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感動が、燃え上がる――。
夢が、駆け抜ける――。
伝説を目撃せよ――。
イヤホンから流れるそんなラジオCMを聴きながら、少年は力強く地面を蹴る。
この世界のレース場には、想いが詰まっている。
運営する者、整備する者、見届ける者。さまざまな感情が交差し、溶け合う。やがてそれは、風となるウマ娘の胸に届く。
緑のターフと青空、土色のダートと雨。駆け抜けるウマ娘が地面を蹴る。常人には無い力で、抉る。舞う土埃と芝。後を追うように、人々の歓声は熱狂となり、一着のウマ娘へと向けられる。
言うなれば、栄誉。
一番早く、コースを駆けたウマ娘だけに与えられるソレを掴み取るため。彼女たちはひたすらに鍛錬を重ねる。そして、満員になった東京レース場を走ることが出来るように。
それが出来るのは、ほんの一握りのウマ娘だけ。皮肉なモノで、夢半ばで走ることを止めてしまうウマ娘も少なくない。だから彼女たちを支えるトレーナーが居る。チームがある。学園がある。
この日はとにかく、暑い一日だった。
だというのに、東京都府中市にある東京レース場には、多くの人が集まる。
夢を抱く者、夢を追う者、夢を捨てた者。多様な心が重なり、ゲートが開いた瞬間に現実から切り離される。そして涙となって、感情が消えていく。
レースが終われば、現実に帰るというのに、たった数分。照りつける太陽のことなんか忘れて。その数分間が人々の活力を保たせるのである。
トレーナーに憧れている少年は、大きく息を吸った。
もうすぐその貴重な時間が始まるというのに。駆け足でレース場にやって来た彼。息を切らし、肩を揺らして酸素を吸い込む。熱気に包まれたレース場の空気は熱くて、小さな肺がヤケドしそうになる。
両手に広がる出店の活気を抜けて、スタンドまで一直線。ウマ娘には到底及ばないが、小学校では割と足は速い方だった。
なのに、風を切りかけた瞬間、勢いよく立ち止まる。気になった。ふと。
少年の視界に映る小さくてゆらゆら揺れる背中。心臓が痛む。鼓動が高鳴る。人が少ない場所で一人、寂しそうなその背中に引き寄せられた。イヤホンを外して、声を出す。
「……まいご?」
その背中は、噴水を眺めていた。熱く熱された地面に腰掛けて、火傷なんて気にする素振りすら見せない。
小学校低学年と思われる少女。
ぴくりと体を震わせ、恐る恐る振り返る。そしてまた、ぴくりと空を向いた耳を動かして見せた。
ゆらゆらと揺れる尻尾で返事をしてみる。当然、少年は何も言わない。ただ黙って、少女の瞳を見つめている。夏の太陽に負けないぐらいに真っ直ぐな瞳で。
「もうすぐレース始まっちゃうよ。ここに居ていいの?」
キラキラと光る瞳が、少女には眩しすぎた。なにせ、少年は初めてウマ娘に声を掛けたのだ。トラックの中に居る印象が強い彼にとって、それは未知との遭遇である。
憧れのウマ娘。名前も顔も知らないウマ娘。それでも少年にとって、一緒の夢を追いかける存在であることには変わりない。
「レースには出ないんデス」
ぽつりと彼女が呟く。
少年はムッと唇を結んだ。
「それは分かるよ。僕だってずっとここに通ってるから。観に行かなくていいのって聞いてるんだよ」
馬鹿にするな、と言わんばかりの勢いある言葉だった。子どもならではのイラつき。
少年は小学校高学年ぐらいの背格好。高い声ももうすぐ終わると思うと、今の彼もまた貴重な時間である。
向かい合う彼女は、揶揄いすぎたと笑う。変な大人ではなく、年上の少年だったから、変な安心感があった。そんな少女の雰囲気も、どこか年上感がある。でも、それは少年の気の所為に過ぎない。
「お父さんとお母さんは? やっぱり迷子?」
「ううん。ひとり」
「こんなところで?」
栗色の髪と尻尾。ツヤがあってしっかりと手入れされているのが少年から見ても明らかだった。だから不思議で仕方がなかった。これほどまで夢を見ているウマ娘が、レースを観ようとしないことに。
一方で、少女は困惑する。放っておいて欲しいのに、彼はそれを許さない。初対面。タメ口。偉そうな口の利き方にムッとしていた。
「タイクツだから」
「退屈? レース始まるのに?」
「……別に観たくないもん」
知らない少年に話しかけられ、戸惑っていたのは事実。だが彼のキラキラとした瞳を見ていると、不思議と気持ちが
「ここ、涼しいね」
「……行かないの?」
「僕、ウマ娘と話したことなくて。良い機会だなって」
小学生は好奇心の塊。楽しみにしていたことだって、違う楽しみが目の前に現れれば一瞬で書き換えることだって出来る。
少年はレースよりも、ウマ娘でありながらレースを観ようとしない彼女に興味が湧いた。だがそれは、好奇心ではない。自身の夢がそうさせたのである。
「変なの」
「あはは。よく言われる。僕、ウマ娘のトレーナーになるのが夢なんだ」
子どもがレース場に足を運ぶこと自体は珍しくない。全世界の娯楽として浸透しているから、それを不思議に思う人間は居ない。
ただ少年のような歳で、トレーナーになると断言することは割と珍しい。少なくとも、彼女は生まれて初めて彼のような男に出会った。
光り輝くのがウマ娘なら、トレーナーは陰の存在。会見を開く際には同席することもあるが、それは一部のウマ娘と凄腕トレーナーのみ。特に、今二人が観ようとしているトゥインクル・シリーズのウマ娘とトレーナーに関しては、日本のトップ。異次元なのだ。
「トレーナーってなに?」
「うーん。ざっくり言えば、ウマ娘のお手伝いをする人。練習メニュー考えたり、身の回りのお世話したり」
「へぇ……」
「カッコいいよね。陰のヒーローみたいで」
至極単純な理由。いかにも小学生男子の発想だ。それ以上でもそれ以下でもない。カッコいいからなってみたい。少年であれば誰もが通る道である。ただスーパーヒーローなんて言わない辺り、妙な現実感がある。
「キミは、どんなウマ娘になりたいの?」
唐突な問いかけに、彼女は戸惑った。
視線を噴水に戻して、うっすらと架かる虹に想いを馳せる。自らがここに居る理由。感情。それに無意識に寄り添おうとする少年。幼い彼女が抱くには、あまりにも複雑な想いだった。
「……どうせ笑われマス」
「僕は未来のトレーナーだからね! ウマ娘の夢を聞いて笑うわけないよ」
やけに胸を張る彼に、彼女は苦笑いする。
そうは言われても、経験から笑われる可能性の方が高い。それを分かっていたから、分かりやすく躊躇う。
馬鹿にされるとかそういうのではない。自身の夢が壮大すぎて、現実的ではないと。苦笑いされるのが常。それを笑わないのは、自身の両親だけだった。
「――――い」
「えっ?」
「世界でいちばん、速いウマ娘に……なりたい」
噴水の音にすら負けてしまいそうな声だ。結果として聞き直されてしまい、恥ずかしさを二度感じることになった。
でも二度目の声はとても強く、彼女の意志が込められていた。でも、彼は何も言わない。十秒ほど経っても、うんともすんとも言わない。
ただそれは―――。
嵐の前の静けさというもので。
「す、すごいよ!!!」
「ふぇっ!?」
彼女の小さな手を握る小さな手。両手でしっかりと包み込むように握って、少年はまたキラキラとした瞳をぶつけてみせた。
「僕とおんなじ夢だ! 全く同じ!」
「お、同じ……?」
「うんっ! 僕も世界最強のウマ娘を育てたいんだ!」
相当テンションが上がっているようで、少年の頬は紅潮していた。握られた両手から、彼の熱が伝わって、少女もまた頬が紅潮しているよう。
「これって運命だよね!? 僕がキミのトレーナーになるべきって運命だよ!」
「ど、どうしてそうなるんデスか!? それにエルはまだ――っておわっ!!」
彼女の言葉。最後まで言い切ることが出来ず、彼に引っ張り上げられた。
「善は急げだよ! 行こう! レースを見るのも勉強だから!」
「ち、ちょっとー!!」
少年は勢いよく彼女を引っ張り、レース場目掛けて地面を蹴る。手を握っている相手はウマ娘。普通に考えれば彼女の方が力は強い。
だが、少女はここで手を振り払う気になれなかったのだ。彼に付いて行けば、日本最高峰のレースを観ることが出来る。
独りぼっちで、観客の圧に飲み込まれそうになったのに。彼が居るだけで、不思議と恐怖心は消えた。
「一番前で見ようか」
「ひ、人がいっぱいデス……」
「大丈夫。手握ってるから」
手を繋いだまま、一歩前を歩く彼の背中。それは彼女が思っていたよりも大きくて、頼もしいモノだった。身長も、彼の方が十センチ近く高い。これから成長期に入り、ますます高くなっていく手前だ。
人混みをかき分けてかき分けて、緑のターフが目の前に現れた。
「ふぁー……」
彼女は、感嘆の声を上げた。
目の前に広がるのは、生まれて初めて観る綺麗な緑色。こんなに間近で観たのも初めて。
一生懸命、背伸びをして柵に顎を乗せる。そんな彼女を見て、少年は笑った。
「キツくない? 抱っこしようか?」
「そ、それは嫌デス!」
「あはは。冗談だよ」
戯れていた二人をよそに、レース場に鳴り響く高貴な音色。
これから戦場に出ていく彼女たちの背中を押すような重厚感。人が息吹き、耳を抜けるその音は、人々の熱を高めていく。
「ファンファーレ。何度聴いても震えるなぁ」
「スゴイ……」
「いよいよ始まるよ」
楽器隊を精一杯覗き込もうとする少女。その奥で、今回の主役たちが姿を見せる。視線を動かすので一杯一杯の彼女の姿が、微笑ましい。
ゲートインしたウマ娘たち。スクリーンに映し出されたその表情は様々だ。
緊張感がコチラ側にも伝わってきそうで、彼女は思わず息を呑む。ゆらゆらと揺れていた尻尾も、いつの間にか大人しくなっていて。
でも、ゲートが開いてからは一瞬だった。
静まりかえっていた観客は、熱狂する。緑のターフを駆け抜けるウマ娘たちの、まさに風を切る音が東京レース場を包んだ。
コーナーを曲がる迫力。直線での加速。蹴られた芝生の匂い。スタートからゴールまでの僅かな時間の中に、たしかに存在した駆け引き。
呼応する観客の熱狂。それを彩ったファンファーレ。ウマ娘は、ただ走っているわけではない。そこに至るまでの努力が、同じウマ娘の彼女の心に直接響く。
そして何より、一着でゴールを駆け抜けた瞬間。観客の熱狂は最高潮に達する。
地響く声。空気が割れる。
ジリジリと肌を焼くように、震える。少女は体が硬直して、動けない。恐怖心なんてモノは無い。
ウマ娘である彼女にとって、この歓声はあまりにも衝撃的であった。
世界最強のウマ娘になれば、きっともっと大きな歓声を浴びることが出来る。幼い彼女でも、その結論に至るのは簡単だった。
「―――たい」
漏れる。
溢れる。
想いが、言霊となる。
「ん?」
「エルも、強くなりたい……」
歓声に埋まりそうになる声。威力は弱い。でも、寂しそうな背中はとうに無くなっていた。
彼に負けないぐらいに、光り輝く瞳。感動と熱狂で、少しだけ潤んだ瞳。少女の綺麗な顔には、やはり笑顔が良く似合う。
太陽に映えるターフへ、そんな言葉をぶつける少女の横顔は。可愛くて、少年もつられて笑った。
「……エルもなれるかな」
レースが終わると、周りの観客たちはその場を後にする。やがて行われるウイニングライブに備えて、体を休める人も多い。
周りの大人は少なくなっていた。だからその弱い言葉でも、少年の耳にハッキリと届いていた。
「なれる。僕が約束する」
彼は、やけに自信あり気に言う。
不思議だ。初めて会った少年なのに、ここまで背中を押すのはどうしてだろう。そもそも彼は彼女の走っている姿すら見たことがないのに。
「変な人デス」
「よく言われる」
★★
ウイニングライブまでもう少し時間がある。
一人で来ていた少年は、家の門限で観ることが出来ない。だが、年頃の男の子ならではの感情。観たいと思う反面、恥ずかしさ。ここ数年はその後者が勝っていたから、当の本人は特に気にしていない様子だ。
この日。夕焼けが姿を見せた東京レース場で、少年は一人のウマ娘と一緒に居た。
レースが終わり、二人が出会った噴水。昼間よりも涼しくなったこの場所で二人。肩を並べて腰を下ろしている。
つい数時間前よりも、二人の距離感は近くなっていた。少女も、歳の近い男の子だからか、安心感が強く。
「……エルは弱いんデス」
途端に漏れたのは、レース中とは打って変わって、弱音だった。
「どうして?」
「みんなみたいに走れない」
幼い彼女の言葉の意味。上手く咀嚼して分かりやすく伝えることが出来ないから、短絡的な言葉になる。
そんな少女に、必死に耳を傾ける少年。伊達にトレーナーを目指していないといわんばかりに。
「どうしてそう思うの?」
「……わからない」
「分かるまで相談乗るから」
「お家帰らないとです」
「また来るでしょ? その時も話そうよ」
深い意味はない。
今、彼がこうして彼女に寄り添っているのは、自分がトレーナーになった気分を味わえるから。
小学生の彼が言えることなんて、たかが知れている。でも、何とかしてあげたいという優しさは本物だった。
少女は首を横に振った。
彼の優しさを受け取ろうとしなかった。
「もう、来ない」
「ど、どうして? 家、遠いの?」
「うん」
少年から見て、嘘をついているようには見えなかった。どこか疲れた顔をして、噴水の奥に沈もうとしている夕陽を眺めている少女。
きっとそれは、事実なのだ。まるで夢から醒めたくない子ども。寂しそうな瞳。脳裏に焼きついたレースが、彼女をこの場に留めようとしている。
「じゃあ、今日見つける」
「なにを?」
「キミが強くなる方法だよ」
「……あるの?」
「ある!……たぶん」
見切り発車もいいとこだ。そんな簡単に見つかるのなら、ウマ娘たちは苦労しない。
適正な距離、作戦、練習メニュー。そのいずれかが欠けていては、レースでは勝てない。少年が思っている以上に、トレーナーの存在意義というのは重要で、ウマ娘の将来を決めると言っても過言ではない。まさに、責任重大だ。
だからこそ、少年は真剣だった。
目の前の悩めるウマ娘を救うべく、立ち上がった陰のヒーローとして。この子のために、何が出来るかを考えた。
「レースは、好き?」
「うん」
「じゃあなんで、最初は観たくないって言ったの?」
ふと、少年の頭に素朴な疑問が浮かんだ。
レースを観たくないというウマ娘が、強くなりたいだなんて呟く方が可笑しい。その矛盾に気づいてしまったのだ。
「……みんな速いもん」
「それがスゴイんだよ」
「エルはあんなに走れないよ」
「今はそうだよ。これからこれから」
彼女が実際に走った場面を観たことがない。なにせ今日が初対面で、少女のフルネームすら知らないのだ。観たことなくて当たり前。
それでも、彼女の性格というのが徐々にではあるが浮き出てきた。
とにかく、自分に自信が無いのだ。最高峰のレースを観てしまったら、その小さな小さなプライドが折れてしまう気がしたから。
「でもレース、凄かったでしょ?」
少年の言う通りだった。
凄かった。圧巻だった。目を奪われた。少女の中で紡がれるポジティブな思考は、心のキャパシティをはるかに超えて。
「……うん」
単純で、これ以上ない肯定に変わる。
一度嫌がったモノを認めるのは、ひどく恥ずかしい。体育座りをしている少女は、顔を埋めてみせた。真っ赤に染まった頬を夕陽で誤魔化すなんて思考は、持ち合わせていない。
「キミはきっと、強くなる」
「……」
「だって、僕がトレーナーになるんだから」
希望的観測に過ぎない。でも、今の彼はこう言うことしか出来ないのだ。これ以上もこれ以下もない。
それが、どれだけもどかしいか。少年は痛感した。もっとこの子のことを知りたい、なんて思っても。もう夕方。やがて夜になり、お別れしないといけない。
「……トレーナーは陰のヒーローって言ったじゃん?」
唐突にそんなことを言う彼。少女は顔を上げて、目を合わせる。さっきと同じぐらいにキラキラとした瞳をしていて、耳を傾けたくなる不思議なオーラがあった。
「だからキミは、スーパーヒーローになれば良いんだよ」
「……………へ?」
「ウマ娘だからスーパーヒロインかな?」なんて言いながら笑う少年。その言葉の意味を咀嚼しようとしても、味が分からないから進まない。つまりは、意味が分からない。
「ひ、ヒーロー……?」
「うん。ヒーローってさ。人間のままじゃ弱いんだよ」
「うん……?」
分かったような、分からなかったような。
少女は不思議そうに返事をする。返事と呼ぶにはあまりにも虚ろだが。
少年としても、深い意味は無い。何も考えず、ふと思いついた
「キミも、変身すればいい!」
やはり、彼の言うことは分からない。
変身してスーパーヒーローになれるのなら、最初からそうしている。文句の一つぐらい言いたくなった彼女だったが、それも面倒になったようで。そっけない返事となる。
「……できないデス」
「ほら、なんでもいいんだ。
偶然彼が口にしたソレは、彼女にとって親近感の湧くモノだった。
少女の父はプロレスラー。マスクを見る機会は誰よりも多い。だが彼女も年頃の女の子。プロレスラーのマスクを付けて走るなんて発想にすら至らなかった。
でも、少女はふと考えた。マスクを脱いだ自身の父親は、リング上の時と比較してどうか。母親と接する時も強い雰囲気を纏っているのか。
もう少しで考えがまとまりそうだったのに、少年の少し大きな声に遮られた。
「まぁ、あとはとにかく練習! それだけ!」
「……」
「な、なにその目は」
呆れたような視線。ため息を吐きたくなるような分かりきった回答。思考を邪魔されたイラつき。無論、彼はトレーナーを目指しているだけであって、トレーナーではない。少女が望んでいるような答えは出てくるはずもない。
「別になんでもないデス」
「絶対馬鹿にしてるよね? その程度のことしか言えないのかって」
「……………違いマス」
「なにその間は! ぼ、僕だって今勉強中なんだから!」
言い訳っぽくなるのが、少年は嫌だった。あれだけ啖呵を切っておきながら、ウマ娘に呆れられるなんて。トレーナーの恥でもある。
トレーナーは練習メニューを考えるだけではない。とにかく、担当するウマ娘のことをよく知る必要がある。
特に性格を把握しなければ、そのウマ娘に合った練習メニューは出来ない。彼が思っている以上に、トレーナーは洞察力と観察力が重要な職業なのだ。
結果を出さなければ、ウマ娘共々、存在価値が無くなってしまう。そのシビアさを、彼はまだ知らない。
先ほどよりも、夕陽は俯いていた。
そのせいで、空は黒色を強めている。少年も門限があるせいで、あまり長居できなかった。それが今はすごくもどかしくて「うーん」と唸る。
「キミはこの後どうするの?」
「あ……えっと」
ウイニングライブを観るためか、二人の周りでも大勢の人が時間を潰していた。両親から離れてしまった彼女は、いまさら
「パパが迎えに来てくれる」
咄嗟に吐いたその嘘は、希望にすぎない。今頃、慌てて探しているに違いないと思いながら。かと言って、いまさらどこに行けば良いのかも分からないのだ。
「なら、それまで居るよ」
「帰らなくてもいいの?」
「うん」
完全に夕陽が沈んでしまったら、間違いなく門限には間に合わない。だが、少年は慌てなかった。そのために連絡用携帯電話を買ってもらったのだから。子ども用の。
それに、自身よりも幼い彼女を置いて帰るほど、彼は割り切れない。優しさと呼べば聞こえは良いが、その感情の奥に眠る思いは何なのか。少年自身もよく分かっていなかった。
「僕らは、まだ子どもだもん」
「えっ?」
彼の唐突さに少しずつ慣れてきた彼女は、この日一番冷静に聞き返す。ほんの少しだけ冷たくなった空気が心地よくて。でも確かに残る日本特有の湿気で、自慢の尻尾はあまり元気はない。
周りの騒音で、さっきよりも聞き取りづらくなった声。だから自然と、彼女は少年に近づく。少し驚いた彼は、顔を合わせようとしない少女を見て笑った。
「弱くて当たり前だよ」
「……」
「分かんなくて当たり前だよ」
彼女は黙って前だけを見つめていた。
でも、彼の言う事はよく分かる。
子どもだから。大人のようにはなれない。背も低い。力も弱い。ウマ娘なら、現役の彼女たちに比べて脚も遅い。
それが当たり前なのだ。
何も悲観する必要なんてないんだよ、なんて背中を押された気がして。少女は彼の横顔に視線をやった。
少年は、何気ない一言で彼女を救ったとは思ってもいない。狙っている時に限って的は外れるモノなのだ。
「だから僕は絶対、トゥインクル・シリーズのトレーナーになるんだ」
今日、この瞬間の出会いが、彼の人生に与える影響は計り知れない。
痛感した力不足。知識の無さ。その全てを教えてくれた彼女のことを、少年は本気で強くしたいと思うようになった。
「キミも、諦めちゃダメだよ」
また会えるかなんて、分からないのに。
いや、会えると思ったからそう言った。
少年なりに、お別れが寂しいから。必死に取り繕ったその言葉は、またしても彼女の背中を押す。
二人が気付いた時には、もう夕陽は沈んでいた。空は真っ暗で、星が散っている。そろそろウイニングライブが始まろうとしているのに、彼女の父親は未だ姿を見せない。
「……あ、あのね」
「ん? どうした?」
「実は……その」
のぼせていた頭はすっかり冷えて、今なら言えそうな気がした。
「エル……迷子なの」
「えっ!? ほ、本当に?」
「うん。パパとママとはぐれちゃった」
「それは先に言ってよ! どうしよう。とりあえず、レース場の人に声を掛けよう」
レース開始前からはぐれていたとするなら、結構な時間迷子だ。そんな彼女を連れ出してしまったことを、少年は少しだけ後悔する。
「まぁ大丈夫。きっと見つかるよ」
「……うん」
「そもそもなんで嘘ついたのさ」
「エルがワガママ言ったから」
「わがまま?」
彼が聞き返すと、少女は事の顛末を話し始めた。
「観たくないって言って、逃げたの」
「……あーなるほど。観るのが怖かったもんね。なら、一緒に謝ろうよ」
「え……?」
「僕が勝手に連れ出しちゃったし。怒られるのは僕も同じ」
自分に呆れて笑う少年。
目の前の彼女に夢中で、都合なんて考えていなかった。だから、一緒に謝ると言葉が漏れた。
少女は、嬉しかった。決して彼は悪くないのに、そんなことを言ってくれる優しさが。
「やっぱり変な人デス」
「その代わり、約束してもいい?」
「……やくそく?」
人混みに飲み込まれそうになる。でも、少女は怖くなかった。少年の小さくて暖かい手が、自身のもっと小さな手を包んでいてくれたから。
立ち止まったら、そのまま流されそうなのに。彼は振り返って少女を見つめる。
「大人になったら、僕がキミのトレーナーになる」
「トレーナー……」
「僕はトゥインクル・シリーズで待ってるから。必ず」
大人になるにつれ、記憶は消えていく。
こんな約束は、叶うわけがない。心のどこかで、二人は理解していた。でも、それで良かった。
それぞれの夢と向き合うことが出来た。彼の存在があったから。彼女の存在があったから。出会わなかったら、きっとこの夢は絵空事で終わっていたはずだ。
「そういえば、聞いてなかったけど」
レース場の職員に声を掛ければきっと色々と聞かれるだろう。そこで、一つの疑問に行き着く。いまさらな疑問に。
「キミ、名前は?」
未来のトレーナーとして。大切な情報だ。彼女は笑って、人混みに負けない声を放つ。
この夏の日。ほんの少しだけ、大人になった日。
彼女の両親は、しっかりと見守っていた。
二人の背中を、レースを観たくないと言う娘の背中を。それはやがて、家族の夢へと変わっていくのである。
そんな事実を、肝心の二人は知らない。
★★★
いつかの夏のように、よく晴れた日だった。この日、トレセン学園のグラウンドで行われた選抜レース。そこで驚異的な走りを見せた一人のウマ娘の周りを、ベテラントレーナーが囲んでいた。
「優勝! 快勝! エル圧勝ッ!! さあさあ、エルと一緒に世界へ行ってくれるトレーナーさんはどなたデスか!」
ウマ娘の走りを見慣れたトレーナーたちですら「ウチに欲しい」と口を揃える。それだけ彼女の走りは、天才的だった。
どんな作戦にもハイレベルで対応でき、コースの得意不得意も少ない。あらゆる状況でも高い基準で走ることができる器用すぎるウマ娘。
そして何より、その特徴的なルックスだ。他のウマ娘とは一目で違うと分かる。彼女が身に付けているマスクは、まさに戦闘服そのものだ。
同調するような言葉を投げかけるトレーナーたち。だが彼女自身、トレーナー契約を結ぶ上で大事にしているのは「信頼関係」。
ただ良い練習をするだけじゃない。しっかりと自身と向き合ってくれ、世界へと羽ばたかせてくれる人。それが理想のトレーナーだ。
その信頼関係を築くためには、時間がかかる。一目見ただけで簡単に出来上がるものではない。そのジレンマが、少しだけ苦しい。
「―――あーダメですよ。その子は」
この場に似合わない言葉が空気を切る。
あれだけ騒いでいたベテラントレーナーたちも、思わず言葉を飲み込む。訪れた静寂の先に、姿を見せたのは一人の男。青年だった。
「………ぁ」
彼女の胸。鼓動が高鳴った。心の奥底に沈んでいたあの記憶が蘇る。鮮明に頭の中に描かれる。
記憶の中よりも、ぐんと伸びた背。でも変わらないあの雰囲気。しっかりと残った面影。
青年は、随分と変貌した彼女を見て、頭を掻きながらニヤニヤと笑っている。
「本当に変身してるとは思わなかったよ」
「……う、うるさいデス」
マスクをしているから、強気でいられる。
でも不思議と、気持ちがあの頃に戻ったような気がした。マスクをしていても、彼のペースに飲み込まれそうになる。
でもそれは、不思議と心地が良い。あの夏を思い出す。随分と昔に感じられるあの夏を。
「約束を守りにきた」
青年は強気に言う。だがそれを認めようとしない周りのベテラントレーナーたち。なにせ、彼は新人だ。この中でも最年少で、未だ担当するウマ娘が居ない駆け出しトレーナー。
その彼に、この逸材を手渡すわけにはいかなかった。順調に育てば、まさに世界へ翔べるだけの才能を持っているウマ娘。それを新人が導けるなんて、ここに居る誰もが思っていない。
彼女と、彼を除いて。
「本当に来てくれるとは、そのパッションは素晴らしいデス! 今度はちゃんとしたアドバイスをしてくれるんデスか?」
「そっちこそ、また迷子になったりしないよな?」
「ムムムッ? 何のコトか分からないデース!」
アイドンノー! と両手を広げる彼女。それが可笑しくて、彼は笑った。あの頃とはまるで違う彼女なのに、内側には確かに、あの日の少女が居る。
あの弱音を吐いた自分を隠すために、父親のマスクを装着して、取り繕う。それが彼女の選んだ方法だ。そしてそのきっかけをくれたのは、目の前に居る青年。
そんな見栄を張ったって、彼は本当の彼女のことを知っているのだから。だから彼は、あの日と同じように接する。
「世界最強へのチケットは、俺の手元にあるよ」
手元でソレをひらひらさせる素振り。でも肝心なチケットは無い。あるのは、丁寧に折られた契約書だ。
勝手に話を進めようとするその強引さ、昔から変わっていない。たった一日だけの出会いなのに、それがひどく懐かしくて、彼女は込み上げる微笑みを抑えることが出来なかった。
「
他のトレーナーたちが何か言っているが、青年は気にする素振りすら見せない。完全に眼中に無かった。それは彼女も同じで。
「凱旋門賞。獲るよ」
選抜レースを終えたばかりのウマ娘に、そんなことを言うトレーナーは居ない。むしろ言う方が可笑しいのだ。
鼻で笑う奴。あからさまに馬鹿にする奴。ベテランたちがそんな態度をとるのに対して、当の本人は違った。
青年の目は、本気だった。かつてのキラキラとした瞳に、力強さが加わっていて、心臓が高鳴る。武者振るいに近い何かだ。
「臆病エルちゃんには難しいかな?」
「……ふふっ。全然デスッ!」
とうに、信頼関係は出来上がっていたのだ。彼女が一番大切にするソレは不思議なモノで、あの日の記憶だけで判断するに値する。彼は自分に合うと。
他のトレーナーたちを押しのけて、青年の後に続く彼女。まるであの夏の日のように。
あぁ、懐かしい。
迷子だった自分を引っ張ってくれた背中は、こんなにも広くなっていて。紺色のスーツ姿に胸が高鳴る。彼の前だと、自分を取り繕うのが難しくなる。でもそれは、今さらだ。
彼の前なら、少女に戻るのも悪くはない。
「エルを、世界へ連れてって」
ほんの一瞬だけ、こっそりと。
漏れた本音。
でもそれは、彼に届かない。
「何か言った?」
「なんでもないデース!」
振り返った彼は、不思議そうな呆れ顔。その気の抜けた表情に、彼女は笑う。
青い空が二人を見守っている。
でもこの怪鳥が飛ぶには、あまりにも低すぎる空だった。
彼の後ろを歩いていた彼女は、小走りで青年の前に立つ。あの記憶と対比され、美しい顔が際立っていて。彼の心臓は跳ねた。
「早速練習デスよ!
太陽に映える夢。これは現実なのだ。頬をつねって、笑う青年。あの日の約束が、叶う日が来るなんて。
彼女の両親の夢。彼の夢。そして、彼女の夢。永遠に醒めることなく、銀河の先へと走り出す。
やがて、日本を巻き込む伝説となる。
凱旋門と、ファンファーレと、熱狂。
その中心に立つのは、紛れもなく。
今、隣に居る彼女。世界を翔け巡った最強のウマ娘。
名を、エルコンドルパサーという。