52Hz21g   作:10猫

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・1g

 珍しく関東圏の任務に呼ばれた帰り、五条悟に良ければ東京校に寄ってほしいと言われた。呼び出しの内容は全く想像が出来なかったが、理由を教えられれば納得し、二つ返事で了承し通話を切る。

 あの日。あの交流戦の日に、与幸吉は自分の生まれに関わる一つの情報を知った。

 与には、生まれつき膝から下の足が存在しなかった。だが自分の生まれを憐れんだことはない。確かに与は膝から下を完全に欠損した状態で生まれてきたが、それ以外は全く持って健康な体で生まれて来た。産んでくれたことを感謝こそすれ、恨みは少しもない。両親は間違いなく、自分を愛してくれていた。

 だからこそ自分の術師としての才能が見つかったとき、高専側に頼んで自分の身を隠すことにした。両親には自分が死んだと伝えてある。非術師である両親に被害が及ばないように、これ以上要らない心配をかけさせてしまわないように。自分の子供が命を賭けて戦うと知れば、きっと悲しみに暮れるだろう。足が健全でないならなおさらだ。たとえ義足をつけたとしてもあの二人はきっと愛情の深さから深く悲しんでしまうということが分かっていた。だからこそ、身を隠した。

 しかし与には、自分という人間が生まれるにあたってもう一人欠かすことの出来ない存在がいたようだった。それを教えられたのが、交流戦の後日。与に身に覚えは全く無かったが、少なくとも彼女は与の誕生に深く関わりを持っていたらしい。後に渡された調査報告書の関係者一覧のところには、ちゃんと自分の名前が載っていた。

 

――天与呪縛保持の否定による、天与呪縛からの解放。

 

 簡単な文章だった。だがこの意味を正確に読み取ったのは他でもない天与呪縛を持っている人たちであり、この簡単な一文を叶えるのがどれほど難しいことかを読み取ったのもまた、彼らだった。

 生まれつき持ち得るものなら、生まれる前に剥奪すればいい。

 恐らくそういう理論のもとで、与の母親に接触したのだろう。手帳に書かれていた内容からすると明らかに深夜の病院に対して不法に近い侵入をして接触したようだが、何かしら騒ぎになったようでもなかったらしい。きっと記憶の阻害に関する力が上手く働いていたのだろう。

 任務の帰りに寄った東京校の学生寮の、職員用に設けられた区画。希望すれば職員でも入居できるという其処に身を置いているという彼女は、訪ねてきた与の姿を見て目を細めた。目を細めると同時にほんの少し上がった口角からして、きっと微笑んだのかも知れない。

「きみが、与かな?」

 はじめまして、と話す目の前の女性は、目の前に居るはずなのに存在感が薄い(・・)。ありえない話だが、彼女の後ろの景色が透けて見えるんじゃないかと。そんな馬鹿げた事を考えてしまう程度には、存在感というものが欠如していた。

 廻矢鼎(めぐりやかなえ)。報告書の主要内容に書かれていた、事の顛末のほぼすべてを知っている人物。

「……話せるんだな」

「ああ……、しばりをといたんだ」

 彼女を保護してから改めて書かれたレポートによれば、彼女は四つの縛りを己に課していた……いや、課すことになったそうだ。そのうち一つに「呪言以外の言語を話せなくなる」というものがあった。「つたくてすまない」と謝罪をするその喋りは、確かに淀みこそあれ、人生のほとんどを喋ることが出来ず生きて来た人間の物にしては十分滑らかだった。

 どうぞと招かれた部屋は自分たちの寮とよく似ていたが、明らかに物が少ない。いかにも「借りて住んでいる」といった感じで、私物の少ない部屋だった。

「よんでおいて、あまりもてなせなくてわるいね」

「いや。俺もアンタの事は気になっていたから、ちょうどよかった」

 報告書を上げられてから、ずっと気になっていた。

 与幸吉という存在を生んだのは、間違いなく血のつながった母だ。それだけは、違えることが無い。だが同時に、この人が居なければ自分はこの体で生まれることは無かった。もっと突き詰めれば、あの手帳を書いた彼女の母親が居なければいけなかったが、与にとっては、自分を直接掬い上げた彼女の方に興味があった。

 報告書によれば手帳の内容は種類によって事細やかに内容が記載されたり、あるところは杜撰だったりと、全てが綿密というわけではなかった。与の項目は、割と杜撰に書かれていた方だった。場所である病院については非常に細やかに書いてあったが、与に関する内容は自分が本来だったら持ちえる恩恵と、その対価の縛りについてだけだった。

 右腕と膝から下の肉体の欠如。そして腰から下の無感覚により自ら動くことが出来ず、皮膚の極端な脆さのせいで常に毛穴を針で刺されるような痛みを感じる。

 本来ならば、そんな肉体で生まれていたらしい。そしてその代償として得られるのは、広大な術式範囲と実力以上の呪力出力。

 決して釣り合ってるとは思わない。天が一方的に与えるものと奪うものが釣り合っているか否かの話ではなく、一人の人間として、これを自分が持っていたかと思うとぞっとするという意味で、その縛りと恩恵は明らかに釣り合っていなかった。

 両足を持たずに生まれて来たというだけで味わった不自由はたくさんある。だからこそこれ以上の不自由を科すだろうその縛りは、ある意味とても身近で、恐ろしいとすら感じた。天与呪縛を持っている真依の姉も、伏黒の父も、この内容には流石に首を振ったほどだ。

「わたしがきみにあったのは、きみが、ははおやのたいないにいたころだ。だから、のろいをかけても、あうことはできないだろうとおもっていた。だからあえてうれしいよ」

 かつて交流戦で邂逅した時、吉野順平に一回目(・・・)だと言われたことがあった。あの時、吉野の考え方自体は間違ってはいなかった。与は五回目(・・・)ではあったが、一人目(・・・)に間違いはなかったからだ。そしてその意味を誰よりも重く捉えているのは、きっと鼎の方なのだろう。

 与は、報告書を受けてからずっと気になっていたことを尋ねてみた。

「気になっていたことがあるんだ。俺の右腕が欠如しなかったのは、どうしてか分かるか」

 手帳に書かれていた日付からして、呪言を掛けられたのは生まれる数日前のことだった。呪縛を持たなくなったから、感覚を取り戻すのはなんとなく分かる。皮膚が人並みに丈夫になったのも、奇跡的だとは思うが理解はできる。だが呪縛を持たなくなった瞬間から、突然手足が生えてくるとは思えない。現に与は両足は持ちえなかった。だが、本来失うはずだった右腕はどうしてかきちんと存在していた。

 両親は足の事は生まれる前からわかっていたとは言っていたが、腕の事は何も口にして来なかった。だから知っているとすれば、鼎くらいしかいないだろうと与は思っていた。

「あいにくと、わたしにはわからない」

 首を振る彼女に、冷静に考えれば分からなくて当然だと自分の問いを戒めた。

 彼女が呪言を掛ける前にエコー写真を見たわけでもない。呪言を掛けてからの経過を観察したわけでもない。そもそも、天与呪縛を予め持ち得ないように細工を施すなんて前例がない。そういう状況下で、やらざるをえなかったとはいえ、彼女は為すべきことを為したに過ぎなかった。専門的な知識もないだろう。こればかりは問いかけた自分の方が配慮が足りていなかった。

 しかし鼎は顎に手を持っていくと、なにか考えてから与のほうを見た。

「たしかに、わたしはのろいをかけた。だが、わたしがなにかさいくをしても、きみをうんだのは、まちがいなくきみのははだ。だからそうだな……、きみのみぎうではきっと、きみのははがあたえてくれたんじゃないか」

 出会って直ぐにみたぎこちない微笑みよりもずっと、情の宿るそれ。優しさだけではない、もっと別の情を滲ませるそれは、一回り以上歳が違う相手だからこその物だろうか。だがあの報告書にあったように機械的に全てをこなした人がするには、余りにも柔くて、本当にこんな人があんなことをしたのだろうかという疑問すら浮かんだ。

 それからぽつぽつと会話をしてから、彼女の方から終わりを切り上げた。帰り際に無理を言って済まなかったと改めて謝罪した彼女は、「できればでかまわないんだが」と前置きをして、一切の呪力を込められていない、他愛のない望みを口にした。

「さいごに、なまえをきいていいだろうか」

 名字の事を聞かれているのではないということは、すぐに分かった。

「幸吉。『幸』せに『吉』と書いて、幸吉」

「こうきち……」

 音を確かめるように与の名前を紡ぐ姿は、どこか、儀式のようでいて。つい先ほど会ったばかりのはずなのに、どこかむず痒い気分になる。まるで母親に自分の名前を呼ばれるような、そんな、もう遠く久しくなった記憶に、彼女が重なって見えた。同時に、彼女の視線に宿る情の名前に、心当たりが出来た。

 慈愛。

 親が自分の子供に対するようなそれは、血の繋がらない与と鼎の間には……ましてやつい小一時間前にあったような人間に向けるものではないような気がした。だがどうしてかその柔く温い情を抱かれて、その情を向けられて、嫌な気分は無く。むしろ、向けられるそれに、擽ったい気分になる。

「いいなまえだ。とても」

 そうして微笑んだ彼女の笑みに、どうしたって胸が苦しくなった。

 一言九鼎(いちげんきゅうてい)という言葉がある。「一言が九鼎のように重みがある」という意味の言葉で、九鼎とは、かつての古代中国の王権の象徴の道具だった。

 言葉の真意は異なるはずだろうに、その言葉はどうしてか彼女の術式によく似ていて。何より、彼女がこれまで支払って来た対価に比例するように重たく強くなった言霊をよく表しているようで。まるで、名で体を表すように名づけられた名前のようだと思えてしまって。

 透けてしまいそうな淡い存在感で彼岸と此岸の狭間に立つようなこの人に、この人の人生に、嫌と言うほど似合ってしまう。そんな風に思えて仕方が無かった。

 

 

 両親について憶えてることはほとんどない。だがなんとなく爺ちゃんから聞いていることがあった。俺の母ちゃんは俺を産んで一年くらいで事故(・・)で亡くなったこと。それが事故ではなく事件であったと知ったのは、爺ちゃんが死ぬ間際。俺にそう教えてくれた。それからあれこれ忙しくしている内にその話なんて忘れて行って、それを思い出したのは順平が拾って帰って来た手帳の内容を五条先生たちが暴いてからだった。

 それから夏油先生が件の呪術高専に連れて来て、早一カ月。名目上は「保護」という名前で高専の中で生活しているその人の方から、昨日接触があった。正確には順平を通してだけど。

「あのさ、鼎さんが悠仁と会いたいって言ってるんだけど……」

「かなえさん?」

「夏油先生が連れて来た人」

 伏黒の言葉で、頭の中に相手の顔が浮かんだ。廻矢鼎。それがあの人の名前だった。どういう意図か手帳に書かれていたその名前から、先生たちがあの人の情報を突き止めるのはホントに直ぐだった。先生たちに言わせると、それまで本当に尻尾を掴ませなくてどうやっても捕まえられなかったらしいから、手掛かりを見つけた瞬間あっさりと尻尾を掴めてしまったのがなんとも言えない感じがするって言っていた。

 高専非所属、詳細不明、素性不明。でも間違いなく、高専関係者の命を何人も救ってるらしい人。けれども俺の母ちゃん殺しているのも間違いなかった。

 人を殺すことは良いことだとは思わない。相手がたとえどんな悪人であったとしてもだ。「殺す」という選択肢が常に自分の中にあるという状態に慣れるのは、俺が俺でなくなるようで嫌だった。ただ、それを他人に押し付けるつもりはない。

 でもなんというか、記憶にない存在とはいえ自分の肉親を殺した人には、どこか冷酷で人を殺すことを躊躇わない「悪人」で在って欲しい。それは多分、あの真人の隣に居たっていうその人への偏見で俺自身が抱える、ちゃちな願い。その人が真人を祓ったことを分かっていても、どこかそうであってほしいみたいな気持ち。そんな願望に気づいてしまったのは、その鼎さんに初めて対面した時だ。

「初めまして。知っていると思うが、廻矢鼎だ」

 何処か覚束なさそうな言葉を操りながら話す鼎さんは、ついこの間まで言葉を十全に扱えなかった。狗巻先輩と同じように呪言を扱うらしいが、全貌は詳しく知らない。彼女が持つ背景も、あまりよくは分からない。最初に気づいた順平は、その推測についてあまり話したがらないし、推測してるだろう先生たちも口を噤む。恐らく全てを正確に理解しているのは本人である鼎さんと、そしてもう居ない真人くらい。真人が全部知ってるっていうのは順平の言葉だったから、ある意味信用が出来た。

「君とは、一度でいいから会っておきたかったんだ」

 どうぞ、と寮の中で鼎さんように割り当てられた部屋に招かれる。部屋の中は俺に割り当てられた部屋の最初の頃のままのような状態で、私物らしいものはほとんど無い。ただ職員用なのか自分たちのものの倍は広い部屋の中に、応接用なのか二人用のテーブルセットが備えられていた。恐らくは、私物。ただ部屋の無機質さにどこか浮いているようには見えた。

 促されるままに片方の椅子に腰かければ、対面に鼎さんが座る。

 年齢は、五条先生の少し上。ちゃんと呪術高専に通っていたら先輩だっただろうその人は、どことなく狗巻先輩と似ていて。でも口元にあの人にあるような模様は無くて。そして目の前に居るはずなのに、ふとすれば消えてしまいそうなほど存在感が薄い(・・・・・・)

「私から君に話せることは多くないが、聞きたいことには誠実に答えさせて貰おうと思って呼んだんだ」

 暗に気になることがあるだろうというようなその言葉に、真っ先に思ったのは母ちゃんの事だ。

「母ちゃんを殺したって、本当?」

「ああ、事実だ」

「じゃあどうして殺したのかとかって、聞いて平気なやつ?」

 鼎さんはしばらく黙ってたが、やがて口を開いた。

「答えることに異論は無いが、聞いても、君が納得できるかは分からない」

 それでもいいと了承すれば、鼎さんは淡々と話してくれた。

「彼女を殺さなければ、私の命が危険に晒されたからだ」

「それは俺の母ちゃんにってこと?」

「いや、私の縛りによってだ。君の母親に関しては私とは完全に無関係の人物だった」

 じゃあなんで殺したのか。そういった問いが俺の中に浮かび上がることを分かっていたように、鼎さんはそっと口角を上げた。微笑む、というよりはあまりに薄っぺらい笑みだった。

「深くまでとは言わずとも、私の事情を君もある程度は把握しているだろう。私は手帳に書かれた内容を必ず遂行させなければならなかった。そしてその内容の中に、君の母親が含まれていた。それだけだ。私には、君の母親を殺す理由も、何故君の母親で無ければならないのかも分からない」

 だが私を恨みたいのなら、好きに恨んでくれて構わない。鼎さんはそう言っていた。

「それはきっと、私に対する正当な感情であり、私が受け止めなければならない罰だ」

 そうやって言いながら目を細めた鼎さんは、多分、微笑んだんじゃないかなと思った。

 それから帰り際、部屋を出て行ことしたときに、思い出したように鼎さんに引き留められた。

「そうだ。虎杖くん」

「なに?」

「君の中の彼に、謝っておいてくれないか」

「宿儺に……?」

 どうして鼎さんと宿儺に関わりがあるのか分からず困惑していると、鼎さんは何かを思い出すように目を伏せた。

「本意ではなかったが、恐らく彼と関わりの深かっただろう人を殺してしまったんだ。本当に関わりがあったかは分からないけどね」

 済まないことをしたとは思うけど、正当防衛だったんだ。そういって口を引き結んだ鼎さんが何を考えているのかは、俺には少しも想像がつかなかった。

 

 

「君に、謝らなければならない」

 鼎が順平にそのように切り出してきたのは、初めての事だった。

 深夜。眠れないと部屋を出て来て、共同のスペースで休んでいた時、鼎さんに遭遇した。平時の半分ほどしか電源がつけられていない蛍光灯の下、薄暗い空間に立つ鼎さんは、自分がかつて知っていた頃よりもはるかに気配が薄くて(・・・・・・)、その事実に胸が軋んだ。その要因に自分が居ることが、きっと罪悪感の原因だ。

「君の母を救えなくて、すまなかった」

 鼎さんはもともとあまり表情が動かない人だ。感情に乏しい人でもある。そういう風に自分を律したと彼女が零したことがあったが、彼女の人生を思えば、感情を失った方が心持ちが楽なのも分かってしまう。順平の歩んできた人生とはまたベクトルの違う、壮絶な半生。それに共感できるわけでも痛みを理解できるわけでもなかったが、ただ哀しさを感じる。

 しかし彼女の少し下がった眉に、彼女の言葉に滲むその感情には、確かに罪悪の情があった。

「いいんです。結果論ですから」

 もし、彼女が手帳に書かれたこと以上の事を行ったのなら、母は生きていただろうか。母が生きている未来は存在しただろうか。それとも手帳に母のことが書かれていれば、鼎は順平の母を助けただろうか。

 沢山仮定の話を思った。今この瞬間もそうだし、今に至るまでの端々で同じようなたらればを考えてきた。だがそのどれもが不毛だった。たらればの話以上に虚しいものもない。二度とどうしようも出来ないことに関しては、なおの事。

「それに母さんのことは、僕への罰みたいなものですから、鼎さんが背負う必要はありませんよ」

「そうか……」

 彼女が手帳に書かれたことに忠実に動いていたことは知っている。そしてその手帳の中に順平の母親の名前が無かったことも分かっている。彼女に課せられた目的はあくまでも真人を祓うことであり、真人の手から順平を守ること。そこに順平の母親を守るという余地は無かった。

 もし、母を守るということが記載してあったのならば、きっと鼎さんの今は存在してない。そういうたらればの話の末に引き起こる未来を考えるのも、あまり好きじゃなかった。

 母が死んだのは、自分のせいだ。少なくとも順平はそう思っていた。自分が利用されやすい存在だったからこそ、ああして母は死んでしまった。ああして術師を恨んでしまった。そうして自分も、命の危険に晒された。だからこそ、自分の命を助けてくれた鼎に対して恩義を感じてはいても、どうして母を救えなかったと詰る気持ちは無かった。あの瞬間自分の命が助かったのは、紛れもなく鼎のお陰だった。それは絶対に事実だ。

 共有スペースに設置されている自販機で買ったらしいペットボトルの水を持って立ち去ろうとする鼎は、薄暗がりの廊下に透けて溶けるようで、思わず声を掛けた。

「鼎さん」

 順平の方へ振り返った彼女の表情は相変わらず凪いでいて、その表情が何処か真人と対峙した時の彼女のそれとよく似ているような気がした。

「今度、手帳お返しします」

 あの日拾った彼女の手帳は、ずっと順平が持ったままだった。一度精査するために五条達に渡したものだったが、結果的に拾った本人である順平の元に返ってきていた。

 報告書が上がってくる前に順平は個人的に、手帳の塗りつぶされて読めない四つの内容について鼎に聞いたことがある。鼎は躊躇うでも嫌がるでもなく、答えてくれた。随分と前に読まされた文章だから正確なものではないかもしれないと言いながらも、おおよその内容が分かるようなものを教えてくれた。聞かねば良かったとは思わない。ただ、その四つの縛りによって縛られて生きて来た彼女自身が、その縛りに対して恨みも、怒りも抱かないことが悲しかった。魂と一緒に、感情まですり減らしてしまったのではないかと、そんなことすら考えてしまった。

「……いや、君が持っていてくれ」

 私には、もう必要ないものだ。

 そう言って今度こそ立ち去った鼎さんの気配は、薄暗がりに溶けるように消えていく。彼女の名前を知ったことで思い出すことが可能になった彼女に関する記憶は、どうしてか曖昧な微笑で彩られてばかりだった。

 

 

 夜明けから暫くした、人気のない砂浜。もとより人が多く訪れるビーチではないが、時期のズレた今は波に乗ろうとするサーファーの姿もなかった。その砂浜を歩きながら、時折水平線の向こうを眺める。隣に立つ鼎が持っているティッシュケースほどの木箱には、彼女の母の粉骨が入っていた。

 高専の外側に出ることを認可された彼女が一番最初に望んだことは、母親の亡骸を葬ることだった。

 彼女はあまり人に自分の母親について話したことはない。ただ彼女という一人の人の人生の根幹に、彼女の母親が深く関わっていたことは夏油たちの中でも暗黙の了解となっていた。

 母親の素性は高専側で洗っても、その全貌が見えることはない。死んだ人であればなおのこと。鼎と同様に非高専所属の術師であり、完全に非術師に紛れて生活し、そのくせ高専に所属する夏油たちの行動を「未来のこと」として把握していた人物。術式が何であるかも、もはや今になっては分からない。恐らく誰よりも彼女と深く関わっていた鼎ですら、母親の術式を把握していなかった。

 砂浜を歩くのに似合わない靴で砂を踏みしめながら、海辺を歩く。

「あの時、タバコを吸い終わったら、死に場所を探そうと思っていた」

 その言葉に言い様のない怒りを覚えるが、そういうやつだと思い込み感情を抑え込んだ。

 ついこの間まで呪言以外を喋ることが出来なかったせいか、鼎の話はどこか突拍子が無い。一から四とある話の流れの中で突然三か四のあたりから話を始めるような状態だ。

「頼むから、今はやめてくれよ」

「ああ。それは私の役目には無いからな」

 冗談なのか本気なのか分からない微笑みに、夏油は肩を竦めた。

 夏油傑という人間にとって、廻矢鼎という人間に対する感情は、およそ一言では言い表すことができない。

 一度目の出会いは、高校に入って直ぐ。その時に掛けられた呪いがなければ、恐らく夏油はずっと自分の術式に苦労をさせられていたはずだ。彼女に遭遇する前に取り込んだ呪霊の味は、今思い出してもおおよそ人間が食べるものの味をしていなかった。

 二度目の出会いは、薨星宮の中。目が覚めた頃には、助けたいと思っていた少女はとっくのとうに天元と同化していて、夏油も五条も、ただその情報を伝え聞いただけだった。誰がやったのかは、夏油と黒井とっては明白だ。少女を追いかけて来てた伏黒甚爾との関係性は全くなく、完全に第三勢力としてあの任務に登場し、天漿体の同化を完遂した存在。恐らく天元は彼女に会っているだろう。だがどういった会話をしたのかも分からない。聞けば答えてくれるだろうが、聞こうという意識にはなれなかった。

 三度目は、地図にも載らないような村の中。あの時鼎が止めなければ、夏油は間違いなく村の住人を手に掛けていたし、その後の夏油の人生も今とは違う結果になっていた。一瞬でも殺そうと思えるほど失望した相手の醜悪なさまを見る度に、掛けられて外れることの無い呪言に怒りを覚えることは山ほどあった。けれどもその楔の様に打ち込まれた呪言が、今術師として生きる夏油の根幹にあることは間違いなかった。

 祝福と呪い。全く同じ言葉を紡いだはずの呪言で夏油に与えられたのは、全く異なる種類の呪いだった。だからこそ、憎みきることも、許しきることも出来ない。彼女は彼女の意思とは別に、与えられた命令に忠実に動いただけだ。その命令の中で彼女と夏油の道が数回交わっただけだ。

 きっと、どちらかの感情に転んでしまえばきっと楽なのだろう。ただそうなるには、彼女が与えた祝福も、彼女が与えた呪いも、夏油の中では大きな意味を持っていた。

 ある程度人気のなさそうな場所を選び、鼎が裸足になって海の中へと進んでいく。季節の外れた海は肌寒いだろうに、そういう様子は少しも見せない。

 箱の蓋を開けて粉となった遺骸を海に零す彼女の顔に、懐古はない。悲しみもなかった。怒りや憎しみというものもない。ただその光景は一種の儀式めいていて、どこか近寄りがたかった。

 打ち寄せる波が引き際に、粉骨を連れて行く。そうしてまた寄ってきた波が砂浜に落ちた骨粉を飲み込んで、また沖へと帰ろうとする。

 不意に風が吹いた。海へと向かって吹く強い風に舞い落ちる粉が煽られて、同時に、彼女の気配が揺らぐ(・・・)。本来ならば、絶対にありえないことだ。

 人間の魂には、21gの重さがある。

 それはあくまでもジンクスであり、科学的根拠はない。だがそのジンクスに則って、魂を二十一分割されて、二十一分割したその一つ一つを、人の為に消耗していった彼女。残されたのはたったの一欠片だ。

 あの時、死ぬのを引き止めた時に、彼女は1gを代償に自分にかけられた縛りを解いた。そうして残されたのは、たったの1g。一欠片だけ残された魂しか持たない彼女の気配は誰よりも薄く、誰よりも空気に近い。魂と存在感の関係はそれほどまでに密着しているということなのだろう。それにしたって、何かをきっかけにそのまま大気に溶け出してしまうのではないかと、そんなありもしないことを考えてしまうほどに彼女の存在感は薄かった。

 彼女が施した呪いは大抵、一人に付き一回になることが多かった。しかしその中で、夏油だけは例外だった。

 彼女が対価として差し出した20g。そのうち他者に与えたのが15g。その中の4gが自分に与えられて、こうして夏油は術師として生きている。結果的に彼女に残されたそれよりも多い量を受け取って、彼女が呪縛から離れても尚、夏油の中に残り続ける呪いと祝福(のろい)を享受しながら。

 そしてまた、海風の空気に溶けそうになる彼女に、自分に与えられた4gの重みを考えた。

 

 

 

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