彪が大きく息を吸い込み、風船のように体を膨らませる。
『はむっ』
唇を噛むようにして息を止めた次の瞬間、3mはあった鬼龍との間合いは一瞬で消失し、彪の右拳が鬼龍のみぞおちに叩き込まれていた。
『“
肉が潰れる鈍い音と共に鬼龍の顔が苦痛に歪む。
「やめてください!!」
「左の脇腹を狙え!奴はそこを負傷しているらしい!」
ゴッ!ゴッ!
2発、3発。
ゴッ!ゴッ!ゴッ!
4発、5発、6発。
彪の拳が加速し、次第に目で追えないほどの速度になっていく。
喜太郎が狙うよう指示した左脇腹から血が滲み出し、拳圧に煽られて辺りに飛び散る。
「やめて…」
「たぶん知らないんだろうけどさ、アイツは人殺しのクズだぞ。俺も一生消えない傷をつけられた。これは正当な復讐…悪因悪果ってやつなのさ」
「そんなはずが――」
「あるんだよ、ほら」
喜太郎が前髪をかき上げて顔の左側を貴音に見せつける。
そこにあったのは、左目の周辺から額にかけてケロイド状の傷跡が何本も走り、まるで肉をツギハギして作った怪物のような顔だった。
「大企業の御曹司の俺の顔を、パンチ一発でグチャグチャにしやがった。顔が命の商売してるんだからわかるだろ?これがどれほどの屈辱か」
タブレットの画面では彪がついに鬼龍の顔面を殴りはじめた。
拳の動きに合わせて頭部が上下左右に弾け、今にもちぎれ飛びそうに見える。
確かに、他人の顔に一生消えない傷をつけるということは“悪”に違いないだろう。
では、今自分を庇って無抵抗で殴られ続けていることは“悪”か?
そんなはずはない。
(たとえ、この男の言うことが真実だとしても…あの方を見殺しにはできません!)
そう思った瞬間、ふと、手首のあたりから違和感を感じた。
(……?)
タブレットに目が釘付けになっている喜太郎に感づかれないよう注意しながら視線を落とす。
(………!…緩んでいる…!!)
以前、バラエティ番組で縄抜けマジックのタネ明かしをされたときのことを思い出す。
――両手を縛られるときにですね、親指の爪どうしをくっつけるようにした状態で縛ってもらうんです。そう、この状態から手首と手首がくっつくように手をひねれば…ほら、隙間ができて縄がゆるくなります。こうなればあとは簡単――
ちらりと喜太郎を見やると、有頂天だった先ほどとはうってかわって、何やら焦りだしたような表情が見えた。
「おい!なにやってんだ彪!まさか手加減してるんじゃないだろうな!」
『いえ…決して………そのような……ことは………しゃふーっ』
手をもぞもぞと動かしながらタブレットに視線を移すと、肩で息をし、明らかに狼狽した様子の彪――そして、血まみれになりながらも先ほどと変わらず仁王立ちしている鬼龍の姿があった。
「な…何十発殴ったと思ってんだ…?お…お前変なクスリでもやってるのか」
『昔…同じようなことを言った奴がいたな…名前も覚えてない雑魚だったがね…』
貴音の縛られていた右手と左手の隙間が徐々に広がっていく。
『彪よ、そろそろ本気で来い』
『えっ』
『俺を殺して自由になりたいんだろう?』
力を込めて手をねじると、右手が縄からずるりと抜けた。
『無抵抗で殴られるだけの相手に膝をつかせることもできないのが暴殺拳か?そんなはずないよなあ?』
『ぐうっ』
「こ、この野郎…」
怒りで震える喜太郎の手――カッターナイフを持った右手に、ゆっくりと両手を伸ばし――掴む。
「なにっ」
虚を衝いた一瞬の隙――貴音は渾身の力で喜太郎の手を引き寄せ、その甲に噛みついた。
「ぎゃあっ」
悲鳴とともに、喜太郎の手からカッターナイフがこぼれ落ちる。
「『あああああああああああああああああああああああああああああ!!!』」
貴音と彪が雄叫びをあげてそれぞれの敵に飛び掛かるのは、ほぼ同時だった。
縛られた両足で思い切り床を蹴り、喜太郎が痛みで引き戻す手に捕まってソファーを乗り越え、全体重をかけてのしかかる。
大の男でも、突然49キロの質量がのしかかってくれば転倒せざるを得ない。
腰を強く打てば動けなくなるし、運よく後頭部を打って気絶してくれるかもしれない。
馬乗りになって首を絞めれば、非力な自分にでも無力化できるかもしれない。
そう考えた末の、捨て身の特攻。
しかし、貴音は男女の腕力差を甘く見すぎていた。
尻もちをつかせることはできたもののすぐに突き飛ばされ、あっというまに仰向けの状態で組み伏せられてしまう。
「クソがっ!」
喜太郎が平手で貴音の横顔を思い切り叩いた。
バチィン!と大きな音が響き、耳の奥に針で突き刺したような痛みが走る。
鼓膜が破れたのかもしれない。
「死んで当然のクズを庇うのか?まさかもうアイツに抱かれでもしたのか?」
「くっ…下卑たことをっ…!」
「黙れメスブタァっ!」
今度は右手で首を鷲掴みにされ、後頭部を床に叩きつけられた。
脳が揺すられ、視界がチカチカした光で覆われる。
それでも、喜太郎を睨みつける貴音の目は死んでいない。
逆に絶対的優位に立っているはずの喜太郎の目には焦りや不安の色が見えた。
「たとえっ……あの方が……悪人だったと……してもっ…」
首を絞められているせいで息がほとんど吸えない。
肺に残っていた空気を絞り出し、なんとか声にする。
「いまは……わたくしのために……いのちを…かけて…」
喜太郎の手を掴み、爪を立てるが、びくともしない。
「みすてられる…はずが………ありませんっ!」
首を圧迫する力が急に強くなった。
「あ……がっ………」
気道と頸動脈を握り潰され、急激に意識が遠くなっていく。
「芸能人はもみ消すのが面倒だから無傷で帰すつもりだったんだけどな……まあいいや。彪には半殺しで止めるように言って…ズタボロになったお前の屍体を見せつけて…それから殺す。まあ俺が
視界が暗くなり、耳も聞こえなくなっていく。
喜太郎が空いている手で衣服を剝ぎ取ろうとしているのを感じるが、もう、どうすることもできない―――。