両親はしばらく帰ってこられない。
しおりの携帯に連絡が入った。
両親の会社に深刻なサイバー攻撃があり、その対応に追われているのだという。
しおりはため息をついた。
会社が心配だからという理由ではなく、両親が帰って来られない寂しさという理由でもなく、一人で生きていくことのできない自分の弱さが理由だった。
「どうして私はこんなに弱いんだろ」
しおりはベッドに転がると、唯一の同居人である人形のティーナに話しかけた。
ティーナがこの世界に生まれたのは約1年前。
最近のようであり、ずっと前のことのようにも感じられた。
「コルルは元気にしているかな」
しおりはもう一度ティーナに話しかけた。
ティーナは応えなかった。あまりの部屋の静けさに恐怖心のようなものを覚えた。
それでも、ここには自分以外の誰もいない。だから、しおりはこの静けさの中で時が経つのを待ち続けるしかなかった。
翌日。
しおりはいつもどおり学校に登校した。
親しい友人はいない。
孤独であることがさみしかったが、それ以上に人との関わり方がいまだにわからず、どうしても輪に入ることができなかった。
友人関係をためらっていると、周りからおかしな子だと思われるようになってしまった。
自分を悪く言うひそひそ話が聞こえてくると、余計に誰にも声をかけることができなくなった。
しおりにラブレターを渡す男子生徒も少なからずいた。
しかし、異性との関わりはもっと分からないことであったから、すべて断った。
すると、男子からも「お高くとまったプライド女」のように言われるようになった。
他の大人たちとの関わりも希薄になった。一度、おとなしいというレッテルが張られると、誰にも積極的に話しかけることができなくなってしまった。
唯一、しおりが関わることができた存在……それはコルルだった。
コルルは自分と同じ境遇であり、身寄りが他になく、難しいことを考える必要もなかった。
しおりにとって、コルルは最も信頼できる家族だった。
しかし、コルルはもういない。王を決める戦いという過酷な運命を背負い地球にやってきた身。
人を傷つける戦いを終わるために魔界へと帰って行った。
コルルがいなくなると、この世界が虚無になった。
すぐに慣れると思っていたが、あれからずっと長い間、しおりはこの世界の虚無の部分から抜け出せずにいた。
来年には卒業。その先の進路は未定だった。成績は優秀だったが、学業の成績ではないところで、しおりは悩んでいた。
この先、大人になってどうやって生きていくのだろう。
大学に進学するとして、学内での人間関係、ゆくゆくは職場の人間関係など。
そう遠くない将来、結婚をする日も来るかもしれない。
しかし、そんなときは想像もできなかった。
そうしたことを考えると不安だった。その不安を誰にも相談できなかった。
しおりは学業を終えるとさっさと帰宅するのが日課だった。
携帯電話には両親の電話番号しか登録されていない。新しい人間関係を築きたいと思いながら恐怖心からできなかった。
調べてみると、そうした人は「社会不安障害とか対人恐怖症」と言われているそうである。
人との関わりへの恐怖から、人間関係を忌避し、犬や猫としか関わることができない。
人間関係を忌避するために、医者にかかることもためらい、それゆえ克服が最も難しい障害なのだという。
今日も誰もいない実家に帰宅した。そこには生活感がなく、その空気を身近に感じているだけで、心が不安に包まれた。
テレビをつけようとリモコンを手に取った。
しかし、映らない。
主電源が落ちていただけだったが、しおりはそこに気づく前にあきらめた。
ソファーに転がると、しばらくボーっとして暮らした。
このままではいけないとわかっていたが、どうしていいかわからなかった。
そんなときだった。
突然、テレビ画面のあたりに赤い光がほとばしった。
「なに?」
しおりは飛び起きた。
その光はより強い輝きを放つようになり、目を開けていられなくなった。
「選ばれし人間の者、いま戦いが始まる」
「え?」
「魔界に危機が迫っている。すなわちそれは人間界の危機でもある。バオウがその衝立を食らいつくそうとしている」
光から放たれた天使のような神々しい声は、しおりに尋ねた。
「このままでは魔界は人間界と重なる。そして繰り返される。醜い争いが。そなたはそれを望むか?」
「……」
しおりはそのとき考えた。
コルルともう一度会うことができるならば、人間界を離れてもいい。この世界に未練は何もないと。
だから、しおりは答えた。
「こんな何もない世界……私は望まないよ」
「……自らの故郷を否定するというのか?」
「だって……この世界に、私はいないんだもの」
しおりは変な言い回しをしたが、光の声は理解したようだった。
「ならば、そなたのその目で知るがいい。なぜ、人と魔物が分け隔てられたのか。その本質をその目に刻むがいい」
その声の後、しおりは光に包まれた。
その光の中で、しおりはあるものを見つけ、手を伸ばした。
それは紛れもなくコルルと自分をつないでいた魔力だった。しおりは暖かいピンク色に輝くその魔本をしっかりと胸に抱きしめた。
「コルル、あなた、そこにいるのね。いま行くから。待ってて」
光が消え去った。その後に、しおりの姿はそこにはなかった。
◇◇◇
「グスタフ、おれは今から神殿に向かうぜ」
バリーは神妙な面持ちでグスタフと向かい合い、そう言った。
机の上には酒が置いてあり、グスタフはバリーのその言葉を聞きながら、この地に伝わる氷の器に注いだ。
グスタフはバリーに応える前に、その酒を口に含んだ。
「ふむ、深い味わいだ」
グスタフは魔界に伝わる酒を一口で愛した。
「バリー、さっきなんと言った?」
「だから、神殿に向かって、じじいを助けに行くんだよ」
「……」
グスタフは酒をていねいに机のもとの位置に戻した。
「ガロウ教の掟……それに逆らうと言っているのか?」
「ああ、そうだ。狂った信仰を叩きのめしてやる」
「バリー、少しは賢くなったと思っていたが、まだまだ子供だな」
グスタフはそう言うと、もう一度酒を口に含んだ。
ちょうどそのころ、地下室からコルルが戻って来た。それと同時に、バリーは椅子を後ろに倒しながら立ち上がった。
「グスタフ、おれは子供じゃねえ。宗教を馬鹿にして言ってるわけじゃねえ。いいか、聞けよ、グスタフ」
「聞こう」
コルルは空気を読んで、その場で足を止めた。
その後ろから、先ほどサウナという概念を経験したガロウが戻って来た。
「どうしたコルル、早く上がらんか」
「待って、もう少しサウナに入ろ」
「なに? 我はもう堪えたぞ。あのような灼熱は100万年ぶりだ。二度と御免だ」
「いいから早く」
「ううむ、我を殺す気か?」
コルルはガロウの背中を押して、地下室に引っ込ませた。
バリーは立ち上がったままグスタフに言った。
「どう考えたっていびつな対立だ。そうだろう? ガロウだのカムドアだのでいがみ合ってるんだぜ。それが正しい教えか? ガロウが、カムドアがそう言ったのか? 争え、殺せと。違うだろ。連中が誤解して、都合のいいように利用してるだけなんだよ」
バリーは熱くそう語ったが、グスタフは表情を変えなかった。
「少しは成長しているようだな。だが、まだまだ子供だ」
「……黙って従えってか? 何も変えずこのままじじいが殺されるのを指をくわえて見てろってのか?」
「そうだ」
グスタフは断言するように言い切った。バリーはすぐに反応せずに黙って腕を組んだ。
「凍り付いた世界を前に、拳など無力だ。拳で解決できるものでもない。バリーよ、お前もわかるだろう?」
「ふん」
「人間界でも、すべての者が世界平和を望んでいる。だが、現実はかつてお前に話した通りだ。戦争を繰り返すことでしか成立しない世界なのだよ」
バリーは腕を組んで、グスタフの話を聞いていた。
「ちなみに、バリーよ。人間界のころ、お前が殴った例の男がいただろう? あやつは改心するどころか、軍の上層部に出世して、ウクライナ侵攻を大統領にそそのかしたぞ」
「……」
「実の父が住む場所に平然とミサイルを撃ち込んだ。己の出世のためだけにな」
グスタフはそう言うと、酒を口に含んだ。
「へへへ、そいつは……力みが足りなかったか。へへへへ」
バリーはそう言うと、おかしそうに笑った。
「お前が拳を振るったところで何も変わらん。さらに助長するだけだ。この家をなくなることになる。ワシはミスターアイスマンからこの家を守ってほしいと頼まれているんだ」
「家を守る?」
「そうだ」
「あのな、グスタフ……」
バリーはそう言うと、静かに息を吸い込み、強く力んだ。
バリーが拳を振るうと、その衝撃波だけで、壁の一部が瓦解して、崩れ落ちた。
「ここはじじいの家だ。主のいない家なんて、空き巣の巣窟、地上げ屋の商売道具の価値しかねえ。違うか?」
「落ち着け」
「落ち着けるか。じじいは無実だろ。だいたい、レイコムとかいうドラ息子の仕業なんだろ? レイコムというバカはどこだ? おれが殴ってやる。出て来い!」
バリーは珍しく激昂が止まらなくなっていた。
グスタフはその怒りを十分に理解していた。だが、この世界を覆いつくす氷は決して解けることはなく、砕け散ることもない。
バリーの磨かれた拳を持ってしてでも、その氷を砕くことはできない。グスタフはそう考えていた。
世界とはあまりに大きい。
グスタフはその大きさを理解していた。