バリーは拳を振り上げた。
チェザラは少女だが、バリーには関係ない。バリーはこれまであどけない顔をした女が実は恐ろしい力を秘めていたということを何度も経験していたから油断はなかった。
「グスタフ!」
バリーが叫んだ。
グスタフはやれやれと言う様子で本を開いた。
このとき、グスタフはすでにチェザラの強さをわかっていた。バリーはチェザラに勝つことができないということもわかっていた。
「第8の術、ゾニス・ナグル」
グスタフが術を唱えると、バリーの右腕が黄金に輝いた。
チェザラも膝を落として構えた。
バリーの一撃がチェザラにぶつけられた。
しかし……。
手ごたえがなかった。何かにぶつかった様子はなく空振り。
確実に捉えたはずだったのに、バリーの拳は霞を掴むかのようだった。
見ると、チェザラのいた場所には粉雪が舞っていた。
粉雪はやがてチェザラの姿を形作った。
「へー、今までに見たこともねえ怪しい術を使いやがるな」
「ガロウ様への信心を積み重ねて得られた力だ」
「なるほど、偽りの神を信じてきたから、幻影みたくなっちまったってか。もう一発だ、グスタフ」
「ガルゾニス・ナグル」
グスタフはさらに上位の術を唱えた。
すると、バリーが繰り出した拳は鋭く回転した。先ほどよりも大きな圧力が加えられた。
しかし、チェザラに対しては幻影を叩いたようなもので、その攻撃は無力となった。
一度はバラバラになった粉雪だが、やがて形状を回復するようにチェザラの形を作った。
「そなたの力は良く分かった。魔王の戦いに参加するにふさわしい力であることは認めよう。だが……」
チェザラは初めて攻撃態勢を取った。
「魔王にふさわしい力ではない。その拳、正義を語るには早すぎると見える」
チェザラはバリーの懐に飛び込んだ。
殴るでも蹴るでもない。
チェザラの抱擁。
バリーにまとわりついたチェザラは、その対象を氷漬けにしてしまった。
バリーの体はぴくりとも動かなくなり、その場で完全に氷漬けとなった。
「これがチェザラの氷獄だ。味方ながら何度見てもおっかない」
後ろに控えていた魔物たちは味方をおっかない様子で見ていた。
チェザラはこれまでに幾度とない者を氷獄に閉じ込める形で粛清してきた。バリーもその氷の中に閉じ込められてしまった。
チェザラは氷漬けになったバリーの頭に優しく手を置いた。
「いましばらく凍り付いた世界でおとなしくしているがいい」
「……」
バリーはピクリとも動けなくなっていた。
グスタフは特に慌てる様子もなく本を閉じた。
チェザラはゆっくりと歩いてグスタフのもとに向かった。
「グスタフなる者、申し訳ないがそなたの相棒にはしばらく眠っていてもらう。案ずる必要はない。時が来れば解放することを約束しよう」
「ふむ、あいつにとっても頭を冷ますのにちょうど良かろう」
グスタフは氷漬けになったバリーを見て納得した。氷の地獄。いまのバリーに必要な試練だと思ったから、グスタフはそのままバリーを氷の中に閉じ込めておかせるつもりだった。
「まもなくシルビーアの決闘が始まることになるだろう。その戦いが終わったときに解放すると約束する」
「決闘?」
「本来は魔王の戦いで白黒決めるつもりだったが……」
チェザラはちょうどカムドア教徒たちが住んでいるほうに目を向けた。
チェザラはこの宗教闘争を終わらせる責任を誰よりも感じていた。魔王としてその責任を果たすことができなかったのが唯一の心残りだった。
◇◇◇
カムドアの名を継承した暴君、フリゴーザはカムドアの完全勝利宣言を目論んでいた。
完全勝利宣言する唯一の方法は、このシルビーアで最強と言われたチェザラを倒すことだけである。
「忌々しい。本来ならば、おれが魔王となり、偽りの神ガロウを消滅させていたところを、出来損ないの弟のせいで」
フリゴーザは今でも魔王のチャンスを戦う前に失ったことを不服に考えていた。
「まあいい、だがチェザラが決闘を受け入れた。今度こそ教えてやる。このおれがシルビーアの頂点、いや魔界の頂点であることを」
フリゴーザは大きな胸をそらせて大きく息を吐きだした。
すさまじいブリザードブレスが前方に吹き付けられた。ブリザードが椅子を吹き飛ばし粉々に打ち砕いてしまった。
「いまの俺様に勝てるやつなどどこにもいないわ。ぐふふふふふ」
フリゴーザは立派な氷の鎧を身にまとっているが、たしかにその頑丈な肉体にはいかなる攻撃も通じないように思えた。
「カムドア様」
ちょうどそのころ、伝令が戻って来た。
「なんだ? 騒々しいぞ」
「申し訳ありません。ただ、重大な報告でございます」
「なんだ? チェザラが仮病で決闘を辞退するとでもいうのか?」
「いえ、フリガロ様の目撃情報が入ってきたのです」
「なんだとぉ?」
フリゴーザは大きく足を上げて振り下ろした。地面がみしみしと揺れた。
「出来損ないが見つかっただと? どこだ? やつはどこにいる。カムドアの血筋に汚点を残したやつは決して許せねえ」
「シルビーア極北山でその姿が目撃されたそうです」
「ならさっさと捕獲してここに連れて来い」
「はっ」
「まったく忌々しい。ブラゴなどというデーモンの流刑者に不覚を取ったというではないか。翼をもぎ取られたデーモンなどカトンボも同然。カトンボに負けたなどとカムドアの名を汚す行為よ!」
フリゴーザは不機嫌そうに何度も足踏みをした。
「いいか、強さとはなんだ? 負けないことだ。違うか?」
「おっしゃる通りでございます」
伝令のイエティは跪いてフリゴーザに同調した。
「だが、やつは負けた。負けたやつは弱い。違うか?」
「おっしゃる通りでございます」
「まったく忌々しい。このおれが参加していればバオウもろとも粉砕していたというのに。ああ、忌々しいとも」
フリゴーザの怒りはしばらく収まらなかった。
◇◇◇
ゲルハルトは追い詰められていた。
雪男を必ず発見すると家を出てアラスカに向かったが、その途中で仲間とはぐれて遭難してしまった。
「おかしい、コンパスも狂ってしまった。まるで地球ではない世界に出てしまったような……」
歩けば歩くほどに、魔境に迷い込んでいくようだった。
その道中、ゲルハルトは奇跡的にも洞窟を発見した。
その中に転がり込み、荷物の中にあったランプで暖を取ろうとした。
「ふう……衛星通信もうんともすんとも言わず、助けもおそらく来ない。もはやこれまでか」
ゲルハルトは天を仰いだ。
「そういえば、フリガロと出会ったのもこんな状況だったか」
ゲルハルトはかつて相棒のフリガロと出会ったときのことを思い出していた。
雪男を探して出かけた先で遭難。
同じように猛吹雪に見舞われて、奇跡的に洞窟を発見した。
しかし、連絡がつかず絶望的な状況だった。
そんなときに、ゲルハルトの目の前に何かの影が見えた。
こんなところに人が来るはずがない。ゲルハルトは目の前にいるのが追い求めていた雪男であることを確信した。
それがフリガロとの出会いだった。
フリガロとの出会いはゲルハルトの夢の実現と同じでもあった。
しかし、フリガロは王を決める戦いのパートナー。正式に雪男を発見したと証拠写真を持ち帰るわけにはいかなかった。
フリガロが魔界に帰った後は、再度雪男を探す旅に出たが、あのときと同じ遭難状態になってしまった。
「もう一度フリガロと出会えたならば……」
次、フリガロと出会ったならば、フリガロにもっと多くのことを教えてやりたいと考えていた。
ゲルハルトはフリガロと過ごした時のことを思いだした。
「いいか、おれの名前はゲルハルト。ほら呼んでみろ」
「ウーウー」
「ダメか、しゃべれないか。リオウとかいう怪しいやつから協力を求められたときにこいつがフリガロということはわかったが、言葉がしゃべれないんじゃな」
ゲルハルトは魔王を決める戦いのことを少し前に訪れたリオウという魔物から聞いていた。
「いまある計画を画策している。力を貸してくれるか?」
「あ、ああ」
「では、時が来れば迎えの者をよこす。それまでフリガロの力を引き出していてくれ。こやつはカムドアの魔力を継ぐシルビーア代表として選ばれたと聞いている。大いなる力を秘めているはずだ。しかし、チェザラやフリゴーザを差し置いて選ばれるとはよほど大きな力を秘めているということか」
「何でも協力するから、もう少し魔界のことについて教えてくれないか? 特にフリガロのことを」
「良かろう」
そのときのリオウの話で、魔界のこと、王を決める戦いのことを知った。
それ以降、ゲルハルトはフリガロとの会話に成功したことがなかった。
一応、戦いで連携することは覚えたが、フリガロとの会話ができなかったことが心残りだった。
ただ、フリガロはただ強くなりたいという願望ばかりを示していた。
「王になりたいか?」
「ウー」
「王になって何がしたい?」
「ウー」
「いいか、強けりゃいいってもんじゃねえ。一国を治める主なら、賢くなる必要だってある。学問や文化も育まなきゃならねえし、経済や外交に精通しなきゃならねえんだぜ」
「ウー」
「本当に強い王ってのは一国を発展させ、民を豊かにすることだ」
ゲルハルトはそのときに色々とフリガロに教えてやろうと思ったが、十分に伝えることができなかった。
もし、もう一度巡り合うことができるならば、今度は言葉の1つぐらい習得させてやりたかった。
あと、術の中に目覚めることのなかった「カムドア」の力も習得させてやりたかった。
リオウの話によると「カムドアは世界で最も冷たい氷の力」ということだった。
「世界で最も冷たい氷の力か……」
ゲルハルトはそんな力を想像して身震いした。今でさえ寒いのに、さらに世界を寒くする力というなら悪夢のような力だ。
「しかし、その力も正しく使えれば少しは役に立つかもな」
ゲルハルトはそんな言葉をつぶやきながら、眠気を感じ始めていた。
ぼんやりとかすれていく視界の中に、何かの影が見えた。
それはちょうどかつてフリガロと出会ったときの影と同じだった。