めぞん一刻 二次小説 眠れぬ夜   作:今津晶

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第9話  最終話 忘れ得ぬ刻への想い

響子は一の瀬を横目で睨み付けながら、電話の受話器を取り上げた。

 

「お待たせしました、五代です」

 

「ああ、響子さん。斗志久です。突然、電話して申し訳ありません。ちょっと気になったものですから」

 

「はあ・・・どんな、ご用件でしょうか?」

 

「それが、八神さんに関することなんですが・・・あのう・・・八神さん、もう一刻館に戻っているでしょうか?」

 

「えっ。八神さんですか?まだ、戻って来ていないみたいですが・・・だけど、どうして斗志久さんが、八神さんの事を?」

 

「実は・・・ついさっきまで、八神さんと一緒だったんです」

 

「八神さんとですか?でも、どうして・・・八神さんが斗志久さんの所に・・・」

 

「あ、いや。偶然、出会って・・・八神さん、写真に興味が有るみたいで・・色々と写真についての話をしていたのですが・・・・」

 

「あら。斗志久さん、八神さんのお知り合いだったんですか?」

 

「え、ええ、まあ。八神さんの女子大関係で・・・ちょっと・・・」

 

「そうだったんですか。それなら教えて下されば良かったのに・・・それで、八神さんが何か?」

 

「あの・・ちょっと不躾で、申し上げにくい事なんですが・・・八神さんと話をしていて・・響子さんと御主人の間でちょっと・・・」

「八神さんに関することで誤解が生じていて、どうもその原因の発端が私自身にあることが分かったものですから・・・」

 

斗志久は、斗志久と響子が犬の散歩中に交わしていた会話を、いぶきが偶然聞いて、斗志久と響子の関係を勘違いしてしまい、

響子に対して的外れな態度を取っていた事、八神がボーイフレンドの京也に騙されてホテルに無理矢理泊めさせられそうになり裕作が八神を救った事、

裕作が手違いで京也の準備した睡眠薬を飲んで朝までホテルで眠ってしまった事を響子に説明した。

 

「・・・ということで、八神さんと御主人との間には何も・・・あのう?もしもし。響子さん、分かって頂けましたか?」

 

「あっ。は、はい。大体の事情は・・・分かりました。だけど・・・斗志久さん、どうしてそこまで・・・・」

 

「い、いえ。や、八神さんの事で響子さんと御主人の間に誤解があるなら、元々の責任は、私にありますから・・・」

「あのう、それで・・・こんな事を私が頼むのは本当におこがましいのですが、もし八神さんが戻って来ても、あんまり彼女を責めないようにして頂けませんか」

 

「そ、そんな責めるなんてことは・・・」

 

「良かった。彼女、事情を聞いて相当落ち込んでいたみたいなので、心配になったんです」

 

「私も八神さんとは長い付き合いですから、八神さんがどんな方か、それなりに分かっているつもりですが・・・」

「でも斗志久さん、本当に八神さんの事を良くご存じなんですね?」

 

「あ、いや。そ、そうでも無いのですが。何となく、放っておけなくて・・・そ、それじゃあ。電話が長くなって申し訳ありませんでした」

 

「いえ。わざわざどうも・・・」

 

「だけど・・・八神さんと話をしていて、五代さんって本当に素敵な御主人だと思いました。響子さん達が、羨ましくなっちゃいましたよ」

 

「そ、そんな・・・」

 

「あ、すみません。勝手なことばかり言って。それじゃあ、これで」

 

「はい。どうも・・・」

 

響子はゆっくりと受話器を置いた。側で聞き耳をたてていた一の瀬が、受話器に手を置いたまま呆然と壁を眺めている響子に話しかけた。

 

「さてと、管理人さん。そろそろ状況を整理しようじゃないか」

一の瀬は煙草の煙を再び、ふう~っと吐き出した。

 

 

斗志久は受話器を置くと、電話の側に広げておいた黒い手帳を眺めた。

一刻館の電話番号が書かれたページを閉じようと手帳に手を触れた時、ふと手帳の表紙の裏に貼り付けたサクラの写真が目に入った。

斗志久は写真の中で微笑んでいるサクラをじっと見詰めた。

 

「サクラ・・・どうして八神さんのことが、こんなに気になるのかな・・・・」

斗志久の脳裏に、病院のベッドに横たわるサクラの姿が甦った。

 

夕暮れが射し込んだ病室で、斗志久はサクラの手をしっかりと握っていた。

サクラは苦痛に耐えながら、精一杯の笑顔を作って斗志久に囁いた。

 

『あなた・・・私が死ぬまで・・・側にいてね』

 

「サクラ。僕が死ぬまで、ずっと一緒だよ』

 

サクラはゆっくりと首を振ると、空いていた手を斗志久に握られた手の上に重ねた。

 

『駄目よ・・・私が死んだら・・・私のことは・・・忘れなくちゃあ・・・あなたは、新しい恋人を探すのよ・・・』

 

『何を言うんだっ、サクラ』

 

『私・・・あなたに幸せになって欲しいの・・・ねえ、約束して。私の分まで・・・幸せになるって・・・・』

 

『サクラ・・・ああ、約束するよ。だから、君もしっかりしなくちゃ』

 

『私は・・・しっかりと・・・・あなたを・・見守り続けるわ・・・・・』

 

それが愛する妻サクラの最後の言葉だった。

斗志久はサクラに約束したものの、サクラの事を忘れるなんて事は、どうしても出来なかった。

斗志久は、時々サクラが自分の事を叱っているような不思議な視線を感じることがあった。

 

しかし今日、斗志久は八神いぶきという女性と話している時、なぜかサクラの柔らかくて優しい眼差しを感じていた。

そして八神の表情の中に、元気だった頃のサクラの表情を重ねていたことを不思議に思った。

 

「どうしたんだろう。全然、似てないのに・・・」

 

斗志久は笑みを浮かべると部屋の隅の柱時計を眺めた。

ずっと悲しみだけを刻み続けていた時計が、忘れていた熱い鼓動を刻み始めたことを知らせるように、刻を打った。

 

 

響子は一の瀬に斗志久の電話の内容を説明すると、管理人室の扉を開けて5号室へと向かった。

一の瀬は管理人室の中で、さっそく茶々丸の朱美に電話を掛けていた。

 

響子が廊下を足早に歩きながら玄関を通り過ぎようとした時、玄関先の犬小屋の前でしゃがみこんでいる八神を見付けて立ち止まった。

 

「八神さん・・・」

 

八神は犬小屋の前で、惣一郎の前足を弄びながら溜め息を吐いていた。

響子は玄関の扉を開けると、犬小屋の前の八神に声を掛けた。

 

「八神さん・・・そんな所でじっとしていると、風邪を引きますよ」

 

「か、管理人さん・・・」

八神は、はっとして響子の方に顔を向けると、ゆっくりと立ち上がった。

 

「管理人さん、今までご迷惑を掛けて本当に・・本当に済みませんでした。私・・・自分のアパートに戻ります」

「だ、だって五代先生の部屋って狭いんだもん・・・・」

「五代先生に初めてお会いした日から、五代先生の心の部屋は管理人さんで満杯で目一杯で、私なんか・・・私なんか、全然・・何にも只の一歩だって入り込む余地なんて無いんだもの・・・」

 

八神の瞳から大粒の涙が幾つも零れ落ちた。響子はどんな表情をして良いか分からず、呆然といぶきを見詰めた。

 

「八神さん・・・」

 

「管理人さん。私・・・昔、管理人さんに弱虫って、偉そうなこと言っちゃったけど、まだ謝って無かったですね。御免なさい」

「私の方がよっぽど弱虫ですね。私、五代先生から離れてしまうと、自分自身の輝き全てが・・何かやりたいことがあれば全力で目一杯、とにかく突っ走る私って女が・・・消え失せてしまう気がして・・・」

「きっと、それが恐くて・・・ただ五代先生の想い出にしがみ付いていただけだったんですね・・・」

 

八神は、溢れる涙を手で拭った。響子は自分のハンカチを取り出すと、彼女の側に近づき、そっと八神の涙を拭いてあげた。

 

「八神さん。いいんですよ、もう・・・そんな昔のことは。それに・・・あの時あなたが言ったことは、間違いじゃなかったんですもの。気にしないで」

 

「管理人さん・・・私・・管理人さんに酷いことばかりしたし・・今回も色々とあんなに失礼なこと言ったのに・・・気遣って下さるなんて・・・・謝って済む事じゃないけど・・本当に御免なさい.・・」

「あっ!五代先生を叱らないであげて下さいね。五代先生、今まで私を一人前の女として扱ってくれたことなんて無かったですから。手を出してくれたことなんて結局ただの一度もな~んにもありませんでした」

「しょうがないですよね・・私、まだ子供だもの・・・」

 

八神は、しばらく顔を伏せて表情を隠していたが、突然、顔を起こすと響子に明るい笑顔で言った。

 

 

 

「・・・というわけで、ハッピーエンドっ。あはは。五代先生は、へんてこな娘から解放されて、愛情を培ってきた妻の元に戻っていく・・・」

「感動的な音楽が流れて・・・エンドマーク。そして新番組の予告が流れて・・・お終い。さ~てと、私も新しい恋を見付けなくちゃっ。あはは・・・」

 

「八神っ。ごほっごほっ」

 

いつの間にか、二階の5号室から下りてきた寝間着姿の裕作が、玄関から八神に声を掛けた。

響子が驚いて振り向き、八神が笑顔を驚愕の表情に変えて裕作に答えた。

 

「ご、五代先生っ!大丈夫なんですかっ?」

 

「八神・・・どうするつもりだ?ごほっごほっ」

 

八神は両手を伸ばし姿勢を正すと、裕作に向かって深々とお辞儀した。

 

「五代先生。今まで随分と先生を困らせちゃって、済みませんでした。これで・・・今度こそ、本当にお終いにします。今まで・・・ありがとうございました」

「五代先生の優しさは、一生忘れません。私・・・五代先生と知り合えて、本当に嬉しかった。さようなら・・・五代先生・・・・・」

 

八神の瞳から再び涙が溢れ出した。

八神は裕作と響子に背を向けると、その場から立ち去ろうとした。その瞬間、彼女は仰向けに響子に向かって倒れ込んだ。

 

「ちょ、ちょっと八神さんっ!」

 

響子は慌てて倒れた八神を必死に抱えた。裕作も裸足のまま響子の元に駆け込んだ。

響子は目を瞑って意識の無い八神の額に手を当てた。

 

「まあっ。ひどい熱っ」

 

「ごほっごほっ。僕の風邪が移ったんだな・・・」

 

すると玄関から一の瀬と四谷が現れて、八神を取り囲んだ。

 

「どうしたんだい?こりゃあ大変だっ。とにかく部屋の中に運ばなきゃ」

 

その時、八神がふと意識を取り戻した。彼女は裕作の手を握り囁いた。

 

「私・・・5号室へ・・・ご、五代先生は・・管理人室に戻って・・・お願い・・・」

 

そう言い終わると、八神は再び意識を失った。裕作と響子は顔を見合わせると同時に頷いた。

 

「と、とにかく5号室へ・・・ごほっごほっ」

 

響子が肩で八神を支え、裕作が彼女を背負った。四谷も響子と反対側で肩を貸した。

裕作、響子、四谷は八神を抱えて一刻館に入ると、ゆっくりと階段を上がり二階の5号室まで辿り着いた。

 

3人は八神を、裕作が今まで寝ていた布団の上に降ろした。

すると裕作が布団の上の八神に、そのまま覆い被さるように布団の上に倒れ込んだ。

 

「あ、あなたっ!何やってんですかっ!」

 

響子が驚いて裕作の体を八神から離そうとした。

八神の為に水に浸したタオルを用意して来た一の瀬が、裕作に向かって呆れたように言った。

 

「五代君、あんたもほんとに懲りない男だねえ~。何も布団に雪崩れ込むことは無いだろうに・・・」

 

響子は裕作の体を必死に揺すっていたが、裕作は八神に覆い被さったままの姿勢で全く動く気配が無かった。

 

「あ、あなた・・・ど、どうしたの?しっかりして・・・あなたっ。あなたっ!」

 

その時、裕作の腹がぎゅるぎゅると鳴り、裕作が気が付いた。

 

「だ、大丈夫・・・何も食べて無くて・・・力が抜けただけ・・だから」

 

「ああ、びっくりした・・・心臓が止まるかと思ったわ」

 

「ご、ごめん。ごほっごほっ」

 

 

裕作は八神から離れると、響子の側に寄り添った。一の瀬が八神の額の上にタオルを載せながら、響子と裕作に向かって話しかけた。

 

「八神さんは、あたしと四谷さんでしっかり面倒を見るからさあ。あんた達は管理人室に戻って、食事でもしたらどうだい?」

 

「そうそう。八神さんのことは、この四谷先生にお任せ下さい」

 

四谷も自分の胸を叩いて裕作に言った。裕作は不安そうな表情で四谷を睨み付けた。

 

「一の瀬さんは、ともかく・・・四谷さんは、ど~も心配なんですよね。大丈夫かなあ・・・」

 

「五代君は、私の人格を誤解している。八神さんは私の大事な教え子ですよ。教え子と言えば、我が子同然・・・」

 

「まあまあ。とにかく、ここはいいからさあ~。あんた達、早く行きなよ」

 

「それじゃあ・・・一の瀬さん。八神を宜しくお願いします」

 

裕作は四谷を制している一の瀬に答えると、響子の肩に手を掛けた。響子も裕作の背中に手を回しながら一の瀬に答えた。

 

「それじゃあ。何か有ったら呼んで下さいね。」

 

響子と裕作はぴったりと寄り添いながら5号室から出て行った。

「あなた、寒くない?」

 

響子はコタツで響子の用意したお粥とみそ汁を凄い勢いで食べている裕作に話し掛けた。

 

「だ、大丈夫」

 

裕作は空になった茶碗をコタツの上に置きながら答えた。

 

「ああ、美味しかった。一気に平らげちゃった。おかげで急に元気が出た気がするよ」

 

「良かったわ。ちょうど惣一郎さんのお昼ご飯が残っていて・・・」

 

「そ、惣一郎のご飯の残り・・・」

 

「あ・・・御免なさい。ちゃんと人も食べられるものだから」

 

「あ、いや。ふ、夫婦喧嘩は、犬も食わないって言うからなあ・・・・あはは」

 

そう言うと裕作は気まずそうに俯いて、コタツの中に両手を入れた。

響子も一瞬、気まずそうな表情を見せたが、明るい笑顔で裕作に話し掛けた。

 

「お、お布団、敷くわね・・あ、あなた、5号室ではちゃんと寝られたの?」

 

「きょ、響子・・ご、御免・・・俺・・・・」

 

「待って。それ以上、何も言わないで・・・私、みんな分かっているから・・・あなたと八神さんの関係を、少しでも疑った私がバカだったのよ・・・」

 

「響子・・・だけど、きちんと話しておかないと・・・誤解が有ったら困るし」

 

「大丈夫。お話なら斗志久さんから伺ったわ。億山さんが、あんな人だったなんて意外ねえ・・・」

 

「と、斗志久さんって?」

 

「あっ。斗志久さんの事、あなたにお話ししてなかったかしら。最近、時計坂に越して来られた方なんですけど・・・」

 

響子は一刻館に斗志久の飼い犬のサクラが迷い込んで、斗志久が惣一郎にズボンを汚されたので、管理人室で斗志久のズボンの汚れを落としてあげた話、

響子と斗志久が犬の散歩中に交わしていた会話を、八神が偶然聞いて響子と斗志久の関係を勘違いしてしまったことを裕作に説明した。

 

「そ、そうだったのかっ。道理で八神の様子が変だと思ったんだっ。そうか、そう言う訳だったのか・・・ははは」

裕作は八神の事よりも、響子と斗志久の関係が全く何でも無かったことが心底から嬉しくて、思わず笑みを浮かべた。

 

「・・・それでね。斗志久さん、八神さんの女子大関係のお知り合いだったんですって。八神さんのことを本当に良くご存じだし・・・それに・・・どうも斗志久さん、八神さんのことが好きみたい」

 

「えっ。八神のことを?」

 

「八神さんのことが好きじゃなかったら、あんなに熱心な筈がないもの。私に八神さんを叱らないで下さいって頼むくらいなのよ」

 

「そう・・・八神、もてるんだなあ・・・」

 

「だけど八神さん、本当にあなたのことが大好きなのね。私、圧倒されちゃったわ」

 

「あ、ああ。や、八神にも困ったもんだ・・・・でも、これで本当に終わりにするつもりなのかな?」

 

「あら。あなた、何だか残念そうね」

 

「そ、そんなこと無いよ・・・」

 

「どうだか?本当は、八神さんと何か有ったんじゃないでしょうね?何かあったら許さないわよっ」

 

「な、何にも無いっ。何にも無いっ。ごほっごほっ」

 

裕作が咳き込み、慌てて響子が側に近寄ると裕作の背中をさすった。

 

「あ・・・御免なさい。私ってダメね・・・すぐムキになっちゃって。すぐお布団を敷くから待ってて」

 

響子がコタツの上を片付け、コタツの側に裕作が寝る為の布団を敷き終わった時、裕作はお腹が一杯になって眠たくなったのか、すでにコタツに入ったまま横になっていた。

響子は裕作の側に座ると、裕作の体を起こそうとした。

 

「あなた、お布団の用意が出来たわよ。あ、あなたったら、コタツで寝ちゃあダメよ」

 

「う~ん。響子・・・」

裕作は全く目を醒ます気配が無く、起こそうとした響子の膝を枕にして寝息を立て始めた。

 

「あなたったら・・・」

響子は膝の上の裕作の安心しきった表情を見て微笑むと、裕作の髪を優しく撫でた。

 

するとガサガサと紙の擦れる音がして、響子は傍らから小さく折り込まれた紙飛行機を手に取った。

響子は裕作を膝の上に載せたまま、裕作を起こさないように静かに折り込まれた紙飛行機を広げていった。

響子が紙飛行機を広げ終わると、しわくちゃのノートのページに裕作の特長のある筆跡で何か書かれていた。

 

響子は文面を目で追った。

 

 

『響子、いつも響子に迷惑ばかり掛けて本当に済まない』

『俺って本当に要領が悪くて、いつも響子に誤解されるような事ばかりして、どうしてこうなってしまうのか自分でも歯痒くて仕方が無いけど』

『でもこれだけは信じて欲しい。俺の心の中には響子しかいない』

『響子に初めて会った時からずっと、今も、これからも』

『響子と一緒に、同じ光を浴びて、同じ空気を吸って、同じ刻を過ごしていくことが、俺にとっての最大の幸せなんだ』

 

『確かに正直言って、時々不安になることもある。響子が俺と結婚して本当に幸せなのかなって』

『惣一郎さんが響子に与えていた幸せに負けないくらいの幸せを感じてくれているだろうかって』

『でも俺、惣一郎さんと同じくらい、響子の心の中が俺でいっぱいになるように努力するよ。俺にはそれしか出来ないから』

 

『だけど、こんなこと手紙に書くと、何だか照れくさいね。もうこんな手紙は二度と書かないように気を付けるよ』

『だって俺は響子に約束したんだもの。響子より一日でもいいから長生きするって』

『俺と響子は、これからもずっと一緒だし、俺の書き残した手紙を響子が読むなんて、おかしいだろ?』

 

『それじゃあ。俺の管理人さんへ、心を込めて。         裕作』

 

 

響子は文面を読み終わると、膝の上の裕作の寝顔を愛惜しそうに見詰めた。

 

((昔、私の中の惣一郎さんがいた部分に、今、あなたが居る・・・・居るのよ。あなたはもう私の心の一部なのよ・・・))

 

響子は、再び膝の上の裕作の頭を優しく撫でた。

 

((あなた無しでは、もう生きていけない・・・生きていたくないの))

 

響子の瞳からぽとんとぽとんと数滴の涙が裕作の頬に零れ落ちた。裕作の目蓋が動いて裕作が目を醒ました。

 

「う、う~ん。響子・・・泣いてるの?」

 

「う、ううん。何でもない・・・」

響子はしわくちゃのノートのページを慌てて隠しながら答えた。

 

響子は身を屈めて裕作に口付けしようとした。

 

「響子、風邪が移るよ」

 

「春香も居ないことだし、風邪が移っても構わないわ・・・それに、あなたと八神さんが風邪を引いて、私だけ除け者なんて嫌だもの・・・」

 

「響子・・・僕の風邪が治るまで、仕事は休むよ」

 

「いいえ。私の風邪が治るまでよ・・・」

 

響子は微笑むと、裕作の唇に自分の唇を重ねた。

一つの布団に枕を二つ並べて、響子は裕作を寝かせると自分も横に潜り込んだ。

 

「朝までずっと、ね・・・あたしがあなたを温めてあげるから」

お蔭で二日後には裕作も全快したが、響子は逆に軽い風邪を引く羽目になった。

もちろん、甲斐甲斐しく裕作が響子の看病をしたのは言うまでも無い。手際が少し悪かったのはご愛嬌だが、そんな夫を微笑ましく思う響子は素直に甘えることにした。

 

「響子、何かして欲しい事は無いかい?」

ずっと心配顔のまま裕作は尋ねた。

 

「ううん、今は別に。・・・あ、でも・・お風呂に行けないから髪の毛だけでも拭きたいな」

綺麗な長い髪の毛の響子さんからすれば髪の毛を清潔に保ちたいのは当然だ。

 

「ああそれなら、入浴しなくても髪の毛をさっぱり拭いてシャンプーも少し使ってする方法があるよ。俺も実習したことあるしね」

 

「え、本当?・・なら、お願いしようかしら」

 

「うん、任せてよ。ただ、あくまで応急処置だから本当のお風呂までとはいかないけれどね」

そう言うと五代は洗面器にお湯とシャンプー、それにバスタオルやフェイスタオルを何枚か用意して準備する。

 

保育園で実習した入浴できない人物の洗髪作業で介護に近いが本でも読んだことがあるし実際に経験もある。

特に手先が器用な五代にとっては他の事と違ってやりにくいものではない。

ヘアブラシとタオルを活用して洗髪してあげると響子さんの長髪が輝きを取り戻したようだ。

爽快感も感じることが出来て彼女もとても嬉しかった。 

 

「あなた、ありがとう。ホントすっきりした・・気持ちいい。知らなかったなぁ、こんな方法」

 

「うん、喜んでもらえて何よりだよ。・・少しは響子の役に立てたかな?・・他に何かしてもらいたい事って無いかい?」

 

「ううん、もうこれで十分。今は別に。・・・あ、でも・・やっぱり・・・・・・・・・入浴出来ないから・・・・・その・・・・身体も・・拭きたいな」

響子は頬を染めて・・裕作に大胆な提案をした。

 

「え、え?・・じゃ、じゃあ俺がその・・・体もさっぱりするように綺麗に・・ね、拭いてあげるよ」

裕作はどもりながら答えて、更なる準備に奔走した。

 

風邪を引いているからと言っても五体満足なのだから、響子自身で身体ならば髪の毛を洗うのと違って拭けるのだが裕作に全部任せることにした。昨日までとは逆の立場でしていた事だ。

夫婦同士でなければ出来ないことをする楽しみと期待。結婚して1年半、子供が産まれても新婚ほやほや同然のイチャイチャする振る舞いにお互い大いに楽しんで酔っていた。

響子の寝巻きと下着を脱がせて裸にする役目・・その大役は裕作が担った。大変に手際良く脱がせてあげることが出来たのは手先が器用なだけではなくて流石に普段から頻繁にしているだけの事はある。

 

「ね・・・こんなこと・・男性に脱がしてもらって素肌を全て晒して・・全身を拭いてもらうなんてこと、あなたが夫でなければ・・・頼めないわね?」

「う・・うん。いや俺、夫で嬉しいよ・・・響子の身体を拭くなんてね・・・こうして触れるし・・ね」

 

全裸になった響子の全身を優しく丁寧に拭きながら五代は正直に言えば興奮が収まらなかった・・乳房や背中、お尻に腹部・・それに大事な場所も・・そうして綺麗にした後に・・無言で見詰め合い事前の了解など不要で二人は交わることを始めた。

それから激しく2度も3度も濃厚に愛し合い、ここ数日の騒動により大切で甘美な夫婦の営みを妨げられた欲求不満を二人とも解消することが出来て大満足であった。

 

その後、裕作は激しく営んだ後始末をすべく響子の肢体を再度・・綺麗にそして丁寧に拭き取ってあげる。暖房器具としてストーブを点けているので室内は寒くないのだが、裕作に身体を吹き上げてもらった響子は布団の上でまだ裸のままだ。

いつもならば当然自分で下着などを身に付けるのだが今回はそうせずに、裕作に瞳で””ねえ?着せて?””と訴えて着せてもらおうとする。

・・・熱烈で艶めかしい情事の後だからか甘えたい気分になっていた響子に彼の手で下着や寝巻きをきちんと着せてあげて、密着する時間の長い口付けを優しく交した後に愛妻を寝かせてあげた。

 

「うふふ・・・あたしの優しい旦那様だから・・・・色々と・・あなたに何だか甘えたくなっちゃった♪・・・ありがとう♪♪・・・・・お休みなさい」

「うん、いつでもいいよ・・・・お休み・・響子」

響子を起こさない様に廊下の桃色電話で裕作は妻の実家である千草家に連絡した。どうにか明日には春香を迎えに行けそうだと。

しかし、2階の喧騒に気付くとそれを収めに向かった。

 

「ちょっとちょっと、皆さん。静かにして下さいよ。下で響子が寝てるんですから」

 

「何言ってんですか、五代君。君が悪いんでしょ、風邪を移すなんて」

四谷も言い返す。やはり元祖管理人ほどの迫力は裕作には無い。

 

「そうそう。しっかり看病してるのかい?管理人さんが掃除しないから、すぐに汚れちゃって」

一の瀬さんも突っ込む。

 

「まさか、悪化させるような事してるんじゃないでしょうね」

朱美も遠慮無く冷やかす。

 

図星であったが、そこは気にせずに裕作も言い返した。

 

「あんた達と一緒にしないで下さい。きちんと看病していますから心配要りませんよ」

 

「ほほぉ・・。具体的には、ご・だ・い・く・ん」

四谷の露骨な質問に、皆の視線が裕作に集まる。

 

「ふ、普通ですよ。普通。とにかく、掃除は俺がしますから」

裕作は話題を変えようとしたが、目敏く朱美が茶々を入れて発言する。

 

「え~?春香ちゃんが産まれたばっかなのに、もう二人目作ってんの。五代君の甲斐性で養っていけんのぉ?」

 

((な、何で分かるんだ?まさか覗いていた訳ないよな?))

 

「かぁ~相変わらずアツアツだね、あんたら。隣の私を気にもせず、ちょっとは静かにしてくれないとさぁ・・あんまりにも激し過ぎて、こっちは煩いし気になるから寝れやしないよ」

一の瀬の冷やかしに赤面する裕作に目もくれず、一の瀬さんは四谷と朱美にひそひそと五代夫婦の二人きりでの仲睦まじさを面白おかしく脚色して伝える。

 

・・・・”ホントとにかくさぁ~凄いんだから!普段から尻に敷かれている反動かねぇ?昼と夜とで攻守交替って奴?・・・まぁ、折角手に入れたんだから五代君が管理人さんを片時も手放したくないのは分かんだけどさぁ”・・・・

・・・・”あれじゃ管理人さんの身が流石に持たないんじゃないかって心配になるよ。まだ春香ちゃんだってオッパイが恋しい乳呑み児なのにさ、五代君が独占しようとしてオッパイまでも離そうとしないから困りもんだよねぇ?”・・・・

・・・・”ま、確かにすっごいボインだけどさぁ管理人さんって。あれかね?長年恋焦がれた麗しの女性が奥さんになってくれたから見境が無いのかね。だとしたらもうちょっとしっかりしないと甲斐性無しのままだよ”・・・・

・・・・”五代君が6時に帰宅して、どうして晩飯が9時過ぎなのかね?2時間以上も何してたら遅くなるんだい?その食後に宴会へ誘っても二人ともさぁ管理人さんはぐったりで五代くんはげっそりしてるから参加できないって理由があからさまだよね”・・・・

・・・・”母乳はさ絶対に余るんだけど、その残りを全部五代君が直接飲み干してるから管理人さんからしたら娘に飲ませるよりも夫に飲ませる量の方が多いんだから複雑だよね。しかも飲んだ後にね・・色々とね・・してるんだなこれが!”・・・・

・・・・”春香ちゃんがもし喋れたら絶対怒ってるよ。パパばっかりズルイ!!ってね。あの子だってママにキスして欲しいのにパパばっかりがママにキスするからね。ホント呆れるよ・・暑苦しいくらいにね”・・・・

 

「と、とにかく。俺はこれから掃除をしますから宴会もお開きにして下さい」

裕作は完敗したことを悟り、それだけ言うと5号室から消えた。

 

「まあ、これ以上管理人さんが風邪だと困るしお開きとするか」

名残惜しそうに一升瓶を抱えて一の瀬さんが宴会終了を宣言する。

 

「そうですな。私も管理人さんの手料理が恋しいですし・・・」

四谷も頭を掻いて従う。朱美は笑いながら呆れた。

 

「あはは、まだたかってんだ。四谷さん。」 

そして刻は流れ、一刻館にも年の瀬が近付いていた。

 

一の瀬が玄関の扉を開けて顔を出すと、髪を短くした八神が玄関先の犬小屋の前でしゃがみこんでいた。

八神は犬小屋の前で、惣一郎の前足を弄びながら惣一郎に話しかけた。

 

「良かったわね。赤ちゃんが出来たのよ」

 

一の瀬はしばらく口をぽかんと開けて目を白黒させた後、大声を上げて一刻館の中の響子と裕作を呼んだ。

 

「ちょっとお!大変だよっ。八神さん、赤ちゃん出来たんだって!」

 

すると玄関から一刻館の廊下を掃除していた裕作と、春香ちゃんを胸に抱いたいつものPiyo Piyoエプロン姿の響子が顔を出した。

裕作が鉢巻きを外しながら一の瀬に話し掛けた。

 

「八神がどうかしたんですか?一の瀬さん」

 

「ど~したも、こ~したもあるもんかっ!あんた、経済力が無いくせに、八神さんにまで子供を産ませるなんて、一体全体どうするつもりなんだいっ?」

 

「な、何の話ですかっ!僕は身に覚えがないって言ってるでしょ!」

 

一の瀬と裕作の会話を聞いていた八神は、呆れた様子で首を振ると二人に向かって怒鳴った。

 

「何言ってんですかっ!赤ちゃんが出来たのは、斗志久さんの所の犬のサクラですっ。惣一郎さんとの間に出来た子犬なんですよ」

 

そう言うと、八神は再び惣一郎の前足を取りながら惣一郎に話し掛けた。

 

「うふふ。惣一郎さん、パパになるのよ。良かったわね?」

 

すると春香を抱いた響子が、驚いた表情で惣一郎を見つめた。

 

「まあ。惣一郎さんが・・・パパ・・・」

 

「良かったじゃないか。惣一郎も家族が持てた訳だから・・・」

裕作が微笑みながら響子の肩に手を掛けた。

 

「うん、そうね・・・お祝いしなくちゃね」

響子も裕作の顔を見詰めて微笑んだ。

 

その時、一刻館の門から茶々丸の朱美が現れた。

 

 

「こんちゃ~すっ。毎年恒例の差し入れ、持って来たわよ」

朱美は酒の瓶を持ち上げながら、玄関先で呆然としているみんなに挨拶した。

 

「ちょ、ちょっとお・・・どうかしたの?」

すると玄関からひょいと現れた四谷が、暗い表情で朱美に答えた。

 

「いやあ。五代君がこともあろうに、八神さんに子供を作っちゃったんです」

 

「またあっ、四谷さんっ!とんでも無いこと言わないで下さいよっ!朱美さん、四谷さんの話は信用しないで下さいね。子供を作ったのは、犬の惣一郎なんですから」

裕作が慌てて朱美に説明した。朱美が呆気に取られながら裕作に答えた。

 

「へえ~。惣一郎さんが、八神さんに子供を作ったの?ど~やってえ?」

 

「な、何言ってんですかっ!」

再び八神が怒鳴って、朱美に同じ事を繰り返し説明した。

 

朱美は話を聞き終わると、八神に向かって不思議そうに訊ねた。

 

「ところで、あんたさぁ。ここで何してんのよぉ?五代君のことは、完全にすっぱりと諦めたんじゃなかったの?」

 

「え・・・あ、あの・・・ちょっと、一刻館で斗志久さんと待ち合わせの約束を・・・」

 

「ふ~ん。あんたって、つくづく管理人さんの男を横取りするのが好きなのねえ~」

 

「「違いますっ!」」

 

今度は、八神と響子が同時に朱美に向かって怒鳴った。八神は顔を真っ赤にしながら説明した。

 

「私は斗志久さんに、写真の撮り方を教えてもらっているだけですっ・・・」

 

するとちょうどそこに、一刻館の門からカメラを持った斗志久が現れた。

 

「こんにちは。ああ・・・これは、みなさんお揃いで・・・あっ。いいなあ、その構図・・・ちょっと皆さん、じっとしていて下さい!」

 

そう言って斗志久はみんなに注意を促すと、手に持ったカメラを構えてシャッターを押した。

八神は自宅のマンションでマホガニーの机に座り、古ぼけた女子高の卒業アルバムを開いて眺めていた。

八神は既にもう長い時間、アルバムの最後のページに貼り付けておいた一枚の写真をずっと見詰めていた。

 

遠くでアメリカのパトカー特有のサイレンが鳴っていた。彼女は少し寒そうに身を震わせた。

ニューヨークの自宅のマンションにも年の瀬が忍び寄って来ている。

その写真には、古びた一刻館を背景に、まだ幼い春香を抱いた響子、響子の肩を抱く裕作、二人を取り巻く一の瀬、四谷、朱美、犬の惣一郎、そして八神自身の姿が写っていた。

 

八神にとってその写真は、女子高校生時代の最後の・・本当の意味での””卒業””写真だった。

彼女は卒業アルバムをゆっくりと閉じた。

 

””私はもうあの刻に戻ることは出来ない。でもあの輝いていた刻の私は、ずっと私を見守り続けている””

 

””今も、これからも・・・永遠に・・・””

 

 

 

──SO LONG ! GOOD-BY──

 

 

 

(眠れぬ夜 完結)


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