少しでもおっと感じていただけると幸いですー。
通話履歴に赤い文字があることはそれなりにある。
だが独り身故か大概が見知らぬ番号であれば、ましてやそれが身内のものであるというのは些か珍しかった。
家族グループを作っているメッセージアプリも使わないで父が電話かけてくるのは最近なかったなと思ながら私は薄い端末をそっと耳に当てる。
そういえば家だしスピーカーでも良かったなと遅まきに気付いた私は、どうやら中々動転していたようだった。
『ごほ。よう、聡。元気かー?』
「うん。大丈夫。そっちはどう?」
『あー。最近は母さんもオイラも前よりずっと元気でだな……』
ヘビースモーカーの父の話し出しの癖であるごほんという咳一つを電話越しで聞くのに懐かしさを覚えながら、私はしばらく彼の曖昧な現況を聞き及んだ。
だが、昨年から高齢者の年齢に片足突っ込みだした老いた父の話は横道に逸れてから中々終わらない。
吸わないただ浴びるばかりだった紫煙の味の違いなんて分からない私は、次第に焦れて本題を求めて問い質した。
「うん。健康に気を遣ってタバコを変えて酒減らせたのは偉いよ。で、結局昼に電話かけてきたのはどうしてだ?」
『ああ。そうだオイラ眼科の先生に言われてさ。来月右目の手術しなきゃなんないんだってよ』
「手術?」
『そうだ。お医者さんの言うには白内障、っていうもんらしいがなあ。なんだか知らん間にオイラの目が濁っちまってるみてえなんだ。参ったよなあ』
「ええ? それってかなりやばい病気なんじゃねえの?」
父はきっと事態に焦って通話までしてきたのだろうに、今はやけに落ち着き払っている。
いっそ他人事のように語る彼の口調が手術という大事と結びつかなくて私は逆に焦ってしまった。
もしや実の目だけではなくそれこそ嫌な現実が見たくなくて目を逸らしたために、見えなくなってしまっているのではないかと、訝しんで。
電話越しに、彼が痰をどこかに吐き捨てる音が聞こえる。慌てる私にむしろ言い聞かせるようにして、父は続けた。
『いやさ。正直オイラもびっくら仰天だったさ。これはいよいよ失明かなって、思って間の待ち時間におめえに電話掛けちまったくらいさ。繋がんなかったけどよ』
「ああ。だから履歴見て私も心配したよ……」
『あはは。そりゃすまねえな』
あくまで陽気な父に、私はそろそろ苛立ちすら感じ始める。
呑気と几帳面は中々歩調を合わせがたいが、しかしそれにしたって悠長ではないか。
私もこれまでも瞳の酷使にて、メガネのレンズ越しに世界を見てきた身ではある。
だからこそ、目医者にて視力の計測は慣れたもので、あの英語のシーのような環状記号がランドルト環というのだって覚えたくらいだ。
とはいえ、白内障という病気にまで詳しくはない。
それが老人に起きやすいもので放って置くとどんどんと目が見えなくなるというのは、白い壁に貼ってあったレンズを擬人化したようなキャラクターの説明で識ってはいるのだが。
だからまあ、私はよく分からない、それこそテレビ通話にもしていないために父の顔色も見えない現状が不安である。
何せ、私はお医者様ではなく、ただのしがないフロントエンドエンジニア。
人の身体に起きた間違いを見つけるより、機械言語の類に発生した文字の違いを見つける方がお得意な人間だ。
前の恋人にも最近気になっていた人にも、どうしてこんなことも気付かないのと言われるくらいに気付けない、それこそ私こそ白内障なんじゃないかと見えていない男である。
それがどうして、これほどまでに父の失明を不安がるのか。
金遣いの荒い気分屋のあまり好きでない肉親。長子故にその介護を任せられかねないのは恐ろしくはあるが、しかしきっとそれだけがこの不安の原因ではないのだろう。
よく分からなくなった私は、だから苛立ちをぶつけるようにこう聞いてしまう。
「で、何なんだよ。その手術っての大丈夫なわけ?」
『あ、ああ。スマンスマン……何だ心配させちまってたか。大丈夫だって。全然早く気づいたから治すのも問題ないって、手術も日帰りさ』
「はぁ? 入院とかなくて大丈夫なのか?」
『いやあ。悪くなってんのは右目だけみたいでなあ。手術は30分ありゃ十分で、むしろその後にしばらく目薬とかしなきゃなんねぇのが面倒くせえくらいみてえでさ……』
「……そんな、簡単に目ってよくなるんだ」
『ごほ。ああ、医学の進歩ってのはすげえよなあ。むしろ目はずっと良くなるらしいぜ?』
「はぁ……まあ、そりゃ良かった」
しかし、いくら私が勝手に怒ろうとも電話越しの呑気は一向に変わらずに、そのうち父の大体の説明で気持ちを落ち着かせていくのだった。
吐き出したものが、シンクを叩く音がする。相も変わらず、父は電話する時に排痰をしやすいように、キッチンの小さな椅子に座しているのだろう。
つまりこれは相変わらずの父の、ちょっとした変事。そういうことであり、私の心配は最早余計なことですらあったのだろう。
私はため息を禁じられず、しかし知らずこの乾いた唇は結論として良しと結ぶ。
父は、そういえばという風に思い出してこう続ける。
『ああ、そうだ。そういやその手術ってのはよ。人工的なレンズをそのよ、オイラの濁ったすい、すいそーたい? ってのと入れ替えんだってよ』
「……水晶体、か?」
『だな。いやあびっくりしたぜ。今の技術ってのはちょっと怖いぐれえだな。でもまあ、先生からは膝に人工関節入れるみたいなもんで問題ないって……』
「父さん」
『なんだ?』
私はそれを聞いて反射的に言葉を出した。それが父という単語でありまた縋るような色を持っていたのが私には最早摩訶不思議であったがしかし口は勝手に続きを紡ぐ。
「その水晶体って、返ってこないよな?」
『ん? ああ。そりゃ濁ってんのなんて要らねえしよ……』
「そう、だよな……」
そして、父の結論に気を落としてしまった私は中々次の言葉を出せずにそのまま黙してしまう。
確かに、父の病気が治るのは素晴らしい。だが、それによって私をずっと嫌でも見つめてくれていた彼の部分は損なわれてしまう。
そんなのどうでもいいという冷静な心を、しかしどうしようもなく湧く寂寥感が邪魔をする。
「元気でな」
『ああ。お前もな』
私が独り立ちしてしばらくのこの頃は家庭円満、父の性格も良化著しく。だが、それは思い出と中々繋がらず、そしてそれが今はっきりと感じられて。
「よくないな」
ひょっとすれば、私は父にも濁ったままでいて欲しかったのかもしれなかった。