ウマ娘プリティーダービー〜企画短編集〜   作:ちゃん丸

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△M∃Ǹ◎H∥

 

 

 

 

初夏。暖かい外の陽気に誘われて様々が外界へと出る季節。

 

初夏。何事も無かったかのような顔をして、虫や花々が一斉に顔を出す。

 

初夏。暑さが出迎える予定の玄関、桜がライラックにバトンを渡し部屋の外で静観している。

 

 

 

 

 

「初夏、ねぇ……」

 

 

 一言、椅子に座りながらテーブルに身体を預けるというだらけ切った体勢のまま彼は呟く。

部屋の中は明るくなく、緞帳が下がり切ったような雰囲気のまま時が流れていた。

 

 初夏。それは五月から六月の夏の訪れを感じさせるタイミングにしか使わない言葉。

 春が実りの季節だとすれば、初夏は夏本番に対する準備の季節。

  

 晴れ渡る空、それを裂く入道雲。突風、吹き抜ける風の音。揺れる草花。有象無象。

 思わず外に出たくなるような、どこかへ歩みを進めたくなるような。

 

 

 きっとこのまま、日々の鬱憤すら吹き飛ばしてくれるような、初夏。

 

 

「こうしちゃいられねえ!初夏だブルボン、外へ出掛けるぞ!」

 

「季節的区分初夏は確認済みです……しかしマスター、今日は雨です」

 

「……はい」

 

 

 横にいるウマ娘、ミホノブルボンは彼に残酷な事実を突きつける。

 初夏とは聞こえの良いまじないみたいなもので、現実は梅雨入りを果たし悲しい程に雨が降っていた。

 

 いつ止むのかも分からない雨に、抵抗を試みるはずもなく。

 二人は何をして良いかも分からずにただ流れる時に身を任せていた。

 

 

「でもさぁ……流石に雨降りすぎでしょ、午前中は超晴れてたのに」

 

「今日の空模様は雨、降水確率は90%。23時まで続くとインプット済みです」

 

「じゃあ23時からなんかすっか!そうしよう」

 

 

 きっちりとデータを提示してくる彼女と、半ばやけくその彼。

 

 普段行っているトレーニングは中断、どこかへ出掛けようにも雨がひどすぎて出れない。

 室内トレーニングはもう済んでおり、まさに成す術なしといった現実が音を上げていた。

 

 自分の寮に戻っても良いのだが、雨と曇天。重苦しい空のせいで部屋から動くのすら億劫になっている彼。

 それに寄り添う忠犬のように彼女もまた部屋から動かないでいる。部屋の中は静寂が寄り添い、照らしている白色蛍光灯が唯一の灯火だった。

 

 

 雨音、依然弱まること知らず。

 

 

「ブルボンは部屋に帰らないのか?ニシノフラワーと同室だろ、部屋で寂しく待ってるかもしれん」

 

「ニシノフラワーさんはチームでミーティングと聞きました、恐らくまだ校舎にいます」

 

「ふ~ん……ミーティング」

 

 

 彼はそう呟きながら窓へと目を向ける。

依然止まない雨。灰色が覆うような空を見ては、また机に突っ伏して。

 

 現実が雨だと気分も雨降りだと言わんばかりのローテンションを炸裂させ、だらけだす。

 暗い影が伸びた部屋には、彼と彼女。雨音が唯一のBGMで、まるでそこが一つの世界かのように閉塞していた。

 

 

「したいこととかないの?俺、今なら何でも聞いちゃうよ」

 

 

 顔を机に伏せたまま、籠りがちな声で彼は彼女へと問う。

 束の間の暇つぶし。夢魔のようなこの曇天に一筋の光。見切り発車に過ぎない彼の発言も彼女の思考を停止させるには十分過ぎた。

 

 

「――受動的困惑を感知。マスターその質問には返答出来ません」

 

「……まぁ難しいよな、急にやりたいこと言われてもな」

 

 

 お手本のような座り方をしたまま、彼女は答える。

 困惑した表情は見せずとも、声色には困惑の表情が出ており彼がそれを察するのは容易だ。

 

 彼女は良い意味でも悪い意味でも真面目だった。

 嘘が付けない性格、一度決めたら何としてでも遂行しようとする決意、過酷な練習にも果敢に取り組むストイックな姿勢。

 

 その性質は日常生活にも作用し、急な対応や自分の知らない事には戸惑いを見せることが多い。

 彼の問いに対する返答にも、その戸惑いが宿っていたことは言うまでもない。

 

 

「んー……ブルボンも体勢崩したら?」

 

 

 置物のように座っているブルボンに彼は声を掛けた。

 机に伏して話しているので脱力感を感じさせる声、体勢。雰囲気も含め全てが緩み切った格好。彼のやる気スイッチは最早切れたも同然だった。

 雨によるトレーニング中止、薄暗い世界、予定は未定。何をするわけでもなく、することがあるわけでもなく。流れる時間は空虚な空気を纏っていた。

 

 

「マスターからの提案によるステータス異常発生、混乱」

 

「えっ……俺、そんな変なこと言った?」

 

 

 中空を見ながら呟く彼女。普段しない、やったことのないことをいきなり提案されても彼女のキャパシティ管理は応答出来ない。

 彼は何かおかしなことを言ってしまったかと疑問に思った。

 

 彼と彼女の関係はトレーナーとウマ娘だ。二年前に別のトレーナーの下でマイル優先で走らされていた彼女。

 しかし、自身が本当に望んでいたのはクラシック三冠。脚質的にあまり向いていない長距離までを走らなければ達成できない偉業。

 三冠達成の目標に掲げていると言っても、当時のトレーナーには向いていないと言われ却下された彼女は一人で練習を積み重ねていた。

 

 そこを目撃し、興味を持った彼が話し掛けたところが二人の出会いだ。

 トレーナーとしてはまだ新人だった彼が彼女の走りに魅了され、彼女の願いを叶えたい、支えたいと願い始まった物語。

 

 二年の歳月で彼らは掛け替えのない関係性を手に入れ、今もこうして同室でささやかな午後を過ごしている。

 

 だが、いくら年月が経っていようが、ミホノブルボンはまだ彼に慣れてはいなかった。

 突飛な質問や提案をされると、急に紐の切れた凧のように思考が飛んで行ってしまう。

 

 されど、年月。彼はそうなった時の彼女への対応の仕方やどうすれば彼女がその行動を取ってくれるかを把握していた。

 

 

「あー……ほら、リラックス。これリラックスだから。最近練習続きだったし、な?」

 

「……マスターからの提案によるモード変更。オペレーション:リラックス」

 

「そう!リラックス。身体崩して、机にだらっと」

 

 

 半ば諦めたかのように彼女は身体を机に預けた。

 両腕に自分の頭を乗せ、文字通りだらりとした姿。それは普段の彼女からは想像できない体勢だった。

 

 彼はしめしめと彼女の方を見る。

 共犯を作れば、自分も許される。そういう狡い事を念頭に置いていたのは言うまでもない。

 

 勿論、それ以外にも理由はあった。

 日常生活の基本のキすら分かっていなかった彼女に、少しでも新しい体験をさせたいと思っていたのだ。

 小さい頃からトレーナーの父親の下でウマ娘としてのなんたるかを叩き込まれ、入るべくして入ったトレセン学園。

 そのエリートさ故に、走ることやトレーニング以外の日常や行事。その他多くの物事を彼女は知らなかったのだ。

 

 そんな彼女の反応は常に新鮮そのもので、彼はそれを楽しむのが日課になっていた。

 彼女がやらなさそうこと。走ること以外の楽しみ方をどう伝えられるのか、彼は試行錯誤していた。

 

 

「……どう?なんかやる気がそがれる感じするでしょ」

 

「……はい。ですが不思議と心地良い気もします」

 

 

 彼女はそういうと彼に顔を向け、少し微笑んだ。

 口角が僅かに上がる程度の、見逃してしまう程の小さな笑み。それでも彼はそれを見るのが楽しみで、ある種の目的と化していた。

 

 ウマ娘としてレースに出続ける以上、トレーニングが日常に根付いている。

 晴れの日はほぼ練習、オフの日は週に一度か二度。勝たなければいけないと肩に力を入れすぎる彼女に、彼が力を抜いてほしかったのも事実だ。

 

 雨の日でも彼が一緒にいないと一人でトレーニングをしてしまうような、ストイックな彼女。

 日々を切り抜ける全ての努力のスイッチを一回切ることも、時には大切だ。脱力、初夏に似合わぬ堕落。

 

 

「これ、梅雨入りしてんのかな」

 

「はい。天気予報により梅雨入りは確認済みです」

 

 

 連綿と続く雨は、夢魔をも切り裂くような音を立て地面を清めるように降り続けていた。

 顔を彼の方に向けて話していた彼女は、何かに気付いたような顔をした後に体勢を戻した。雨は全てを曝け出す。

 

 

 それは始まりを曝し、瞬く間に物語を助長する。雨はやがて、姿を変え。

 

 

「マスター、リラックスは終わりました。モードは通常時に移行します」

 

「うーん、強くなる前に帰った方が良いよなぁ」

 

 

 伏したまま時は流れ、止むことはない雨。

何をするでもなく、沈黙が花とばかりに移動する時間を切り裂いたのは彼女の声だった。

 伏していた身体を起こし、流石にと立ち上がる彼女。

 察した彼も机から顔を上げ、外の様子を伺いに窓へと歩みを進めた。

 

 

 瞬間、雷鳴。

 

 

 何もかもを劈くような、壮絶な音が鳴り響いた。

 

 

「ひっ……」

 

「……大丈夫か」

 

 

 彼女は咄嗟に彼の腕に抱き着いた。

 万象を万象たる力で切り裂くその音と光は、彼女の恐怖を刺激するには十分過ぎたのだ。

 そもそも、彼女のソレに対する恐怖は子どもの頃から染み付いている。

 怖がっている彼女に対し、彼女の父親が雷が鳴ると尻尾を隠さないと取られちゃうんだぞという些細な?を吹き込んだところが始まりだ。

 それ以来彼女はトラウマめいたものを雷鳴に感じており、鳴る度に尻尾を隠したり震えたりと身体が拒絶をするようになっていた。

 

 

「機能損傷、修復不十分。マスター……もう少しだけよろしいでしょうか」

 

「良いけど……慣れないから早くな」

 

 

 彼の言う通り、出会った初年度はもっと酷いものだった。

 落雷が起こる度にしゃがみ込んでしまい、耳を塞いでいた彼女からするとかなり克服気味になった方なのだ。

 今は彼の腕を掴むことで安寧を得て、心に落ち着きを取り戻している。

 彼は気恥ずかしくありつつも、頼られている事に対し漠然と優しい感情を抱いていた。

 

 

「すみません、状態は修復済み。オペレーション通常時に安定しました」

 

「もうここまで来たら梅雨とかじゃなくて普通の豪雨だよな」

 

 

 数秒経ち、落ち着きを取り戻した彼女は力が抜けたかのように安堵した表情を浮かべた。

 近くに人がいる安心感と、その人が持っている安心感。彼女にとってそれは掛け替えのないものであり、自身を安定させる一つの要因でもあった。

 

 彼の言う通り、これは最早梅雨ではなく豪雨、夕立の威力までをも持っていた。

 解き放たれた雷鳴は稲光となって瞬き、唐突に来る。淡々と降る雨止むこと知らず、雷鳴未だ休息を覚えず。

 

 

「うーん……帰りづらいこの感じ」

 

「最新気象情報をインプット。マスター、この雨は約一時間後には弱まるそうです」

 

「あ、ほんと?じゃあもう少しゆっくりしてから帰るか」

 

 

 如何にもアシスタントデバイス風な口調で話している彼女だが、手にはスマートフォン。彼より先に天気情報を確認して伝えてくれているのだ。

 

 彼はその言葉を聞いて、再び椅子に腰かけた。

 この雨の中無理して帰るよりも、弱まるという情報があるのならそれから帰った方が気が楽だと思ったからだ。

 もし今大雨に当たり自分や彼女が風邪を引いたら、日々の努力が水泡に帰すかもしれない。

有り得ないということは有り得ないと、もしものことを考えて行動するのはトレーナーの基本だ。少し心配性なくらいが丁度良いのだ。

 

 

「マスターがまだ帰られないなら、私も待機します」

 

「そうだな、今帰して風邪引いたら困るし……てか誰か傘持ってきてくれねえかな」

 

 

 彼は三度、窓に目を向け雨を見つめる。

 今日の予報は曇り、降水確率自体は元々そこまで高くはなかった。なので彼も彼女も傘を持ってきていないのだ。

 

 彼女の知り合い、ニシノフラワーはミーティング中。普段トレーニングで一緒になりがちな知り合いも、彼と同じく校内にいる。

 傘を持ってきてもらえる相手がいないことを察していたが、そうぼやいてしまいたくなる程、雨は強くなるばかりだった。

 

 

 初夏、卯の花腐しは唐突に。

 

 初夏、雷鳴は更に気高く。

 

 初夏、フィナーレの雨は刻一刻と空から来る。

 

 

 雷鳴。

 

 

「っ……」

 

 

 雷鳴、留まることを知らず。

先程のような大きい音ではないが、遠くで落ちた音が僅かな時間を経て彼らの元へと届く。

 その度に彼女の肩は少しだけ震え、彼の腕を借りていた。

 

 

「……手でも繋いでみるか?」

 

「ステータス異常、困惑。マスターの真意が分かりません」

 

 

 彼女は眉毛を少しだけ下げ、伏し目がちに困惑した表情を覗かせた。彼の言ったことの意味を正しく受け取れない、理由が分からない。

 難しい話ではないが、彼女にとってその行為自体の意味を見出せていなかった。彼はそれに気付き一から説明することにした。

 

 

「うーん……雷が落ちた時、俺の腕を掴んでれば安心するんだろ?」

 

「はい。少なからず温もりに近い感情を感じます」

 

「だったら手も同じなはずじゃん?鳴る度に腕を掴むより、少しの間手を繋いでれば安心できるってこと……ほら」

 

 

 そう言うと彼は彼女の手を掴んだ。

 

 彼が手を繋ぐと言った事の真意は二つあった。

 まず一つ目は、彼女を安心させること。これは今彼女に向かって話したように、雷鳴が響く度に腕を掴むのではなく、予め手を繋いでおくことによって恐怖心を和らげる効果を期待してのことだ。

 そして二つ目は、己の抑制。トレーナーと言えど、一般の男性。年頃の彼女に腕を掴まれるのは、気恥ずかしいものがあった。特に彼女は容姿がよく、傍から見ても美人と言える見た目をしていた。

 

 それは彼の理性を保つためにも、最優先で行われるべき処置だったのだ。

 

 

「……常時の五倍の幸福度を感知。ステータス異常、依然困惑」

 

「……えっ、なんで困惑しちゃってんだろ」

 

 

 手を繋ぎ数秒、彼女は依然困惑したままだった。

 

 しかし先程の感情が分からない為の困惑ではなく、感情が分かった状態での困惑。

 手を繋ぐ事によって新たに発生した幸福感、その正体が分からずに彼女は困惑していた。

 

 そして、彼もまた彼で困惑した。

 彼女の困惑した理由が分からないからだ。やっと腕を離れてくれて理性を保てると思った矢先の出来事。何故幸福度を感じたのか、何故それで困惑したのか。

 

 彼が悩む素振りを表情に見せた時、彼女は口を開いた。

 

 

「手を繋ぐという行為は、幼少の頃ぶりだと思われます」

 

「まぁあんまり他の人と繋ぐ機会はないよな」

 

「はい。しかし、幼少期に父や母と手を繋いだ時とは別の幸福感を感じました」

 

 

 彼女は自分が感じたことをそのまま述べた。

父や母と手を繋いだ時とは確かに違う幸福度、その正体。彼女の中に未だ名付いてない感情。

 それを理解していないまま、幸福感だけが先行して入ってきたので彼女は混乱していた。

 

 頬を少し染め、まだ名前のないそれを彼女は口に出す。

 

 

「恐らくこれは他の人でシュミレーションしても違う結果が出ると思われます」

 

「というと?」

 

「……この幸福感は、マスターではないと刺激できないということです」

 

 

 彼は察した。

 彼女と手を繋いだことによって彼女にどういう感情が生まれたのか、またはどういった方向の幸福感なのか。

 トレーナーも鈍感ではない。

 しかしもしその感情に自分が名前を付けてしまったら、果たしてそれは正しい事なのだろうかと考える。

 

 言葉にするのは簡単だ、しかし簡単だからこそ責任が生じる。

 彼女自身が理解するまで、その感情は伏せておくべきなのか。それとも自分が教えて良いものなのか。

 

 そもそも、トレーナーとウマ娘という形式上のパートナー関係。

 彼は確かに彼女の仕草や発言に胸がざわめいたことはあったが、トレーナーとウマ娘という形式を考え直し、見て見ぬ振りをしていた。

 トレーナーとウマ娘が恋愛関係になることはある。しかしそれは引退した後やウマ娘自身の目標を達成し終えた後の話で合って、研鑽を積んでいる最中に付き合うケースは滅多にない。

それを知っているからこそ、ここでその感情を向けることは間違っていると彼は知っていた。

 

 それに、彼女の感情が本当にソレなのかは本人にしか分からない事である。

 彼女自身でその感情について理解し、果たしてそれが彼に向けての正しい感情なのかを再確認する必要は不可欠だった。

 

 

「……その感情がもし良い感情だったら、そして自分でその感情が分かったらまた教えてよ」

 

「はい……マスターもそのような事を感じることはあるのでしょうか」

 

「……まぁ、幸福感はあって損ないしな」

 

 

 はぐらかすように答えた彼。

 事実、腕を掴まれていた時は緊張感やソワソワした感じが拭えなかったが、手となると彼にも少なからず幸福感は生まれていた。

 人肌の温度というのは凄まじいもので、リラックスする効果や人を安心させストレスを軽減する効果がある。

 手を繋ぐ、ハグをする、一緒に寝る。身体を触ることによって得られる一定数以上の幸福は確かに存在した。

 

 彼女はその感情が分からずとも、彼の手の温もりに幸福を感じるには十分過ぎる程リラックスできていたのだ。

 

 

「以前私は、マスターは父に似ているけどどこか違うと言った事があります」

 

「あるな」

 

「それは恐らくこういった時に違いを感じているのだと思います」

 

 

 そういった彼女の頬は少し赤くなり、雷鳴で強張っていた表情も穏やかになっていた。

 普段は見せない表情を露わにする彼女に、彼もまた微かに頬を染める。彼女の言葉は直球そのもので、駆け引きなどは存在しない。

 

 

「……それは、嬉しいよ」

 

「分かりません。何故マスターは喜びを感じるのでしょうか」

 

「難題だな……まぁ時が来れば分かるよ、多分」

 

 

 彼女は彼が何故嬉しく思うのかを分かりかねていた。

 何故自分が違いを感じた時に、彼は嬉しく思うのか。時が来れば分かるというのは、時間的解決が成立するものなのか。この父への感情と似通った別の何かとは一体何なのか。

 それは恐らく気付いたもの、または芽生えたものだけに与えられた特権のようなものだ。

その感情はきっと、水の中にいてやっと息が出来るようになった解放感や、灼熱の中の一滴の雫のような。

 

 彼はその感情の名前を知っていた。

 そしてその感情が自分に向いていて彼女がそれを自覚した時には、それに対する答えもあった。

 過酷なトレーニングや調整、適性のない距離を走り切る努力。

 彼と彼女の日々に芽生えた絆は、一言では説明できない様々を生み出した。それは彼女だけではなく、彼にも。

 

 しかし答えを明かすには早すぎる。

 彼は彼女が現役のうちは、それを口にすることはないと決めていた。

 今年で三年目。一世一代の大勝負が一二月にある。

 今、彼女はそれに向けて研鑽を積んでいる最中だ。ここから出るレースの全てが、それに向かうウォーミングアップだと思って良いくらいに彼女はそのレースに賭けている。

 

 せめて、それが終わるまでは。

 余計な感情を生み出さない、自分の私情を挟まない。彼は時が来るまでは自分の感情よりもウマ娘としての彼女を見届けたいと思っていた。 

 

 

「時が来れば、ですか」

 

「そのうち自分で気付くかもしれないし、誰かが教えてくれるかもしれない。言葉にするのは難しいけどありふれた感情ってやつだ」

 

 

 文字にできるなら、どれだけ簡単だろう。包み隠さず言えるなら、どれだけ楽だろう。脆く、儚く、遠く。

 

 彼女は納得してはいないが、理解することは出来た。

 きっとそれはまだ自分の中にない感情で、彼にはその感情が既に存在している。

 しかし自分の中にもきっとあり、まだその感情の正体が分かっていないだけ。父とは違う、トレーナーの彼に向いた感情。

 手を繋いだ時の幸福感、一緒に居るだけの安心感、彼と会話する多幸感。

 

 長く続いた雷鳴たちも、もう身を潜めていた。

 

 

「雨もだいぶ弱まった気がするな……今のうちに帰ろう、流石にこれ以上待ってても止まないだろうし」

 

「はい、マスター。手を繋ぐことにより幸福度の上昇を確認することが出来たのが今日のトレーニング結果です」

 

「トレーニングじゃなかったけどね」

 

 

 彼女は手を繋ぐことによる幸福感を確認する。

 今まででは知り得なかった新たな幸福。自然と笑みが零れる、雨の中に陽だまり。

 

 その顔を見て、彼はこの先何があっても彼女を支えようとトレーナーとして再び緒を引き締めた。

 

 

「誰も見てないよな、まじで……じゃあまだ雨降ってるし、風邪引かないように帰れよ」

 

「はい。ステータスは幸福のままです。風邪を引くことはないと思われます」

 

「いやそれはおかしくない?」

 

 

 結局、昇降口まで手を繋いだままきてしまった彼ら。

 幸い雨により人が少ないお陰で、見つかることもなく辿り着いた。他のウマ娘やトレーナーに見つかったらどんないじり方をされるか分かったものじゃない、と言わんばかりの表情で彼は周囲を何度も確認していたのが功を奏したのかもしれない。

 

 感情に名前がつくことはなかったけれど、自覚することはなかったけれど。何かを掴んだ気がした彼女は、未だ高揚していた。

 得られる確かな安心感、気持ちを言葉で測れるならそんなに楽なことはない。不確かで確か、二人が分かち合って発生する、一つの歩み。

 

 

「じゃあ、また明日」

 

「はい。明日もよろしくお願いします。マスター」

 

「……うん、こちらこそ明日からもよろしく」

 

 

 名残惜しそうに手を離す彼女。それを見送る彼。未だ名もない感情は、近いようで遠い。それは雪の下で春が来るのを待っている草木のようだった。

 いつかこの雪を、彼らの幸福が溶かすなら。想望。

 

 唐突になる雷鳴。それは何かを知らせるように訪れる。雨の祈り、人の気持ち、辿り着く新境地。

 幾度も裂いた雷鳴と雨、しかしそれは少なからず彼女の心に新しいなにかを咲かせた。

 

 淡々と降る、雨。五月、梅雨入り。

 

 送電線、曇天、空転。

 初夏に似つかわしくない雨は、彼らに相応しい感情に水を撒いた。

 

 

 それからレースに出る都度、彼女が手を繋ぐことを要求してきたのは言うまでもない。

 

 

 

 

 初夏、遠くから来る雨は晴れ晴れと種を育てる。

 

 初夏、濡れる雷鳴は刹那を促す。

 

 初夏、遠くて近きは男女の仲。彼女の中でその感情が芽生えた頃に、今日の雨は成就する。

 

 

 

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