少年は、ある日流れ星を見た。
それは画面越しでも色褪せない、眩い輝き。
見る者全てに、夢と希望を与える願い星。
脳裏に焼き付いた、魂の奥深くに刻まれたその輝きは。
今尚彼の心の中で、光を灯し続けている。
▼
「はあああああああああ」
時刻は午後22時半。府中に座する大規模施設、『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』──通称『トレセン学園』。
静まり返った学園内で、明かりの灯った部屋が一つ。男はそこで大きな溜息を零しながら、長時間のデスクワークで凝り固まった筋肉を背伸びして解していた。
「うーわ、もうこんな時間か……やべぇ、まだ4割も終わってねぇぞ……」
机上の時計を見ながら、男は顔を顰めて舌打ちする。かなりの時間集中していたのは事実であり、膨大な数の作業を終わらせたのもまた事実。しかし積み重なったタスクを処理しきるには到底事足りていなかった。
彼は普段から残業をしてはいるものの、流石にいつもは今日ほどでは無い。それには立派な理由があるのだ。
「……“新学期”、か」
そう、今日は3月31日。明日からは次の年度が始まり、『トレセン学園』に新たな風が吹く。“トゥインクル・シリーズ”を志したウマ娘達が学園の門を叩き、トレーナーとの出会いで物語が動き始める。
「今年はどんなウマ娘達が入ってくるかな」
事実、男もそれを楽しみにしている。負けん気の強いウマ娘、自分に自信の無いウマ娘、打って変わって自分の実力に強い信頼を置くウマ娘──千差万別の少女達が凌ぎを削り、互いを高め合う。それを楽しみにしない人間など、このトレセン学園には居ない。
「……それはさておき、コレどうすっかなぁ」
期待を膨らませた思考が、現実という冷や水を浴びて急激に冷めていく。男がここまで残業していたのは、新年度準備の作業が原因だった。祈ろうが願おうが、積み重なった仕事は消えてくれない。
「まぁ頑張るか。なんたって俺は──」
断っておくが、彼は
勿論、ウマ娘でも無い。
これはウマ娘とトレーナー。
両者の輝かしい物語を支える───
「──
一人の教師の物語だ。
▼▽▼
夜が明けて、4月1日。
今年も、この季節がやってきた。
「ねっっっっむ」
昨晩、日を跨ぎながらも激務を終えた俺は、帰宅して食事をした後速攻で眠りにつき、起きたと同時にシャワーを浴びて再び出勤した。
出勤してからは、入学式の用意と教室の環境整備。休む間もない激務に、俺は辟易しきっていた。一息つく時間を得たのは、全てが終わってしばらく経った午後3時を過ぎてからだった。
「はぁ──」
職員室の椅子に座り、深い溜め息を一つ。疲弊し切った体に、コーヒーのカフェインが染み渡っていくのを感じた。
思い返すのは、入学式後に顔を合わせた、自分のクラスのウマ娘達。夢と希望に満ち溢れたその顔を思い出すだけで、思わず顔が綻んでしまう。彼女達がどんな風に成長していくのか、楽しみで仕方ない。
「おい、お前聞いたか?」
「あ? なんだよ急に」
そんな俺に鼻息荒く話しかけてきたのは、俺の同期である一人の男だった。
「明日から新規で新しい教員が来るんだってよ!」
「へー、そうなのか」
「しかもしかもその子、ウマ娘なんだってよ!!」
「へー、そうなのか」
「……お前、話聞いてんのか?」
「へー、そうなのか」
「微塵も興味ないのは伝わってきたよ」
「いや、別に珍しいことじゃないだろ。周り見回してみろよ、何人ウマ娘の教員がいると思ってる」
そう、別に珍しいことではないのだ。
ウマ娘は、完全に社会に溶け込んでいる。というより、ウマ娘と人間の営みを社会と言うのだ。レースで走ることだけが、彼女達の運命ではない。
そう、だから別に驚くことではなかったのだ。
「はじめまして! 今年度から教員として採用される事になりました、
次の日現れた、新人教師の名前を聞くまでは。
「……………………は?」
開いた口が塞がらない、とはまさにこのこと。
信じられない。今目の前にいるのは間違いなく本物のスペシャルウィーク──【日本の総大将】の、スペシャルウィークだ。
この『トレセン学園』の中に、その名を知らぬ者など居ない。彼女は文字通り、『日本』を背負って走った伝説なのだから。
そして更に驚くことは。
「よろしくお願いしますね、先輩!」
俺が彼女の指導係──即ち、直属の後輩になったことだ。
▼
「で、退勤の時はここにカード出して帰ったら大丈夫です」
「なるほど……」
その日の放課後。俺はスペシャルウィークに業務の説明をしていた。俺の言葉一つ一つに、彼女は相槌を打ちながら頷いている。
「なんかわかんないとこありました?」
「いえ、大丈夫です! わかりやすく教えていただいてありがとうございました!」
「よかったです……あの、スペシャルウィークさん、ですよね?」
「はい、そうですけど……」
「やっぱり……俺、ファンなんです。すいませんよかったら握手してくれませんか?」
「え……? あ、はい! 私で良かったらどうぞ!」
一瞬戸惑っていたものの、スペシャルウィークは笑顔で手を差し伸べた。
「すいません、なんかミーハーっぽくて」
「いえ……それより敬語やめてくださいよ!私の方が後輩なのに……なんかくすぐったいですっ」
「あ、すいま……ごめん」
「えへへっ……私の昔のことは気にしないでください。普通に後輩として接してほしいです」
「そう、か……わかったよ、スペシャルウィーク」
「そうしてくれると嬉しいです、先輩っ!」
俺のタメ口に、彼女は満足そうに笑う。
“先輩”、と言う言葉の響きがこんなに心地いいと言うことを、初めて知った。
「……わからないことあったらなんでも聞いてくれていいから。あと、困ったこととかもいつでも言ってくれ。俺でよければ、相談に乗るから」
「嬉しいです! たくさん頼りにさせてもらうと思いますけど……」
「気にすんな。俺は君の、“先輩”だからな」
「おお……! 頼りになります!」
瞳を輝かせるスペシャルウィークの姿があまりにも眩しすぎて、直視できそうにない。
そしてこの時の俺は、想像以上にドジを働かせるスペシャルウィークに振り回される日々が待っていることなど、想像もしていなかったのだった。
▼
「かんぱーい!」
「……乾杯」
グラスが合わさる甲高い音が、店内に響き渡る。
スペシャルウィークが『トレセン学園』に来て1ヶ月と少し。
就職祝いを兼ねて、俺は彼女を親睦会──もとい食事へと誘った。彼女はそれを二つ返事で快諾、さらに自分で店を決めたいと言って予約を買って出た。
「……君、酒飲めんの?」
「飲めないです!」
「この居酒屋、君の予約だよね?」
「ご飯が美味しそうだったから!」
「さいですか」
目の前に並んだ、見るだけで胸焼けを起こしそうなほどの大量の料理を見て、俺はため息を吐いた。大食漢、という噂は真実だと分かった。
「いただきまーす!」
「はいよ、ゆっくり食べな」
「ごちそうさまでしたー!」
「えっ!? 消えた!?」
一度の瞬きで、眼前の料理が全て消え失せた。驚きのあまり目を擦るが、景色は何も変わらない。満面の笑みで腹部を摩るスペシャルウィークは、大変ご満悦の様子だった。
「美味しいー! この店にして良かったです!」
「そ、そうか……」
「次は何頼もうかなー」
「あ、まだ食べるのね」
「はい! 腹二分ってところですね」
「マジかよ……あ、俺も食べたいからなんか適当に頼んどいて」
「わかりました! えーと、どれにしようかな……」
「……にしては君、全然太ってないよな」
「えっ、そう……でしょうか」
「あぁ。代謝が良いんだろうか、いやそもそも筋肉の付き方が現役のそれに近い。今も鍛えてたりするのか?」
「……凄いですね、一目でそこまでわかるなんて」
俺の発言を聞いていたスペシャルウィークは、驚いたように目を瞬かせた。
「……そうですね。昔からの癖で、体動かしてないと落ち着かないんですよ、あはは」
「ふーん、勤勉なんだな」
そこでスペシャルウィークが見繕った料理が机上へ届く。そのタイミングで、話題は終わった。もっと深く掘り下げられたかもしれないが、知り合って僅かの関係でそれは荷が重い。ここはもっと当たり障りない話題から振っていくべきだろう。
「……どうだ、1ヶ月くらい経ったけど。仕事には少しでも慣れたか?」
「ぜんっぜん慣れないです!! 覚えること多すぎてパンクしそう……」
「ははは、まぁそうだろうな。少しずつで良い、出来ること増やしていけば良いよ。わからないことがあったらいつでも聞いてくれ。多少は力になれると思うから」
「先輩……! ありがとうございます!」
スペシャルウィークは瞳を輝かせて俺を見ている。意気揚々と吹かせた先輩風は、悪い気はしなかったが妙にくすぐったい。俺はその恥ずかしさを隠すように、目の前の酒を一気に飲み干した。
それで酔いが回ってきたのだろうか、俺は思ってもいないような──それこそ、新人の前で口にすべきでないようなことを口走ってしまう。
「……この仕事は楽じゃない。生徒の為に色々してやりたいのは山々だが、
机上の唐揚げに箸を伸ばしながら、俺は呟く。
冗談混じりに言ってみたものの、その言葉に嘘はない。
教える事だけに集中したい。それが俺達教員の、切なる願いだ。しかし現実はそれを許してはくれない。教室の環境整備、関係機関との連携。さらに学園……もとい教育機関というものには、普通の会社同様部署が存在する。その部署の仕事に加え、各ウマ娘の情報整理、資料作成、指導計画の作成。それらをこなした上で、授業準備を行わなくてはならない。時間はいくらあっても足りない。定時なんて夢のまた夢。
「私はまだそこまで感じてないですけど……やっぱそういうものなんですね」
「君も続けていけばわかるさ。この仕事は良いことばかりあるわけじゃない。むしろそれ以外のことの方が多い。日々辛く苦しい中で、偶々起きた“良いこと”を支えにしてなんとか歩いていく。教師ってのは、そんな仕事さ」
机上のジョッキに手を伸ばそうとして、先程全て飲み干してしまったことを思い出す。手持ち無沙汰で行き場を無くした手を、溜息と共に膝に戻した。
するとスペシャルウィークが、不意に俺に問いかける。
「じゃあ、先輩はどうして教師になったんですか?」
「え?」
「さっきみたいな知識があるなら、トレーナーでも良かったんじゃないかって。実際私も先輩みたいなトレーナーなら是非教えて貰いたいですし」
「そ、そうかな」
「そうですよ。だからこそ気になるんです、どうして教師って言う選択肢を選んだのか。聞いても良いですか?」
ふむ。
彼女の瞳は、存外真面目に答えを欲しているようだ。
まぁ恥ずかしいけど……初めての後輩の頼みだ、答えてやるしかない。
「道を作ってやりたかったから、かな」
「道……?」
「ウマ娘って言うのは、走る事こそが本能で、それこそが己の存在証明に他ならない。だからみんな必死にトレーニングして、レースに出て、一位を目指す。そうだろ?」
「……そうですね。私の原動力も、“走りたい”という気持ちそのものでした」
「だよな。でも──
「え……?」
「一生走り続けられるならそれで良い。でもそういう訳にもいかないのが現実だ。怪我、不調、衰え……レースを諦めざるを得ない状況なんて幾らでもある。その時に力になるのは、学園で学んだ勉学だ。俺はその道を作ってあげたいんだよ」
「第二の道……って事ですか?」
「ああ。俺はウマ娘が好きだ。あいつらが走るレースが大好きだ。だからこそ、あいつらが安心して走れるように、その後何も苦しむ事がないように。願う限り進み続けられるような第二の道を、作ってあげられる存在でありたい。これが、俺なりの理由ってやつかな」
「……」
俺の話を聞いたスペシャルウィークは、呆然と俺を見つめていた。そして彼女は、不意に貼り付けたような笑みを浮かべる。
「……先輩、良い先生ですね」
「へ?」
「私も、あなたみたいな先生だったらよかったのにな」
そう呟いた彼女の表情が、それから俺の頭から離れることはなかった。
▼
「……」
彼女と別れて帰宅した後、就寝準備をしてベッドへと寝転がる。思い返すのは、今日居酒屋で見たスペシャルウィークのあの表情。脳裏に焼き付いて剥がれないのだ、普段の彼女からは想像も付かないような貼り付けた笑顔が。
その表情の意味を推し量るには、俺はあまりにも彼女のことを知らなすぎた。
「……調べてみるか」
布団から体を起こし、スリープしたままだったPCを起動する。そのまま椅子に腰掛けてインターネットで彼女の名前を検索した。
「っ──」
その結果を見て、俺は思わず顔を顰めた。
スペシャルウィーク。
府中『トレセン学園』に転入。その後“チーム・スピカ”の一員として華々しい戦績を残した。特に【怪鳥】エルコンドルパサーとの『日本ダービー』、海外からの刺客、ブロワイエとの決戦『ジャパンカップ』、この二つは世紀の一戦として語り継がれている。後者の際の境遇と活躍、さらに人々の願いを叶える走りから人々は彼女をこう呼ぶ──【日本の総大将】、【シューティングスター】と。
しかしそれは、過去の話。
【日本の総大将】。かつて彼女を称したその呼び名は、風化して朽ち果てた。
──【堕ちた流星】、【ヴァニッシュ・スター】。
全盛期を終えた彼女に対する、蔑称。
“トゥインクル・シリーズ”夢のオールスターマッチ、『ウィンタードリームトロフィー』。そこでの活躍以降は、小さく勝ち星は上げてはいたものの、それ以上に敗北が目立つようになった。格上への善戦はおろか、格下への惨敗も目立つ始末で、日に日に世間の彼女に対する関心は、薄れていった。そして彼女は引退の宣言をすることなく、人々の前から静かに、姿を消した。かつて人々の願いを叶え、夢を与えた『流れ星』は、燃え尽きて消え去ったのだ───
「胸糞悪ィ」
そう吐き捨てて、ブラウザを閉じた。
得られたものは、彼女の傷と不快感だけ。
元からなかった眠気は完全に消え去り、眠れる気など全くしなかった。
「……風にでも当たりに行くか」
そう呟いて再び布団から起き上がり、椅子にかけたままのジャージと、机上のスマートフォンを引ったくり、俺は外へと出た。
「うー寒ぃな……もう少し厚いの着て来りゃよかった」
5月上旬とは言え、夜はまだまだ冷える。街灯の灯りが、やけに眩しく感じた。その灯りだけが存在する夜道を、俺は当てもなくフラフラと歩く。
そして何気なく辿り着いた池のある公園の中で。
一筋の、輝く流星が其処に居た。
「──あ」
吐息のように、漏れ出した感嘆。綺麗だとか凄いだとか、陳腐な感想が込み上げてきたのは暫くしてからだった。
そしてその流星の正体に気が付いたのは、それより後のことだった。
「……スペシャル、ウィーク……?」
俺と別れた後、直接ここに来たのだろうか。彼女は私服のまま、公園を駆け抜けている。その表情が示す感情は苦悶。何かから逃げるように、彼女は自慢の脚を輝かせていた。
しかしその輝きは俺が見ても、いや誰が見ても全盛期のそれとは程遠い。怪我か、純粋な衰えか、はたまた両者か。それは俺にはわからない。
だがそんな俺にもわかることがある──それに1番苦しんでいるのは、彼女自身だということ。
「ハァ……っ、なん、で……なんで……っ!」
立ち止まった後膝に手を乗せて、体重を預けた姿勢のまま肩で息をしていた彼女が呟く。理想と現実のズレに、苦しんでいるのだろう。彼女の歯を食いしばる音が、誰も居ない公園に響いたような錯覚すら覚えた。
「……」
その余りに居た堪れない様子を見て、静観を決め込んでいた俺は思わず彼女の元へと歩き出した。
「お疲れ様」
「えっ……先輩!? どうして、帰ったはずじゃ……」
「偶々散歩してただけだよ。ちょっと待ってな」
そう言い残して、俺は近くの自動販売機へと急いで向かった。お茶とスポーツドリンクを一本ずつ買い、ベンチに腰掛けていたスペシャルウィークへと差し出す。
「ほら」
「えっ、いいんですか?」
「いいよ。好きな方選びな」
「……ありがとうございます」
ぎこちない笑みを浮かべながら、彼女はスポーツドリンクを手に取った。
「……いつも走ってるのか?」
「……はい。今日はお休みするつもりだったんですけど、なんか動きたくなっちゃって」
「そう、なんだな」
ペットボトルを開封し、お茶に口をつける。その間俺は、先ほど見た彼女の鬼気迫る表情を思い出していた。あまりの心配から、俺は意を決して彼女へと問いかける。
「どうして、って……聞いてもいいか?」
「っ……」
「言いたくないんなら、良いんだ。これは俺の、ただの好奇心だから」
そう言って、お茶を一気に流し込む。
喉元を過ぎるそれよりも冷たく、重い沈黙。
彼女は、何も答えない。それならそれで別に良かった。言いたくないことを無理に言って欲しくはなかったから。
しかしその沈黙は、不意に終わりを告げた。
「──私、逃げたんです」
「……逃げた、ねぇ」
「はい、逃げました。私を取り囲む全てから。怖かったんです、みんなの期待を裏切ってしまうのが」
彼女は俯いたまま、震える声で絞り出す。その表情を窺うことはできないが、容易に想像がついた。
「……先輩は、“イップス”ってご存知ですか?」
「……精神的な要因で支障をきたし、突然自分の思い通りの動きや意識が出来なくなる症状のこと、だったか。まさか、君がそうだっていうのか?」
「そうです」
「……!」
一瞬の躊躇いもない断言に、俺は思わず目を見開く。スペシャルウィークはそのまま、続きを語り始めた。
「……『ウィンタードリームトロフィー』で、私の夢は叶いました。ずっと憧れてた人と一緒に走ることができて、本当に幸せでした──
「……どういうことだ?」
「私はそこで、走る理由を失いました。これから何を目標にして走っていけば良いのか、わからなくなっちゃって。スポーツ選手には、よくある話みたいなんです。診断名も立派に付きました──」
──
「どうしたら良いか、わかりませんでした。それでも私は、走り続けなきゃいけませんでした」
「……周囲の声、か?」
彼女の沈黙が、答えだった。
「みんなの期待を裏切れない。だから私は走り続けなきゃ……そう思って走り続けた結果が──これです」
「っ──!?」
彼女は突如、自分のTシャツを捲り始めた。その行為に驚いたのは一瞬、それよりも衝撃を受ける光景が視界に飛び込んできた。
──彼女の左腰には、巨大な手術痕があったのだ。
「練習中、無理が祟って姿勢が崩れて転倒しました。レース生命に関わる怪我だったそうです、それこそ歩けるようになるのが奇跡な程の」
「……それが、突如君が表舞台から姿を消した理由……」
「それでも私は、諦めきれませんでした。何を、って言われたら答えられないんですけど……必死にリハビリを重ねて、漸く走れるまで回復しました。トレーニングを続けて、現役の時に近い体を作り直したんです。でも、それでもアレが……限界なんです」
アレとは、先程俺が見た走りのことだろう。
「どれだけ練習しても元に戻らないんです。このままじゃレースで走れない……! 私は……私はっ、
平坦な声に、剥き出しの感情が宿った。
彼女が拳を握り締める力で、ボトルのラベルが甲高い音を鳴らした。強迫観念に近いものなのだろう、それぐらい鬼気迫る声色だった。
「それが君の、走る理由……?」
「理由なんて、大層なものじゃありません。自分でもわからないまま、見えない何かに背中を押されてる。それでも私は止まれない、止まるわけにはいかない。だって私には──
「……」
それを聞いて、漸く分かった。居酒屋で彼女が見せたあの表情の意味が。
その理由まではわからないが、彼女には無かったのだろう──第二の道が。
故に彼女はそれに縛られている。それ以外のアイデンティティを、持ち合わせていないから。
極め付けは、周囲の期待。彼女はそれにも縛られているのだ。雁字搦めで身動きが出来ないまま、それでもその本能と期待に背中を押されて、ただ我武者羅に前へと歩み続けることを余儀なくされる。彼女自身の心は、決してそこにはない。
そして彼女は、薄い笑みを貼りつけて俺に言う。
「……だから私は、教師になろうと思ったんです。私みたいなウマ娘が、もう現れなくて済むように。走れなくなった後でも、苦労することがないように」
先輩と同じですね、と言いながら笑った彼女の笑顔は、やはりどこかぎこちなかった。
再び訪れた沈黙。彼女の独白をもう一度心の中で噛み砕き、自分なりに整理をして──俺は漸く口を開くことができた。
「……良い理由じゃないか」
「そうなんですかね……」
「立派な動機だよ。ちゃんと生徒達のことを考えて、どう育てたいかの明確なビジョンもあって。君はきっと、良い教師になれる」
「……ほんとですか?」
「でも……君はもう少し、自分のことを考えても良いと思う」
「っ……」
「君はこれまで、ずっと誰かの為に走ってきたんだろ? 少しくらい休んだってバチは当たんないさ。やりたい事やって、好きなように過ごしていけば良い」
「私の……やりたいこと、ですか……」
俺の言葉を反芻しながら、彼女は両手で握ったボトルへと視線を落とした。
「……わかんないです、私のやりたいこと」
「これから見つけてきゃ良いんだよ、教師しながらさ」
「それで、良いんでしょうか」
「……迷いながら、子供達と一緒に答えを見つけて、少しずつ成長していくのが教師だ……なーんて建前はもう良い!」
「きゃ──!?」
俺は俯いたままのスペシャルウィークの頭に手を乗せ、ぐしゃぐしゃと髪を撫でた。
「……俺は君から夢をもらった存在だ。それでウマ娘と関わる職に就きたいって思うようになった」
「えっ……」
「俺に夢をくれた君が苦しんでいるなら、力になってあげたい。もしやりたいことが見つかんないなら、一緒に探そう。それくらいしかしてやれないけど……それが今、俺の一番やりたいことだから」
俺は今、上手く笑えているだろうか。
放って置けなくて、なんとかしてあげたくて。
それは困っている人を導きたいという教師の性か、それともかつて自分に夢をくれた彼女への恩返しか。
わからない、だがそれで良いとさえ思う。
彼女が、涙を流しながら優しく笑ってくれたから。
「……ありがとうございます。私と一緒に、見つけてくれませんか? 私の、やりたいこと」
涙声で震える問いかけに、俺は笑顔でうなずいた。
その答えを聞いて、安堵したように涙を流しながら笑う彼女の姿を見て、俺は思った。
それが彼女が、心から望んで選んだ道だったのだろうか、と。
それからも、彼女との日常は続いた。
彼女のやりたいことを探しに、休みにはいろんな場所へと2人で出かけた。走る事しか知らなかった彼女は、それまでの日々の埋め合わせるかのように、俺との時間を楽しんでくれていた。
そんな彼女に惹かれてしまうのに、時間はかからなかった。
彼女もきっと、そうだったのだろうと思う。
そうでないのならば、俺を泊まりの旅行へと誘ったりすることはないだろうから。
それでも、決して一線を越えることはなかった。不思議とそうするつもりにはなれなかったのだ。
それは彼女の──そんな日々の中で尚走り続ける、狂気的な姿を見てしまっていたから。
そして日々は流れ───
▼
──星を見に行きませんか。
そう誘われたのは、それから一年後の、俺と彼女が出会って二度目の春のことだった。
「ほら早く早くー!」
「ちょ、待てって……この道、きっつ……」
「急いでください! 流星群終わっちゃいますよ!?」
「まだ始まってもねぇよ」
東京郊外の天体観測スポット。どこから見つけてきたか知らないが彼女が見つけたそこは、明かり一つない山道を超えた先にあるらしい。
ウマ娘かつ日々のトレーニングをこなしている彼女には余裕かもしれないが、人間かつ運動不足の俺には過酷が過ぎる。
「もうー! 早くしてくださいよー!」
「これで全力なんだよ……はぁ、きっつ」
「あと少しで着きますから、頑張ってください! じゃ!」
「ちょっと待って、『じゃ!』って何? 君まさかこんな暗い道に俺を置き去りにする気じゃないよね? 俺場所知らないんだけど?」
「大丈夫ですよ! 多分!」
「その多分はストーンエッジの命中率くらい信頼ならないから訂正してくれ」
そんな冗談を言い合いながら歩き続けること数分。漸く彼女の指定した場所へと辿り着いた。
「わぁーー!!」
「うっわ、すごいなここ……」
先程までの鬱蒼とした木々が開け、一面の草原が広がっている。
見上げれば視界一面に輝く、星の海。それを眺めながら、俺は彼女に問いかける。
「これ、何の星座なんだ……? て言うかそもそも何流星群を見にきたんだっけ?
「“こと座”流星群です──そして今年は、もう一つの流星群が重なって起きる奇跡の年なんです。どちらかと言えば、そっちの方が見てみたくって」
「へぇ……何て言うんだ?」
「──
「……!」
「どうしても……この目で見たかったんです。それは私にとって──大切な名前だから」
その言葉を聞いて、胸が締め付けられた。
“おとめ座”を構成する恒星──“スピカ”。
それは彼女の栄光を象徴する、所属していたチームの名前だった。
「みんな元気にしてるのかなぁ……ふふっ」
星空を見上げながら、彼女は呟く。
その姿があまりにも痛々しくて、俺は直視することができなかった。
「あ! 流れ星! 始まりましたよ流星群!」
興奮を隠せない様子で、彼女が嬉々として言う。
つられて星空を見上げれば、星の海を泳ぐように流星が夜空を駆け巡っていた。
「あ、お願い事しないと──」
そして彼女は、祈るように両手を組んで、呟いた。
「──みんなが笑って、過ごせますように」
「っ──」
この期に及んで君はまだ。
まだ自分のことを顧みない。
どうして君は、君は────っ!
嫌な音が聞こえた。
それは自分が歯を食いしばっている音だと気づくのに、えらく時間がかかった。
意を決して俺は、彼女へと問いかける。
「……なぁ、スペシャルウィーク」
「ん? なんですか?」
「──君は、もう一回レースで走りたくないのか?」
「……?」
問いかけの意味がわからないと言うように、彼女は首を傾げている。しかし彼女を注視していた俺は、その表情が一瞬歪んだのを見逃さなかった。
不意に彼女は、俺の視線に気づかぬまま声を出しながら笑い始める。
「やだなぁ、言ったじゃないですか。私はもう走る理由が無いんですよ」
「
「え……」
「走る理由とか、そんな大層なモンを聞いてるんじゃない。俺が今聞いてるのは、走りたいか走りたくないか、ただそれだけだ」
「それ、は……」
彼女は答えない。いや、答えられないと言った方が正しいのだろう。
「いつまで嘘吐いてんだよ」
「何の話ですか……! 私別に先輩に嘘なんてっ」
「違う……!! 君が嘘を吐き続けているのは、
「……私、自身……?」
彼女と過ごしていく日々の中で、理解した。
彼女が走り続けるのは確かにそうあれかしと自分に言い聞かせ続けているからかもしれない。
でも、それだけじゃない。
彼女は心の底から走ることが大好きで、愛しているのだ。
それこそが、義務の鎖に締め付けられた、彼女自身も見えていない、本当のやりたいこと。
だったら、彼女が立つべきなのは教壇なんかじゃない。
もっと相応しい場所が、そこにあるから。
「君自身が、それを受け入れられていないだけだ……!君が今も俺の目の前で輝いているのは、そういうことなんだろう!?」
燃え尽きたなんて言わせない。
あの日見た流星は、今も俺の目の前で輝き続けている。
今も心に燻る何かが、君の心にあるのならば。
枯らしてなるものか、絶やしてなるものか。
だって君は、走り続けていたじゃないか。
雨の日も、雪の日も、風の日も、教師になってからずっと、ずっとずっと。
そんな君が報われない物語なんて嘘だ。
そんな“道”は──俺が絶対に許さない。
「君は流星だ、人々を照らす眩い一等星だ!! だったら叶えて見せろよ……! 俺の願いも、君自身の願いもッ!!」
怒号にも似た叫びが、夜空へと響く。
何一つ偽りのない、俺の剥き出しの感情をぶつけられた彼女は、呆然と虚空を見つめていた。
「……いいんですか」
そしてスペシャルウィークは、苦しげに俯き、声を絞り出す。
「私はもう、前みたいに走れない……みんなの夢を、叶えられないかもしれない……それでも私は、走ってもいいんですか……?」
漸く見えた、優しさと義務と強迫観念の鎖の中で小さく胎動する、彼女の隠された本心。
動揺から擦れる彼女の声は、今にも泣き出しそうだった。
──ここしかない。
「……これ、見てくれ」
俺は彼女に歩み寄り、胸ポケットから“ソレ”を取り出すと、彼女に手渡した。
「ッ!! これって……!」
彼女に手渡したのは──
俺が今日この日のために手に入れた、究極の
「これ、どう、して……」
「
「なん、で……」
「言わせんなよ──君の為だ」
「そんなことしたら、先輩は教師じゃいられなくなる! なのにっ、どうして……どうしてッ!?」
「君に走ってほしいからだよッ!!」
「っ──!」
「ずっとわかってた、わかってたんだ。君が走り続けていたのは、誰かの為じゃないって。誰よりもあの場所に立つことを望むのは、君自身なんだって……! もう良い、良いんだよスペシャルウィーク……!! 君はもう誰かの為じゃない、自分の為に走ったって良いんだ……!!」
「わた、しは……」
「他の誰がなんと言おうと、絶対に俺が守るから。君の夢を、誰にも汚させたりしない……!! 俺が、君の
勝てなくていい、負けたっていい。
それで君の渇きが満たされるのならば。
君が再び、輝いてくれるのならば。
俺の側で、笑ってくれるのならば。
「俺と共に往こう、スペシャルウィーク!!」
ありったけの思いを乗せ、夜空に叫びながら彼女へと手を伸ばす。
「…………」
戸惑いが、彼女の瞳を揺らしている。
そして彼女の頬から、流星のように滴が伝った。
「……私、わかってたんです……私の、やりたいことずっと、ずっと。気付かないフリして、必死に隠して。でも、でもっ、私……私っ」
大粒の涙を零しながら、彼女もまた在らん限りの感情を込めて叫ぶ。
「──走りたい、走りたいんですッ!! あそこだけがっ、私の居場所だからっ、ずっとあそこに立っていたいんですっ!! 他の誰に何と言われても……私はっ、私は……!!」
そこから先の言葉は、溢れた激情が塗り潰して言葉にならなかった。
そんな彼女を、俺は優しく抱き締める。
「それでいい、それでいいんだよ。君の夢は、君だけのものなんだから」
「うっ、んぐっ、うぇぇん……ぁぁ……っ」
「俺と一緒に……歩いてくれるか?」
「作ってっ、ください……私の道を、私の側でっ、作ってくださいよぉ……っ!」
「任せなよ、教えるのは得意なんだ──“元”教師、だからな」
冗談めいた俺の言葉に、泣いていた彼女は憑物が落ちたようにスッキリした表情で笑い、呟く。
「──はい。私は、
満面の笑みでそう呟いた彼女の瞳から溢れた滴は、どんな星よりも綺麗だった。
▼
──『ジャパンカップ』。
11月下旬に行われる、日の丸の名を背負うそのレースは、条件を満たした日本のウマ娘の他に、指定レースを勝利した海外のウマ娘に優先出走権が与えられる。故に一時期は『ジャパンカップ』を『“トゥインクル・シリーズ”のオリンピック』と称する声もあった。
そこでかつて、一つの流星が伝説を残した。
強大な相手に対して、国民の期待を小さなその背中に一身に抱え込み──【日本の総大将】に恥じない勝利を飾った。
しかしその流星は、朽ち果てて燃え尽きた。
──それはもう、過去の話。
今日再び──かつて姿を消した伝説の流星が、ターフの上へと立つ。
「ふぅ──」
ゲートインを終えた流星は、大きく深呼吸をした。
電撃復帰から半年が経ち、その間彼女は破竹の勢いで勝利を重ね、『ジャパンカップ』への出走権を勝ち取った。
その姿に、人々は皆かつての流星を幻視した。
確変か、再生か。
彼女の真価が、今日試される。
(──大丈夫。私は、もう迷わない)
彼女は見つけた。自分の走る理由を。
周囲の声は、何も聞こえない。
(もう無くさない──絶対に)
ふと視線をずらせば見える、自分に道を示してくれた、自分にとって唯一無二の
(私は私の──私とあなたの夢を叶える、そのためだけに走る。それが私の、やりたいこと──!)
誰かの夢のためじゃない。自分自身の夢を叶えるために。
ただそれだけのために彼女は再び輝きを放ち、ターフを走る。
それは暗闇を照らす、一陣の流星。
永く苦しい、夜は終わった。
流星が夜を切り裂いていく。それは彼女による、彼女のための夜明け。
復帰戦を堂々の一位で飾った彼女を、人々はこう呼んだ。
──【