獣と、人。両者に違いは多々あれども、その根底までは変わらない。
人の背筋が幾ら伸びて飛び掛るのに不慣れになっても、理性によってその獣性を慣らしていても、ふとした瞬間にたがが外れることがある。
暴力は拳を使った殴打に始まり、それで駄目とあれば果てはその衰えた牙で持って応戦するに至ってしまう。
憤怒や危険。往々においてそのような特殊な場合でなければ顕れはしないが、人は時にその皮を破って獣と成ってしまうことがあった。
また、人を獣と化してしまうものの内に、狂気という要素がある。
いや、憤怒や危険のような内外の影響を受けて、狂気の果てに獣性へと到達するのが常道であるのかもしれない。
そう、狂気と獣はこと近いものである。糞尿を垂れ流す狂気の人は、理性を失くしているがために見境がない。その様は、まるで獣。人は枠の中でしか存在し得ない、そんな事実の象徴のようであった。
さて、しかし狂気を持つものであっても、常に狂い続けるようなことはあまりない。
狂気は、秘められるのが普通である。何せ、社会は狂気を許容していないのだから。他の害になるようなそんなものは、否定されるのが常であった。
しかし、何とか折り合いを付けて、影で狂笑し続けているような輩は今も何処かに存在している。
例えば、血を流しもがく様に興奮をしたり、刃を突き刺すことで我を忘れたり、静物を偏執的に愛好するような者がいる。また、服を脱ぎ捨て視線を浴びることを生きがいにしている者だって偶には存在するものだ。
決して、隠蔽されたその存在を否定することは出来ない。社会から外れて間違っているが、それらは確かに有ってしまうのだから。
そして、己に流れる血の業に一喜一憂し、牙を獲物に突き立てるために我を忘れて、満月を偏愛し、衣服を破ってその毛むくじゃらの体を月光に曝すことで生を実感する狂気の獣も、確かに有ってしまったがために否定することは出来なかった。
そうでなければ、どれだけ良かったのだろう。幼き頃より夢想した経験は、高められて彼の生きる糧にすらなっていた。
月に狂わされて獣に堕ちてしまうという、耐え難い事実ばかりが彼の人生までもを脅かす。
「もうすぐ、夜か。ああ、空には太陽が一番似合っているのに」
檻の中で、彼は呟く。天を仰いだことによって、今はぶかぶかと余裕のある手枷と首輪を戒める、大げさな鎖がじゃらりと鳴った。
夕暮れの紅に骨と皮ばかりの体が染められて、一体全体悲壮感漂う有様となっている。彼はそのまま天を呪い、世界が廻ってしまうという事実を否定していた。
しかし、呪われていたのは彼に流れる血の方である。強く脈打ち、次第に鼓動を増していくその血の色は、この夕日と同じように赤く、やがて来る夜のように何処か暗いものであった。
彼の血は、一目見ただけではただの人間と違いはない。しかし、獣のものだと言われても納得してしまうくらいには、臭うものである。
そして、月が満ちることに歓喜して、心臓のリズムから始まり全体を狂わせてしまうような性まで持っているのだ。
狼男の血族。それは、確かにこの世に存在していた。忘れられて、存在そのものを否定されて、薄まり何れは消えていくばかりであるはずであった彼ら。
その残滓が、ここに凝って震えていた。
「嫌だ。神様、お父さん、お母さん。嫌だ、もう嫌なんだよ……誰か、誰か」
そう、彼は何かを嫌って震えている。しかし、孤独な彼を守ってくれるような都合のいい存在はどこにもいない。
抵抗は、あまりに儚いものだった。何せ、大嫌いな彼の血は、力んでどうにか抑えようとする体ごと、勝手に変えてしまうのだから、真にどうしようもない。
「あぁ、今日も誰も、助けて、くれ、なかっタ」
不幸にも、彼はまた満月に狂う。そして魔の力によって、獣に変容してしまうのだ。
まずは月光を浴びることになる、その皮膚の全てから毛が生え伸びていく。次第に、黒毛は空気に触れて、長く真っ直ぐな灰色の毛並みとなった。
そうして、今度は筋肉が盛り上がり骨格を整形していく。低く打ちのめされたかのような鼻は前に突き出て、背中は曲がり、そうして先の尖った耳が彼の頭上でピンと立ち上がる。
辺りに広がっていくのは、強烈な獣臭。彼が変身の間苦しみのた打ち回る様も、次第に失われていった。そこには背中を丸めて苦しげに息を吐く、一頭の獣がいるばかり。
彼の中の人間はこうして一夜の間、死ぬ。その際に味わう自分が自分でなくなるような感覚を、彼は大層嫌っていた。
実のところ狼となっている間も知能は確かに残っているのだ。しかし、ただ本能によって突き動かされているために一度たりとも使われることもなく、発達したままの脳もただ無様を記憶するのに重宝するばかりであった。
もっとも、普段の彼には無法を嫌う心がある。だから、何時か獣の思い出を鑑みたとしても、それは後悔以外の感情を生むことはないだろう。
ただ、変身に際して起こる飢えや渇きをその牙によって満たそうとするのを、拘束によって防ぐことが出来るということだけは、彼にとっては大きな慰めだった。
「ぐるる…………わうっ」
気付けば、空には丸い月が現れている。それを求める本能が、彼に再び天を仰がせた。
毛むくじゃらの顔から覗く蒼い瞳からは、すでに知性は失せていた。だから気ままに暴れたくても、すぐ近くに落ちている鍵を使用するだけの知恵すら使えなくて、ただ鎖の中でもがき回るばかり。
理性から解き放たれた巨大な獣が、しかし強く戒められて、苦しげにわおんと吠えた。