一月は行く、二月は逃げるというが、本当に逃げゆくように経過した二ヶ月を本格的なトレーニングはせずに過ごし、三月になった。
特注の靴の完成を待つ二ヶ月の間、さすがにトレーニングなしではスプリングステークスに勝てないと、トレーナーも色々な案を出してくれて、なんとか練習できないかと様々なことを試したが、結局は失敗に終わった。
はじめは、靴が破れないようにビニールテープをぐるぐる巻きつけて補強したのだが、これはそもそも歩くだけでビニールテープがとれてしまい、廃案になった。
次は靴に革を巻きつけた。これは歩いてもとれないし、結構丈夫で走っても靴が破けなくはなったのだが、雨上がりの後などの水分を含んだバ場に弱く、これもまたあえなく廃案となり、今日までの二ヶ月間、私は休養せざるを得ない日々を送っていた。
そして、迎えた今日。特注の靴が完成したとトレーナーから連絡があり、ようやく本格的なトレーニングを再開できそうだった。
……のだが、完成品を持ってきたトレーナーの顔は、少し浮かないようだった。
「これが完成した靴……というか蹄鉄なんだが」
「へぇ……これが」
トレーナーが持っていたのは、靴、ではなく蹄鉄だった。
蹄鉄は、靴底につける、金属でできたU字型の保護具のことだが、トレーナーが持ってきた蹄鉄はU字の内側にT字型のバーがついているものだった。
「それでこれがその蹄鉄をつけた靴だ」
「あ、靴もちょっと違うね……って、おもっ!」
トレーナーから手渡された見慣れないトレーニングシューズを受け取り、まずその重量に驚かされた。
体感だから正確なことは言えないが、今まで履いていた靴、つまり一般的なトレーニングシューズより倍以上も重く感じる。
「それで、何このつま先。鉄でも入ってんの?」
そして、次に驚いたのはつま先部分の硬さだった。叩くとコンコンという音がして、まるで鉄が入っているかのように硬い。
「ああ、破れないようにするためにスリッパのガードみたいな形の鉄が入ってる」
「どうりでねえ……」
通常の蹄鉄と形状の違う特殊蹄鉄。そしてつま先部分のガード。これら二つが相まったせいでこの靴の重量になっているのだろう。
「ま、物は試しということで」
百聞は一見にしかず。百見は一触にしかず。私はこの重い靴を履いて走ってみることにした。
「うっは……おっっもい!」
手に持った時にも感じたことだが、それはやはり履いても変わらなかった。むしろ手に持った時よりも、軽く走っている今の方が、重量が変わったことがよりはっきり感じられた。
「んで、なにこの音?」
今までの蹄鉄でも、走る時は多少の音が鳴ることはあったが、この靴と蹄鉄は軽く走るだけでもガシャガシャと音がして、速度を上げると鉄と鉄がぶつかっているような、あるいは破裂音にも似たパーン! という甲高い音が鳴る。
「蹄鉄とつま先のガードが中でぶつかってる音だ」
「へぇ……中で繋がってるんだこの二つ」
どうやら見た目だけじゃなく、構造も特殊なようで、仕組みはわからないがこの二つは中で繋がってるらしい。
「それより……大丈夫か?」
「大丈夫って、靴? うん、壊れなさそうだけど」
軽く走っても、そして多少本気で走ったり、踏み込んだりしても靴は壊れなさそうだった。
「いや、そうじゃなくて……重さだよ重さ」
どうやら、トレーナーが浮かない表情をしていたのは、靴の重さを心配してのことだったようだ。
「うん、まあ重いけどね。足のトレーニングにもなるし丁度いいんじゃない?」
「いや、そういう問題じゃ……ま、大丈夫ならいっか」
トレーナーの浮かない表情が、少し晴れた。
***
シンザンのトレーニングを再開して数週間。三月も終わりを迎える二十九日。東京レース場。今はそのパドックにいる。
今日は、皐月賞の前哨戦となるスプリングステークスの日だ。
スプリングステークス。五着までに入賞したウマ娘に、皐月賞への優先出走権が与えられるトライアルレースだ。
「しっかし……自チームのウマ娘が重賞にでるってのに、チーム長は応援にも来ねえのかよ」
「ま、まあまあ……他のウマ娘のトレーニング見なきゃいけないでしょうし」
シンザンの応援に、もはや当然のようについてくるようになったセカンド。
しかし、ここにチーム長の姿はない。
スプリングステークスに出走したいということを伝えた時も「まあ出れるんなら出とけ。勝てないだろうけど」とでも言いたげな表情で了承されたし、皐月賞への出走がかかった大事なレースを見に来ていないということから、期待していないのは明らかだ。
「しっかし、シンザンは六番人気か……」
新聞に書いてある、レース前の人気投票。
シンザンの勝ちを期待できていないのは観客も同じようで、シンザンの人気は六番目と低かった。
「レース前トレーニングの動きが良くなかったって書いてますね」
「あいつが走んないのはいつものことなんだがな。それに蹄鉄も慣れてないだろうし」
重量や形状も相まって、シンザンはさらに走らなくなった。「重いから走りたくない」とかなんとか言っていたが、あの蹄鉄にする前から走ってなかったのでただの言い訳だろう。
「シンザンちゃん、蹄鉄の打ち替えめんどくさいって嫌がってました」
あの蹄鉄、U字の内側に溶接しているT字状のバーは、電気溶接で接着されていて、一週間も使い込めば溶接が剥がれてしまい、使えなくなる。
普通の蹄鉄が二、三週間はもつのに対し、あの蹄鉄……シンザン鉄という名前で作ったらしいあの蹄鉄は一週間しかもたない。そして形状が特殊なこともあり、蹄鉄の装着には普通の何倍も時間がかかる。
頻度も増え、時間もかさむ。面倒くさがりなあいつのことだから、本当に嫌なんだろうな。
「それにあの靴と蹄鉄……重すぎません?」
「だよなぁ……」
あいつは重いから足のトレーニングにもなる、なんて言ってたが、そんな単純なことじゃない。
足をあげて、地面を蹴る。走るという行動一つでも、体のいろいろな箇所には負荷がかかる。重い靴を履いて走るなんて、その負荷をいたずらに増加させるだけだ。普通なら故障してもおかしくない。
……が、シンザンは故障どころか怪我一つしなかった。利口なのと丈夫なのが取り柄だと言っていたが、丈夫すぎると言っていいほどに丈夫らしい。
「あ、出てきましたよ」
特に緊張している様子も、オドオドとした様子もなく。パドックにいつも通りのシンザンが現れた。
「落ち着いてんな……」
シンザンにとって、このスプリングステークスが初の重賞レースになる。しかも、東京レース場でのレースはこれが初。初めて尽くしだというのに、まるでここらを束ねるヌシのように、シンザンは落ち着いている。
「シンザンちゃん、勝てますかね」
「どうだかな……弥生賞を勝ったトキノパレード、弥生賞二着、それまでは三連勝していたブルタカチホ、阪神ジュニアステークスで二着のアスカ……当然だが強力なウマ娘はごろごろといる。それに……」
「やっぱり、ウメノチカラさんですか」
「ああ」
やはり、皐月賞を目指す上で避けることのできない壁だとは思っていたウメノチカラ。弥生賞では八着と力及ばずだったが、前走では一着と、調子を落としてはいない。チームデネブの一番星がここにきてやはり立ちはだかる。
「だが、シンザンはその強力なライバル、ウマ娘たちに勝っているところが二つある」
「えっと……ひとつは腰の強さ、ですか?」
「ああ、腰の強さ……より正確にいうならそこからくる踏み込みの強さだ。靴を破くような踏み込みの強さは、今まで存在したどんな強力なウマ娘を探しても数えるほどしかいないだろう」
「なるほど……もうひとつは?」
「視野の広さだ」
ここまでシンザンが出走したレースは四戦。そのどれもシンザンはゴール板をすぎると、どのウマ娘よりも早く走るのをやめ、引き返す。
レースに集中するあまりゴールしたことに気づかず、走り続けるウマ娘というのは実は多い。その点シンザンはレースに全ての神経を注ぎ込みつつゴールを認識するほどの視野の広さがある。
視野の広さはもちろん、ゴールを認識するだけではない。周りを走るウマ娘との駆け引きにおいても、とても有利に働く。
そのようなことをセカンドに説明すると、セカンドは「なるほど」と納得した表情で頷いた。
「その二つがどこまで通じるか、シンザンがうまく使いこなせるか……だな」
今年も春が来る。
デビューしてから今までのレースを勝ち抜き、三冠を目指す資格を得た強力なウマ娘がひしめき合う、クラシックの一年。三つの冠をかけ、華やかで過酷な、一年をかけて奪い合う苛烈な一年間。その前哨戦のレースが幕を開ける。
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