ロシア――シベリアの極北地は豊富な資源が眠る一方で、氷で閉ざされた大地が広がる過酷な世界でもある。
ソ連時代、この地に眠る天然ガスを掘り起こすために、中国移民を多数投入した。
いくつかのキャンプ地跡はその時代の遺物でもあった。
ソ連崩壊後、この地の開発に乗り出す会社は皆無。この地の開発計画は完全にとん挫していた。
天然ガスは常に石油との価格競争にさらされる。天然ガスを高純度に抽出する技術は容易ではなく、特に極北地にその技術を根付かせるためには、氷獄の中に居住区を作る必要がある。
猛吹雪に閉ざされたこの地を開拓するコストは莫大であり、誰もそんなことをやりたいと思わなかった。
天然ガスの最大取引先はヨーロッパ諸国であるが、ヨーロッパを上げてソ連潰しを画策する一派が勢力を強め、ヨーロッパは「地球温暖化対策、環境保全、脱炭素」に突き進んだ。
ヨーロッパの筆頭とも言えるドイツが原子力発電所を増やす方針を打ち立てると、天然ガスの需要は縮小し、多くのエネルギー会社が天然ガスから不動産業へと主要産業を転換した。
しかし、この地に目をつけた会社があった。
グスタフは会社の命を受けて、シベリアの大地にやってきていた。グスタフの部下3人がついてきた。
ヘリコプターで僻地の空港に降り立つと、この先へは自分の足で進むしかない。
パートナーはトナカイだけだ。
「ひでえ場所だ。人間の住む場所じゃねえ。サンタクロースも逃げ出すだろうよ」
グスタフの部下が猛吹雪を払い落としながら言った。
「そうだな」
「グスタフ、なぜこんなろくでもない仕事を引き受けたんだ? おれたちを殺すためか?」
部下が冗談とは思えない様子で尋ねた。この地はそれほどに過酷だった。
しかし、グスタフはフード越しに落ち着いた様子で前方を見ていた。他の者が寒さに凍えそうになっているのに、グスタフだけは目に火が灯っていた。
「いま何℃だ?」
グスタフが尋ねた。
「氷点下70度。小一時間で凍え死んじまう。冗談じゃない」
「そうか」
「ソ連時代に、キャンプ地を作った連中がいたんだろう? あいつらは正気の沙汰じゃねえよ。きっと悪魔だったに違いねえ」
「あの時代は貧民がウォッカを嗜むためには、ここに来るしかなかったのだよ」
グスタフは冷静にそう言った。
「だが、こんなにやべえとは思わなかった。こんなことなら、おれも連中とイギリス行きの便に乗りたかった。ちくしょー、だまされたぜ。自分の会社が持てるっていうから来たのに、こんなところで会社を持つぐらいなら、アマゾン川で大蛇を追いかけたほうがましだ」
命に関わるような極寒、加えて何も見えない猛吹雪で、すべての者がやるせない気持ちになっていた。
しかし、その中でもグスタフだけは落ち着いた様子だった。
「おい、もうダメだ。引き返そうぜ」
誰かがそう言った。しかし、グスタフは引き返すつもりはなかった。
「おい、グスタフ。もうダメだ。死人が出るぞ」
「たわけ、こんなことで弱音を吐くな」
「こんな状況で強気なやつがいたら見てみたいもんだ」
「おれの知るあいつはこの地に裸で仁王立ちをしていたものだ」
グスタフはそう言うと、吹雪の中に浮かび上がった岩を見つめた。ちょうど、グスタフが知り合った超人の背中に似ていた。
「あんだと? そんな人間がいるわけねえだろ」
「たしかに人間ではない。だが、とても臆病な男だった」
「こんなところに裸でいるやつに臆病者がいるかよ」
しばらくして、グスタフ一行はようやく前の会社が途中まで進めていたキャンプ場にたどり着いた。
巨大な岸壁にうっすらとタワーがそびえているのが見えた。
あのタワーから岩場を掘削して、地下に作業場が広がっているという話だ。
だが、この地から人が撤退してからもう30年が経過している。まだその基地が使用できるかは不明だった。
「ようやく着いた。死ぬかと思ったぜ。だが、施設は機能しているのか?」
「ここはもともと軍が核開発のために作ったんだ。問題ないだろう」
「核開発? 聞いてないぜ。ガスが眠ってるんじゃないのか?」
「それは表向きだ」
グスタフはそう言うと、目の前にそびえるタワー目指して岩場を登り始めた。
それを聞いた部下たちはようやくこの地に来た甲斐があったと思った。
「へへへ、グスタフ、とんだサプライズだぜ。つまり、おれたちは核を保有する身になるわけか。それはずいぶんと金になりそうだな」
「一文にもなりはしないよ」
「そのときは、核で脅せばいい」
グスタフらはタワーの手前にやってきた。タワーは岩場の地下深くに根付いていた。
部下らはその様子に圧倒されていた。
「大げさな施設だな。何かとてつもないものが眠ってる予感がするぜ」
「核開発に携われるんだ。政府から莫大な助成金が下りるに違いねえ。おい、行くぜ」
ここまでは、グスタフが先頭に立っていたが、欲に目がくらんだ部下がグスタフの前に出て、そのまま、タワーの入り口を目指した。
グスタフはしばらくその地に立って、タワーを見上げた。
「核か。大きな力だ。だが……」
グスタフは葉巻を取り出したが、とても火をつけられる状態ではなかったので、そのまま投げ捨てた。
「連中はそれを持つにふさわしい男ではない。なあ、バリー」
グスタフは吹雪の中の何かにそう問いかけた。
◇◇◇
部下らはグスタフより先に基地の中を詮索し始めた。
中は暖かく、電源がまだ生きていた。巨大なパイプがあちこちにつながっていて、莫大なエネルギーが供給されているようだった。
食糧庫にもたくさんの食糧が保管されていた。
さらに、部下はある「お宝」を見つけだして、目を見開いた。
「くくくく、すげえ場所だ。世界を手に収めた気分だぜ」
部下はへらへらと笑った。グスタフはその部下のもとに向かった。
「なあ、グスタフ。表向きは社長の人事異動。だが、裏では大統領命令なんだろ?」
「ああ」
「初めてあんたについてきてよかったと思うぜ」
「……」
グスタフは目を細めた。
すると、部下はグスタフに向けて銃口を向けた。
「なあ、グスタフ。お前は知っているんだろう? ここを開ける暗証番号」
「……」
「でかい金庫だ。どれだけの大金がある? 10億ルーブル、いや20億か?」
「……」
「教えろよ」
部下は銃のロックを外した。
「それは国の金だ」
「表向きは……だろ? 裏では、この地に来る途中、上司と同僚はみな凍死してしまったというシナリオが進行中なんだよ」
グスタフは息を吐くと、懐からパイプを取り出して口にくわえた。
「おい、休憩の時間は後にしな。さっさと教えろってんだ。なあ、お前もどうせそれが狙いだろう? ここが開いたら山分けだ。どっちがいい? ここで死ぬかたんまりの金と命を持ってスイスかどっかに亡命するのと」
「愚かだな」
「ああ?」
「力を持つだけなら誰にでもできる。だが、貴様のその曇った目では何も撃ち抜くことはできんよ」
そう言うと、グスタフは奇襲的に部下にとびかかった。
とっさに部下は発泡した。
銃声が響きわたった。
銃弾はあさっての方向に飛び、それが何かを撃ち抜いた。
直後、大きな炎が上がった。
ガス管に引火したのか、その炎は瞬く間に、全体に広がった。
「うわあああああ」
部下はその炎に飲み込まれて、全身火だるまになった。
炎はグスタフにも襲い掛かろうとした。
そのとき、グスタフは慌てる様子もなく、大きく息を吐くだけだった。
その後、炎はさらに広がり、やがて、基地を半壊するまでに至った。
これだけの大災害がありながら、その場所にやってくる者は一人もいなかった。
そこは永久に氷に閉ざされていた。
ちょうど、バリーが立つその大地と同じように。
◇◇◇
魔界で最も寒い場所はオーロラの輝く美しい空の広がる静かな場所だった。
地球単位では、氷点下320度に達している。地球ではとうにすべての物質が凍り付く氷の地獄の中にあって、魔力を蓄えた魔物たちはその地を進むことができた。
氷の地獄であるが、その地を裸一貫で歩く男があった。
その男は鋭くも澄んだ目をしていた。
歴戦の男を証明するかのように体は傷だらけだった。立派な角は片方が失われ、もう片方の角も傷だらけだった。
男は1つ峠を越えると、その先の大地を仁王立ちで見降ろした。
「ここか。魔界の最奥、シルビーア極点」
男はそう言うと、その先に広がる世界を見つめた。
とても静かな場所だった。雪の1つも落ちてこない。空は七色の輝きが絶えず流れていた。
「誰も生きて帰れないなどと脅しやがったが、なんてことはねえ」
男はそう言って、少しも寒そうなそぶりを見せなかった。
「生きて……」
男は言葉を飲み込んだ。目の前に広がる大地から突然、七色に輝く何かが湧き出てきた。
それはオーロラのようであるが、空に輝くオーロラとは趣が違い、地面から現れると、神々しい姿に変化した。
男は高地にいる。しかし、現れたオーロラはみるみる巨大化し、男を見下ろすほど高い位置に達した。
「生きて帰れるか怪しくなったな」
男はそう言うと、神々しい光を見上げて構えた。
「あれがレイコムのじじいが言っていたガロウの魂か?」
オーロラの光は気が付くと、狼のような顔になっていた。獰猛な趣はなく、ただただ神々しい顔をしていた。
男は戦闘態勢を取ったが、目の前のオーロラは戦闘の意思表示をしなかった。
「なんだ、戦う気はねえのか?」
男はオーロラの狼ををまっすぐ見据えた。
すると、オーロラの狼はこっちへ来るように促した。
「ふん」
男は鼻を鳴らすと、戦闘態勢を解いて、オーロラの現れた場所へと降りて行った。
その地は4つの石に囲まれていて、地面は透き通る美しい氷で出来ていた。
男がその氷に足をつけると、生き物のように氷が上ってきて、男の足をロックした。
すさまじい冷気で縛り付けてきたが、男は強引に引きちぎった。
「こんなものでおれを止めることができると思うな」
男は力強く足を上げると、氷は砕け散った。
しかし、また足を地面につけると、氷が絡みついてきた。その都度、男は力強く氷を引きちぎって前に向かった。
大地の中央にたどり着くと、突然そこはこれまでの極寒とは異なり、不自然な温かさに包まれた。
先ほど、巨大な姿で男をここに誘った狼は小さくなり、男の前に立った。
小さくなったとはいえ、男が見上げるほど大きい狼だった。
「そなた、名前は?」
「バリーだ」
男は狼を見上げたまま名乗った。
「そなた、なぜここに来た?」
狼は神々しい語調でそう尋ねた。
バリーは首をかしげた。
「気まぐれだ」
「ほう」
「気の向くまま風の吹くままさ」
「風がそなたをここへ導いたか」
「さあな」
「間違いなかろう」
狼はそう言うと、うつむいた。
「この地に人間が迷い込んだ」
「人間だぁ?」
「この地に人間が現れたことはない。人間はこの地に立つこともできない。いや、魔物でさえもだ。そなたは例外だ」
言われて、バリーは首を横に振った。
「例外なんて無限にいやがるぜ。おれが知っているだけでも10いや20……ガッシュ王がにらみつければ、すべての氷が解けちまうだろうよ」
「ガッシュ王……バオウを継承した者か。話は聞いている」
「立派な王さ。いや、まだ未熟か。功がなるには早すぎるだろう。おれもな。いや、あんたもだな」
バリーがそう言うと、オーロラの狼は目を光らせた。
「私は100万年以上生きている。そんな私にそのようなことを申したのはそなたが初めてだ」
「100万年か。まだガキじゃねえか」
「そなたに言われて感覚を取り戻せた。若き者の感覚」
オーロラの狼はそう言うと、再びその姿を変化させ、今度は少年の姿になった。
バリーより一回り小さい、本当に子どもの姿になった。
「これが若人の心か。良き良き」
「くくくく、あんた、おもしれえやつだな」
「バリーと言ったか。そなたがこの地に来た理由、おそらくはそこの人間だろう」
少年はそう言って、ある地面に目を向けた。
その氷の下には、人間の姿が見えた。氷に完全に埋もれるようにして眠っていた。
バリーはその人間のもとにやってきて見下ろした。
その人間の姿を見て、ニコリと笑った。
「ああ、間違いねえ、おれがこの地にやってきた理由」
バリーはそう言うと、拳を力強く握りしめて、地面に振り下ろした。
氷を一撃で砕く剛腕。
力強くダイナミックだった。
しかし、ただ強いだけではない。少年はその拳に秘められた優しさを感じ取っていた。
事実、その拳は氷にヒビを入れたが、中に埋もれた人間にはまったく影響がなかった。
「久しぶりだな、グスタフ」
バリーがそう言うと、グスタフもすぐに目を開いた。