君の心に正射必中 作:木立
正しく射れば必ず的に当たる。正射必中。弓道でよく言われることだ。では、自分の想いはどうだったろうか。やはり歪んでいたのだろう。結局、自分一人で舞い上がっていた。一人相撲だったのだ。弓であれば一人で引けるが、恋愛はそうではない。双方が正しく想いを向け合わなければ、左右のバランスが崩れてしまう。自分なんかは、その最もたる例であろう。相手のいないシーソーに乗り続けていることにも気がつかず、自分ばかりが飛んで跳ねてとはしゃいでいた。幻想の相手と楽しんでいた。夢だったのだ。覚めなければ、もどかしい想いを抱えながらも幸せでいれた。いざ、気づいた時の虚しさたるや。
大学一年生の冬。河原翔は路上を走るトラックの前へ無防備な体を晒した。
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桜の盛り。薄桃色の花びらが屋根のように頭上を覆う。道の真ん中だけがパックリと開けた形だ。そこに目を向けると、初めは白が見える。そこから高いところへ向かうにつれて白紙に滲ませたように少しずつ青が深まっていき、じっと見つめているとその深みに吸い込まれてしまいそうになる。意識を戻して今度は下を見てみると、ここも桜色が広がっていた。ただ、ピンクの絨毯というわけでもなく、掛染されたようにアスファルトの色が転々と見えた。踏まれて土の色が染み込んだ花弁もあった。普段であれば単なるアスファルトの無機質な色が足元に敷き詰められているが、この時は自然の様相を呈していた。
このように、溢れんばかりの桜が見れるのもそのはず。今は入学式の一週間前。三月も終わりに差し掛かった、ちょうど満開の時期であるため。こんな時節に新一年生の河原翔は大学を訪れていた。房総半島にあるこの大学では本日、部活動・サークル説明会が行われているのだ。
何のサークルに入ろうか。両脇を満開の桜に囲まれた道を練り歩きつつ、大量にもらったサークルのチラシを両手を抱え河原は一人考えていた。紙の端がチラチラと風に揺れる。宙を揺蕩って紙に着陸する花びらも数多い。河原は既に、それらを払うことを諦めていた。今となっては、何のサークルに入ろうか、で頭がいっぱいだ。高校の頃は弓道部に入っていたが、大学ではどうしようか。最後の大会、結局緊張に負け、詰めるところを詰めきれなかった悔しさはある。部長として、五人立の落を任されていたのに、なんて様だとも思っていた。それが心の底で澱のように沈殿している自覚もある。とはいえだ、折角の大学生活。中学、高校と同様に部活三昧というのも味気ない。出来れば遊びたいなあ、なんて河原は考えつつ色々なサークルを回っていた。チラシはその戦利品である。どこも人手は欲しいようで、河原の行くとこ行くとこで歓迎してくれた。ただ、どこも河原に刺さるものがなかった。ここだ、という決定的な、パズルのピースがカチリとハマる感覚がなかったのだ。また今度見学に来て、それで良かったところにしようか。河原はそう決断づけた。一人暮らしの部屋は北門を出て十五分くらい歩いたところにある。他にどっか勧誘してないかな、なんて淡い期待を抱きつつも、桜並木の通りを抜け、理学部の棟が並ぶあたりに差し掛かった。この一つ先を横に入れば北門なのだが、その少し前で、ある姿が目に留まった。
道着に袴。左手には日本弓。空いた右手で、ベニヤ板に『弓道部、見学やってます』とマッキーで書かれた看板を掲げた姿。背丈は自分の肩くらいと小柄な女性だった。時折、近くを通った人に、「どうですか?」と声はかけているが、やっていることとしてはそれくらいだ。周りを歩く人も、物珍しさから目は向けるが、肩を丸めていかにも疲れてます、といった雰囲気に、興味の花を萎ませていた。そしてそのまま桜並木の通りへと進んでいく。
悩んだ。ただ、まあ、見るだけ見てみるか。高校でもやっていたことだし、それに、入るかは別問題だし。やはり、一度触れていた競技ということもあって、心惹かれるものがあるようだ。河原はその人に声をかけた。え、と勧誘の人の反応は鈍いものだったが、直ぐに笑顔を浮かべ、喜んで案内をしてくれた。彼女は小木というらしい。河原の一つ上で、彼が入学する年度には二年生だそうだ。先程までは疲れた顔を見せていたが、話してみると快活で、何より笑顔が可愛らしい。距離を感じさせないその雰囲気にあてられて勘違いする男も多そうだな、と初対面にしては些か失礼な感想を河原は持った。とはいえ、河原にそういう趣味はない。女性に心惹かれることがない人生を送っていたのだ。中学、高校の友人からは何度かそのことで弄られる機会もあったが、全て曖昧に濁していた。河原自身も分からなかったのだ。勿論、大学生にもなって性の目覚めが未だということはない。夜にそのような行為に耽ることはままあった。とはいえ、その際には自分のものを弄るだけであり、同級生らがするように何か写真を見て、ということはなかった。そのため、この歳になるまで河原は自分の性の趣向を意識せずにきたのだ。
北門に入る道を過ぎ、その先にあるテニスコートを抜けると、開けたグラウンドと、その右手には弓道場が見えた。
「それじゃあ、こっちから回ってください」
道場の裏手から矢道の方へと行くらしい。先導にしたがっていると、不意に澄んだ弦音が聞こえた。わいわいと賑わう空気を切り裂くような、一瞬の静寂を生み出し、その中に一つ響く音。河原の耳はその弦音に囚われた。先導の彼女を追い抜き、すぐさま矢道の方、道場内が見える方へと。
河原は見学者の垣根の切れ目へと体を滑り込ませた。そして見る。大前から順に、一人一人射を見て、音を聞いていく。上手い。河原の率直な感想だ。十文字の崩れなく、左右に開けた射形。会での伸びも十分にあり、離れの勢いも良い。一体どの人だろうか。落前が射た矢の矢筋を追って、安土の方へと目を向けていた時、また、あの弦音が。
空気が張り詰める。少なくとも河原はそう感じた。ピンと伸ばした糸が幻視された。そして、音に重なって矢が風を切る。的へと吸い込まれていく。パン、と的紙が破ける音。張り詰めた糸が、プツンと切れた。それに合わせて、無意識に止めていた呼吸も戻る。
今の射は、と河原は落の人を見た。彼はまだ残身の姿勢をとっていた。的の方へと緩みない視線を向けている。長い睫毛の裏に淀みない黒が見えた。背筋はピンと伸び、細い両腕は胸の中央から左右へと綺麗に開いている。他の人より少し高い背丈も、細いシルエットも、そして今の姿勢も、全てが美しかった。
「やっぱ敏樹、すごい仕上がってるなあ」
いつの間にか山田の後ろにいた小木がそう溢した。
彼が射位から退くと同時に、河原も道場を離れた。小木が「もう少し見ていきませんか」なんて言っていたが、すぐに断った。しゅんとする彼女を見て、少し冷淡だったかと反省したが、ただ、これ以上見ているわけにもいかなかった。胸の高まりが収まらない。それは河原が部屋に戻ってからもしばらく続いた。動機が高まり、平時より息が荒くなる。頭も浮ついていたが、不思議と心地の良いものでもあった。
「敏樹さん、か」
布団の中で独り言ちる。ああ、なんて甘美な響きか。むず痒い刺激が背筋を伝う。その晩、河原はすぐには寝付くことが出来ずに、薄い布団に透けて見える彼のシルエットはもぞもぞと身悶え続けていた。
その二週間後。入部受付が始まったその日に、河原は弓道部に入った。