めぞん一刻 二次小説 眠れぬ夜   作:今津晶

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第8話  帰り道

八神が口をぽかんと開けて斗志久を見詰めていると、突然、斗志久の家の二階の電話が鳴った。

 

「誰かな?ちょっとごめんね。すぐ戻ってくるから、服を脱いで待っていて下さい」

 

斗志久は電話に出る為、スタジオから廊下に出ていった。八神はどうしたらいいのか分からず、しばらく呆然としていたが、はっと気がついてスタジオから出て行こうとした。

するとそこに斗志久が戻ってきた。

 

「どこに行くんです?撮影は、これからですよ」

 

「あ、あの・・・私・・・あっ、ちょっと洗面所へ・・・」

 

「ああ。洗面所なら、廊下の突き当たりを左です。八神さん」

 

「ど、どうも、ありが・・・・えっ?」

 

八神はスタジオの出口で斗志久とすれ違う格好のまま固まってしまった。

彼女が振り返って斗志久の顔を見ると、斗志久は厳しい表情で八神を見詰めていた。

 

「八神、八神いぶきさんでしょう?さっきの電話、本物の慧子さんからの電話です。慧子さん、今日は急に都合が付かなくなったそうです」

「まさか八神さん、洗面所に行く振りをして、そのまま逃げ出すつもりじゃないでしょうね?」

「何故僕のことを嗅ぎ回っているのか、事情を聞くまでは帰す訳にはいきませんよ」

 

「ご、ごめんなさい。騙すつもりは無かったんです。ただ斗志久さんの事を知りたくて」

「そうしたらちょうど、モデルさんと勘違いされたみたいだったので、ついそのまま・・・で、でも何で私の名前をご存じなんですか?」

 

斗志久は深々と頭を下げて謝る八神を見ながら、ズボンのポケットから黒い手帳を取り出し、手帳に付属している鉛筆を抜き出して彼女に見せた。

その鉛筆には、八神が通う女子大の名前が書かれていた。

 

「これ、八神さんの手帳の鉛筆でしょう?この鉛筆は、一刻館の管理人室に置き忘れた僕の手帳にあった物です」

「僕が置き忘れた手帳を受け取りに一刻館に行った時、ちょうど僕とすれ違いで八神さんも一刻館に来ていたでしょう?」

「僕の予想が正しければ、君は一刻館の管理人室で僕の手帳の内容を自分の手帳に書き写し、自分の手帳の鉛筆を僕の手帳に入れ間違えてしまった」

「僕はここに引っ越して間もないし、僕の住所や慧子さんの撮影のことを知っていると言うことは、手帳の内容を見たとしか考えられないですから」

「八神さん、教えて下さい。どうして僕のことを調べているんですか?」

 

斗志久は、じっと斗志久の話を聞いていた八神に手帳の鉛筆を渡した。

八神は鉛筆を受け取ると、ジーンズのポケットから赤い手帳を取り出し、赤い手帳にゆっくりと鉛筆を差し込んだ。

 

「本当にごめんなさい。手帳の内容を勝手に盗み見たりして・・・私、何て言っていいか・・・」

「私、別に斗志久さんの事を嗅ぎ回っていた訳じゃないんです。ただ斗志久さんと管理人さんとの関係が知りたくて・・・」

 

「僕と響子さんとの関係?一体、何のことかな?」

 

八神は、斗志久と響子が犬の散歩中に交わしていた会話を偶然聞いてしまった事、管理人室に忘れたパスケースを取りに入った時に、つい斗志久の手帳を盗み見た事を正直に斗志久に話した。

斗志久は彼女の話を聞き終わると、犬の散歩中に響子と交わした会話は、単に一刻館で犬にズボンを汚され、管理人室で響子にズボンの汚れを落してもらっただけであることを、八神に説明した。

 

八神は呆然とした表情で斗志久の説明を聞いていた。

 

「た、たった、それだけの話なんですか?ど、どうしよう・・・私、とんでもない勘違いしちゃって・・・」

 

「だけど、八神さん。最近の女子大生は興信所のバイトもやるんですか?それとも響子さんの御主人にでも頼まれたんですか?」

 

「そ、そういう訳では・・・」

 

「どんな事情があるにしても、僕のことはともかく響子さんの事を疑うなんて僕には信じられない!」

「響子さんが不倫とか浮気をする様な・・そんな人の道から外れたことをして平気でね、平然としていられるような女性に見えますか?」

「もし御主人がこんな馬鹿げた事を君に頼んだとしたら、僕は御主人を許す訳にはいかない・・・・」

 

「い、いえ・・・別に五代先生に頼まれた訳じゃなくて・・・これは、私の独断でしたことで・・・つ、つまり、私・・・」

 

「五代先生?八神さん、何だか深い事情があるみたいですね。元々僕が撒いた種が原因みたいだし、差し支えがなければ話を聞かせてもらえませんか?」

 

八神は斗志久の真剣な眼差しを見て、斗志久に促されながらスタジオの中に戻りベッドの上に腰掛けた。

何故だか知らないが斗志久には相手を素直にさせる不思議な魅力があり、八神はゆっくりと自分と裕作との関係を話し始めた。

一刻館の5号室では一人取り残された裕作が、布団の中で天井を見上げながら自問自答を続けていた。

 

『八神達、どこ行ったんだろう・・・腹が減った・・・くそっ八神のやつ、看病するとか言いながら、ろくに飯も食わせないじゃないか・・・』

『このままじゃあ、風邪を治すどころか餓死してしまう・・・ああ、ひもじいなあ・・・だけど・・・』

『響子、俺のことなんかどうでもいいのかな・・・・確かに八神と外泊したのは事実だし、響子が怒るのも無理ないけど・・5号室に俺と八神が一緒にいて心配じゃないのだろうか?・・・』

『いい加減、響子、そろそろ俺に愛想尽かしてんじゃないだろうなあ・・・だけど、もし俺が惣一郎さんのように、このまま死んでしまったとしたら・・・・』

『い、いかんっ、何変なこと、考えてるんだっ・・・ああ、誰でもいい・・・誰か居ないのかなあ・・・』

 

「だあ~れ~だあ?」

 

四谷が5号室の壁穴から静かに身を乗り出し、両手で裕作の両目を塞いで訊ねた。

 

「うわわわっ!四谷が出たっ!四谷が出たっ!ごほっ、ごほっ」

 

「ああ、五代君。生きてましたか。あんまり静かだったので心配になったものですから・・・」

 

「あ、あんたなあ・・・ぜ~ぜ~。心配をするなら、おどかさないでくれませんかっ。ぜ~ぜ~。全くもうっ・・・心臓が止まるかと思った・・・」

 

その時、裕作の腹がぎゅるぎゅると鳴った。四谷はじっと裕作の顔を見て腕組みをしながら言った.

 

「五代君、もしやお腹が空いているのではありませんか?管理人さん達に何か作ってもらったらどうです?」

 

「それが出来るくらいなら苦労しませんよっ。ごほっごほっ」

 

「なんなら私が管理人さん達と交渉してもいいんですが・・・条件として、私の食べる分も作ってもらうということで・・・」

 

「ほ、本当ですかっ。そうしてもらえると助かるなあ・・・はっくしょっ」

 

「それじゃあ。さっそく管理人室に行って交渉してきます」

四谷はそう言うと、壁穴にごそごそと引っ込んでいった。

 

四谷の姿が見えなくなったと思ったら突然思い出したように四谷が再び壁穴から顔を覗かせた。

 

「そうそう、五代君。ああいうものが目の前にあると体に良くないんじゃないでしょうか。」

 

四谷は5号室の窓の外に干してある八神のブラジャーとパンティを指さしながら言った。

 

「ついでと言ってはなんですが、何なら私が目に付かないように預かってあげてもいいんですが・・・」

 

「結構ですっ。ぜ~ぜ~」

 

「そうですか・・・しかし五代君、本当に顔色が悪いですよ。あんまり刺激的な物が近くにあると・・・」

 

「顔色が悪いのは寝てないからですっ。ぜ~ぜ~。夜は八神が出来心で何かしないか不安で、おちおち寝てられないんですよ」

「ごほっごほっ。おかげで完全な不眠症なんです。昼間は昼間で枕元に死神がいるし・・・いいから早く頼んできて下さいよっ。ぜ~ぜ~」

 

「はいはい。それでは・・・」

四谷は残念そうに首を振ると、再び壁穴にごそごそと消えていった。

 

 

四谷は二階から降りてきて、管理人室の扉を開けると中に入った。

管理人室では一の瀬が窓の外で洗濯物を干している響子を眺めながら、一人お茶を飲んでいた。

 

「おや、四谷さん。五代君達に何か進展でもあったのかい?」

 

「いえ。今は五代君、5号室で一人寂しく休んでおられます」

 

「それで五代君、少しは反省しているみたいかい?」

 

「それがですねえ。五代君、とうとう八神さんにも愛想を尽かされたみたいで、食事も満足に摂ってないみたいなんですよ」

「顔色も酷く悪いし・・・とにかく無条件降伏するから、食事を恵んで欲しいと申しておりました」

 

「そうかい。さすがにこたえているみたいだねえ。あたしゃあ、そろそろ五代君が音を上げる頃だと思ってたんだよ」

「さ~てと、それじゃあ管理人さんに報告して、話し合いを進めるよう説得してくるか・・・だけど五代君、本当にそんなに具合が悪いのかい?」

 

「はい。それが夜になると、八神さんが寝かせてくれないみたいです。それで五代君、八神さんに何か出来はしないか不安だって言ってましたが、どうも完全な不妊症らしいです・・・」

「そう言う態度では、八神さんにも愛想をつかされるのも当然かと・・・」

 

「何だって?!何を考えてんだ、あいつはっ!」

 

「何って・・・やっぱりアレでしょうねえ・・・あのう、私が管理人さんに報告してきましょうか?」

 

「何言ってんだいっ。そんなこと言ったら管理人さん、ショック死しちまうよっ!」

 

「では・・・お食事の方は・・・」

 

「いいから、放っときなっ。全くもうっ、どうしたもんかねえ・・・」

 

一の瀬は窓の外の響子を見ながら溜め息を吐いた。

 

 

5号室の裕作は、風が当たってゴトゴト揺れている窓をじっと眺めていた。

裕作は布団からゆっくりと起き上がると、窓枠に手をかけて窓がきちんと閉まっていることを確認した。

裕作がふと窓の外を見ると、裏庭で響子が洗濯物を干している姿が目に入った。

そう言えば昔は、こうやって5号室の窓から響子の姿を飽きもせず眺めていたものだったと、裕作は独身時代のことを思い出した。

 

((・・・来年こそは合格するように頑張って下さいね、浪人さんっ・・・))

 

あれからもう7年か・・・響子との最初の出会いは、僕が浪人生で、響子が新しくやって来た管理人の関係だった・・・・

それが今、響子は僕の最愛の奥さんで、僕と響子の間に生まれた娘の春香の母親になっている・・・

だけど一刻館の管理人という立場は変わっていない・・・初めて会った時からずっと・・・今も、そして多分これからも・・・・

 

「管理人さん・・・か・・・・」

 

裕作は窓の外の響子に呼び掛けるように呟いた。するとどこから飛んで来たのか枯れ葉が、響子の長い髪の上に舞い降りて来た。

 

「そうだっ!」

 

裕作は慌ててカバンから自分のノートを引っ張り出すと、新しいページを下敷きで綺麗に切り取った。

その切り取ったページに自分の思いの丈を書き込み、紙飛行機にして5号室の窓から裏庭に飛ばし、響子に伝えようと思い付いたのだ。

裕作はボールペンを手に取ると、さて何から書き始めようかと思案を巡らせた。

斗志久の家を出た八神は、肩を落としながら時計坂をとぼとぼと下っていた。

冷たい風が彼女の顔に吹き付けていたが、今の彼女には全く気にならなかった。

それどころかもっと風が吹き付けて、自分をどこか遠くの知らない場所に吹き飛ばしてくれないかとさえ思っていた。

 

やがて古ぼけた一刻館の佇まいが見えてくると、八神の歩みはだんだん遅くなり、一刻館の門が見えた所で突然立ち止まった。

一刻館の門の前に革ジャン姿の億山京也が立っていた。京也は八神に気付くと、彼女の方に向かってゆっくりと近付いて来た。

 

京也は無精髭を生やし、疲れ切った表情で八神に何か話し掛けようとした。

八神は京也の顔をじっと睨み付けた。

 

「ここに何しに来たのよっ。五代先生のご迷惑になることをしたら、私、ただじゃおかないわよっ!」

 

「そ、そんなことは・・・ただ、俺、いぶきに会いたくて・・・いぶきに会って、ちゃんと謝りたくて・・・それで・・・」

 

「今更何よっ。あんな酷いことして・・・あんたの顔なんか、もう二度と見たくないわ。いいから、もう帰って!」

 

八神の表情は妥協を全く許さない位に固く厳しい。

 

「い、いぶき・・・本当に、ごめん。俺、今までどうやって女をベッドに誘い込むか、そのことばかり考えていて、女の気持ちなんて考えたことも無かった」

「だ、だけど・・・いぶきに対する思いは、今までとは全く別のものだった。いぶきの事、本当に好きだったんだ。例え、どんなことをしても・・・いぶきを、手放したくなかった・・・」

 

「あんたは、今までに人を本当に心底真剣に・・全身全霊を掛けて死に物狂いで好きになって愛したことがあるの?本当の自分をさらけ出して、例え失恋しても構わない度胸を持って・・愛する努力もしないで、ただ愛されようなんてムシのいい話だわ」

 

容赦無く糾弾された京也は・・己の行為について弁解はしようとはしなかった。

ただその代わりに充血した目でその下に寝不足のクマを見せながら、喉の奥から搾り出すようにこれまで誰にも言えなかったであろう過去を告白し始める。

 

「実は・・・俺、大学生だった頃、結婚を誓い合った女性がいたんだ。彼女は3つ年上のバツイチで・・親が毒親でその家の命令で仕方なく好きでもない奴と結婚させられたけど、あんまり相手が理不尽なんで遂に離婚した経験があったんだ」

「いくつかの偶然が有って知り合って意気投合して本気で恋愛してて・・・両親に内緒で半分同棲もしていた・・・本当に俺は惚れ込んでたんだ・・だから俺は彼女と結婚したかった」

「やがて彼女に俺の子供が出来て、俺は彼女と結婚することを決意して両親に報告した。両親も最初は反対してたけど、辛抱強く説得してやっと分かってくれた。俺は大喜びで彼女の元に戻った」

「ところが彼女はどこかに消えてしまっていた。俺は必死になって彼女の行方を探した。両親にも彼女を見付けるように頼み込んだ」

「しばらくして彼女の行方を両親から聞かされた。彼女はもう既に別の男と暮らしていたんだ。彼女の子供も俺の子供じゃなくて、その男の子供だった・・・それから俺は変わった・・・もう女なんかに二度と心を許すもんかってね」

「手当たり次第に女と寝たし、そうすることで彼女の事を心から消し去ろうとした。だけど彼女の事をどうしても忘れることは出来なかったよ・・・いぶきに出会うまではね」

 

「・・・・・そう・・だったの・・・だけどそれが本当だとしても、自分がその女性に傷付けられたから裏切られたからと言って、他の女性を傷付けてもいいはずがないことくらい分かるでしょ!」

「あなたがやって来た事は決して許されることじゃないし、私も絶対に許さないわ」

 

「ああ・・・分かってるよ・・・いぶきに許してもらえるとは思っていない。俺も自分で自分が許せない。ただ謝りたかっただけなんだ。・・ケジメとしてね」

「もう二度といぶきの前には現れないし、五代さんに迷惑が掛かるようなマネも絶対しない。・・信じてもらえないかも知れないけど約束させてくれ」

「それじゃあ、俺、もう帰るよ・・・元気でな、さようなら・・・」

 

「さようなら・・・」

 

「あっ・・・俺がいぶきに偉そうに言える立場じゃないけど、いぶきは本気で五代さんと管理人さんの関係を壊すつもりなんかじゃないんだろ?」

「五代さんってさ、頼り甲斐が有るとか無いとかじゃなくて・・人に関わりたいって思わせる人だな。誰とでもね・・それ感じたよ。何にも儲からないのにな・・だから、いぶきがあんなに慕うのも分かる気がする」

「ほんのちょっとだけど話してみて管理人さんも美人とかだけじゃなくて人を色眼鏡でなんか見ない素敵な女性だなって思えた。だから五代さん夫婦って・・多分すっごく仲が良いのは当然だけど本当に絆が強いカップルに見えた」

「いぶきは、だからそんな事が・・・そんな酷いことが平気で出来る女じゃないもんな」

 

「わ、分かってるわよ・・・そんなのは当然知ってるし・・あんたなんかに言われなくても・・・」

 

「安心した。じゃあ、本当に元気でな。さようなら・・・」

 

力無く立ち去ろうとした京也に八神は言葉を投げ掛ける。

 

「・・京也・・・あたしだって人のこと偉そうに言えた義理じゃないけど、あんたが惚れ込んだ女の人って男を騙して平気な女なの?裏切られたって言うけど直接本人に聞いたの?」

「・・例え聞いたってホントのこと言ってくれないかも知れないけど確かめたの?・・詐欺師だってボロ出すんだから、ホントの事を見抜けないの?・・好きだったら分かる筈よ。本気で好きならね」

「あんたじゃなくてあんたの家が金持ちなだけだけど、だから家なんて捨てたっていいじゃない。あんたが稼いだんじゃないんだから。それくらい覚悟して探して逢えば?その女の人と。・・どうなるか結果は知らないけど」

 

「ありがとう。・・・いぶきはやっぱり違うな。俺みたいな奴に本気で忠告するなんてさ・・・お前って何故か人にやる気を起こさせる才能が有るよ。・・お世辞じゃなくてホントに褒めてんだぜ?」

「そうだな。俺ってバカな人間でも女に本気で惚れることあるんだ。本気なんだから振られたって別に構わないよな。・・・・本気で惚れる気持ちがあるんだから・・結果なんて考えないで、やってみるよ。・・いや、やるさ」

「今度こそ本当に・・・さようなら。・・達者でな!」

 

京也は八神に微笑むと、駆け足で坂を下って行った。

八神は京也の姿が見えなくなるまで、じっと立ち止まったまま見送っていた。

 

 

裏庭で物干し竿に洗濯したシーツを掛けていた響子は、八神に言われた言葉がずっと頭から離れず体を動かすことで何とか自分を誤魔化そうとしていた。

 

((本当に大切な男なら、愛する夫なら、まず五代先生の看病をするのが妻の役目でしょ!))

((管理人さんは、五代先生の妻の自覚が足りないんじゃありませんか。きっと、五代先生より、まだ前の御主人の事を大切に思っているんだ・・・))

 

ふと響子の脳裏に病院のベッドに横たわる亡くなった惣一郎の姿が甦り、やがてその惣一郎の姿は、最愛の夫である裕作へと変わっていった。

響子は恐ろしさの余り、はっと小さな声を上げてしまった。響子は物干し竿にかけた自分の左手の先をじっと見詰めた。

 

左手の薬指には、裕作の祖母から形見代わりに頂いた指輪が煌めいていた。

響子は今までじっと耐え続けていた心の防波堤が、ゆっくりと崩れ出したことを感じていた。

響子は思わず5号室の窓に向かって振り返った。

 

5号室の窓は開いていた。そしてそこには、やつれた裕作の顔があった。

裕作はちょっと驚いた表情をした後、響子に向かって微笑むと、傍らから紙飛行機を取り出し、響子に向かって紙飛行機を開く動作を繰り返し示した。

響子が意味を理解して小さく頷くと、裕作は響子に向けて紙飛行機を注意深く飛ばした。

 

紙飛行機はしばらく空中を旋回しながら、ゆっくりと響子の側に舞い降りてきた。

その時、管理人室の方から一の瀬の大声が聞こえてきた。

 

「管理人さ~ん。電話、電話だよっ」

 

「はい、は~い。すぐ出ます」

 

響子は裏庭に落ちた紙飛行機を拾い上げると、小さく折り畳んでスカートのポケットに押し込み、空の洗濯カゴを抱えて管理人室に戻った。

 

「一の瀬さん、どなたからの電話です?」

 

「それが、万(よろず)さんって方からなんだけど、知ってるかい?」

 

「あら・・・斗志久さんですか?何かしら・・・」

 

「何だって。万って、あの二枚目のことだったのかい・・・」

 

「ええ・・・まあ・・・」

響子は首を傾げながらサンダルを脱ぐと管理人室の中に上がった。

 

一の瀬は響子の様子をじっと伺いながら話し掛けた。

 

「五代君もずっとあの調子だし、あんたもさあ、その・・・何て言ったっけ・・・そう、斗志久さんとかと浮気しちまったらどうだい?」

 

「な、何を馬鹿なことを言ってるんですっ!斗志久さんに失礼じゃありませんかっ!もうっ一の瀬さんったら・・・」

 

「ああ・・そう・・まあ、あんたが浮気ができる性格じゃないことくらいは、分かってるけど・・・」

一の瀬は煙草の煙をふうーっと吐き出しながら天井を見上げた。

 

 

 

(次回へ続く)

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