人に夜の始まりを知らせていた。買うものを思い出しながら歩いていると、ふと、何か引っかかる感覚を覚えた。何かの違和感を感じた。正確には、もものあたりにあるはずの感覚が無いことを感じたのだ。
その正体はすぐにわかった。財布がない。
ロランは慌てて後ろを振り返り、男の姿を探した。日が落ち始め、きつい西日が徐々に収まり始めたが、街頭が点くにはまだ早く、ビルの狭間は薄暗い。
ロランには俄に信じづらいことだった。あの男が盗みを働くようには思えなかったからだ。端正な容姿からは想像できないことだ。信頼に足るような人物に見えた。ロランは走っていた。買い物に来て財布をすられるという間抜けな自分への焦りが強まっている。背の高い、全体的に身なりが整った鉱夫。周囲の人を一人ずつ目で確認し、次へ次へと視線を移した。
ロランは周囲の自分への視線に既視感を覚えた。酒男に向けられていた視線。侮蔑と哀れみが混じり合った視線。周囲と行動を異にするがゆえに向けられる視線。周囲の色が青白く感じられた。沈もうとしている太陽のせいだろうか。違う。秩序を乱すものを排除しようとしているのだ。集団心理。社会を築き保つために生まれた協力と合一の集積がこの都市と重ね合わさり、一つの生き物のように自分にのしかかっているような感覚に陥った。
ロランは思わず立ち止まり呆然としてしまった。これだから都会は嫌いなのだ。そう思っていると、車道沿いの街頭が一斉に光を灯した。偶然にも視線の先の街頭の下に例の男が立っているのが見えた。男は大通りをそれて角を曲がった。ロランは財布という眼の前に差し迫った問題を解決するため、また走り出した。通行人の視線は依然として刺すように感じた。
男が曲がった交差点をからは、それまでの街並みの都会ぶりとはうってかわって、寂れた低い建物の並ぶ一本道が見えた。日が落ちた後で、街灯もなく、暗闇の中に突き進んでいるこの路地は永遠に続いているように見える。ただ、少し先に一つ橙色の点が滲んで光っていた。ロランはその光に向かってゆっくりと足を踏み出した。
炎にさえ見えたその輝きは、実際は何かの店の白熱灯の光が漏れているだけだっだ。男はここにいるのだろう。普段は決して通ることのない路地。不思議な、怪しいような雰囲気がある。
その建物に近づいていくと、人の声が聞こえてきた。男、複数人の声が聞こえる。飲み屋というほどの騒がしさはない。かといってバーのような静寂さもない。眼の前にまで来たが店には看板もなく店名も分からない。この店の異質さは近づけば近づくほど強くなっていく。恐る恐るロランは入り口と思わしきドアを開けた。中は案外広く、5、6人ほどの男たちがそれぞれ丸いテーブルにつき酒を飲んでいる。笑いながら会話をしている者もいれば、一人で頭を抱えている者もいる。ただ、全員鉱夫の身なりをしていた。店の奥から一人の中年女性がやってきて、ロランを席まで案内した。それから何も言わずその女はロランのもとを去り、店の奥へ帰っていった。
ロランは店の男達を横目でひとりひとり確認していった。次へ、次へと視線を移した。奇妙なことに誰とも目が合わない。最後の男は顔を伏せていてよく見えないが、耳が明らかに赤く、ひどく酔った様子だ。ロランは視線を顔から足先へと移していき、確信した。店の独特な空気に押し潰されかけて憚られたが、ロランは席を立ちその男のテーブルの前まで歩み寄った。
「財布。返してください。」
ロランは言った。反応はない。腹の底に抑えていた怒りが少しずつ湧き出てきた。
「財布盗みましたよね。返してください!
ロランは声を大にして言った。それでも反応がないのでロランは男の肩を揺すって机に突っ伏している彼を起そうとした。それでも彼に反応はない。もう一度彼の肩を揺すろうとした時、ロランは背中に冷たい視線が向けられているのを感じた。それは大通りを走った時に自分に向けられていた視線、酒男に向けられていた視線と同じだった。しかし、それは盗みをされた人ではなく、盗みを働いた人に向けられるべきなのではないのだろうか。
ロランは物音の一切しなくなった緊張感を感じながら、後ろに視線を回した。全員、横目で自分を見ている。ロランは睨まれていた。この部屋ては異質なのは自分なのだと分かった。すると突然体が前に倒れて、男の机に頭をぶつけた。唐突な出来事に自分の体が乗っ取られたように感じたが、胸元を男の手が掴んでるのを見て、何が起こったのかを理解した。男は道で絡んできた酒男と同じ匂いを漂わせながら、ロランの顔に泥酔した顔を引き寄せた。
「酒は弱いんだ。すぐ酔っちまう。」
男が舌を絡ませながら囁いた。
「お前は何も知らない。明日を生きることがどれだけ厳しいか。お前もじきに分かるだろうけどな。少年。」
酔っていても、男の目は鋭い。ロランは動揺する自分に怯むなと言い聞かせた。
「貴方もただの飲んだくれじゃないですか!早く財布返してください!」
「黙れぇ!!」
男はとてつもない剣幕でロランに掴みかかってきた。
「酒がないとやってけねぇんだよ!お前は何を買うんだ。その金で。家族が全員自分から離れていくことがお前に想像できるか。仕事を失うっていうのはそういうことだ。なんでクビんなったかも知らされねぇ。お前に何がわかる!!」
「それでも泥棒はだめですよ!」
「お前は財布が無くたって死ぬことはねぇ!だけど俺たちゃ明日の食い物と酒とを買うので精一杯なんだよ!お前にゃわからないだろうなあ!!」
男は怒鳴った勢いのままロランの上にのしかかり、顔を殴ってきた。恐怖や怯みよりも怒りが勝っていたロランは、抵抗しようともがいた。男は酔っていたので簡単に二人の姿勢は入れ代わりロランは反撃をしようと拳を振りかざした。しかしその手はほかの男に掴まれた。
「やめろ。」
腕を掴んできた男が言った。
「酒代は俺が払う。だから…お前、こいつに財布を返してやれ。」
そう言うも泥棒男は酔いが回って動きが取れないので、その男は無理矢理彼の懐から財布を取ってロランに渡した。
「ありがとう…ございます…」
「帰れ。」
その男は首根っこを掴んでロランを店の外に放り投げた。ドアが閉まる音が聞こえる。空にはオリオン座だけがくっきりと輝いていた。
また扉が動く音が聞こえた。
「悪いね。こんな連中で…」
後ろから女性の声が聞こえた。
振り向くと店員と思われた女が自分の横に座ってきた。
「みんな突然仕事を失ったの。だれも予想していなかった。前はみんな今より少しはマシだったのよ。」
女は話を続けた。
「なんでこうなったか。いろんな噂があるの。ハイム家が金鉱が見つかったのを隠してるだとか。御都合主義のハイム家が都合良く引き上げるんだとか…でも実際はなんだか良く分からない。」
ロランは店の中で無口だった女が饒舌に話すのを聞いて驚いたのもあるが、自分が今最も知りたいこと。ハイム家が撤収せんとしているという話がこの女の口から発せられたのに驚いた。
「…ってことは…ハイム家が引き上げるって話、やっぱり嘘なんですか?」
「分からない。数ある噂の一つってだけ。本当かもしれないし、違うかもしれない。」
間違いであると確証を持てたわけではないが、ロランは体が軽くなるのを感じた。
「ホワイトドールって知ってる?」
女は話題を替えた。
「いえ…」
「この辺りには土着の宗教みたいのがあって、ハイム家が来るよりもっと昔。ホワイトドールって言うのはあだ名なんだけど、その宗教の神様なの。今じゃ誰も信じていないけど。ハイム家の鉱山はホワイトドールが住んでる聖なる山だって信じられてたから、当初は反対運動があったそうよ。」
女は軽く笑った。
「今じゃありふれた童話の一つにすぎないけど、ホワイトドールが世界を救済するって話があるの。でも、その予言の内容があまりにも今の状況に似ていて、ホワイトドールを見つけたんでハイム家が鉱山を閉鎖したんだなんて信じる人もいるくらいなの…」
女はまた自嘲気味に笑った。
「私も信じてなんかいない…でも…神話で、そのホワイトドールと共に世界を救済する救世主の見た目が…あなたにそっくりよ。」
突飛な話に、ロランはつい笑ってしまいそうだった。女はそんなロランの様子を確認したあと、また話し始めた。
「緑の目の浅黒い肌の銀髪の青年…笑っちゃうわよね。あなたはすられた財布を取り返しに来た世間知らずのただの若者にしか見えないわ。」
「そうですよ。自分はただの世間知らずです。ハイム家の撤収が噂に過ぎないことを知れて僕は安心です。財布も戻ってきましたし、帰ります。」
ロランはとりあえず自分に直接関わる問題がすべて解決されたのを思い出し、立ち上がった。そして女に別れの挨拶を告げた。
彼がこの店に来るのはこれが最初で最後だった。
いろいろあったが無事、ロランは買い出しを終えた。今までで最も疲れた買い出しだった。今日で街に来て3日目になる。いろいろあったが、予定通りといえば予定通りだ。ホテルのチェックアウトを済まし、車のドアを開けた。
その時だった。
「ロラン=セアックさんですか?」
背後から男の声が聞こえた。無意識に体に緊張が走る声だ。
「少し、お時間をいただけないでしょうか。」
いいえ、と言わせる気のない口調。振り向くと3人、長身の男が立っていた。スーツの上からでもわかる鍛え上げられた肉体。着然として微動だにしない表情。軍人だろうか。
返事をする間もないままロランは車に載せられた。ドアの内側に「アメリア連邦中央情報局ヴィシニティ局314」と記載がある。どうやら諜報部のようだ。一般市民の自分が、諜報部に半ば誘拐されている。映画の主人公のようだ。もしくは何かのドッキリ?状況が整理できないとはこのことだ。後部座席からは外の景色は見えない。
男に絡まれたときと財布を取り返したとき。その時は現実があった。それ故に不安だった。しかし今、この状況は突拍子もない出来事すぎて、現実感がない。今の感覚は、死んだ義理の両親が自分の部屋のエアコンの修理をしている夢を見たときに近い。とにかくロランは自分が置かれている状況を理解しようとした。
「僕…何をしたんですか?」
返事は無い。
「…どこへ行くんですか?」
やはり返事は無い。
しばらくして助手席の男が口を開いた。
「付きました。」
何か大きな建物の裏口のようだ。男たちは容疑者を連行するようにロランを誘導し、エレベーターに載せた。ボタンに階数表示がないので建物が何階建てかもわからない。フロアの説明も書いていない。特別な用途のエレベーターなのかもしれない。それこそ、犯人の連行のような。だとすれば拘置所だろうか。だとしたら、自分は容疑者?そんなはずはない。
降りさせられたのはかなり上の方の階だ。
ツーンと鼻に刺すような芳香剤の匂いがする。スーパーのトイレにあるような安いものでは無い。
誰にも合わないまま奥へ奥へと廊下を進み、最も奥にあると思われる部屋についた。
「どうぞ。」
男がドアを開けながら言った。ここから先に彼らは入らないようだ。
ロランは部屋へ一歩踏み出した。
十畳ほどの部屋だ。手前にソファーが縦に向かい合わせになっていて、その奥にはデスクがこちら向きに置かれている。そしてそのデスクには中年太りの男が座っている。
「ディラン=ハイムだ。ロラン=セアック君。」
ディラン=ハイム。彼こそがハイム家の家長、そしてここヴィシニティの市長だ。蓄えたひげが胡散臭くてビジネスマン風ではあるが、温和な雰囲気も持ち合わせている。なぜ自分はこの人に会っているのだろうか。
「唐突だがロラン君。君には責任があるんだ。自分のせいでは無くてもね。」
責任。何の事を言っているのかロランには見当もつかないが、責任という言葉には人を潰しうる重みがある。
「…責任…ですか。」
「そうだ。」
ディラン=ハイムは頷いた。
「…何の責任ですか。」
「その前に契約書にサインしてくれ。ロラン君。」
ディラン=ハイムはロランを見ながら、デスクの上に一枚の紙を差し出した。
一番上に「秘密保持契約書」と明記してある。
「ようは今から聞くことを他に話してはいけないということだ。もし話せば国家反逆罪として処罰される。」
ディラン=ハイムは表情を変えずに説明した。
国家反逆罪、息苦しい響きだ。
「サインをしなかったから…」
「いや、君はサインしなくてはならない。その義務がある。」
車に乗ってから常に一方向に流れ続ける要求にまた流されるのかと嫌気が差したが、今の自分はその流れに身を任すほかどうしようもないことを悟った。
走り書きのサインを見てディラン=ハイムは頷いた。
「君は機械工学を専攻していたね?」
「…はい…」
機械工学がどうしたというのだろうか。
「では話は早い。ヴィシニティ鉱山のモビルスーツをノックスの港まで動かしてくれないか?」
モビルスーツ?飲み屋の女将の話と関係があるのだろうか。ノックス港といえば、連邦有数の軍事拠点だ。新兵器の輸送?しかし、なぜ自分なのだろうか。
「なんで、僕なんでしょうか?」
ディラン=ハイムは表情を変えない。
「私に君の質問に答える義務はない。ただゆうなれば、君にはそのモビルスーツに乗る責任がある。それだけだ。」
少年を諭すような口調で説明した。
「このことは軍の上層部と私と君しか知らないことだ。書類にあったように、口外は禁物だよ。」
禁物も何もほとんど何も知らされていないので、全く状況はつかめない。モビルスーツを動かせば良い。ただそれだけのなのだろうか。困惑しているロランを窘めたあと、ディラン=ハイムは立ち上がった。
「もう軍の諜報部が待っている。時間はない。行こう。」
そう言って彼は部屋の左隅のドアに向かった。そんなところにドアがあったとは気付かなかった。彼に続いて奥へ進むと、エレベーターが扉を開いていた。中では詰め襟の軍服を着た大男が3人待機している。彼らが軍の諜報部なのだろう。
直ぐに地上に着いて車に乗り込んだ。3列の座席のジープのような車だ。先程と同じく外は全く見えない。
タイヤと道路との走行音のみが車内に響く。
「…思いの外時間がかかってね。ぎりぎりになってしまったんだ。忙しなくてすまないね。」
横に座るディラン=ハイムは曇ガラスを眺めている。
ところでなぜこの男も車に乗っているのだろうか。モビルスーツを動かすのに市長はいらない。確実に。ロランは時が経つに連れてよくわからなくなる状況に疲れ始めてきた。
一瞬車が石に躓いて跳ね上がった。体がふわりと浮いた瞬間、曇ガラスの向こう側から強烈な光が差し込んできた。燃えるような火。しかし温かさはない。冷酷な火だ。ロランは眩しさに目を細めた。
光は地響きとなり、人の耳では聞き取れないその低音によって、自分の内臓が沸騰したように震えているのを感じる。
「早いじゃないか!」
ディラン=ハイムが叫び終わる前に、2つ目の光が放たれた。ビームの粒子と大気が音速で擦れた摩擦の音は、あまりにも大きいと言うことを除けば、水が滴る音にも聞こえる。
あまりの轟音にロランは耳元で大砲が爆発したと思い体をかがめた。
次の瞬間車のサイドガラスが弾け飛び、同時に道路脇の建物が崩れてくるのが目に入った。3階建て程度の鉄筋コンクリートのビルは、コンクリートをところどころマグマのように燃やしながら車の上に降り掛かってきた。車の天井が凹み、コンクリートが突き抜けるのが見える。
突然の静寂が訪れた。死んだのかとも思ったが、ロランは足元の薄汚れた靴を見て、まだ自分が生きていると分かった。ロランは鼓膜が破れたのだと解釈した。「おい」という声が左側から聞こえた。声の方を向くとディラン=ハイムが瓦礫に腹を貫かれて動かなくなっているのが目に入った。血はコンクリートに滲んでいる。腰が抜けたロランはドアを開け外に倒れ込んだ。目をつぶっても死の光景は鮮明に瞼の裏に記憶されていた。
「おい。大丈夫か。」
ロランに声を掛けていたのは助手席の男だったようだ。男は外に出てロランの肩をさすった。
「…大丈夫ですけど…鼓膜が破れて…それにハイム市長が…」
「聞こえてるじゃないか。あと少しだ。行くぞ。」
男はロランの腕を掴み歩き始めた。目を開けると信じられない光景が広がっていた。車は半分潰れた状態で道の中央で瓦礫の下敷きになっていた。道沿いの建物がほぼ一直線に倒壊していて、そのコンクリートの灰色に赤を含んだ有彩色の点が混じっている。左からは爆発音や空気の擦れる音、もしくは航空機のエンジン音のようなものが聞こえる。
ロランは半ば男に引きずられながら、ヴィシニティ鉱山の入り口に向かった。
上へと登るエレベーターにはすぐに到着した。エレベーターと言っても工事用の簡易的構造のものだが、無いよりは良い。左耳からだけ聞こえる騒音の中、ロランは状況にぐちゃぐちゃにされた脳を整理しようと試みた。今現在、モビルスーツによる戦闘が行われてるということは紛れもない事実だ。混乱によって幻想を見ているわけではなく、ロランの目にははっきりとモビルスーツが見える。殺す者と殺される者。決して互いのことを知ることはく、死んでゆく。戦争だから、という理由で。
「月の連中だ。」
男は唐突に呟いた。上昇するエレベーターからはヴィシニティの全貌が徐々に見え始めていた。
男の目は潤んでいる。
「ディラン=ハイムが死んだのは彼自身の責任だ。行き過ぎた楽観と危機管理のがさつさ。自業自得だ。君にはとにかくターンAに乗って欲しい。ノックス近辺にまで行けば敵は引き上げるだろう。奴らの目的はターンAだ。」
「…ターンA…」
「ヴィシニティで発掘されたモビルスーツ。」
モビルスーツが発掘?
「…」
「噂によれば前の人類が作ったものらしい。私達も必要以上のことは知らされていない。」
男はロランに詰め寄り、がしりと肩を掴んだ。
「そんなことはどうでもいい。後で聞けば良い。お前は早くこの疫病神をノックスに届けろ。それが…」
エレベーターは危うい音を立てて停止した。
「…それが唯一君にできることだ。」
ロランは男の腹が赤黒いことに気がついた。
「…血が…」
男はゲートを開け、ロランを岩山の中にぽつりと見える青い金属のドアまで連れて行った。
「入ってくれ。」
男に言われたまま手を青いドアに当てると、電気的な機械音を上げてドアが上に開いた。ロランはすぐにこのドアがモビルスーツのハッチだとわかった。
自分はこれをノックスに届ければいい。そのことだけをロランは頭の中で何回も繰り返した。
コクピットに座り、操縦桿を握る。馴染みのない歪な形。下部のペダルに足を下ろす。不意に全天周囲モニターが点灯した。それと同時にリニアシートらしき椅子が驚くほど背中にフィットした。ロランの意思を汲み取ったかのように、ターンAと言うらしいモビルスーツはハッチを閉じメインジェネレーターを起動させた。ただ自分の知っている操縦方法がこの異質なモビルスーツにも通用するかはわからない。
ロランは大きく息を吸った。男の姿は見えないが、スラスターに巻き添えにならないところまで逃げたのだろうか。怪我は大丈夫なのだろうか。まだハッチを除いて地面に埋まっているターンAは発進できるのだろうか。膨れ上がる疑問を払拭すべく、ロランは大きく息を吐いた。
ターンAにとって埋まっていた事など関係なかった。軽くスラスターをふかすと、あたりの岩盤などはものもともせず、ターンAは空高く舞い上がった。モニター上に映る機体は純白に輝いている。ロランはノックスに向おうと上空からあたりを見渡した。
最初ロランはそれがヴィシニティの街だとは思わなかった。嫌っていたビル街は半分ほどしか残っておらず、残りは瓦礫と化して倒壊していた。ビームで破壊された建物でできた幅10m程はありそうな長い2本の直線が見えた。一つはヴィシニティ鉱山の麓に向って伸び、コンクリートの残骸を巻散らかしている。今日来た道沿いに発射されたビームの跡だ。もう一つはちょうど街の中心に沿って伸びている。ほとんどこの直線によってビル街は壊されていた。そしてその線は昨日の酒場のあたりを通り、そのまま自分の家の方面の地平線に向かっていた。その瓦礫の上で、アメリアと月のモビルスーツが白兵戦を繰り広げている。一つの爆発によって、一人分の生命が失われている。近くにいた市民も巻き込まれているのだろう。その炎は街のあちこちで燃えていた。晴れであるはずが、灰色の煙によってヴィシニティの街は薄暗かった。
ロランは自分が戦場の殺意と憎悪の渦に吸い込まれていることに気が付かなかった。彼はヴィシニティの血の色の瓦礫の中に溶け出していった。