食料問題は深刻である。
常温のレトルトカレー(中辛)を米無しで食べながら、その事実を硬く噛み締める。歯ごたえのあるものが食べたい。
我が家の残りの食料は、お茶漬けの素が五袋にカップ焼きそばの大盛が一つ、残り半分のマヨネーズと、とっときの桃缶が一つ。いよいよ本腰を入れて食料を手に入れなければ、待っているのは餓死のみである。
何度も再生すると聞きかじり、喜び勇んで栽培したネギと豆苗も完全に腐り果て、今では部屋に虫と腐臭をもたらすだけの存在と化していた。どうしてこんなゴミを俺はいまだに保存しているのだろうか。……なんでだ? いらねえだろこれ、捨てよ。捨てた。
しかしいくら飢えていようとも、コンビニには奴がいる。俺には攻略することが出来ない。近所のスーパーに足を伸ばしたこともあるが、遠くから見ただけでも中で数十体もの奴らがひしめき合っていた。あそこで調達など、到底不可能である。
となれば残されている方法は一つ。正直気が滅入るからやりたくないのだが、そんなことを言っている場合ではない。民家を漁るほか、手はないのだ。
◇
フライパン片手に自室のベランダに出る。俺の住むアパートは101号室から308号室までの、計24部屋。わざわざ表に出て一軒家を狙ってうろつくよりも、このアパート内で済ませた方が安全だろう。しかしやみくもに玄関のドアを開けて、中からゾンビがこんにちは、めでたくバリケード内にゾンビが発生しました、ではシャレにもならない。
したがってまず、各部屋のベランダの窓から中の様子を確認し、ゾンビがいない部屋を探すことにしたのである。
俺の住む308号室の隣の部屋、307号室のベランダに飛び移り中の様子をうかがう。カーテンは閉まっているが、問題はない。ガラスを軽くノック。そして念のため室外機の裏に身を隠す。少し待つと、中からふらふらと近づいてくる人影が一つ。カーテンの隙間から見える限りでは、二十代後半の男だったもののように思える。室内にも関わらず靴を履いている辺り、それなりの危機感を持っていたのだろう。まあ、そんな彼も結局ゾンビになってしまったわけなのだが。南無。
リュックサックからサバイバルメモと名付けたノートを取り出し、簡単なアパートの地図を書いたページを開く。そして307号室のところに赤のペンで小さく1と書き込み、日付をつけた。残り22部屋。奴らがおらず、食料の豊富にある部屋があるといいのだが。
◇
このアパートに駐車場がなく、避難するための車を持っている住人がいなかったせいだろうか。理由は分からないが、ともかく303号室までの五つの部屋は、どれも中に生存者のなれの果てが残っていた。
302号室のベランダに飛び移り、窓を叩こうとして、やめる。初めてからまだ三十分も経っていないがすでに気が滅入って来た。この作業は精神的な疲労が大きいのだ。
以前ゴブリン達と組んでいた時もこうやって民家漁りをしたことはあったが、あの時は本当につらかった。ロクでもないものを何度も見た。
仲良く首を吊った若い男女。一人置いて行かれたのであろう車いすに縛られた老人。そんなものを。今回はそういったものには出会っていないが、それでもやはり路上や店内にいる奴らと比べ、家の中にいる個体にはどうしても何か嫌な気持ちになってしまうのだ。生活感を感じるからだろうか。これも生きて暮らしていたのだと思ってしまうからだろうか。同じアパートに住んでいた住人であることも、理由の一つかもしれない。ともかくやりにくいのである。
とは言え食料が無ければ俺は死んでしまう。動けるうちに動いておかなければならない。感傷に浸っている場合ではないのだ。
ひとまず三階の残り二部屋をチェックしたら、自室に戻って休もうと決める。どのみち三階が終われば、二階のベランダに降りる方法を考えなければならない。休憩するにはいいタイミングだろう。
ため息をつきながらほとんど期待無しに302号室の窓を叩き、室外機の後ろに隠れる。少し待ってみるが、部屋の中で何かが動く様子は見られない。おや。もう一度窓を叩く。やはり変化はない。
ようやく
一度自室に戻ってからアパートの廊下に回り、302号室の扉の前に立つ。何度か深呼吸をしてからドアノブをにぎり、ドアを開こうとして、やはりこちらもカギが。
奴らのいないカギの開いた別の部屋を探すか。それとも窓を叩き割って中に入るか。少し考えた後、窓を割ることに決めた。理由は単純。疲れていたのだ。さっさと終わらせたかった。
◇
ドライバーを使って、苦戦しながらもなんとか窓を割ることに成功する。大して音も立たなかった。俺には空き巣の才能があるのかもしれない。終末前であれば、使用するごとに警察の厄介になる可能性が上昇するゴミクソ技能もいいとこであるが、今では実に有用である。ありがたい。
割れた穴から腕を突っ込んで窓を開け、部屋の中に侵入。302号室。足を踏み入れてすぐに、何か嫌な気配を感じ取った。ここにいない方がいい、さっさと出た方がいいぞと、何かが俺に警告する。いわゆる第六感とか、勘と呼ばれるやつである。
俺はそう言ったものを信じるタチではないが、完全に切り捨てるタイプでもない。勘とはつまり、経験がもたらす無意識の予測だと思う。何に俺の無意識が反応したのか、ざっと部屋を見渡してみたが、これといった異常はないように見えた。机や本棚の配置が異なるせいで印象はだいぶ異なるが、俺の部屋と構造は同じである。争った形跡や血の跡、自殺死体があるといったこともない。
気のせいだった。そう結論付けてキッチンに向かった。設置された少し大きめの冷蔵庫を開く。腐った生肉に卵に牛乳。腐敗臭のオーケストラが脳を揺らした。即閉める。
気落ちせずに戸棚に手を伸ばす。カップ麺、レトルトカレー、缶詰。ポテトチップス、クッキー。まだまだ出てくる。こちらは豊作である。これだけあれば相当な日数持つだろう。ほくほくしながらリュックサックに食料を詰め始めた時。背後から物音が聞こえた。
飛び上がりそうになりながら振り返る。後ろにあるのはトイレ。扉は閉まっている。まだ住人がいたのか、それとも何か物が落ちたのか、はたまたゾンビか。すぐさま逃げ出せるようリュックを背負い、恐る恐るノックをすると、ドン、と荒々しい返事が帰って来た。少なくとも中に
間違いなくゾンビである。部屋から逃げようと思ったが、よく見れば扉にはちゃんとカギがかかっている。どうやらこの部屋の住人は、トイレに閉じこもっている間に変わってしまったらしい。なんだか少し間抜けな気もするが、ともかくこれならばこいつが中から出てくることはそうないだろう。感謝せねばなるまい。ありがとう間抜け。
念のため何かの拍子で中の奴がカギを開けてしまうことのないよう、外からカギにガムテープを何重にも張り付ける。これでとりあえず、この部屋を漁る間くらいは持つだろう。
安堵の溜息をつき、リュックを下ろしてまた食料を詰める。戸棚には沢山の食料やお菓子が入っていた。缶詰、レトルト、スナック菓子。後ろからは絶えずドンドンとドアを叩く音が聞こえるが、無視だ。死者に構っている暇はない。米にペットボトル。手に触れたものを全て、リュックに無造作に詰め込んでいく。
戸棚の中はあらかた漁りきった。リビングに戻って何かいいものはないかと探す。とりあえず本棚から適当に面白そうな本を抜き取る。下の方には絵本が数冊。懐かしさを覚えるがそちらに興味は無い。乱暴なノックは続いている。
再び廊下に戻り、玄関に向かう。一応カギがきちんと閉まっていることを確認。何かないかと靴箱を開ける。低いヒールのパンプスに小さめの運動靴、ぴかぴかの上履き。靴は俺の足とサイズが合いそうだ。ありがたく頂くことにする。靴をリュックに入れながら思う。しかしまあ、つまりはそういうことなのだろう。依然続いているドアを叩く音が、ちょうど俺の肩と同じくらいの高さからしていることに、溜息をつく。彼か彼女かは知らないが、どういった経緯で一人そこでゾンビになったのか、考えたくもない。
リビングに戻り、クローゼットを開ける。大量にある衣服を適当につかんで、リュックの中に押し込む。着る着ないは別にして、布というだけでそれなりに有用なのだ。包帯にロープに毛布に、多方面に利用できる。持って置いて損はない。ランドセルが目に入り、少しのやるせない気持ちになる。
必要なものや使えるものはあらかた回収できただろうか。部屋をざっと見渡すと、写真立てが目に入った。手に取り、しばしそれを見つめる。依然ドアを叩く音のするトイレに向かい、ドアと床の隙間から、写真立てから抜き取ったそれを、何かを期待しながら中に差し込んだ。が、そんなことで音が止むはずもない。それが中にいるのだろう彼女にとって、良いことか悪いことかは分からないが。
窓を開け、ベランダに出てカギを閉める。俺はこの部屋には二度と来ないだろう。ノートを開いて302号室のところに書き込んだ0の上に、大きく×を付けた。気分が悪い。今日はさっさと寝ることにする。
◇
深夜。午前二時四十分。目が覚めた。
頭の上の二つの猫耳が、何か物音を聞き取ったのだ。あのトイレの扉を叩く音が頭をよぎる。嫌な想像をしてしまう。大丈夫、あそこから出てくることは無いはずだ。万一奴がカギを開けたとして、ベランダを飛び渡って来る事も出来ないし、廊下にも出られないだろう。努めて冷静に自分に言い聞かせながら、枕元に置いてあるフライパンを握りしめた。
暗闇の中、リュックサックを手探りで探す。寝る前にはいつでもすぐに避難できるよう、緊急用の物資を詰め込んである。物音を立てないようにしながらそれを背負い、息を殺す。耳を澄ます。
微かな物音がする。俺の部屋の外。アパートの廊下から、足音が聞こえる。
逃げ出したくなるのを必死にこらえ、考える。どうする。どうするべきだ。奴らは扉を打ち破れるほどの力はない。ベランダから飛び降りて逃げるなんて危険な真似はしなくていい。玄関のカギはちゃんと閉めてある。大丈夫、ここで朝まで待てばいいだけだ。そのはずだ。……いや、本当にカギはかけてあるか? 今日廊下から302号室に向かい、この部屋に戻ってきた時、俺は本当にカギをかけたか? 思い出せない。閉めたような、気がするだけだ。……駄目だ、不安で仕方がない。確認しよう。そっと、そっと見ればいい。
防音のため床に敷き詰めた毛布の上を、忍び足で歩く。玄関に向かい、光が外に漏れないよう細心の注意を払いながら懐中電灯をつける。カギを見る。地面と平行の横向き。閉まっている。ほっと息をついた瞬間。玄関がドンと叩かれた。
体が固まる。ドン、ドン、と何度もノックする音が響く。しかしカギは閉まっている。破られる気配もない。部屋に戻って布団にくるまって、朝を待てばいい。怯えて震えている間に、いつの間にか眠りについて、起きた時にはこいつも飽きてどこかに行っているだろう。それだけでいい。余計な事はしなくていい。
けれど。
体は何故か扉に引き寄せられる。猫を殺す危険な好奇心が、俺の顔を玄関の覗き窓に近づける。
つま先立ちをして右目を張り付けた覗き窓の外側、明かりの無い暗闇の中、俺の部屋のドアを叩いていた
……ぐずぐずと情けない声を出して扉を叩く、想像していたよりもずっと大きい
「犬ちゃん、犬さん、いないのー……? ワ、ワンちゃーん、その、こないだのことは謝るから、一晩でいいから、とめ、泊めてほしいなーって……。ねえー、ワンちゃーん……?」
それの額に刻まれた『
え、ええー……。
肩の力が抜ける。お礼参りに来たかもしれない半泣きの長身の女に、なぜだか妙に安堵と呆れを覚え、はーっと溜息をついてから、俺は玄関のカギを回し扉をわずかに開いた。
「……一晩、一晩だけですからね」
「あ、ありがとーー!」
「静かにしてください……! 奴らに気づかれるじゃないですか……!」
……正直、今日は一人が怖かったのである。
「ワンちゃんこのでっかいクマのぬいぐるみ抱っこして寝てるの?」
「黙って寝ろ」
たぶん真面目な回はもう二度とないです。