どうかほっこりしていただけると嬉しいですー。
猫の手はとても小ぶりだ。その上に肉球という愛らしい滑り止めが広範囲についているものであるから、基本握るという動作には向いていなかった。
彼らはその小さな手のひらにて、歩く、跳ぶ、殴る。そんなことをのんびりと続けながら、猫たちは僕らをその大きな瞳で覗くばかりだ。
しかし、だからこそ、だろうか。
僕の愛猫である白猫の「マサキ」は、彼と同じくらい大好きな野球の自主練習のためにとバットとグローブを握り込んで庭に出る際には、にゃんと言って毎度付いてくる。
二股とまではいかないけれども尻尾の先端が癖っ毛でちょっと別れている様子の長寿の彼は、素振りやキャッチボールを行っている時にばかり僕に興味を示すのだった。
「なんだ、マサキ。お前も野球やってみたいのか?」
「にゃあん」
「違うのか? ……でも応援してくれてはいる……のかな?」
「にゃ」
中学生時代はガリガリノッポとあだ名されて、今はそこに肉を付けるようになって暫く。
女子には怖いとすら呼ばれる程のガタイを存分に用いて行う素振りは、自分で言うのも何だがそれなりに迫力のあるものだと思う。
だがしかし、マサキはネクストバッターズサークル程度の距離で庭に放置されている漬物石の上にて顔をしきりに撫でながら眺め続ける。
雨の日は流石にマサキも来ないが、それでも終わるまでずっとよく飽きないものだと僕は弟に言ったものだが、それを言うなら風邪引いても毎日素振りしてる兄ちゃんの方が異常と答えられた。
なるほど僕は上達が楽しいから続けているばかりであるが、ならばマサキもこの庭にて僕が道具を用いて駆け回るだけの日常に楽しさを覚えてくれているのだろうか。
ならば、それを続けたいと思うのは当然であり、そして出来るならばもっと楽しくなりたいと欲張ってしまうのは人の常。
素振りの回数が折り返しの二百を数えた頃に、思わず僕は口から逃げていきそうだからとあまり語らない夢を呟いてしまった。
「プロ野球選手に、なりたいよなあ……」
「にゃん」
「あー……でも、そうなると中々マサキも僕の練習風景見れなくなるな。お前、意外とテレビとか興味ないしなあ……僕が何時か映ったとしてもフードに夢中になってそうだ」
「にゃあ」
猫の気のない返事のために、独り言をするのはもはや癖だ。それでもスイングスピードに障りはないものだから、口も軽くなる。
以前友達は甲子園で活躍することが夢と熱く語っていた。僕も是非甲子園の地にて白球を追いかけたいというのは正直な望みだ。
だが、僕は既にその先ばかりを願ってしまっていた。
そう。幼い頃から僕の夢はプロ野球選手。欲望にキリはないとはいえ、自分の身の丈を大きく越えたそれを抱き続けるのは中々に大変なものではある。
しかし、一念岩をも通すという座右の銘とした言葉を信じるならば、努め続けるのはそう難しいことではなかった。
「よし……戻るか」
「にゃ」
とはいえ、永遠に頑張るというのは無理がある。
疲れに振るバットの先端が下がってきた頃合いにて、僕も素振りは止めて整理運動を行った。
一度壊した肘を学びに、身体を労ることだって覚えている。だから、無理はしないとマメだらけの手を握って開いて。
「いつもありがとう」
「にゃん」
思いぶつけてばかりの道具には決してしない優しさを持って、大切な家族の一員を撫でるのだった。
さて。
僕は夢を叶えたかった。だが、人は夢を叶えるためだけに生きている訳でもないと、ベンチを温めることすら満足に行かない成績を続けたことで何時しか僕も気付かされてしまう。
自分に対して一番に熱心だったネコ科の動物を掲げるとあるプロ野球球団。甲子園球児にもなれなかった成績ぼちぼちの大卒がそこに入団出来たのは、とても幸運だったとはそれでも理解していた。
しかし、願いはこの大きめの手に掴んで、どうすれば良かったのだろう。
頑張りは当たり前のように続けて、しかし僕はプロ野球選手であり続けられなかった。
戦力外とされた後も、トライアウトを受けるなどしたが決して掴んでいた地点へと戻ることは叶わない。
海外から移籍のオファーが来たが、その頃にはもう気力が萎えてしまっていてろくな返事もできずに、話は立ち消えした。
今思うに、僕の中のプロ野球というのは日本の国内リーグだったからから迷ったのかもしれないが、勿体ないことをしたものである。
野球が未だに好きであるならば、一も二もなく飛びつくべきだったのに。
条件はよくなくても、努めれば或いはと思えなくなってしまったのは果たして。
僕は久方ぶりの縁側にて毛艶もなくなり癖毛ますます悪化させたマサキを撫でながらこう呟く。
「そもそも、僕はまだ野球が好きなのか?」
「……にゃあ」
「そっか」
耳に届く愛猫の返事も小さい。だがそれが肯定の響きであることはどうも嬉しいものだった。
僕が家を空けていた十年間。その合間にプロ野球中継が始まる際はテレビの前に陣取ることをマサキは覚えたらしい。
だが、僕が家に帰る前にはもう、それを忘れたかのように自由に戻っていた。
今のマサキは、僕が絡まない野球というものすら気にしなくなった気ままな猫。それが寂しいと家族は口々に言うけれども。
「でも、僕はやっぱり同じくらいマサキが好きだよ」
「にゃ……」
少し二股ぶりが悪化しているとはいえ、しかしこいつも妖怪ではないただの猫。
老いに勝てずに何時かはマサキだって手のひらから溢れるように亡くなってしまうのかもしれない。
僕は、一度夢を掴んだが掴み続けられなかった。ならば、そもそも自分の手は猫の手なんだと諦めて最初から掴もうとしなかった方が良かったのか。
「頑張って、良かったよ」
「……にゃん」
どうしようもなく、叶った夢は花と育てることなど出来ずに破れて、この手から離れた。
でも、それでもこの撫でる手が残っているのならば。
「僕は次の夢を、見るよ」
「……」
「寝ちゃった、か」
それこそ「寝子」とも言われるらしいネコ。しかし老境の彼はもう大概寝てばかりで、しかし僕の近くから離れるのを嫌がる。
これはきっとマサキなりのエール。そんないじらしさに、勇気づけられなくて何が家族だ。
「さあて、プロ野球に携わる道は他に何があるかなあ……何時か勉強してコーチにでもなれれば御の字か」
僕も夢は、見続ける。
そしてマサキも今終わりを前に夢を見ていることだろう。
「ふふ」
どうしてか彼の小さな手は夢見に今ぐっと握り込まれて、それが野球バカの僕にはまんまるの白球に見えてしまったのだった。
「よし」
そして久方ぶりの笑みをくれた彼に、僕は今度はプロ野球コーチになるためにと再起をするのである。夢の続きをまた掴むためにも。