暇だ、実際暇ではないんだがやるべきことに手が伸びずやりたいことへのやる気もない、全部がなんだかめんどくさくてスマホをいじることでしか時間の過ごし方が分からなくなっていた。起きても目を開けるだけの生活。嫌気がさすが、さすだけで何かを変えようとすることはなかった。ただ自分にできることは扇風機がちょうどよく当たるように調整することと意味のないSNSの更新だけ。
「ただいま」
こんな俺でもほかのやつより恵まれていると感じることがある。それが今帰ってきた同居人の存在である。安藤美樹。同じ大学の同級生で2年の時から俺の家に住み着くようになった。
「今日授業は? あんた昨日も寝てばっかだったでしょ」
バイト帰りのそいつはけだるそうにしながら冷蔵庫の中を吟味する。
「昼言ったろ。今日はなんもないって」
「あっそ。ビール、最後の飲んじゃっていいの?」
それはだめだ。何もしていない人間が心地よく睡眠に入るためにはアルコールが不可欠である。俺の唯一の安住を妨げることはだれにもゆるされないことだ。
「買ってきてくれるならいいよ」
「なにそれ、じゃあ一緒に行こうよ」
女というものはなぜこうも団体行動を好むのだろう。いや関係ないな。俺だってこんなぐうたらしている奴のために行動を起こすのは至極御免。しかもこういうやつに一回でも甘やかしてしまうと子供が母親にねだるように甘えを正当化してしまう。でも頼む安藤。お前は俺がすがれるたった一つの甘えになってくれ。
「だる」
「おごるって言ったら?」
「んー、まだちょいだる」
「……たばこもないでしょ」
こいつ、俺の扱い方を”理解”ったつもりか? 甘い甘いよ。買い物なんてのは一人で行けばいいんだ。わからないか? 金はどうせ俺の財布から出るんだし。俺はもう何時間も寝っぱなしで布団から出るのも億劫。今日何回押したかわからない更新ボタンを押すのに夢中なんだ。大体コンビニなんて歩いて3分とかからない場所にあるんだから二人で行く意味がない。お前が行けばこんな意味のない会話もする必要がないし、逆に二人で酒飲んでだらだらする時間が増えるじゃん。物事の重要性を考える能力を養ったほうがいいぞ。
「ゴムも」
……俺の負けだな
「……行くか」
何かをするのはめんどくさいがいっちょ前に性欲はある。SNSも今どきのインスタとかじゃなくツイッターだしな。エロ絵師をフォローするだけのアカウントだから流れてくるのもそういうものしかない。だからなんというか年中発情期なんだよ。仕方ないだろ。
「ほんと最低」
「いや、俺は悪くないだろ」
「ふーん、じゃビール飲んで寝るね。あとは自分で何とかして」
意地悪だな。だがいったん折れてしまった俺の負けだ。
「……行こうぜ」
「……わかった」
寝てばっかりの体を起こす。それだけなのにいちいち力むことが20代という衰えを感じさせる。高校の頃はテニス部に入っていて少しはあった筋肉も自堕落な生活とアルコール、たばこに蝕まれ自分の首を自分で緩やかに絞めていることを嫌でも認識させる。日焼けとは無縁の白くなった手を見てあの頃を懐かしむが、今更戻ろうという気にはならない。底が見えない暗い海を意思も何もないまま流され、自分の来た道も行くべき道もわからないまま死んでいくんだろうな。少しセンチな気持ちになって安藤の方を見る。
「なんか、顔、きもいよ」
「……」
こいつは俺の悩みが分からないんか。お前だって俺と同じだ。行く場所もわからない二人が偶然出会い一時の快楽に身をゆだね傷をなめあっている。まあ、先に手を出したのは俺なんだけど。
「いこ」
安藤が使い古した俺のサンダルを履き催促する。あまり似合わないたばこを咥え慣れた手つきで火をつけた。
「一本くれよ俺のもうない」
安藤はたばこの箱を逆さにし少しオーバーに箱を振る。底にたまったたばこの葉が散らかった玄関にぱらぱらと落ちた。そのアクションに少し腹が立ち安藤のたばこを奪う。
懐かしい味がした。少しブドウの味がする。冷たい煙が流れ込み忘れかけてた清涼感にむせかける。安藤とまだ付き合ってる頃に吸っていた懐かしい味が。
外はまだ蒸し暑かった。ぼうっとひかる画面にはだいぶ前に気に入ったモデルが笑顔を切り取られたまま微動だにしない。時刻は12時を回るところだった。月も分厚い雲に隠れ道を照らすのは虫がたかる街灯だけ、お互い話すこともないまま行き飽きた道をただ歩く。安藤も安藤で両手でスマホを持ち、たばこを咥えダルそうな目とは裏腹にせわしなく指先を躍らせる。女の子は両手でスマホを使うのがかわいいんだよな、スマホに照らされる安藤の顔を眺めそんなことを思った。別に目立って美人というわけでないが俺の好きな顔。最後に見たのが寝起きのすっぴんだったからバイト用のメイク姿に目が奪われる。すると不意に安藤の目が俺をとらえた。
「何? 覗き? きもいんだけど」
違うよ。いや違わないんだけどそうじゃない。
「寝起きのひでー顔しか見てなかったから。かわいらし──いうちにちゃんと見とこうと思って」
「きも」
初めて会ったときはもうちょいかわいらしかったのに、今では咥えたばこなんてしてとんだ不良娘になってしまった。俺に好き好き言ってきて甘えてたこいつはもういない。安藤の目が再びスマホに戻り吸い切ったたばこをペッと口から飛ばす。赤い閃光が地面に散った。
「お前たばこやめねーの?」
「そろそろやめんじゃない。体に悪いし」
「へー、あんなうまいうまい言ってたのに」
「あの頃はね」
そういうと安藤はスマホをしまいコンビニの中に消えていく。少し引っかかるような口ぶりだったがこれからのことの照れ隠しだろう。いつもは俺から誘うのに、あいつからゴムの有無の話が出るのは久々だった。安藤との甘酸っぱい時間は少しだけで付き合ってから3か月ぐらいで肉欲を満たすだけの関係になってしまった。きらびやかな街に出かけるよりも狭いアパートで酒とたばこを嗜むような関係になり付き合ってた頃と変わらないのは体を重ねることだけになった。
俺も遅れてコンビニに入る。安藤はいつものゴムを当たり前のように手に持ち500mlの水を手に取ろうとしているところだった。
「お茶飲むわ」
俺の言葉に相槌はない。けど安藤は下の段のお茶をとり扉を閉める。そのまま酒の方に移るから俺はつまみを探すことにした。安藤が好きなイカそうめんと二人で食べる用の無駄にでかいポテチ。それだけ持ってレジの方に行くと安藤も裏で作業をしているだろう従業員を待つようにレジの前に立ちスマホをいじっていた。
「今日はだれがいると思う?」
「店長だけでしょ」
「俺は夜勤大学生にかけるね」
そんな話をしているとバックヤードからはコンビニの制服がパツパツな店長が出てくる。そういえば今日は平日だったか。寝て起きてたまに大学を繰り返していると曜日感覚というものは死んでいくみたいだ。覇気のない顔に空いている口からボソッと来店歓迎の言葉を言われたがもう無意識で行っていることなんだろうな。淡々と右手に持ったバーコードリーダーで商品を読み取っていく。
「あと307番一つ」
財布を開きこちらも無意識で出た言葉だった。
「307番ですね、こちらでよろしいでしょうか」
そうです、と言いかけた時口が止まる。愛煙している赤と白のパッケージではなく差し出されたのは青のたばこ。あれ? と後ろの棚に目をやると俺の307番は俺の307番ではなくなっていた。
「あ、すんません。違うやつです。えーっと……」
後ろの棚から相棒を探し出す。店長は307番を端に置き、俺と同じく棚を見つめている。
少しの沈黙。そして、
「197番で」
口を開いたのは安藤だった。店長は手で100番代あたりに探りを入れそれを見つけるとこちらでしょうかと俺に向ける。
「あ、それっす」
もう何回と買ってきたそれに気づくことができなかったモヤモヤと安藤に先に見つけられたという小さな敗北感。
「2230円になります」
「おまえは? もうないべ」
どうせいるといわれるんだ。安藤の吸ってる31番を目にとらえ私も。の言葉を待っていると
「いらない」
安藤はそう答えた。珍しいな。今日はそういう日なのかと納得しかけたが紫と黒のパッケージから目が離せず
「31番もお願いします」
「え、いらないんだけど」
俺も買うつもりはなかった。けれど口が勝手にしゃべってた。癖って奴だろう。
「んなこといってどうせ吸いたくなるだろ」
とってつけたような言い訳になってしまった。断るのもなんだか悪いしこいつもなかなかのニコチン中毒者。どうせ後々吸いたくなるに決まってる。それに玄関のあの一吸い。懐かしくなって吸いたくなってしまった。二、三本くらいもらおう。
「合計で2730円に730円になります」
そう言われ財布から3000円払おうと5000円札を取り出す。
「今日はあたしが出す」
安藤が止め1000円札を三枚トレーに置く。
店長と安藤のやり取りを横目に今日は機嫌でもいいのかなんて思ってしまった。まあ、ラッキーってやつだな。商品を受け取り裸でもらったたばこの包装をとる。
「ごちっす」
「どうも」
手の中のくしゃくしゃのごみをゴミ箱に捨てコンビニを出る。箱の中から一本取り出し口に運ぶ。
「火、くれん?」
安藤がポケットの中からライターを取り出し火をつける。安藤はちっこいから火の位置が低い。顔を近づけて火を逃がさないようにゆっくり息を吸う。安っぽいオイルの香りと酸っぱいような甘いような吸いなれた煙が肺を満たすのを感じる。煙というのは使い捨て。用の済んだそれを体の外に追い出したくて長く息を吐く。そしてもう一度新しい煙を肺へ迎え入れる。コンビニの光も感じなくなった時安藤に尋ねた。
「たばこの位置替わってたな。何番だっけ。おれの」
「190何番だったっけもう忘れた」
「よう見つけたな」
「バイト帰り寄ったんだよね。そん時見つけた」
「そういうこと」
ん? バイト帰り寄った? けどこいつなんも買ってこなかったよな。それなら寄った時買ってきてくれよ。
「具合でも悪いんか? なんか今日ちょい変だぞ」
「そうだね。ちょっと変かも」
「そうすか」
安藤は行きと変わりスマホをいじらずただ歩いているだけだった。俺の前を先日染めたという茶髪が揺れる。出会った頃はボブ寄りの髪も後ろで縛り背中の真ん中ぐらいまで長くなっていた。後ろで組んだ手で毛先をいじりながら、まとめて流された毛束が右へ左へ揺れる。それをぼーっと眺めながらまだ少し吸えるたばこを放り捨てる。安藤の背を肴に酒でも飲もうと思いビニール袋からビールを取り出す。少し濡れたプルタブを引くとカシュッと小気味いい音とビールの香りが辺りに広がる。
「お前も飲む?」
「いらない、てかもう着くし」
缶の中の液体を取り込もうと口をつけ顔を上げるとそこには見慣れたおんぼろアパートが。ボーッとしすぎて家についたことも忘れていた。確かにたばこを吸い終わってるんだからそんな距離も歩いてきたか。錆びついた階段を上がる二つの足跡が静かな住宅街に響く。これまたぼろい廊下をドア二つ分歩き俺の玄関につく。
「鍵は?」
「してない」
安藤がドアに手をかけ俺に先に入れ、と促してきた。鍵をかけるという習慣は俺の中で消えかかっていた。家を空けるといっても最近の行き先は学校、バイト、コンビニのどれかに絞られるし安藤もいる。家が完全にフリーになるということが少なくなっていた。俺が生きてきた中で玄関にはある程度の秩序が存在していた。靴は揃えて脱ぐだとかある程度の清潔感があるとか。もちろん俺はそういう教育を受けてきたし俺もそういった玄関を守ろうと今までは秩序を保とうとしてきた。しかし俺がこの家の主になるとどうだ。住み始めの数か月は秩序があったが何らかの拍子でポストにたまったチラシをぶちまけると玄関政権は崩壊。秩序を失いスラム街のような掃き溜めになってしまった。そんな街に俺は靴を脱ぎ捨てる。安藤も最初のころは揃えたりと多少の心遣いを見せていたが今では俺と同様脱ぎ捨てたまま玄関に一瞥もくれず部屋に入るようになってしまった。
「飲みますか」
「ビールのほかにレモンサワーない?それ、飲みたい」
脱ぎ捨てた服が散らかる床にビニール袋を置き隣接した布団に胡坐をかく。今日はもうたくさん運動した。一歩も歩きたくない。そのままの体勢で袋から安藤ご所望のレモンサワーを取り出すとコンビニ弁当のゴミが残るテーブルの上にそれを置く。安藤はお気に入りと言い張るウサギのぬいぐるみを座布団代わりにし俺とテーブルを挟んだ。
「それじゃ、お疲れっす」
「お疲れ様。いやあんたは疲れてないわ。私お疲れ様」
こいつは俺を下げないと死んでしまう病気かなんかか。もう二口は頂いたビールに口をつける。ぬるい外の空気の中で飲むこいつもうまいがクーラ―ガンガン、地球温暖化糞喰らえのこの部屋で飲むビールは格別。俺はお前を愛している。黄金色の液体がのどを通るたび俺がどうしようもないなりに生きているのだと実感する。すると俺のうちからビールを飲んだという象徴が爆発する。
グアッ
「汚い最悪マジでキモイ」
「うるせーな。これがビールを飲むってことなんだよ」
「しょうもな」
安藤はレモンサワーを両手でつかみくぴくぴと飲む。俺しかいないのに何をお高くとまってるんだか、もっと豪快にガッと流し込んだほうは酒はうまい!と依然力説したが冷たい目をこちらに向けるだけで台所の換気扇の下たばこを吸われたのを思い出す。
「イカそうめん買ってるでしょ」
安藤に催促されたのでそれを取り出しテーブルに抛る。俺もつまみを食べようとポテチを取り出し二人で食べれるように袋を大きく開けた。飲んではつまんで飲んではつまんでを繰り返しテレビをつけ見かけの映画をつけながらまた飲んでつまんでを繰り返す。
「こいつ演技下手やな」
「えー、翔貴君かっこいいじゃん」
「顔がいいのが腹立つんだよ」
映画の主演の売り出し中の俳優をねたみながら三本目、ラストのビールのプルタブを引く。安藤は二本で酔っ払ったのだろうか、ウサギのぬいぐるみは腹を天井に向けそこから動かず安藤も俺の胡坐の上に赤い顔を乗せ天井に腹を向けている。
「彼女、つくらないの?」
安藤は俺の頬を両手で挟みこねながら俺に訪ねてきた。
「しょんにゃこといったってふぁんたといっひょじゃあきびひーでほ」
「なんてーーー?」
俺の顔を遊びながらけらけらと笑う安藤。甘えてきたからそろそろか、安藤の手を俺の顔から引きはがし主演の勝貴君だかに負けないようにキリッとした顔を作る。安藤の唇を目指そうと顔を近づけ、触れる。安藤の息が熱い。唇を離しまた触れる。安藤の舌が入ってくるので俺もそれを絡ませる。ポテチのしょっぱい味がする。舌を絡ませあっていると俺の体も少し熱を帯びているのがわかる。風呂に入ろう。そう言おうと唇を話すと安藤が口を開いた。
「あたしね、彼氏できそうなんだ。」
え、思わず固まってしまった。俺ができるのはアルコールのせいで少し赤くなりうっすら涙をためる安藤の目を見つめることだけだった。
「バイト先の後輩にね、今日告白されたの」
変な汗をかく俺の頬にじゃれてる時とは違う優しい手が届く。
「美樹さんを幸せにします。だって。びっくりしちゃったけどうれしかったの。」
俺の体は熱を帯びている。だけれど体の奥底がじんわり冷たくなっていくのを感じる。
「その子はね、二個下の子なんだけどいつも一生懸命でね。私と目が合うとニコってするの。それが可愛くってね。」
安藤に近づけていた顔は目を離せないまま随分と離れてしまった。
「だから付き合ってみてもいいなって思ったの。」
俺の足に顔を預けたまま安藤は言う。
「だからね。この関係は終わりにしたい。今日で最後にしたいの。」
安藤が体を起こしてそう続けた。
「お風呂行く?」
俺に背を向けて尋ねる安藤。コンビニの帰りとは違う、ヘアゴムを解いて長い髪が自然と広がっていた。思わずその背に抱き着いてしまった。うるさすぎる心臓の音が安藤にばれないかな。けどこうしないと俺がなくなっちゃいそうだった。安藤の首に顔をうずめこのままでいいとだけ呟く。そうしたら安藤は俺の頭に手をまわし撫でてくれた。そのまま安藤の唇を強引に奪う。テレビも、部屋の電気もつけっぱでことが始まった。
最後だからあいつの体をいつも以上に味わおうと付き合ってた頃のような、性欲を満たすだけじゃないそんなセックスをしようとした。けど安藤。お前の目は俺だけを見てくれてるのか?キスをするときも、お前の体に触れる時も、お前の体に入るときも、俺はお前しか見えないんだ。なあ、安藤。お前の目は何を見ているんだ?俺と同じで俺だけを見てくれてるのか?
――赤く、少しうるんだ眼には俺とは違う見たことのないはにかむ顔が映って見えた。
久々に三発くらい出した。週二くらいのペースでやっていたことだがいつもは一発出したらもう終わり。一緒に風呂でも入ってそのまま寝てしまうのだが今日はもう無理。あいつもいっぱい頑張っててなんかかわいい、なんて気の抜けることを言うもんだから俺の中で湧き上がるよくわからん感情がどっかに吹っ飛んでしまった。今日はもう寝よう。脱ぎ捨てたズボンの中にある赤と白のたばこを取り出し換気扇のある台所へ向かう。
安藤のシャワーの音をBGMにして口にくわえたそれに火をつける。すーっと上る煙が換気扇にとらえられ右往左往して消える。肺にたまった煙も同じ。三回くらい吸ったときにその煙と自分が重なって見えてしまった。あいつへの恋心なんてとっくに忘れたはずだったのに俺の心が無駄にセンチメンタルになっていやがる。揺れてるんだ俺も煙も。そんなことが腑に落ちなくなりまだ吸えるそれの火をつぶす。もう二度と煙なんて立たないように。そんなことをして台所で立ちすくんでいるとシャワーを浴びた安藤がタオル一枚で出てくる。
「何、吸ってたの?」
「ちょっとね」
「ふーん」
下着だけつけると安藤がリビングに戻る。もうあいつも寝るか、俺も寝よう。俺も布団を目指そうとすると安藤がビニール袋から紫と黒のパッケージを取り出す。
「私も吸う」
パッケージをはぎ中の紙をちぎる安藤テーブルに落とすように手から離したそれはノールックのせいもあってか床に落ちる。箱から一本取り出し口にくわえたまま俺の隣に並ぶ安藤。口を少し突き出して火を催促されたから何も言わずに火をつける。安藤の口から少しブドウの香りがする煙が吐かれる。
「やっぱうまい!」
「やめるんじゃないのかよ」
「けっこうきびしそう」
いつもみたいにけらけら笑いながらたばこを吸う安藤。
「後輩君は知ってんの?」
「うん、休憩中吸ってるから」
「その子がいるならやめてやれよ。そんな純情そうな子を変な道に行かせるわけにはいかないからな。」
「そうだね」
そんなことを言いながらまた安藤はたばこに口をつける。そんな姿を見ていると無意識に俺もたばこを口にくわえた。
「まだ吸うの?」
「ああ」
火をつける。すっぱくて少し甘いような煙。それを吐き出すと安藤の吐く煙に混ざり合って換気扇に消える。こうして並んでたばこを吸うのは最後なんだな。今までのあたりまえが台所に消えていった。
パッと目が開く。そこには90度傾いた俺の部屋が。無意識にスマホを探す。手に取ったそれには笑顔を切り取られたモデルが映っていて無機質な書体で13:22と記されていた。そうだあの後寝たんだっけか。何気なくメッセージアプリを開くと安藤からのメッセージがあった。
『寝てたし今日用事あるから帰るね。あと、そっちによることもうないだろうから荷物も持って帰っちゃうね。あんたも新しい人見つけな!』
最後の最後がうるさいな。返信も適当におう、とだけ返しメッセージアプリを落とす。SNSの更新をしようとアプリの立ち上げをしようとした時。安藤から連絡が。スマホのポップアップに表示されるそれに俺がどんな顔をしているのかわからなくなった。人差し指が固まる。アプリを立ち上げるでもなく、ポップアップを消すこともなく、返信をすることもできず、ただメッセージを見つめることしかできなかった。ポップアップが消えるまで。なんかよくわからない。安藤と体を重ねた時の感覚が体から湧き上がるのを感じる。まずい。スマホの電源を落とし布団に投げつける。
たばこを吸おう。落ち着こう。
台所にあるそれを目指し起き上がる。寝起きの脳に血が行き届かない。少しふらついたものの手には確かにたばこが握られていた。赤と白の箱から取り出そうとした時、安藤の置いて行ったたばこに目が留まる。
紫と黒のパッケージに安藤が映った気がした。その幻影を手放したくなくて安藤が残した箱に手を伸ばす。たばこを一本取り出す。咥えた時にメンソールの爽快感を微量に感じる。このたばこはカプセルがある。歯でそれをカチッとつぶすとブドウの香りが広がる。火をつける。メンソールを含んだ冷たい煙が口と肺を満たすと同時に安藤の顔が頭を満たした。
煙を吐き出す。吐き切ったはずなのに頭の中の安藤が消えない。それどころかさっきの返信が安藤の声で頭に響く。あいつは先に行ったのに、タバコの火もいつか消えるのに、俺だけが過去に足を進めていた。でも、戻ることももうできない。二人で漂っていたと思ってた海をあいつは目印を見つけてその方向に進んでいった。俺は戻ることも進むこともできない。沈むことも。ただ浮いているだけだった。一人で。けれどあいつの言葉と顔が俺をここに縛り付けている。
違う、何も縛られていない。俺がしがみついているだけなんだ。手放したいはずなのに、何の執着もないと信じていたのに。
『今までありがとう。本当に楽しかったよ。好きでした』
少し肌寒くなり長袖を着てもいい季節になった。俺の生活は何も変わらず決められたことをただ消化していく毎日。今日も起きたのは12時過ぎ。寝起きの脳に気合を入れるべくふらふらと台所に向かう。換気扇のゴーッという低い音。雑に置かれた540円に手を伸ばす。中から一本取り出し、咥える。かすかに感じる清涼感。カプセルをつぶすとブドウの香りが広がった。火をつけ煙を体に取り込む。起き抜けの体に冷たい煙は少しこたえる。
寒っ、と身震いをして片手に持ったスマホを見る。たばことSNSの更新。代り映えのない一日が始まることを実感する。するとふといとつの投稿に目が留まる。見慣れた笑顔の女と知らない笑顔の男。投稿に着けられた文には三か月記念日。と、俺はスマホを伏せて置き、吐き出した煙を見つめる。そんな風に煙を味わっているとあいつではなく俺の間抜け面が煙の中に浮かんだ。
一年前の俺、何のやる気もなくてただただ時間を消費している。大学には勉強じゃなく友達とだべりに行くだけ。でも時間がたてば何かが変わるだろう。根拠のない自信がどこかにあってそこにしがみついていた毎日。その毎日を生きるために吸っていた紫と黒のたばこ。安藤と出会いあいつが生まれて初めて吸ったたばこ。あいつの前ではかっこつけたいから無駄にタールの高いタバコが吸いたくて吸い始めた赤と白のたばこ。
楽しかったなぁ。なんだかんだ楽しく生きていけた。だけど、根拠のない変な自信は俺には安藤がずっと一緒にいてくれるという驕りに代わってしまっていた。しがみつくものがなくなってしまったからしがみつくものがあった日々と同じたばこに手を出して、だけどこれを吸ってると多分、もう取り戻せない日々しか浮かんでこなくて。かっこいいからって吸い始めたたばこなのに。
ごめんな、ちょっと前の俺、お前が信じて、すがっていたものは簡単に壊れてしまうし、今の俺大分かっこ悪いよ。
吸い切ったたばこを灰皿に強く押し付ける。ほんの少し立ち上る煙。充満する煙の香り。今日はすることがないから寝っ転がろう。台所を去り部屋に目を向ける。テーブルにはコンビニ飯のゴミとビールとレモンサワーの空き缶。少し残ってるつまみ達。脱ぎ棄てた服が散らばる床。俺の部屋ちゃんと汚いな。見慣れた景色だったはずだがもう一人しかいない部屋が心なしか広く見えた。