負けた。それはもう目を逸らしたくなるほどの惨敗であった。
秋らしさなどとうに吹き去った11月の暮れ。天気予報通りの気温にもかかわらず肌を刺す秋風が、東京レース場に残る熱を奪うようにひゅるりと吹いた。
大熱狂だった。一人のウマ娘が魅せた脱出劇や逃走劇。そしてフィナーレの数多の追ってから逃げきるウイニングランと、演劇の予定調和じみた予想外の連続が会場を沸かせ、観客の心に輝かしい栄光を刻み付けた。
レース場を後にする人たちは皆一様に同じ言葉をこぼしていく。
──凄かった
──面白かった
──最高だった
感動するエンターテイメントを見た者の至極当然の感想であり、エンターテイナーであるウマ娘達への最大の敬意の言葉。きっと今日の主役だった世紀末覇者が聞けば大仰なふりで歓喜を表していたことだろう。
しかし、その言葉が必ずしも賛辞として届くというわけではない。
勝者がいるということは、必ず敗者がいるということ。自身の全力とプライドをもってしても届かなかった勝利を前に歯噛みしている者に、その言葉がまま受け取られるかというと難しい。少なくとも、観客席と競技場を隔てる塀にもたれて座りターフをえぐり取るような眼光で睨むウマ娘には無理だろう。
日本刀の方が安全に見えた。そう思わせるほど鋭利な瞳と歯が印象的だ。漆黒の髪は乱雑に整えられ、少女の持つ威圧感を強調させている。『不良』という言葉がしっくりくるような見た目の少女ではあるが、その反面、大胆に露出した肢体は細く『速く走る』ことに特化された筋肉で構成された機能的な美を持っており、少女がウマ娘として優秀であることを証明していた。
エアシャカール。それが少女の名であり、期待に応えられずに敗北した者の名前だ。
「……チッ」
くしゃりと自身の髪を掴んで舌打ちをする。誰かへの威嚇ではなく、自分の中で解が出ないことへの苛立ちに対するものだ。
(ったく、今日はらしくねェレースをしちまった……レース前のシミュレーションは完璧だったってのに、予定より早く仕掛けちまうなんてな……)
頭の中で繰り返されるのはつい数刻前のレースの一場面。中盤の直線でバ群の後方に位置どっていたエアシャカールはそこで何を思ったのか突如勝負を仕掛け、コーナーを周り切るころにはあえなく失速し、惨敗したのだ。
何故そのタイミングで仕掛けたのか。彼女は元々気性の荒いことで有名なこともあり、観客からは前でウマ娘が集団になって走ってるのが気に障って暴走したと思われているが、彼女は外見や性格に反して極度の理論派だ。レース前には膨大なデータから幾通りのシミュレーションを重ねて最適解を導き出し、本番では自身の感覚を極限まで削ぎ落して寸分たがわぬレース展開で勝利を掴む。それが彼女のスタイルであり、多くの人が言う「暴走」とは、計算された上で解き放たれた彼女の本気に他ならない。
だからこそ彼女は、レースが終わった今なお理解できなかった。完璧なシミュレーションとレース展開であったにも関わらず、それをふいにしてしまった、その理由を。
エアシャカールの中で考えが巡る。事前のシミュレーションと何かしらの差異を感じ取ったのか? 逆にシミュレーションが正しくかったのか? だが、しかし──。
解が見つからない苛立ちがピークに達し、掴んでた髪をむしり取ってしまいそうになったその瞬間、彼女の長い耳元でジャラリと聞きなれたノイズが走る。
「や、お疲れだねお嬢さん。甘い物はいかがかな?」
思考をやめて顔を上げたエアシャカールの先にいたのは、観客席から身を乗り出して軟派な笑みと錠剤のような物が入ってるケースを持つ男だった。
一見傍から見れば事案に見えなくもないのだが、男は正式なエアシャカールの担当トレーナーであり、かっちりと来たスーツの襟には蹄鉄を模した徽章がその証拠だ。
エアシャカールは先ほどとは意味合いの違う舌打ちを一つして、男の持っていたケースを乱暴に奪い取る。
「普通に声かけれねェのかよ。また勘違いされて警備員呼ばれるぞ」
「はっはっは。大丈夫、ここの警備員とはもはや顔馴染みだからね。第三者からの通報でもない限り捕まったりはしないさ」
「ケッ、次捕まってもオレは引き取りに行かねェからな」
悪態を付きつつエアシャカールは奪った錠剤型の物体──彼女の愛用している糖分補給用のラムネ──を適当量手に出し口に放り込む。これまた傍から見れば外見も相まって事案に見えなくもないが、勿論違法な成分は入ってないのでセーフである。
ガリゴリと豪快に咀嚼し飲み込むと、で、とトレーナーを睨みつける。
「なんか用があるんじゃねぇのかよ。タイミング見計らって話しかけてきたンだしよ」
「勿論。そろそろウイニングライブの準備があるから、用がない僕らはさっさと退散しようぜーってお誘いしに来たんだけど」
「あぁ? もうそんな時間かよ……。だったらさっさと声かけろっての」
「いやー、本当はもっと早めに声かける予定だったんだけどね。呼びに来たらおっかない顔してるウマ娘がいるもんだからこわくってさ」
「喧嘩売ってんのかテメェ」
「君を探しながら油なら売ってたよ」
「……チッ」
これ以上の問答は時間の無駄だと悟ったエアシャカールは舌打ちで打ち切って立ち上がる。耳が伏せられている様子を見たトレーナーは肩をすくめ、簡潔に集合場所だけ伝えると逃げるように去っていった。
逃げるまでの躊躇いのなさに自身のトレーナーとしての情けなさを感じつつ、エアシャカールは更衣室へと向かい、手早く学園指定のジャージに着替えを済ませると指定された場所へ向かう。
レース場を出た駐車場、その手前にあるポールに軽く腰掛けて待っているトレーナーの姿を見つける。紙コップを片手にタブレットの液晶を真面目な顔をして覗くその姿は『できる男』のようであり、彼の本質を知る彼女からは過去に「永遠に黙ってそうしていればマシに見えるんだがな」との評価を受けている。
そこでトレーナーもエアシャカールの存在に気が付いたのか、タブレットに向けていた視線を彼女に移し、軟派な笑みを浮かべた。
「お、ようやく来たかいガール」
「そんなに待ってねェだろ。手に持ってるコーヒーからまだ湯気でてんぞ」
「相変わらずの観察眼だね。でも甘い。もしかするとこれは湯気ではなく冷気かもしれないだろう?」
「この冬がそろそろ始まるって時期に冷気が視認できるほどの温度だったら、今頃アンタの手は凍傷じゃ済まねェし、そもそも冷気は上に行かねェよ」
「え、冷気って湯気みたいに上にいかないの……?」
「……こういう事あんま言いたかないけどよ、よくトレーナーになれたな、アンタ」
「運も実力の内ってね」
「…………はァ」
もはや舌打ちする気力すら起きなかった。
トレーナーはそんなエアシャカールを見て、どうも今日は一段と疲れてるようだなどと見当違いも甚だしい事を考え、まだ程よく熱いコーヒーを一気に飲み干して立ち上がる。
「ま、立ち話もなんだし、いつも通り諸々の反省会は車の中でしょうか」
中古で買った型落ちの軽自動車のロックを解除して乗り込む。エアシャカールも慣れた動作で後部座席に荷物を放り込むと、助手席に座ってダッシュボードから携帯ゲーム機を取り出した。
とても反省会をするという態度には見えないが、これが彼等のいつもの反省会スタイルだ。というのも、実の所はエアシャカールが事前のシミュレーションとの相違点を連ね、トレーナーがそれを補う練習メニューを提案するだけなので、エアシャカールとしては適度に頭を動かす方が思い返せるので話を進めやすいということらしい。
壊れそうな音をたててエンジンがかかり、走り出す。
暫くは入り組んだ道が続くためお互い黙っており、ようやく大通りに出たところでトレーナーが口を開いた。
「そういえばなんだけど」
「ンだよ」
「何で今日のレース、上がらなかったんだ?」
「…………あ?」
耳を疑うような言葉に思わずゲームから顔を上げるエアシャカール。さっきのレースを見ていなかったのかお前は。中途半端なタイミングで上がり始めたから失速して負けたんだろうが。言葉にするのが惨めになる文句を鋭い眼光に込めてトレーナを睨む。
エアシャカールの睨みには気づかなかったが、返ってこない返事と左から感じるプレッシャーから自分の聞きたかったことが伝わってなかったと悟り、慌てて弁明する。
「上がるっていうのはあれだよ、あれ。君のテンションの話さ」
「……そっちかよ。紛らわしい言い方してんじゃねェよ」
「ごめんごめん」
トレーナーはカップホルダーに置いていたコーヒーで一息つき、話をつづけた。
「今日の天気、バ場状態、蹄鉄の重さから出場ウマ娘の作戦まで事前に話してくれた条件と合致してたし、なんならレース展開も君が無理に上がるまでは寸分たがわない展開だった」
「……まァな」
「にも関わらずだ。ちょっと前までの君だったら出走前にはテンション上がりすぎて怖いくらいの満面の笑みでドン引きするくらい騒いでたのに、今日は最初から最後まで大人しかったじゃん? だから気になってさ」
「成程な。取りあえず学園に戻ったらテメェのパソコンに鍵付きで保管してある『英知の扉』ってファイルを暴いて晒す」
「ちょっとシャカールちゃん? そのファイルはもう一段回鍵付きで保管してなかったかしら?」
「ンなもん四日前のトレーニング中に煽ってきた後に暴いてンだよ。いい加減アンタは言葉に気を付けるンだな」
「……ッス」
完全に萎縮したトレーナーを横目に、エアシャカールはため息を一つ。
そして一時停止してたゲームを再開し、その時の状況を思い返すように話し出す。
「別にテンションが上がってなかったわけじゃねェ。ジャパンカップみてェなでけェレースでオレの理論を証明するための条件が揃ってンだ、上がらねェわけがねェだろ。ただ──」
ゲート前に立った時のことを思い出す。火照った身体が、頭が、急に冷めていく感覚。恐怖とは、違う。テスト本番で勉強箇所と同じ問題が出た時と同じ、あの感覚。これを例えるならば、きっとこうだ。
「──それ以上に冷静なオレがいた。ただそれだけだ」
「ふむふむ。つまり君はスタート前に弱腰になったのを、さも意味ありげに語って悦に浸ってたというわけだ。ハッハッハ! これは傑作だねえ!」
「……あァ?」
レースから2日後のトレセン学園の敷地内。昼下がりのカフェテリアに一足早い冬が訪れていた。今までにないくらいのドスのきいたエアシャカールの威圧が近くで食事や談笑をしていたウマ娘を意図せず黙らせる。
しかし、晩秋を強制的に終わらせた張本人の栗毛色のボブカットと白衣が特徴的なウマ娘、アグネスタキオンはエアシャカールの様子など一切気に留めずにひとしきり笑った後にいやぁ、失礼したねと続ける。
「シャカール君の話を聞く限りでは、君はスタート前に自信を喪失し、並べ立てた数字も、鍛え上げた脚も本当に”ベスト”であるか疑わしくなり、あまつさえレース中は君が嫌いな直観を頼りにして負けたときた。これが他のウマ娘ならまだしも、数字論者の君から聞ける話だとは思わなくってねえ」
「チッ……自信だのなんだのロジカルじゃねェな。オレの理論はそういったメンタルの影響を最小限にして勝つためのモンだ。今回オレがレースに負けた原因じゃねェ」
直感を頼りにしたことは否定しねェがな。そう締めくくり、アグネスタキオンの介入により妨害されたデータ整理の続きを再開する。
しかしここで計算違いが起こる。話を無理矢理終わらせたことで目の前に陣取るアグネスタキオンは興味を無くすか、ある程度満足してどこかに行くだろうと彼女は踏んでいた。しかしながら、現にアグネスタキオンはまだエアシャカールの前に座っており、その狂気色の瞳を見開いて心底驚いた顔をしていた。
「……ンだよ。まだ何か言いたいことでもあンのかよ」
「……いや、言いたい事というよりは、思ったよりも君は重症なんだなと思ってねえ。そうかそうか、実に興味深いねぇ」
くつくつと笑うアグネスタキオン。エアシャカールとしては本人の前で自分のことについて勝手に納得して勝手に興味を持たれるのは面白くない。ついでに彼女にその意図はないのだろうが、エアシャカールには多少なりともバカにされたようで気に入らなかった。
少し乱暴に携帯端末をテーブルに置く。
「何か言いたい事があンならハッキリしやがれ。そうやって勝手に納得して笑われるのはムカつくんだよ」
「……そうだね。実験の余暇に藪をつついたら面白い蛇を見られたのだから、そのお礼分くらいは特別講義を開こうじゃないか」
「あ? 何言って──」
「シャカール君!!」
エアシャカールの言葉に被せるように、大仰なしぐさと共にアグネスタキオンは瞳を鈍く輝かせる。
「君は先ほど自信はロジカルではないといったが、それは違う。自信とは! 実にロジカルなものなのさ!」
「…………はァ?」
純粋に困惑するエアシャカール。
それもそのはずだ。アグネスタキオンは専攻する分野や価値観が違う所はあるが、エアシャカールと同じ研究者気質の持ち主である。時折レースに勝つための手段としてメンタル的なアプローチを試みたりはしているが、不確実性の高さと彼女の求めるモノ──ウマ娘の速度の限界到達点には強く作用しないということもあり積極的な採用をしない彼女がメンタル的要素を多分に孕んだ「自信」を論理的だというのだから困惑するのも仕方ない。
しかし彼女はそんなことはお構いなしに話を続ける。
「自信は自己を信頼する『精神気質』の事をさすため、君がメンタル的で不確定だと切り捨てたくなるのもわかる。しかし、だ。その形成方法は他の感情とは異なるのも事実さ」
アグネスタキオンは紙ナプキンを1枚手に取り、その上に文字を書いていく。
「喜怒哀楽、それにやる気と……まぁ興奮とかでいいか。それらはパフォーマンスに大きく影響するが、個人によって発生条件・度合・持続時間がバラバラで移ろい易い。だからシャカール君は非論理的だと切り捨てて理論を組み立てていっている。違うかい?」
「……いや、その通りだ。感情ってのは数値にしづれェし、式に入れて組み立てるにはどうにも信頼性が足りねェ」
「そう! 信頼性が足りていないのさ!」
「急にでかい声出すンじゃねェよ」
エアシャカールの注意をすまないねの一言で済ませ、冷めやらぬ様子で、二枚目の紙ナプキンに文字を書いていく。
「自信とはさっきも言った通り自己を信頼する精神気質のことだ。数字の信奉者であるシャカール君からすれば精神気質というだけで敬遠するだろうが、自信の本質は『信頼性』なのだよ」
ピクリとエアシャカールの眉が動く。それを目ざとく見つけたアグネスタキオンは捲し立てるように早口になる。
「信頼性は物事の積み重ねの結果生まれるものだ。10回中2回同じ事象を観測できた場合と10回中9回同じ事象を観測できた場合、どちらを実験の結果として尊重できるかなど火を見るよりも明らかだろう? 同じことを続けることで得られるのではく、同じ結果が出せるようになることで得られるものが信頼性だ。君に当てはめて言うのであれば、誤差の少ない数字であればあるほど、それが使える数字だという事さ」
つまり。と指を立てて結論を述べる。
「自信とは己に対する信頼性であり、他の精神的要因のようにパフォーマンスに多大な影響を与えるにもかかわらず、感情という不確かなモノではなく結果という確かな事象に起因して多少のことでは揺るがない安定性がある非常にロジカルなものなのさ!」
語りを終えたアグネスタキオンは満足げな微笑みを浮かべる。
エアシャカールは黙って聞いていたアグネスタキオンの話を頭の中で反芻し、暫くして口を開いた。
「……テメェの言い分は理解した。理解はしたが、『だからどうした』って感想しか出て来ねェ。わざわざ長ったらしく解説すンのはいいが、それがレースの敗因にどうやったら繋がるってンだよ」
アグネスタキオンの語りで自信が他の精神的要因よりも論理的だと言事は理解した。しかし、彼女の言う『誤差の少ない数字』を使用した式から導き出されたシミュレーションを行い、確実性を増した展開で走るというのであるからエアシャカールが負ける要素はない。仮に本番当日に自身の身体能力への自信が失われたとしても、組み立てた理論が勝利の確信を補強する。だからこそ、エアシャカールは自信の喪失が敗因に繋がるとは考えられなかった。
しかし、アグネスタキオンはその表情を崩さない。
「おや、もう忘れたのかい? 私は最初にこう言ったのだよ。並べ立てた数字も、鍛え上げた脚も本当に”ベスト”であるか疑わしくなった、とね」
「……シミュレーションを重ねた結果の理論を疑う余地はねェだろ」
「そうだとも。詳細は聞いてはいないが、きっと君の理論は正しく、レースに勝てるはずだっただろうさ。けれども君のような狂信者ほど、実は少しの綻びで信頼は失われるものなのだよ。そういえば──」
────日本ダービー、惜しかったそうじゃないか
瞬間、椅子を吹き飛ばす勢いで立ち上がったエアシャカールがアグネスタキオンの胸倉を掴む。細く鋭い耳は完全に後ろを向き、尻尾は立っており、彼女の眼は射殺せんばかりの殺気に溢れていた。
静かに二人の会話を見守っていた周りのウマ娘から悲鳴が上がり、カフェテリアの中が騒然とする。けれども、アグネスタキオンは表情を崩さない。それどころか瞳の狂気をより色濃くさせ、エアシャカールに平然と向かい合う。
「完璧な理論を構築し、最高の条件下で、寸分の狂いもないレース展開。負ける要素がないはずのレースに君はたった数センチの差で負けた」
「…………黙れ」
「では負けた要因はなんだったのか。全てを思い返してもその原因は出てこない。完璧だったのだから当たり前だねえ。うぐっ。……そうなると、自然と疑心は理論を構築する際に参照したデータやシミュレーションから”とあるモノ”へ移っていく」
「……黙れ」
「そう、それこそ『これならば勝てる』『大丈夫だ』と数々の勝利から築き上げられ、勝利の理論を後押ししてきた君の”自信”に他ならない!!」
「ッ!! 黙れってンだよッ!!」
振り上げた拳をアグネスタキオンの顔面に打ち込む。その瞬間、振り上げた拳に数十キロの重りのような違和感が生まれ、寸でのところで止まった。
しかし、知ったことかと更に腕に力を込めて殴りかかろうとするエアシャカール。
「いやいやいや! 少しはこっちを一瞥してくれても良くない!? 君の担当トレーナーが必死になって止めてるんだから、こっち見てその献身的な姿に心打たれて怒りの矛をいったん収めてくれても良くない??!!」
「ンなことだろうと思ったから見てねェんだよ!!」
「あーあ!! そんなこと言っていいのかなぁ!!?? そんなこと言ってると人知れず涙流すからな!!」
「勝手にしろ!!」
「くぅ……! いい加減に、しろっての!!」
トレーナーはエアシャカールの片足を払ってバランスを崩させ、一瞬だけ緩んだ手からアグネスタキオンを引き離して彼女を組み伏せるように倒れ込む。
それでも尚立ち上がって暴れようとするエアシャカールであったが、流石に人の力だけではまずいと思った近くのウマ娘達に手足を押さえつけ拘束される。
「……熱くなってすまない、シャカール君。でも──」
────レースで失ったものは、レースでしか取り戻せないんだよ
掴まれていた胸元を押さえていたアグネスタキオンの瞳は、やはり狂気に揺れていた。
その後、騒ぎを聞いて駆け付けた生徒会や力自慢のトレーナーの手によって拘束されたエアシャカールは事情聴取のためにトレーナー室へと連行された。
いつもはダル絡みしてくる彼女のトレーナーは、流石にこの時ばかりは至極真面目な姿勢で彼女から話を聞きだしていた。そして夕方頃にようやく事の顛末を話したがらないエアシャカールから全てを聞き出したトレーナーは、安物の事務椅子に背中を預けそうかと深く息を吐きだした。
「……事情は分かった。そのうえで言わせてもらうが、どんな理由があろうとも手を出すのは許されることじゃない。これは僕が君のトレーナーになった当初から言ってることだ」
「…………分かってんだよ、ンなことはよ」
バツが悪そうに顔を逸らすエアシャカール。彼女自身、あの時は熱くなりすぎたのだと多少なりとも反省していた。
「ま、図星を突かれて苛立つ気持ちは分かるけどね。恥ずかしいやらなんやらでウワーってなるしね」
特にタキオンってああいいう時の猛追凄いもんなとカラカラ笑う。さっきまでの真面目な雰囲気はすでに消え失せ、いつも通りの軟派な笑みを浮かべるトレーナーに肩透かしを食らう。別に気遣いができるとか、気まずそうにしてる彼女の気を和らげようとかそういうのではなく、純粋にこの男が重い空気に耐えられなかっただけなのを知ってるため、エアシャカールは大きなため息をついた。
それを見たトレーナーがなんだそのため息は、と怒っている体で無駄に優位を保とうとしてきたので睨んで黙らせる。
「シャカールはもっと煽り耐性つけた方がいいね。ロジカルシンキング好きなくせに、そんな低耐性だとネット掲示板のレスバで勝てないぞ」
「ンなとこで議論する気なんざねェよ。仮に間違った知識で喧嘩や煽りしてくるようならそいつの個人情報ぶっこ抜いて晒すだけだからな」
「やだ、技術を持った現代っ子って怖い……」
体を抱きかかえるように震えるトレーナー。その動作にまた苛立ちが募り始めたが、一応怒られている立場であるため強く出ることができず、舌打ちをして気を紛らわせた。
そして、さっきから言いたかった指摘をする。
「つかよ、オレは別に図星だったからキレたわけじゃねェからな?」
「え、そうなの?」
「ッたりめーだ。アイツとは結構な付き合いになるし、今更それくらいじゃキレたりしねぇよ」
現に過去にアグネスタキオンがエアシャカールの考えた理論の揚げ足を取ったり茶化したりすることなど多々あった。その度に言い返しこそしたが、回数を重ねるにつれ気にしないという選択で彼女からの追及を逃れてきた。だからこそ、エアシャカールにとって図星を突かれるなど今更であり、今まで通り気にせず無視か流すかすればよかったのだ。
しかし今回はそれができなかった。それができない理由も、エアシャカールは理解していた。
「気に入らなかったンだよ。アイツの同情するような顔が、同調するような声音が、オレ自身も気が付いてなかったことを知ってるぞみてェな態度が……心底気に食わなかったンだよ」
実際の所、エアシャカールは指摘されるまでジャパンカップの敗因が”自分の理論の後押しをしてきた自信の喪失”であることに気が付いていなかった。だから、その点においてはエアシャカールはアグネスタキオンに感謝しているのだった。
しかし、問題は他にあった。
「オレが菊花賞以降『準三冠ウマ娘』とか『最弱の二冠ウマ娘』って呼ばれてるのは知ってるし、不要なノイズだから切り捨ててる。だけどな──」
脳内でフラッシュバックするのは、日本ダービーの最終直線。完璧な展開で、最高のタイミングで仕掛けたエアシャカールには日本一が見えていた。自分の構築した理論が最強だと証明するその手前で、負けた。
「──あの悔しさはオレだけのモノだ。それを”理解かった風”で近寄られンのがムカつくンだよ」
最後まで視界が開けていたにもかかわらず届かなかった。その光景は今でも彼女の中に深く突き刺さっており、悔しさは身体を蝕んでいる。だが、それは彼女だけが享受していい感情であり、誰かが、今回で言えばアグネスタキオンが寄り添おうとしたことが、エアシャカールにとってはたまらなく気に入らないことであった。
「だからつい手がでた。それだけだ」
これで話は終わりだと言わんばかりに、近くのパイプ椅子を引き寄せて乱暴に座る。
部屋を静寂が覆う。真面目な雰囲気が苦手なトレーナーも、初めて聞いた担当ウマ娘の本音に黙って耳を傾けていた。
カチカチと時計の音が響く。どれくらいの時が過ぎたか分からなくなり始めたころ、トレーナーがぽつりと言葉を漏らす。
「カフェテリアでタキオンが最後に言い残した言葉、覚えてるか?」
エアシャカールは興奮状態であったためうろ覚えではあるが、何とか記憶を掘り起こして答える。
「レースで失ったものは、レースでしか取り戻せない……だったか?」
「ああ。それを踏まえて聞いて欲しいんだが……アグネスタキオンは日本ダービーを辞退している」
「……知ってるよ。皐月賞後に怪我して出れねェって言ってたしな」
「そうだ。タキオンはダービーを制覇できるだけの脚をもっていながら、怪我でそれがかなわなかったそうだ」
「……もしかして、アイツはオレの気持ちが理解できる。だからそんなに怒ンなって言いたいのか?」
低い声でトレーナーを威嚇する。勝つ実力はあったが出れなかったと出たうえで負けたというのは似ているようで違う。そこをはき違えるなと言わんばかりの眼光に少々たじろいぐが、咳ばらいを一つして話を続ける。
「そうじゃないから最後まで聞きなって。……タキオンはダービーに出れなかったことを多少後悔こそしていたが、実際の所そこまで気にはしてなかったらしい。だが、彼女がクラシック級を過ぎたあたりで、つい彼女の担当トレーナーが酒に酔った勢いでこぼしてしまったようなんだ『夢は担当したウマ娘を日本ダービーで優勝させてあげることだった』と」
「……アイツ、そのことを気に病んでンのか?」
「詳しいことは分からない。ただ、最近のタキオンは実験の時間を減らしてまでトレーニングに打ち込んでいるらしい」
そこまで聞いたエアシャカールは先ほどの言葉を思い出す。その言葉の重みがエアシャカールにのしかかる。
アグネスタキオンが失ったのは手に入れられるはずだった栄冠。そして担当トレーナーの夢。いくら彼女がトレーナーをモルモットと呼ぼうが、人体実験をしようが、彼女と彼女のトレーナーの間には思ったより強固な絆があったのだろう。だからこそ、クラシックを過ぎて直面することになった喪失感にアグネスタキオンは仲間を探したのだ。それがたまたまエアシャカールだったというわけだ。
重さに潰されないように椅子に深くもたれかかる。二人が失ったものは同じものではない。しかし、それは──。
ここで、ふとエアシャカールは思考を止めた。
何故トレーナーはこの話を自分にしたのか。アグネスタキオンへの同情を誘うためのモノではない、と彼は言った。では何故?
──レースで失ったものは、レースでしか取り戻せない
一つの仮説が頭に浮かんだ。
「……なァ、トレーナー。アイツはレースで失ったものは、レースでしか取り戻せないって言ったンだよな?」
「あぁ」
「……そンで、アイツは今貴重な実験の時間を削ってでもトレーニングをやっているって言ったな?」
「あぁ」
「それは、アイツの失ったものが取り戻せるレースがあるってことか?」
これはあくまで仮説だ。現状、既存のレースで日本ダービーと同列に扱われるレースというのは存在し無いに等しい。だからこそウマ娘は日本ダービーという舞台で勝つことを夢見るのだから。
しかし、その唯一無二と酷似したレースがあるとすれば? もしあるのであれば、それは彼女達が失ったものを取り戻すまたとないチャンスではないのか? そうした期待を込めてトレーナーを睨む。
ここで彼女は忘れていた。悔しいのは自分だと、それは誰にも譲らないと言ったが、それに近しい思いをした人物が一人いることに。その人物は軟派で頼りなくて、中央のライセンスを持ってるにもかかわらずあまり頭がよくない。けれど、気性が荒く敬遠されがちなエアシャカールから離れることなく、共に戦い抜いてきた男だった。
夕暮れで赤く照らされるトレーナー室の色は橙から赤へと変わる。
「あぁ」
トレーナーは不敵に笑った。
────URAファイナルズ
それが二人が目指した決戦の舞台の名前だった。
エアシャカールがジャパンカップで惨敗した日に新設されることが決まった新しいレースは、一年と四か月の歳月を経て開催されることになった。
無論開催までには様々なトラブルなどが付きまとったが、トレセン学園の理事長を筆頭としたトレーナー陣営と伝説の七冠ウマ娘のシンボリルドルフを筆頭としたウマ娘陣営の尽力により無事にこの日開催へとこぎつけたのだ。
このレースの最たる特徴は開催するレースの距離が絞られていないということにある。短距離から長距離、ダートまで細かくレースは分けられており、シニア級以上かつ一定の成績を残したウマ娘が得意距離を走れるようにすることで各距離のエキスパートが遺憾なく実力を発揮し鎬を削ることを目的としていた。
そして彼らがこのレースに想いを懸ける理由はいたって単純で、URAファイナルズ中距離部門の決勝戦はかつて彼女達が逃した日本ダービーと同じ条件だからだ。更に中距離が得意なウマ娘が出場するということは、かつて逃したダービーより難易度は高いレースにはなるが確かな”勝利価値”が生まれるという事らしい。
無論世間一般としてはそこまでの評価が生まれるかは分からないが、少なくともレースに臨むウマ娘とトレーナーにとっては近いものがあるらしく、皆一様に瞳に闘志を宿していた。
「ッたく、気候は穏やかだってのに暑苦しくてかなわねェな、
三月下旬の日曜日。冬の寒さも薄れ始めて暖かな気候になり始めたこの日に、エアシャカールはURAファイナルズ、その決勝の舞台に立っていた。
黄色を基調とした改造セーラー服のような上と彼女の自慢である脚を大胆に露出したホットパンツ。そして首には革製のベルトのような物がまかれており、爽やかな勝負服と彼女が持つ独特の刺々しさを見事に調和させていた。
(気候、よし。蹄鉄のコンディション、よし。芝は第一レースだから全く荒れてねェ……最高じゃねェか)
全てが彼女の想定通りであることに、思わず笑みがこぼれる。しかし、それは笑みというにはあまりにも獰猛で、瞳の輝きは獲物を食い尽くさんとする肉食獣のようにも見えた。
そして何よりも彼女を昂らせたのは、出場ウマ娘と枠番こそ違うものの、競技場のコンディションから気候、出場ウマ娘の人数に得意とする作戦、その全てが、あの時逃した日本ダービーと同じであったことだった。
「クククッ……ダメだ、トレーナーからは抑えろって言われてるが、アドレナリンが出まくってるみてーで昂りが抑えらんねェ……!! 今にもブチ切れちまいそうだ!!」
「ほう、それはあの時、私の首を締め上げた時くらいかい?」
飄々とした声がすぐ後ろでした。
獰猛な笑みを浮かべていたエアシャカールは、一度その笑みをひっこめて代わりに挑発的に笑って見せた。
「……よォ、タキオン。調子よさそうじゃねェか。いつにもまして目が澱んでんぞ」
「ハッハッハ。それはお互い様というやつさ。君もいつもの三割り増しくらい悪人面をしているよ」
袖がぶかぶかななのが特徴的な勝負服を身に纏うアグネスタキオンは、そう言って白衣に刺さってた試験管を一本手に取って反射で移るエアシャカールの顔を見せる。そこに映っていたのは、確かにスポーツマンやアスリートとは言い難い、けれども勝利への渇望を隠せていないウマ娘の姿だった。
一年と四か月、彼女達にとっては地獄であった。片や一度は失われ、そう簡単に戻ることのない”自信”をそれでも信じ続けて走り続け、片や彼女が二度と叶えてあげることのできないパートナーの夢、そして己の求める限界到達点を目指して走り続けたのだ。そして今日この日、過去に失われたものを取り戻さんと二つの飢餓がぶつかりあう。
栄光を掴めるのはただ一人、二人の内どちらかは再び手放すことになる。だが、それでもと、彼女達はここに並び立っている。
「シャカール君」
アグネスタキオンが名前を呼ぶ。その顔は、いつになく真剣だった。
「モルモット君を通して聞いたよ、君がダービーの結果を今なお悔やんでいること。あの時は悪かったね。ここで謝罪するよ」
すまなかったね、と頭を下げるアグネスタキオン。予想していなかった出来事にエアシャカールは思わず目を見開き、声をかけようとするが、でもという彼女の言葉に遮られた。
「君にも譲れないものができたように、私とて譲れないものというのがある。私にとって、それが今日のこのレースだということを覚えていてほしい」
いつも通りの狂気に揺らぐ瞳。けれど、エアシャカールはそんな彼女の瞳にも宿る闘志を見逃さなかった。
不覚にも彼女は珍しいと感心してしまった。普段飄々と掴みどころのない性格をしているアグネスタキオンが、このように闘志をむき出しにして宣戦布告してくるなど今までなかったのだから。
だからこそ、エアシャカールは
「……ハッ! お得意の揺さぶりでも掛けようってのか? だとしたら相手が悪かったな。オレは今、お前の理想だとか信念だとか夢だとかそういうのが全く気にならないくらい上がってんだ」
身体を反転させてゆったりとゲートの方へ歩き出す。
「オレの理論が最強ってこと、改めて証明してやるよ!」
「アッハッハッハ! 素晴らしいね、シャカール君。だったら私は私の理想をもって──」
君の理論を否定して見せよう。そう言い残し、
夢の導火線に火がつけられた。
ゲートが開いた瞬間に一斉に飛び出したウマ娘達は横一線を描き、ターフを駆ける。
今回のレースは2400mということもありスタート直後から飛ばすウマ娘は見られず、第一コーナーに近づくにつれて徐々に縦長となり、各々の脚質に合ったポジション取りを始める。
エアシャカールはコーナーに差し掛かる直前に深く息をついて最後方に位置どり、冷静に戦況を観察していた。
(逃げてる奴は3人……その後ろで団子になってるのが数人。最後にぶっ差してやろうって奴らが5……いや、4か?)
想定通りだと小さくほくそ笑む。唯一、アグネスタキオンが後方四番手ほどの位置についているのは想定の範囲外であったが、先行の馬群が想像以上に密集しているため沈まないように即座に作戦を切り替えたのだろう。
現にアグネスタキオンの末脚は恐ろしい。皐月賞では圧倒的な一番人気を誇り、その期待以上の圧倒的なレースで勝利している。それだけに仕掛けるタイミングが少しずれただけで負ける危険性が高かったため、こうして後方に下がってリードがない状況というのは、エアシャカールにとっては幸運そのものだった。
先頭が第二コーナーに差し掛かるのを確認し、頭の中で秒数を刻み、自身が第二コーナーに差し掛かったところでラップタイムを確認する。
(誤差は+3.25……ちょっと遅れ気味か? 逃げてる連中、前取るのに必死でオーバーペースになりつつあるな……仕方ねェ少し上げていくか)
腕の振りを少し強めてペースを上げる。エアシャカールの上がったペースに押されるように前のウマ娘達もペースを上げ、先行の集団との距離が詰まる。
(先頭は良く見えねェが、想定通りならこの直線の中盤で先行集団が追いついてるはずだ。だとしたら、もうすぐ焦って仕掛けるために動く奴が……おォ、いるいる)
前を走るウマ娘の間から見える集団から数人外へと進路をとるのが見えた。しかし、エアシャカールは見抜いていた。
今回出走しているウマ娘は優駿であり、これは紛れもない事実だ。その勝利への執念は並のモノではない。彼女達もエアシャカールとアグネスタキオンに劣らず、このURAファイナルズに賭ける想いがあり、その身体に闘志を宿す。
だからこそ、勝ちたいという想いと共に常に負けるかもしれないという意識も存在する。優駿に囲まれ、抜け出せずに負けてしまうかもしれない。そんな意識からくる焦りを、エアシャカールは見抜いていた。
(18番と7番と……6番か? 焦りすぎたな。その距離で仕掛けてもお前らの体力じゃ持たねェよ!)
近づいてくる背中にエアシャカールは笑みを浮かべる。レースを見抜き、支配している。その感覚が彼女を昂らせた。
(ッ……と、危ねェ。思わず仕掛けちまうところだった。いったん冷静にならねェとな)
逸る脚を力技で押さえつけて軽く外へと流れていく。先行集団が団子になりすぎていること、そしてパワーのあるウマ娘が多いことからではなく外側から追い抜く作戦だった。第四コーナーギリギリまで脚を溜めて、大外から一気に抜く。それが今回のエアシャカールの作戦だ。
そして集団は第三コーナーへ差し掛かる。先ほど仕掛けようと外に抜けたウマ娘の内二人はすでにかなり後方まで下がってきてしまっている。
(ビンゴ。ミリの誤差はあるが……影響ないレベルだ。後はこの位置から一気に前を喰っちまえば──)
思考が止まり、気づいた時には駆けていた。
何故だ。そんな思考すら置き去りにしてエアシャカールは全力でターフを駆けていた。
(クソッ! 想定していたポイントより遥か手前だってのに、何でオレはもう仕掛けてるんだ!! これじゃスタミナが持たねェ!!)
思考とは乖離した身体は、彼女に残された体力を惜しみなく使って前へ前へと進んでいく。
ぐんぐんと先頭集団を外から追い抜いていくエアシャカール。会場は彼女の暴走にどよめき、隣を走るウマ娘達はあまりに突然のスパートに驚愕する。負けじと勝負を仕掛けるウマ娘もいたが、意に返さないほどのスピードで彼女は逃げていた。
何から? そんな疑問が脳裏をかすめた時、彼女の隣を光が過ぎ去っていった。
「それではお先に失礼するよ、シャカール君」
飄々とした声。彼女のスピードでたなびく純白の白衣。
そしてようやくエアシャカールは理解した。彼女はアグネスタキオンから逃げようとしたことに。
(クソッ! クソッ! クソッ! やられた! 後ろから見えたアイツの笑みが! 仕掛ける合図だって理解した瞬間に!! クソッ!!!)
ターフを思い切り踏んで加速してみるも、光には追い付かない。
「ハハッ。ハハハハハッ!! そう! これだ! この高揚感! このスピード!! 全くをもって私の最高速度に近い!! いや、それ以上だ!!」
アグネスタキオンは歓喜していた。沸き上がる歓声に負けないくらい身体から湧き出る衝動。このレースの勝利は自身の敬愛するモルモット君へと送るものではあるが、その過程は違う。このターフの上だけは、誰の侵略も許さない彼女の実験場だ。
(あぁ、君がいてくれてよかったよ、シャカール君。君が私と同じでいてくれてよかったよ、シャカール君! でなければ、この高揚も! 負けたくないという気持ちも! 抱くことさえなかったのだから!!)
優駿が集まり、最高のライバルがいる。その状況下で出せる自身の最高速度こそ、彼女の求める限界到達点へと至らしめるものである。
だからこそ、アグネスタキオンは、己の心のままにターフを駆ける。
(ちく……しょう……!! 差が縮まらねェ!! 直線に先に入られたら確実に追いつかない!!)
エアシャカールの身体はすでに限界を迎えていた。元々最終直線手前で最後方から一気にまくり上げる作戦だったので、彼女のデータの上を行くアグネスタキオンの最高速度を追いかけるのを考慮したスタミナをつけていなかったのだ。
(終わる?! また、オレの理論が破綻するのか……!? また、届かずに……!!)
血中の酸素量が減り、視界が霞む。目の前にある光が遥か彼方に見える。
(あァ……くそ……ダメだ……差はそれほど離れてねェはずなのに、永遠に感じる……)
差はたった1バ身程。しかし、確実に離れていく。重くなった脚は上がらなくなり、今にも倒れそうになる。
(悪ぃな、トレーナー……オレ、また……)
頭に浮かぶ軟派な笑顔。ここまで来るために身を粉にしてもう一度彼女に仮初ではあるが”自信”をくれた存在。
倒れそうなほどの前傾姿勢。意識も薄れはじめ次の一歩が踏み出せない。
「わりぃ……とれーな──」
「そのままはしれぇええええええええええええええ!!!! エアシャカールぅううううううううううううううう!!」
割れんばかりの歓声から聞こえてくるのは聞きなれた高さの、聴きなれない雄叫び。
「ッ!」
瞬間、エアシャアールは次の一歩を踏み出した。
(……今、オレは何をしようとした!? 諦める? ふざけんな!!! そんなことが許されると思ってンのか!!)
歯が割れそうなほど食いしばる。ターフを駆ける脚に力が戻る。
(ダービーで負けて悔しかったンだろ!! 勝ちたかったンだろ!!)
霞み始めていた視界が、脳内がクリアになる。
(だったら!! 最後まで計算し尽くせエアシャカール!! 式が崩れたなら
目の前を走るアグネスタキオンはすでに直線へと入っていた。差は1秒。致命的だ。
(思考を止めるな! 勝つことにみっともなく執着しろ!! 今のオレにできる勝利の方程式を作り出せ!!)
第四コーナーと最終直線の手前で、土壇場の計算ではじき出した一番速度の出るフォームと推進力の生まれる踏み込みの角度が維持できる程度の超前傾姿勢のまま再び加速する。
(オレの理論が最強だと証明するために!!!)
アグネスタキオンとの差は1秒。ラストスパートの区間からすればこの差は致命的だ。
(最短だ! 他の奴らとぶつからないスレスレのコーナリング!! それで縮める!!)
だが、それをエアシャカールは覆す。
超前傾姿勢のまま、肩がターフにつくほど体を倒し、0.5秒縮めた。
太ももが時々胸を叩く。痛い。でもそれでいい。弱り始めた心臓を叩き起こせるのだから。
「ッ! 来てるね! シャカール君!!」
「ッたりめェだ! 勝つためにいるんだからな!!」
振り向かずともアグネスタキオンは理解した。すぐ真後ろに。いや、もう半バ身程の場所に、自分を喰い尽くさんとする獰猛な笑みを浮かべたエアシャカールが迫ってきているのを。
スパートをかける。大きく息を吸って吐き出すその力さえも推進力に変えて。
徐々に近づくアグネスタキオン。しかし、彼女も負けじとターフを蹴る。
ゴールまで残り200を切った。ここから抜き返すなど容易ではない。それでもと、彼女は光に並び──影となった。
トレーナーの夢と自身の理想を両足に彼女は駆ける光。
己の理論の証明と意地のために死力を尽くし駆ける影。
二つはぴったりと離れず、加速し続けた。それこそ、アグネスタキオンが求めた光速に挑むかのように。
「ァアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
「はぁあああああああああああああああ!!!」
ゴール前の最後のスプリントで柄にもなく叫ぶ二人。これが速さに直結しないとは理解している。だが、この叫びが鼓舞となり、次の一歩を誰より先へ踏み出す力に変えた。
そして二人は最後の力を振り絞る。競うように大地を蹴り、栄光へ手を伸ばした。
「証明、終了だ──」
割れんばかりの大歓声の中、そう小さく呟いた彼女の笑みは自信に満ち溢れていた。