「五代先生、わがまま言って御免なさい。私、分かりました。五代先生がそんなに言うんだったら、私・・・」
「嫌だけど、ここでこいつと一緒に泊まります。私、まだ・・・なのに・・・こんな形で・・・なんて、酷すぎる。・・・う、ううっ・・・」
5号室の中で、京也の布団を挟んで裕作に向き合った八神は、俯いたまま涙を溢しながら言った。
裕作が慌てて両手を出して何度も振った。
「や、八神。な、何も泣くことは無いだろう?わ、分かったよ。俺がここでこいつと寝るから・・」
「八神は響子と一緒に管理人室に泊まりなさい」
「いいんですか~。やっぱり五代先生は優しいのね。じゃあ、お言葉に甘えて管理人室に泊めさせて戴きま~す」
八神はぴたっと泣きやんで、嬉しそうに微笑みながら裕作に答えた。
響子は不機嫌そうに首を振りながら八神に言った。
「とにかく、一緒にいらっしゃい。ほんと、困った娘ね」
管理人室では八神が服を脱いでパジャマに着替えていた。ネグリジェ姿の響子は布団を整えながら彼女に話し掛けた。
「八神さん。あなたね、自分の寝間着も、洗面用具も、ずっとここに置きっぱなしでどういうつもりなの?」
「すみません、先輩。ご迷惑掛けちゃって。何か置いておかないとご縁が無くなりそうな気がして・・・」
「でもこの寝間着、そろそろ置いとくの止めにします」
「はい。そうして下さいね」
出来るものなら早く縁を切りたいわよと思いながら響子が答えた。
八神がパジャマのボタンを留めながら響子に呟いた。
「このパジャマ、もう胸がきつくって・・・今度は、ネグリジェにしようかなあ~?」
「あ、あのねえ・・・」
響子が顔に手を当てて首を振った。八神は管理人室を見渡して響子に訊ねた。
「ところで、先輩。春香ちゃんを見掛けませんが、どうしたんですか?」
「今、私の実家にいるんですよ」
そう響子が答えると、八神は突然嬉しそうな表情で、響子の前に身を乗り出した。
「す、すると。先輩と五代先生、ついに破局を迎えたんですか?」
「何でそ~なるのよっ!」
響子が布団を、ばふっと叩きながら大きな声を張り上げた。
「春香は私の両親が面倒を見たいからって一時、ただ預かってもらってるだけです!」
「な~んだ。そ~いうことかあ。先輩、鏡台をお借りしますね」
八神はつまらなそうに答えると鏡台に座って髪を整え始めた。
八神の髪は、ちょうど響子と同じくらいの長さまで伸びていて、後ろ姿はまるで響子の妹のような感じだった。
背中から腰にかけての緩やかなカーブも大人の女らしさが出ていて、柔らかそうなお尻が艶めかしかった。
八神が鏡台の自分の顔を見ながら響子に言った。
「私、先輩に少し似てきたかなあ。胸も大分でっかくなってきたし・・・」
「私、昔から先輩のような女性になりたいって思っていたんですよね~」
「そうかしら。八神さんは八神さんだから、八神さんなりの方がいいんじゃないの?」
響子は胸が大きけりゃいいってもんじゃないわよと思いながら答えた。
八神は響子の方を向いて、真面目な表情で話し掛けた。
「でも五代先生の様な男性は、先輩のようなとっても美人で髪の長いすっごくボインな女性が好きなんでしょ?」
「さ、さあ?男性が好む女性のタイプにも色々あるんじゃないの。いいから、もう寝ましょ。あなたも明日は早いんでしょ」
そう答えると響子は自分の布団の中に潜り込んだ。八神も響子の隣の布団に入った。
「先輩。今晩はご迷惑を掛けちゃって、本当に御免なさい。でもこれもみんなあいつのせいですから」
八神が天井を睨み付けながら響子に謝った。響子は彼女の方を向いて訊ねた。
「あいつって5号室で主人と寝ている男の方のこと?あの人、八神さんとどういったご関係なの?」
「か、関係とかじゃなくて、ただの男友達ですよ」
「でもこんな夜遅くまで一緒にお酒を飲んだり、外泊したりして、あなたのあの厳しいお父様が、よく黙っていらっしゃるわね」
「あいつ。父の得意先の息子だし、調子が良くて父を完全に籠絡しちゃってるんです」
「父も私とあいつが既に出来てるって勘違いしちゃってて、もう孫の話まで始める始末なんですよ。全く、やんなっちゃいますよ」
「あいつも図に乗って許婚とか言っちゃって恋人気取りだし、私が一人暮らしを始めたのも、家にいると強引に話をまとめられそうだったからなんです」
「ふ~ん。そんな話があったの。でもちゃんと付き合っているところをみると、あなたも満更嫌でもなさそうな感じだけどなあ~?」
今度は響子が微笑みながら身を乗り出し八神に訊ねた。
「わ、私は、ただ、逃げ回るのが嫌なだけですよ。父の顔を立てなくちゃいけないし・・・」
「本当に、それだけかしら」
響子がいぶきの顔を覗き込むと、八神は不機嫌そうな表情をして響子に背を向けながら言った。
「いいから、もう寝ませんか。明日も早いことだし・・・」
・
・
5号室では布団の中で裕作がまだふてくされながら天井を見上げていた。
裕作は今晩落ち着いたところで、響子に昼間のことを詳しく聞くつもりだった。
それが八神とこの見知らぬ京也とか言う男が来たおかげで話が流れてしまった。
「くそっ。時間がたったら響子に聞き辛くなるじゃないかっ。だいたい八神とこいつのせいで・・・」
裕作は隣の布団の京也を睨み付けた。
すると京也が、むくっと布団から起きあがり不思議そうに5号室をきょろきょろ見渡した。
「あれっ。ここはどこだ?何で俺はここで寝ているんだろう?うわっ!あ、あんた誰だ?何でここで寝ている?!」
京也は隣の布団の裕作を指さして怒鳴った。
裕作はふう~っと溜め息を吐いた。
「俺は五代裕作という者だ。俺が何で寝ているかというと、生まれて以来の習慣でなあ」
「それから俺が何でここにいるかというと、ここが俺の家だからだ!」
「何で、あんたの家で俺は寝ているんだ?」
「こっちが知りたいわっ。おまえが勝手に酔い潰れたんで、八神がここに連れて来たんだよ」
「な、何っ!あんた、いぶきの何なんだ!ご、五代・・?・・聞いたことのある名前だな。」
京也が裕作に飛びつきパジャマの襟をつかんで叫いた。裕作は咳き込みながら答えた。
「お、落ち着け。お、俺は単なる八神の女子校時代の教生だよ。」
「ああ。思い出した。あんた、いぶきの女子校時代からしつこくいぶきを追いかけ回していたスケベ教師だろ?」
「確かいぶきを散々振り回した挙げ句の果て、いぶきに振られたもんで・・・」
「仕方無しにボロアパートの未亡人の管理人と結婚したとか・・・・いぶきの親父さんが言ってたなあ」
「そうか、ここがそのボロアパートかあ。ほんと、酷い所だなあ」
「ど~いう話の聞かされ方をしとるんだっ!全く。あの親父さんは何を考えとるんだ」
「八神に振り回されているのはこっちの方だっ!」
裕作はぶすっとした表情で京也を睨み付けた。
京也は5号室を見渡しながら裕作に訊ねた。
「それで、いぶきはどこにいるの?」
「下の管理人室で寝ているよ」
「それじゃあ、行ってみるよ」
京也は布団から起きあがると、5号室から出ていこうとした。裕作が慌てて呼び止めた。
「おいっ!おまえはこんな夜中に女の寝ている部屋に行って、何をしようというんだ?」
「だから、ナニを・・・」
「な、何を言っとるんだ!俺の女房と一緒に寝ているんだぞ。」
「え。いぶきってそういう趣味があったのか...そ、そうか。それで俺をいつも避けるんだなあ・・・そういう訳か・・・」
京也は立ったまま腕組みをして真剣な表情で考え込んでいた。裕作は呆れて京也を眺めた。
「全くもう、あ~言えばこ~解釈する。なんちゅ~奴だ・・・」
裕作は何となく八神の父親の性格に似たやつだと思いながら呟いた。
その時、4号室と5号室の間の壁の穴から四谷がしゅるしゅるしゅると蛇のように身を乗り出して来た。
「五代君。静かにしてもらえませんかあ。寝られないじゃあ~りませんかあ」
「うわっ!で、出たなあ。へ、蛇男!俺は蛇が大っきらいなんだっ!」
京也が四谷を見て驚いて叫いた。四谷が5号室に出てきて京也をじっと睨み付けながら迫った。
「ふっふっふふふ。私は改造人間、蛇男っ!いくぞっ!仮眠ライダー~!」
「く、来るなら、こいっ!相手になってやるっ!」
京也が四谷に向かって身構えた。裕作が二人に怒鳴った。
「二人とも、夜中に何バカやってんだかっ!ああ~、何で俺がこんな目に遭わなくちゃならんのだ。俺は、もう寝るっ!」
そう言うと裕作は不機嫌そうに布団を被った。
・
・
管理人室の布団の中で八神は天井を見上げながら呟いた。
「ねえ、先輩。五代先生との結婚生活って、どんな感じですか?」
「どんな感じって・・・好きな人とずっと毎日一緒に暮らしているんですもの、とっても幸せよ」
「主人はいつもあたしを大切にしてくれるし、あたしも常にそうしたいと思っているから・・お互いに支え合ってるのが嬉しくて・・・色々と楽しいままよ」
「結婚して1年半、かしらね。でも今でも新婚だって思ってるし・・恋人気分だって感じてるわよ。・・・一緒に買い物するだけでもデートみたいで嬉しいし・・ね」
「何をするのもどこに行くのも必ず二人一緒なんだから、それこそ夫婦だけの特権って言ったら大げさだけど醍醐味かしら?」
響子は五代との夫婦生活を簡単に説明するだけのつもりだったので最初はとつとつと話していたが段々と幸せな毎日を思い浮かべて微笑みながら返答をしている。
それに対して聞き入っていた八神は何故か嫉妬よりも憧れを感じてしまう。そして思わず本当に聞きたかった事をつい言葉に出してしまう。
「じゃあその・・・あの・・・夜の、夫婦の営みも順調ってことですか?」
((だって会う度に思うんだけど先輩ってホントに美人だなぁって・・こんな綺麗な女性が妻として夫に・・五代先生にどう愛されているのか、その艶めかしさには興味が有り過ぎて今夜こそ是非とも教えて欲しいな))
((私だって胸が高校の時より少しは大きくなったけど・・先輩には全然敵わないから。こんなにすっごくボインな美貌の女性って男なら誰だって放っとかないし狼になりたいんじゃないかな?って思っちゃうしね))
「・・・・・・・・・それって、八神さん。他人に話すことなのかしら?・・・だから何も言いません。主人に聞いても同じよ。あの人も男の友達にだって言わないんだから聞いても無駄だわ・・・それはね、あたし達だけの秘密なの」
「・・・・・でもあたしは去年身篭って今年の春に主人の子供を出産したから・・本当に文字通り二人の愛の結晶を授かったのよ・・・春香っていう娘をね。それがお互いに愛し愛されている証拠で証明でしょ?・・だから結婚して本当に今あたし凄く幸せよ」
響子は八神からのいささか不躾な質問を嗜めるような口調と言葉できっぱりと拒絶するが、そんなことは愚問でしょうと既成事実を持って証明する。そして内心でだけ・・ずばり断言してしまいたいことを呟く。
((今夜みたいに八神さん達に邪魔されなければ、今頃・・・主人はあたしを簡単に寝かせてくれないんだから・・・今でもほとんど毎晩ね。・・・あたしからだって時々は求めるわよ・・だってあの人のことが大好きだから愛したいの))
((愛し合う性行為に関して言うなら・・・どちらかが体調でも悪くない限りお互いに遠慮なんて本当にしないのよ・・それこそあたしたちは正真正銘の夫婦なんですからね・・・そうなれるまで5年も6年も掛かったけれども))
((だからあたしは主人から求められると凄く嬉しいし・・あたしだって求めたい・・・あたしから求めた時に・・主人はとても嬉しそうに喜んでくれるわ・・・夫婦の営みって肉体的だけじゃなくて精神的な繋がりも感じ取れるから神聖で大切なものなの))
((そうだからそれはね、あたし達二人だけの秘密なんだから他人になんて口外するわけないでしょ・・八神さん?))
「・・じゃあ質問を変えます。・・結婚してから愛とか・・愛情って更に深まりましたか?」と八神はめげずに異なる表現での質問を更に投げ掛けて来る。
((残念無念・・・どんだけエッチなことしてるか知りたかったのに。回数とかペース・・ローテーションだけでも教えて欲しかったのに・・・やっぱ駄目か))
「・・・ホントに懲りない人ね、八神さんって。・・・どう表現すべきか分からないけど、愛情なら・・確かに深まって来るわね。そうね・・あたしは主人のことが大好きだし、主人もあたしのことが大好きだと言ってくれたから結婚したんだけど・・」
「お互いに大好きだなって思っていた点が想像以上にホントに大好きだなって思えてくる時とか場合が多いし・・相手のして欲しいこと、やりたいことが言葉が無くても分かってくる感覚とか感じが嬉しいかな。だから会話の質が変化してくるのよね」
「今までなら十のうち八か九を言わないと誤解する元だったのが・・半分の五くらいとか、場合によっては一か二ですぐに理解できるようになることが増えていくのかな?・・段々と相手の気持ちが掴めて来る感覚が・・・愛情が深まるってことかしら」
「だから結婚して一緒に暮らしていなければ養えない夫婦同士としての言葉とか気持ちの変化とかが・・全てではないけど、愛が深まって来ているって言うことなのじゃないのかしら?」
五代と夫婦になってから事実として、本当に夫への愛情が大きくなっていて深まっているのは実感としてある響子は明快に断言する。どこまで分かってくれるのかは不明よねと思いつつ。
「ほんと、先輩が羨ましいなあ・・・結婚かあ・・・・ホントに好きな男との人と一緒に暮らせたら・・きっと毎日が楽しくなれるん・・だろなぁ・・・・」
八神はそう言うと溜め息を吐いた。響子が彼女方に身を乗り出して訊ねた。
「ふ~ん、結婚って言葉に妙に現実的な反応があるじゃないの。八神さん、本当はあの億山さんって方のこと好きなんでしょう?」
「だ、誰があんな奴・・・」
「そう、ムキになるところを見ると間違いないみたいね」
「そ・・そんな。決めつけないで下さいよ」
「あら、ハッキリしないのって嫌いって言ってたんじゃなかったかしら?」
響子は微笑みながらちょっと意地悪く八神に訊いた。彼女は響子を睨み付け不機嫌そうに答えた。
「それじゃあ言いますけど。私、五代先生のことがどうしても忘れられないんです。」
響子はちょっと驚いた表情でいぶきの顔を見詰めた。
八神は微笑んだ。
「うふふ。先輩が隙を見せたら五代先生を奪い取っちゃいますから」
八神は笑いながらそう言ったが、目は笑っていなかった。響子は真剣な表情で彼女の目を見詰めながら、きっぱりと答えた。
「もしも、本当にそんな真似をしたら、許さない!」
全く妥協を本気で許さない気持ちを込めて響子ははっきりと断言する。
八神は暫く間を置いて、今度は本当に笑いながら響子に言った。
「あはは。良かったあ~。先輩が何も言い返さなかったら、本気になるところでしたあ。あははは」
「全くもう、主人のどこがそんなにいいのかしらねえ~?」
((でも・・例え味見だけでも、あなただけじゃなくて他の女性になんて絶対させないわよ。主人はあたしの・・あたしだけの男なんだから!))
((あたしは主人を独占したいから・・主人にあたしを独占して欲しいから結婚したのよ。だから・・・浮気なんて論外も論外よ))
((主人はあたしっていう女の最大の理解者だけど、あたしだって主人っていう男性の最大の理解者なんだから・・それは誰にも絶対に負けないわよ))
響子は無邪気に笑い続ける八神を見詰めながら大きく溜め息を吐いた。
八神は笑いを突然止めると、天井を見上げ呟いた。
「女子校の時・・五代先生の教育実習の最終日に五代先生とお別れした時、私、泣けちゃったんですよね」
「先輩、真実の涙って無駄に使っちゃいけないんですよね、いつ必要になるか分からないから・・・その時、思ったんです」
「この涙を無駄にしちゃあいけないって・・・・」
それっきり響子と八神は黙り込んでしまった。
布団の中で目を瞑りながら響子が心の中で、本心から八神に忠告したいことを呟いていた。
((ねえ八神さん?・・・主人はあたしという女が、生(き)のまま何も変わらなくて変えなくていい・・ううん、あたしという女そのものが好きだ、大好きだと言ってくれてるのよ))
((だから結婚しても、ね・・・そう””気を遣う””我慢する””なんてこと何もしてないわ・・だってそんなことしなくていいんですもの))
((そう・・だから願望とか、して欲しいことを何の遠慮も無しに常に言ってるの。それは・・”ずっと一緒にいて”・”あたしを一人にしないで”・”あたしだけを見て”って口にも出すし態度でも表情でも出すわ))
((・・・だってそうしてもらわないとあたしって・・その・・本当に駄目なの))
((そんなあたしのわがままを聞いても主人は嫌な顔をほんとにしないし、ヤキモチを妬いて拗ねても、膨れっ面になってもね怒らないのよ・・・それがあたしっていう・・響子という女だからって))
((どう?あたしが主人の・・五代のこと全身全霊を掛けて好きなこと、大好きなこと、愛している理由が分かるかしら?))
((あたしが欲しいのは五代裕作という男性・・そして彼との夫婦として支え合って愛し合う愛情の溢れる生活、それから娘の春香との家族水入らずの暮らし))
((あたしはそれらを絶対に手放さないわよ・・・八神さん、あなたには残念ながら何も得られるものは無いと断言するわ。残酷かも知れないけど、ね))
((だから大学でも社会でも誰か八神さんにとって心の琴線に触れる男性がいつか必ず現れるわよ。横恋慕しているだけで精一杯なほど頭の中に余裕が無い女の子には見えないけれど、ほんの少しだけでも冷静になって欲しいな))
・
・
翌日の早朝、遠くで小鳥のさえずりが微かに聞こえる中、二階の流し台で四谷、裕作、京也がシャコシャコと歯を磨いていた。
三人は明らかに寝不足と思われる様子で目の下にクマを作っていた。
するとそこにPiyoPiyoエプロン姿の響子と、Koi Koi招き猫エプロン姿の八神が朝食の準備に二階に上がってきた。
「みなさん、お早うございます」
響子と八神が三人に挨拶した。
「ああ、お早う・・・」と五代。
「お早うございます、管理人さんと八神さん」と四谷。
裕作と四谷が響子と八神に挨拶した。京也は響子をじっと見詰めたまま歯ブラシを動かす手を止めていた。
響子と八神が朝食を持って5号室に入った時、京也は慌ててバッと歯磨き粉を流し台に吐き出し、裕作に驚いた表情で訊ねた。
「あの綺麗な女の人、誰ですか?」
「俺の女房だよ」
「え、ええ?!すると、あれがボロアパートの管理人で未亡人だった人ですか?」
「そ、そうだけど・・・」
「す、凄い・・メチャクチャ美人じゃないですか。ちょっと話が違うなあ・・・」
「ちょっとじゃなくて、お前の聞かされとる話は、ぜ~んぶ間違っとるんだっ!」
京也は裕作の言葉を無視して、5号室の中に入って行った。
「奥さん、初めまして。億山京也と申します。昨夜はどうもご迷惑をお掛けして済みませんでした」
「いつもいぶきがお世話になっている様で、ありがとうございます」
「はあ。どうも、五代響子と申します。お話は八神さんの方から・・・・」
響子が呆気に取られながら京也に挨拶した。
八神は京也を睨み付けた。
「京也さん、ちゃんと五代先生に御礼を言ったんですか?」
「酔い潰れたあなたを部屋まで運んで下さって、見ず知らずのあなたと一緒に同じ部屋で泊まって下さったんだから・・・」
「ああ、いぶき。もうそれは、ちゃんと謝ったし礼も言ったよ」
八神と京也のやり取りを見て、響子はまるで夫婦みたいねと思いながら微笑んでいた。
5号室では食卓の周りに、響子と裕作、八神と京也がペアとなって向かい合う形で並んで座り、
四谷が空いている食卓の一辺に主のように座っていた。四谷が四人に向かって口を開いた。
「さあ。遠慮なく朝食を頂きなさい」
「あんたなあ。朝食をたかりに来た者が、何偉そうに言ってんですか」
裕作が不機嫌そうな表情で四谷に怒鳴った。四谷が両手を合わせて合掌しながら裕作に答えた。
「まあまあ、五代君。こんな朝から不機嫌そうに怒鳴っていては、せっかくの一日が台無しになってしまいますよ」
「朝は明るく笑って愉快に朝食を戴きましょう。いやあ、大勢で囲む食卓は楽しい」
「僕は、不愉快ですよ。はっきり言って・・・」
裕作は頬に手を当てて、ぶすっとした表情で四谷に言った。
京也が響子の顔をじっと見詰めながら話し掛けた。
「奥さん、部屋に泊めて頂いたばかりか、朝食までご馳走して頂いて、本当にありがとうございます」
「いやあ、素晴らしいアパートですね。年期の入った渋みというか、素材の自然なあり方を追求した風情というか」
「・・壁に開けられた穴の素朴な味わいも何とも言えない・・・・」
「はあ。そ、そうですか。まあ、とにかく何もありませんが遠慮せずに召し上がって下さい」
響子は首を傾げながら答えた後、隣の裕作と顔を見合わせて首を振った。
八神が裕作に向かって微笑み掛けながら食卓を指し示した。
「五代先生、この肉じゃがと野菜炒め、私が作ったんですよ。是非召し上がって下さいね」
「あ”、あ”あ”。美味しそうだね・・・」
裕作がやたらごついジャガイモの塊と、皿の上の焦げたキャベツを呆然と眺めながら答えた。
四谷が裕作を横目で見ながら箸を出した。
「それでは、私は管理人さんの作ったひじきの煮つけと、きんぴらごぼうを頂くことにしましょう」
「五代君は私に遠慮せずに、八神さんの料理をしっかり頂いてください。まあ、お構い無く」
すると京也が八神の作った野菜炒めに箸を出した。すると八神が慌てて京也の箸を持った手を叩いた。
「これは五代先生の為に作ったんです。あんたは他の物を食べてなさい!」
「せっかく結婚した時の予行演習のつもりだったのに・・・」
「朝っぱらから何言ってんですか。あんたと結婚するつもりはありません!」
「こうやって夜明けの朝食を一緒に食べる間柄なのに?」
「な、何言ってんのよっ。そ~ゆう言い回しは変な誤解を招くでしょ。じょ~だんじゃないわ!」
響子と裕作は顔を見合わせて微笑みながら京也と八神の様子を眺めていた。
四谷だけが全く気にならない様子で、自分で用意した茶碗に勝手にご飯をよそい続けていた。
(次回へ続く)