目が覚めたら、そこは自宅ではなかった。それどころか、日本でもない。外国でもない。おそらくは地球上でもなかった。
しかし、恐れはなかった。手に持った本の感触が教えてくれた。ここにはその本の持ち主がいると。
しおりは目覚めると近くにいた少女に目を移した。
雪を象徴する美しい髪の少女だった。少女は燐とした目つきでこちらを見ていた。
「ここは……?」
「目覚めたか、そなたの目覚めを待っていた」
少女はそう言うと、目を少し優しい形にした。
ちょうど、しおりと同じぐらいの歳の少女だった。
「そなたは驚くかもしれぬが、ここは人間界ではない」
「ではここは魔界ですか?」
尋ねながらも、しおりはここが魔界であることを確信していた。
光に包まれた後、おそらく魔界に移動したのだろう。手に持っているピンク色の本を見れば、自分がここに来た理由も明確だった。
この本には大義名分が刻まれているかもしれないが、しおりにとってのこの本の意味はただ1つしかない。
コルルに会うこと。
それがしおりがここにいる理由のすべてだった。
目の前にいる少女が魔物であることもすぐわかった。コルルと同じ雰囲気を感じた。
見た感じ、悪い魔物ではなかった。
とても美しい少女だったが、とてつもなく強い力を秘めているようでもあった。
「そなたの言うとおりここは魔界。ということは、そなたは人間で間違いないようだな」
「そうです。私は人間です」
しおりは体を起こすと、改めて本を取り上げた。
「その魔本を取ってそなたは戦ったのだろう。そなたのパートナーの名を教えてくれるか?」
「コルル……」
しおりは自分のパートナーの名前をつぶやいた。
「コルル……。知っている。バーバリアンとデーモンを統べる一族の末裔と聞いている」
少女はそう言ったが、その言葉に対してしおりは首をかしげざるを得なかった。
「私はチェザラと申す。ここシルビーアの地でシャーマンを務めている者だ。と言っても、私はまだ学ぶ身ではあるのだがな」
「あなたが私のことを助けて下さったのですね。ありがとうございました」
「すべてはガロウ様の導きと慈悲。感謝の意は、ガロウ様への祈りに込めるがよい。このようにな」
チェザラはガロウ神に祈る所作を示した。
しおりはそれを真似てガロウなる者に祈りをささげた。
しおりは魔界のことをほとんど知らない。コルルもあまり魔界のことを話したがらなかった。
おそらくは、ガロウという神様がいて熱心に信仰されているのだろう。
「私は王を決める聖戦には参加しなかった。ゆえ、人間界のことは書物で学んだ以上のことを知らない。少しそなたのことを聞かせてもらえるか?」
チェザラは人間界の情報に興味を持っていた。
もし、魔王を決める戦いに参加していたのなら、人間界のことを多く学ぶつもりだった。
しかし、圧倒的な力と風格を備えていながらも、チェザラは戦いには選ばれず、魔王の行方はレイコムに託されることになった。
しおりは人間界についてのことをチェザラに話した。
しおりもまだ学生の身。人間界のことを広く知っているわけではなかった。
しかし、チェザラはしおりのすべての話に興味を示した。
チェザラはもっと多くの話を聞きたいと思っていたが、ある急報が入って来た。
「チェザラ様、失礼します」
話の途中で、魔物が部屋に入って来た。
耳の長いウサギような顔をした魔物だった。チェザラは人間界に紛れ込んでも特段不思議ではないが、その魔物は明らかに魔物とわかる姿だった。
しかし、今更しおりは驚かなかった。
「おや、お嬢さん、お目覚めになられたのですね。それは良かった」
「お世話になっています」
しおりは頭を下げた。
「何かあったのか?」
「はい、神殿に野蛮人がやってきまして、業務を妨害しています。申し訳ありませぬが、チェザラ様に仲裁をお願いしたいのです」
「野蛮人?」
「はい、相当な野蛮人です。抑えようとしても、フリズド・ビレイドの拘束をいとも簡単に引きちぎってしまい、我々ではとても抑え込むことができないのです。神殿の軍は市場の暴動に出ておりまして、手がいっぱいいっぱいなのです」
「フリゴーザが送り込んだ刺客か何かか?」
「フリゴーザが関わっている様子はありません。流れの者かと思います」
「わかった、向かおう」
チェザラは髪をなびかせた。
「しおり、そなたの話をもっと聞きたいところだが、急用が入ってしまった。申し訳ないな」
「いえ」
「面倒は使いの者が見てくれる。何でも申し付けるがいい」
チェザラは急報を受けて、神殿に向かった。
話によると、誰かが神殿を襲撃しているのだという。日本とは違い、この地の治安は良くないのだろう。
力の世界。きれいごとは通じない。
しおりは本を両手に抱えて、人間界でコルルと一緒にいたときのことを思いだした。
コルルは懸命に戦いから逃げようとしていた。
戦いから逃れるのにちょうどいい日本という国に降り立ったのはコルルにとって、幸運だったと言えるかもしれない。
しかし、魔の本質がコルルを戦いの世界に引きずり込んだ。
しおりはコルルの戦いの血を目覚めさせるために選ばれた存在。その運命に逆らうことはできなかった。
最後、コルルは自ら戦いを放棄した。
戦いから逃れるために選んで苦渋の選択だった。
しかし、いま思うと、戦いから逃れる道から逃れる選択だったような気がした。
現実から目を背け、理想のお花畑に身を置こうとしても、その楽園はまやかしでしかない。
しおりは背けてはならない現実があることに気づいた。
コルルに対して、何より自分自身の人生に対して、立ち向かわなければならないことがたくさんあることに気づいた。
「しおり様、これからお食事をご用意させていただきます。お口に合うかわかりませぬが」
召使いの魔物が気を利かせた。
しおりはその使いの魔物にあることをお願いした。
「あの、「ゼルク」という魔術はどういった魔術なのですか? 教えていただけませんでしょうか?」
「ゼルクですか? そうですね。私も魔法学に詳しいわけではありませんが、魔解放「ルク」から派生した力ですね。「ドルク」は狩りの本能を目覚めさせる魔解放、「ポルク」は偽りの自分を目覚めさせる魔解放、「ウルク」は俊敏さを目覚めさせる魔解放、ゼルクはたしかありのままの自分を解放する力だったかと」
「ありのまま……」
しおりは本を開き、最初のページに目を通した。
ゼルクの力がありのままの姿を引き出すのだとすれば、コルルの本質が眠った魔術ということになる。
ありのままの自分から目を背けてはならない。しおりは確信した。
もう1つ確信していることもある。
コルルの本質は狂暴さ、獰猛さではなく、優しさであること。
◇◇◇
シルビーアの地はガロウとカムドアによって分かれている。
ガロウを信仰する者たちが住む世界は、みるみる寂れていた。
かつては多くの人々が闊歩した町も、あられの降る音が聞こえるほど静けさに包まれていた。
そんな静けさの先に大きな神殿がある。
神殿はガロウが祀られているガロウ教徒のメッカである。
毎月、ここでガロウへの信仰を確かめる宗教行事が開催されるが、そうでない時は関係者以外立ち入りが禁じられている。
そんな神殿前の広場に大きな声がとどろいた。
「フリズドマンはどこだと聞いてんだ。この先か? どっかの牢獄か? 教えやがれ」
「落ち着きたまえ。何者か知らないが、フリズドマン氏はガロウ教に定められた厳正なる粛清によって氷獄に封印されるのだ。何人も干渉することは許されない」
「おれはガロウ教徒じゃねえ。恩人にはおれの流儀で恩を返す必要があるんだ。さっさと場所を教えろ。この先か?」
大きな声を上げたバリーは神殿のほうを見つめた。
バリーの後ろにはグスタフが控えていた。グスタフはバリーのやりたいままにやらせていた。
「神殿に入れるのはガロウ様の洗礼を受けた者だけだ」
「知るか、おれは勝手に通るぜ」
「ならば不法侵入者として捕らえさせてもらう」
バリーと対峙していたウサギの魔物が右手を振るうと、銀色に輝く鞭のようなものが現れ、それがバリーの右腕を縛り上げた。
「不法侵入者を捕らえた。ただちに外につまみ出す」
「捕らえた? こんなもんじゃ金魚の一匹も釣れやしねえぜ」
バリーが右腕を振り回すと、バリーを拘束していた氷の鞭は無残に引きちぎられた。
すると、バリーを捕らえたつもりになっていた魔物は後ろにしりもちをついた。これまでに経験したことのないパワーに驚きを隠さずにはいられなかった。
「なんてパワー。化け物か?」
「通るぜ」
バリーはそう言うと、ずいっと歩き出した。
グスタフはそんなバリーの様子を見ながらため息をつくしかなかった。
「待つのだ。この先には一歩も入れさせぬ」
「フリズドマンのじいさんを連れて帰るだけだっつってんだろ」
「確保せよ」
神殿に仕える魔物たちは一斉にバリーめがけて氷の鞭を放った。
だが、バリーは拳の一撃ですべての鞭を粉砕した。
何人も止めることのできない打撃。単なる腕力にものを言わせた打撃ではなかった。
厳しい戦いを潜り抜けた者がたどり着いた拳だった。
「行くぜ、グスタフ」
「お前らしいな」
グスタフは肯定も否定もしなかったが、バリーが進む道の先には、真にこの地が氷獄から目覚めるシナリオが待っているような気がした。
「待て、そこまでだ」
「ちっ、まだいやがんのか」
バリーは後ろを振り返った。
振り返った先には、同じウサギの魔物が二人いた。しかし先ほどと違うことが1つあった。
魔物2人の中央に少女が一人いた。
とても美しい少女だったが、バリーはその少女を見た瞬間、とてつもない剛腕に殴られたような衝撃を受けた。
「そなたが野蛮人か?」
少女はバリーに鋭い視線を送った。美しさに隠された冷たさが突き刺さってきた。
少女はバリーに続いて、隣にいたグスタフにも目を移した。グスタフの手には魔本があった。
魔本を見れば、野蛮人の存在の目星がついた。
「その魔本……そなた、バリーか。戦闘民族たちで構成されたハオウの地を代表する者であろう?」
「なんだあんた、おれのこと知ってんのかよ?」
「風の噂には聞いたことがある。ハオウの地から、カーストの中でも下層にあたる者が王の候補が選ばれたと」
「……」
バリーの表情が険しくなった。
「私はライモスが選ばれると思っていたが、そなたが選ばれた理由は、その無礼なふるまいゆえか? 王になるためには無礼者になる必要があったとは驚きだ」
少女はそう言いながら、バリーとレイコムを重ねて見ていた。
レイコムもガロウ教の神官を継承する重要な立場でありながら、その責任を放棄した無礼者だった。
「ライモスか……嫌な名前を出してくれるな」
そう言うバリーの拳が震えた。グスタフはそれを見て、ライモスという者の強さを悟った。
「いずれにせよ、ガロウの聖域に足を踏み入れる者を許すわけにはいかない。どうしてもというなら、私にはそなたを排除する使命がある」
「ふん、たいそうな自信だな、誰だか知らねえが、女だからって容赦はしないぜ」
「バリーのパートナーの者よ」
少女はバリーではなく、人間のグスタフのほうい問いかけた。
「そなたはバリーのパートナーのものであろう? 見たところ、話の通じる賢者のようだ」
「……ふふ、賢者か」
グスタフは口元を緩めた。
「私は戦いを望まない。そなたならばわかるであろう。この地はガロウ教の聖地。厳正なるルールで守られているのだ。このまま、この地を離れてくれぬか?」
「ふむ、それは名案だ。私もそうしたいと思っていたところだ」
グスタフは言いながら、フリズドマンからもらったキセルを口にくわえた。
「しかし、見てのとおり、ここにいる野蛮人はこの先に向かいたくて仕方ないようだ。野蛮人ゆえに、話はまったく通じない」
「……」
「ではどうすればいいか? 簡単だ。この野蛮人はミスターフリズドマンに恩を返すことができれば満足すると言っている。ミスターフリズドマンを解放していただけないだろうか? そうすれば、この野蛮人もおとなしく山に帰っていくさ」
「グスタフまでおれを野蛮人扱いするのか?」
「魔界も人間界も、お前のようなやつを野蛮人と呼ぶのだ」
グスタフはいつでも冷静だった。
「なるほど、フリズドマンの恩人であったか。気持ちは理解できなくはない。しかし、ガロウ様への生贄は罪滅ぼしの厳正なる儀式。この儀式を取りやめれば、ガロウ教徒らに罪の呪縛が降り注ぐことになってしまうのだ」
「聞いたか、バリー。これが宗教というものだ。もはや話し合いによる解決は不可能。潔く帰るか、拳を突き出すか好きなほうを選べ」
グスタフはバリーにそう進言した。
「そんなもん決まってんだろ」
バリーは前方に拳を突き出していた。
「打ち砕くぜ、そんな偽りの宗教はな。ガロウは望んでねえはずだ、そんな罪滅ぼし」
バリーは実際にガロウに出会っていたから確信していた。ガロウ教の教えは偽りであること。
しかし、はるか昔から信仰され、支配の中心に居座った偽神のもたらす力はあまりに絶大で、何人も止めることはできなくなっていた。それはガロウ本人でさえも止められない。
しかし、バリーはその拳に誓いを込めた。
「粉砕してやるぜ、その偽物の神様を」
バリーは拳に誓って、フリズドマンを救い出すつもりだった。
少女もバリーの戦闘意思を感じ、自らの冷たい魔力を解き放った。