今回はタイトル通り、日本ダービーです。
少し前の私には目標があった。
ウメちゃんと走るために戦い抜いた、スプリングステークスまでの四戦は重賞レースではなかったけれど、勝てて嬉しかったのを覚えている。
ひとつ、またひとつと勝ち星を重ねていくたびに、ウメちゃんとの距離が縮んでいくような気がして達成感もあった。
では、皐月賞はどうだっただろう。
もちろん、ウメちゃんとまた走れて嬉しいという気持ちはあった。
でも、勝った時、嬉しかったのか。
レース中も、レース後も。負けたくないという気持ちはあったのか。心の底から勝ちたいっていう気持ちはあったのか。達成感はあったのか。
きっと、なかった。
勝った後、私はきっと何も考えてはいなかった。目標に近づいた達成感も、勝負に勝った嬉しさも、何一つ得ることなく、ただ皐月賞という、冠をひとつ得ただけだった。
そんな私を見て、コダマ先輩は目標のないウマ娘はいつか潰れてしまうと言った。
じゃあ、今の私が目指すべき目標ってなんだろう。
私には、目標にしているウマ娘もいない。コダマ先輩やミスオンワード先輩というスーパースターが同じチームにいるけれど、先輩たちのようになりたいかと聞かれたら、首を傾げるだろう。
どうしても勝ちたいレースというのもない。例えば日本ダービーをどうしても勝ちたい、天皇賞を何がなんでも勝ちたいというウマ娘やトレーナーは数多くいるけれど、私はこの二つのレースに、そこまで憧れもない。
レコードや着差にも、頓着もない。最後に勝てればそれでいい。
つい先日まで、そんなことをぐるぐるぐるぐる頭の中で堂々巡りしていたところ、出口のない迷宮に迷い込んだような私に、一筋の希望の光が見えた。
ホープちゃんは、大きな目をキラキラと光らせて「シンザンさんみたいな強いウマ娘になりたい」と、まっすぐ私の目を見て言い切った。
どこまでも平凡な私を夢見てくれているウマ娘がいる。
憧れも、夢もない、平凡な私なんかに、憧れてくれるウマ娘がいる。
薄ぼんやりと見えた、私の目標。
今の私が目指したいと、そう思える夢。
私の目標は——
***
「あ、ホープちゃん!」
「シンザンさん!」
本馬場入場が終わり、ゲートへ向かうというところ、観客席の最前列にホープちゃんの姿を見つけたので駆け寄る。ぴょこぴょこと跳ねながら耳を弾ませる姿がとても可愛い。
今日は五月も末の三十一日。日本ダービーの日だ。
今日の東京レース場の天気は晴れ、バ場の状態も良く、絶好のレース日和だ。
「あ、ついでにトレーナー」
「俺はついでかよ! って……まあ、心配はしてなかったがリラックスしてるみたいだな」
「あはは、どうも緊張しない性分みたいだね私」
今日も今日とて、私は平常運転だ。変な緊張も不安もない。
「目標、見つかったか?」
「うーん、どうだろ。まだぼんやりとしか見えてないけど……」
でも、と続ける。
「今日は、どうしても勝ちたいんだ」
「……そうか。よし、勝ってこいシンザン!」
「うん!」
「頑張ってくださいね!」
「ありがとうホープちゃん、行ってくるね!」
握り拳をつくって応援してくれるホープちゃんに、手を振って応えてゲートへと向かう。
日本ダービーは芝2400のレースなので、ゲートはすぐそこ、スタンド前の坂を上り切ったところがスタートだ。レース場を一周回るようなコースになる。
ゲートに着くと、そこにはすでにウメちゃんとセカンドちゃんがいた。ウメちゃんはいつも通り、黄色と赤の勝負服を身につけていて、セカンドちゃんは黒地に黄色と青の差し色が入った勝負服を着ている。
ウメちゃんは今日、一枠一番。セカンドちゃんは二枠四番。そして私は四枠十番。位置的にはウメちゃんとセカンドちゃんの方がやや有利だ。
『さあ、準備が整いました! 日本ダービーのファンファーレです!』
実況の声と共に、二十七人ものウマ娘が次々とゲートインしていく。
『あと三分もしないうちに、クライマックスの時を迎えます! クラシック二冠目を戴冠するのはシンザンか、それとも大波乱が起きるのか!』
ファンファーレが鳴り止む頃、スタンドは大歓声を上げた。ひとり、またひとりとゲートインが済んでいくたび、ヒリヒリとした高揚感が湧き上がる。
『さあ、ゲートインが完了しました! ウマ娘の祭典日本ダービー、今……ゲートが開いて一斉にスタートしました!』
ゲートが開き、私は勢いよくスタートを切る。
『横一線、二十七人です! 綺麗なスタートを切りました! インコースにウメノチカラが四番手、シンザンは五番手、まずダイトウリョウが先頭で一コーナーに入ります!』
内にいるウメちゃんを少し前に見据えて、先行しつつ一コーナーを回って二コーナーに入る。
いつも通り、逃げウマ娘の少し後ろで待機する形になった。
『さあ二コーナーに入って先頭がサンダイアルに変わりました! ウメノチカラが七番手、シンザンはそのすぐ外にいます!』
向正面に入る頃、少しポジションが下がったが、焦る必要はない。やっぱり東京レース場の勝負所は最後の直線。ここで力を使ったら、最後に出しきれなくなる。
『さあ向正面に入ってなお、依然先頭はサンダイアル、その差は三バ身ほどでしょうか。リードを保ったまま三コーナーを回ります!』
途中先頭に立ったサンダイアルが少しペースを早め、逃げ切りにかかる。
レースはすでに三コーナーに入っている。私はサンダイアルから少し離れ、何人かのウマ娘を挟んだ位置にいる。
『シンザン仕掛けました!』
『これは……ちょっと早いんじゃないでしょうか』
いつもなら、脚を残して直線勝負を仕掛けるところだが、今回は少し、危ないかもしれない。
『四コーナーを回ります、残り六百でサンダイアルが粘ります! 依然としてサンダイアルが粘ります!』
残り六百の標識を過ぎても、まだサンダイアルが少し差をつけて先頭を走っている。
『ここでオンワードセカンドも出てきました! 残り四百、依然としてサンダイアルが先頭です!』
残り四百になっても、まだ先頭を捉えられない。そして後ろからはセカンドちゃんも迫ってきている。
『さあここでウメノチカラが仕掛けました!』
二百メートルの看板が、まだ少し遠くに見える頃。
インコースから、ウメちゃんが飛び出した。
『ウメノチカラだ! ウメノチカラが出てきました! ウメノチカラがいま先頭に立って後続のウマ娘を——』
三コーナー手前から仕掛け始めたせいで、いつもより脚も残っていない。いつもよりも長くスパートをかけているから、少し息も苦しい。脚も重い。
でも、勝ちたい。
足が砕けても、肺が破れても、頭が、心が、前に進みたがっている。
私に期待してくれている、トレーナーのために。夢を見てくれているホープちゃんのために。
なにより、まだ遠くに見える夢のために。
勝ちたい。
負けたくない。負けて——
「たまるかぁあああ!!」
『離れない! シンザンがきました! シンザンが出てきました! オンワードセカンドも出てきました!』
二百の看板を通過しても、まだウメちゃんが前にいる。
『シンザンが追ったシンザンが追った! シンザンか、ウメノチカラか、オンワードセカンドも懸命に追った! しかし二人の争いか!』
ゴール手前でようやく、私はウメちゃんに並ぶ。
『シンザンかわした! シンザン強いシンザン強い! シンザンがリードでいまゴールイン! 続いてウメノチカラ、オンワードセカンドは三着!』
『勝ち時計は……2分28秒8! 昨年のメイズイに0.1秒差に迫るすごいタイムが出ました!』
「っは……っふう」
少し荒くなった息を整えて、観客席を見やる。
最前列にいるトレーナーやホープちゃん、そしてスタンドにいる観客たちが大歓声を上げている。
「やっ……た」
ぽつりと、思わず飛び出た言葉。
皐月賞では、けっして出てこなかった言葉だ。
「かっ、たんだ」
大歓声で私を叩く観客に、私は大きくガッツポーズをする。
遠くにある目標がいま、目の前に。
この手のなかに、あるような気がした。
***
「まずは勝利おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
少し時間が経って、記者会見の時間になった。
多くの記者さんたちに囲まれて、少し高い台の上に、私とトレーナー、チーム長が横一列に並んでいる。
「今回日本ダービーを勝ったことで、同チームの先輩であるコダマさんに肩を並べる結果になりましたが、シンザンさんの今後の目標はなんでしょうか?」
「それは……」
少し前の私には、目標があった。
でもそれは、スプリングステークスまでの話。皐月賞以降、私に目標はなかった。
でも今は、私に夢を見てくれるウマ娘がいる。期待してくれる人たちがいる。
私が勝つことで、夢を見れる人がいるというのなら。
「私の目標は、人に夢を見せられるような、そんなウマ娘になることです」
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